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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
30th Bout ~Bustling Spring~
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03 ダー・ピカ・アカデミー

 ロビーにおけるミーティングを終えた瓜子とユーリは、ホテルの寝室で半日を過ごすことになった。

 ミーティングを終えたのは現地の時間で深夜の午前一時、再集合の時間とされていたのは正午であるので、文字通りの半日だ。ここでしっかり眠ることができれば理想的であったのだが、やっぱりそう上手くはいかなかった。瓜子たちの肉体は午後の真っ盛りという認識であったのだから、それも当然の話であった。


「うみゅう。こうやってじっとしていると、お稽古したくてカラダがうずうずしちゃうねぃ。……うり坊ちゃんと一緒じゃなかったら、こっそり筋トレにでも励んでいたところですわん」


 ユーリはそのように言っていたし、瓜子も同じ心境であった。

 しかしそれでもコーチ陣が組んでくれたスケジュールを二の次にすることはできなかったので、瓜子とユーリは同じベッドに転がったままよもやま話に興じ――そうして居眠りをすることもなく、正午を迎えたわけであった。


 ユーリとのおしゃべりが楽しかったおかげで、退屈を持て余すことにはならなかった。

 しかし、他のメンバーと合流して、ホテルのレストランで食事をいただくと、まんまと睡魔に見舞われてしまった。

 瓜子の肉体にしてみれば、今こそが深夜の0時すぎであるのだ。飛行機の中で起床してから十六時間は経過しているので、ついに肉体が休息を求めてきたわけであった。


「明日のために、今だけは眠気をこらえてくれ。トレーニングでも、無理をする必要はないからな」


「押忍。身体を動かしたら、少しは眠気も覚めると思うっすよ」


 瓜子がそのように答えたとき、ずっとそわそわ身を揺すっていた鞠山選手が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。


「お師匠様、こっちだわよ! *****! ********!」


 後半は、きっとポルトガル語であるのだろう。鞠山選手は日本語と英語とポルトガル語を操るトリリンガルで、ドイツ語やフランス語にも多少のたしなみがあるとの話であった。


 それはともかくとして、瓜子も目をこすりながら鞠山選手の視線を追う。

 レストランの入り口から、小柄な男性がひょこひょこと近づいてくるのが見えた。これが、鞠山選手の柔術の師たるドミンゴ・エステベス氏なのであろう。


「こんにちは。みなさん、おあいできて、こうえいです」


 いくぶん舌足らずな発音で、ドミンゴ氏はそのように述べてきた。彼はかつて十年ぐらいは日本に滞在しており、日本語のコミュニケーションにも問題はないという話であった。


 然して、その外見は――身長は百六十センチていど、体重はユーリよりも軽そうな小兵である。ただし全体的にずんぐりとしており、どことはなしに鞠山選手をひと回り大きくしたような体型であった。


 いくぶん薄くなりかけている髪や優しく細められている目は黒く、肌は浅黒い。横に平たい顔は鼻や口の造作が大きく、とても柔和な表情をたたえていた。

 その身に纏っているのはTシャツとジャージの上下で、手には大きなボストンバッグを抱えている。ブラジルはこれから冬であるというのに、足に履いているのはサンダルだ。瓜子たちも似たり寄ったりの格好であったが、《ビギニング》に斡旋されるホテルはおおよそドレスコードがゆるいのだろうと思われた。


「わたし、ドミンゴ・エステベスです。ドミンゴ、よんでください」


「はじめまして。俺は新宿プレスマン道場の立松ってもんです。まずは、ひとりずつ紹介させていただきますよ」


 立松の口から、全メンバーの紹介がされていく。ユーリとジョンはにこにこと笑っており、サキはクールなポーカーフェイス、蝉川日和は恐縮の面持ちだ。そして席を立ったままである鞠山選手は、平たい鼻の穴がかつてないほど大きく広がっていた。


「六時間のドライブ、お疲れ様だったんだわよ。まずは寝室に案内するんで、荷物を置いてくるんだわよ。こまかい話は、その後なんだわよ」


「うん、ありがとう。ハナコもげんきそうで、なによりです」


「それはこっちの台詞なんだわよ。さあさあ、ずずいと進むだわよ」


 そうしてドミンゴ氏は到着するなり、鞠山選手とともに立ち去った。

 その二つのずんぐりとした後ろ姿を見送りながら、サキはしなやかな肩をすくめる。


「なんだか、親子みてーだな。親分ガエルと子分ガエルだ」


「ドミンゴさんの前では、口をつつしむんだぞ。……それにまあ、俺よりは年上のはずだが、鞠山さんの親ってほど年はくっちゃいないだろう」


 鞠山選手は、すでに三十代も半ばであるのだ。なおかつ立松も、昨年あたりに五十路を突破したはずであった。


(よくよく考えたら、鞠山選手はジョン先生と二、三歳しか変わらないんだろうな。ジョン先生は引退が早かったから、不思議はないんだろうけど……そんな鞠山選手の師匠ってことは、ずいぶんな大御所なわけだ)


 何にせよ、鞠山選手とドミンゴ氏は強い絆で結ばれている。何せ鞠山選手はドミンゴ氏がブラジルに帰るにあたって、黒帯への昇帯をあきらめたのだという話であったのだ。それは、黒帯をもらうなら師匠の手から、という思いからの行動であったそうだが――瓜子の周囲で柔術をたしなんでいる人々にリサーチしたところ、それはあまり一般的な行動ではないという話であったのだった。


 なおかつ鞠山選手はドミンゴ氏が帰国したのちもインターネットを通して連絡を取り合っており、《アトミック・ガールズ》のDVDも残らず送りつけているのだと聞く。瓜子とて、コーチの立松やジョンには深い敬愛を抱く身であるが、鞠山選手の熱量にはなかなかかないそうになかった。


 そうして五分ほどが経過すると、あらためてドミンゴ氏がやってくる。服装はさっきのままで、大きなボストンバッグが小さなナップザックに変じていた。

 いっぽう鞠山選手もようやく鼻の穴の大きさが落ち着いたようであるが、まだその眠たげな目は爛々と輝いている。卯月選手の例を見ても察せられる通り、鞠山選手は敬愛の度が過ぎるとこういう目つきになってしまうのだった。


「事前に説明しておいただわけど、お師匠様にはピンク頭のセコンドをお願いするんだわよ。このピンク頭は失礼が服を着て歩いているような存在だわけど、格闘技に対する熱意はまあ評価できなくもないレベルに達してるんで、なんとか面倒を見てほしいんだわよ」


「うん。ハナコは、ウリコのセコンドなんですよね? べつべつなのはざんねんだけど、おたがいがんばりましょう」


 そんな風に言ってから、ドミンゴ氏は穏やかな目つきで瓜子を見つめてきた。


「ごめんなさい。なまえに、さん、ひつようですか? ひつようなら、つけます」


「あ、いえ。呼び捨てでけっこうです。こちらはドミンゴさんとお呼びすればいいですか?」


「はい。さん、なくてもいいですけど、おまかせします」


 とにかくドミンゴ氏というのは、人当たりがやわらかいようであった。

 もともとの睡魔と相まって、瓜子は何だか眠たくなってしまう。すると、立松がレストランの入り口に向かって手を振った。


「《ビギニング》のスタッフさんもご到着だ。ドミンゴさん、食事のほうは大丈夫かい?」


「はい。くるまのなか、すませました。じかん、ありましたので」


 ドミンゴ氏はサンパウロという場所で道場を開いており、このリオデジャネイロまでは車で六時間という話であったのだ。今は正午すぎであるのだから、早朝に家を出立したわけであった。


「遅くなって申し訳ありません。……ああ、そちらがドミンゴ氏ですね。お会いできて、光栄です」


 案内役である女性は、笑顔で名刺を差し出した。セコンドの顔ぶれについては、もちろん事前に話を通しているのだ。


「それでは、どうしましょう? 予定通り、ジムに向かわれますか?」


「ああ、お願いするよ。移動は、徒歩だったよな?」


「はい。こちらのホテルから、徒歩で十分ほどです。夜でも危険なことはないかと思いますが……もしも不安がありましたら、タクシーをお使いください」


「了解したよ。そら、お前さんがたは帽子を忘れないようにな」


 人の目を避けるため、瓜子はキャップを、ユーリは耳あてのついたフライトキャップを準備している。ユーリは髪の色までもが目立つため、入念に隠蔽する必要があったのだ。

 なんなら、マスクをしてもいいぐらいであったのだが――ブラジルは日本ほどマスクをつける習慣が根付いていないため、悪目立ちをする恐れがあるとのことで、取りやめられていた。なおかつユーリは、首から上をどんなに隠しても人目を引いてしまうプロポーションを有しているのだった。


「それじゃあ、出発だ」


 立松の号令で、一行はホテルを出た。《ビギニング》のスタッフを迎えて、総勢は九名だ。

 そうして瓜子は、初めて日の光の下でリオデジャネイロの街並みを拝見し――ようやく異国情緒を手にすることに相成った。


 ホテルの近所は大きなビルが立ち並んでおり近代的な様相であるが、街路を行き交う人々だけで異国情緒には事欠かない。同じアジア圏であるシンガポールと異なり、ブラジルは南米であるのだ。リオデジャネイロは観光地であるためさまざまな人種が入り乱れているものの、やはり大半はブラジル人らしき風貌をしていた。


 ただ、瓜子が想像していたよりも浅黒い肌をした人間は少なく、白い肌をした人間と半々ぐらいの印象である。そしてその中にくっきりと黒い肌をした人間がぽつぽつと入り混じっており、黄色い肌の人間は格段に少ない印象であった。


 まあ、瓜子は格闘技を通して何名もの外国人と懇意にさせてもらっているので、肌の色で差別をする意識は持ち合わせていない。そもそもコーチのジョンからして黒人であるし、旧友のリンは黄褐色の肌をしたタイ人であるし――いまや瓜子にとってかけがえのない存在に成り上がったメイも、黒い肌を持つアボリジナルという人種であったのだ。比率で言えば、日本人のほうが気の合わない人間は多いぐらいであった。


(まあ、あたしもずいぶん丸くなったつもりだけど、人様にどうこう言えるほど立派な人間じゃないしな)


 何にせよ、どこの国の生まれであろうとも、実際に交流しなければ善悪は判断できないと、瓜子はそのように考えている。日本人だのブラジル人だのでひとくくりにしても、あまり意味はないように思われた。


(それでもブラジルは、究極のアウェイ、か……まあ、ブーイングや冷やかしの言葉ぐらいなら、上等さ。あたしは試合で、結果を出すだけだ)


 眠気が消えていない放埓な頭で、瓜子はそのように考えた。

 そうして一行は十分ほどの道を踏破して、無事に目的地に到着した。


 ブラジルにおいては屈指の勢力である、ヴァーモス・ジム――その派生ジムであるという、ダー・ピカ・アカデミーなるジムであった。

 シンガポールでお世話になったユニオンMMAほどの規模ではないものの、プレスマン道場とは比較にもならない。大きなビルの地下一階から地上二階までが、ダー・ピカ・アカデミーのフロアであるようだった。


「ダー・ピカ・アカデミー、いいジムですね。……でもこんかいのイベントで、しゅつじょうするせんしゅはいないのですね?」


「そうだわね。そうじゃきゃ、日本やシンガポール陣営の練習場所に選ばれることもなかったんだろうだわよ」


 ドミンゴ氏と鞠山選手のやりとりを聞きながら、一行は入り口のガラス扉をくぐった。

 受付のカウンターには若い女性が控えており、こちらからは《ビギニング》のスタッフが対応を担ってくれる。その際には、英語が使われているようであった。


「それでは、こちらにどうぞ。まずは、ジムの責任者をご紹介いたします」


 通路の真っ白な壁には、さまざまな興行のポスターが張られている。ただし、いずれも現地のプロモーションであるようで、瓜子には見知らぬ言葉や選手の写真が並べられていた。


「……ブラジルでMMAの興行と言ったら、この《V・G・C》――《ヴェラ・ゲレイロ・チャンピオンシップ》だわね。そこで勝ち抜いた人間が、ばんばか《アクセル・ファイト》に進出してるだわよ」


 瓜子の視線に気づいたのか、鞠山選手が小声でそんな風に説明してくれた。


「逆に言うと、《V・G・C》に居残ってるのは《アクセル・ファイト》に参戦できないレベルだと見なされてる選手ばかりなわけだわけど……わたいの目から見て、《ビギニング》に劣っている様子はないだわね。察するに、ブラジルは競技人口がケタ違いだわから、そこを勝ち抜くのは狭き門なんだわよ」


「押忍。自分やユーリさんが対戦するエズメラルダ選手やアナ・クララ選手は、レッカー選手やジェニー選手より実力者だっていう見込みなんですもんね。嫌でも気合が入るっすよ」


 鞠山選手は瓜子の顔を横目で見やりながら、「ふふん」と鼻を鳴らした。


「今にも居眠りしそうな目つきだわけど、気合は抜けてないようだわね。それでも今日は、無理するんじゃないだわよ?」


「押忍。これは一睡もしてない状態で稽古に挑むようなもんですからね。体調を見ながら、慎重に取り組みます」


 そうして一行は通路を抜けて、トレーニングルームに足を踏み入れた。

 まずは広大なスペースで、多くの人間が打撃技の修練に打ち込んでいる。ユニオンMMAでも似たような光景を目にしていたが、こちらのダー・ピカ・アカデミーはひときわムエタイに力を入れているのだという話であった。


《ビギニング》のスタッフの案内で、一行はそのトレーニングルームの奥に進む。練習中の選手たちがちらちらと探るような視線を向けてきたが、声をあげる人間はいなかった。

 そして、スタッフの女性は熱心に声をあげている壮年の男性に声をかけたのだが――その人物もこちらを一瞥しただけで、短い言葉を言い捨てるのみであった。


「……ダー・ピカ・アカデミーの方々はみなさんのトレーニングにいっさい関与しないので、好きにスペースを使っていただきたいとのことです。また、こちらのジム生の方々にはなるべく接触しないでいただきたいとのことです」


「ふふん。こっちは、もとよりそのつもりさ。この際は柔術に対する対抗心より、郷土愛のほうが上回るんだろうからな」


「では、更衣室にご案内いたします」


 一行はすみやかに更衣室へと案内されたが、スパーに参加する人間は全員トレーニングウェアを着込んでいたので、余計な上着と手荷物をロッカーに片付けるだけで事が済んだ。

 タオルやドリンクボトルやマウスピースという稽古に必要な物資は蝉川日和が運ぶボストンバッグにまとめていたので、他の面々は手ぶらでトレーニングルームに舞い戻る。

 ユーリが帽子を外したために、これまで以上の視線が集められて、ときには熱いざわめきがわきたったが――それでもやはり、声をかけてくる人間はいない。


 そうして一枚のドアをくぐって、さらに奥まったスペースに踏み込むと、そこに懐かしき面々が待ちかまえていたのだった。


「ウリコ!」と、ちょうどインターバル中であった人物が汗だくの姿で駆け寄ってくる。

 三ヶ月前にシンガポールでお世話になった、グヴェンドリン選手である。笑顔で突進してきたグヴェンドリン選手は瓜子にハグしようという素振りを見せてから、それを握手に切り替えた。


 瓜子が心からの笑顔でその手を握ると、グヴェンドリン選手もいっそう嬉しそうに笑ってくれた。

 そして彼女の背後に控えているのは、エイミー選手とヌール選手――そして、彼女たちのコーチ陣であった。


 現地の人々はいっさいノータッチであるが、これらのシンガポール陣営は日本陣営と共闘してくれるのだ。

 眠気の残滓を頭の片隅に感じながら、瓜子はいっそうの気合が燃えていくのを自覚していた。

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