02 ミーティング
「プレスマン・ドージョーのみなさんですね? ようこそ、リオデジャネイロへ」
一行が空港の出口に向かうと、そこには《ビギニング》のスタッフが待ちかまえていた。
まるで現地人のような出迎えであるが、その女性もシンガポールから馳せ参じたのだろう。ブラジルというのは《ビギニング》にとっても異郷の地であるため、常駐スタッフなどは存在しないはずだった。
「現在は深夜0時すぎですので、このままホテルにお送りいたします。時差ボケなどは大丈夫でしょうか?」
「ああ。苦労をするのは、ここからだろうからな。まあ、二、三日の間にはどうにかしてみせるよ」
立松が気安く応じると、スタッフの女性は「はい」と微笑んだ。
「シンガポールも時差は十一時間ありますので、わたしもしばらくは時差ボケに悩まされました。では、こちらにどうぞ」
女性の案内で外に出ると、今回もリムジンバスが準備されていた。
そして、外気は――いくぶん肌寒いぐらいで、日本の六月の夜と大きな差は感じられない。それに、シンガポールのように空気が乾いていることもなかった。
「いやー、ほんとにブラジルに着いたんスねー。なんか、実感がないッスよー」
蝉川日和は、のほほんとした顔で笑っている。とにかくプレスマン道場のメンバーはみんな図太いので、瓜子にとっては心強い限りであった。
そうしてそれぞれのキャリーケースを積み込んで、一行はリムジンバスに乗り込む。
窓には美しい夜景が広がっていたものの、こんなに暗くては異国情緒を感じる隙もない。瓜子もあまり、ここがブラジルであるという実感は持てていなかった。
リムジンバスは、三十分ていどでホテルに到着する。
シンガポールでお世話になったホテルに比べれば格段に小規模であったが、それでも小綺麗で十階ぐらいはありそうだ。どことはなしにカジュアルな雰囲気で、瓜子としてはこういったホテルのほうが親しみを持てた。
「今日は遅いので、このままおやすみください。明日の正午すぎにまたおうかがいいたしますので、さっそくトレーニングを開始されるようでしたらジムまでご案内いたします」
「ああ。まずは時差ボケがどんな感じに落ち着くかだな。ホテルに着いたら、俺の部屋に連絡を頼むよ」
「かしこまりました。では、よい夜を」
こちらがチェックインするところまで見届けて、スタッフの女性は立ち去っていった。
ホテルマンに荷物を預けつつ、こちらは指定の部屋を目指す。その道行きで、立松は「さて」と瓜子たちを見回してきた。
「ここで眠れりゃあ、世話はねえんだが……きっとそう簡単にはいかねえだろうな」
「押忍。まだ起きてから、四時間ぐらいしか経ってませんからね。そろそろお腹が空いてきたぐらいです」
「タイムスケジュールは、事前に通達した通りだ。三十分ていどで声をかけるから、それまでは待機しておいてくれ」
そんな会話を交わしながらエレベーターに乗り込み、到着したのは七階だ。今回は、瓜子とユーリ、立松とジョン、サキと蝉川日和――そして、鞠山選手と師匠のドミンゴ氏という割り振りになっていた。ドミンゴ氏もまた、明日の正午を目処に合流する手はずである。
ユーリとともに入室すると、前回よりもひかえめな規模のツインルームが待ち受けている。
しかし部屋では眠るだけであるので、何の不都合もない。それに、こちらのホテルもまだ創業から十年も経過していないそうで、どこもかしこも申し分なく清潔そうだった。
「うみゅうみゅ。素敵なお部屋ですわねぃ。ベッドは普通のサイズですけれども……まあ、うり坊ちゃんはちっちゃいので、添い寝に不自由はありますまい」
「けっきょく同じベッドで眠るつもりっすか? 人目がないと、やりたい放題っすね」
「にゅふふ。うり坊ちゃんだって、それを期待してたくせにぃ」
瓜子は苦笑しながらユーリのなめらかな頬をつつき、キャリーケースからビジネス手帳を引っ張り出すことにした。ユーリの副業を管理するその手帳に、道場から通達されたスケジュールも記載しておいたのだ。
まずこの後は、持参した物資で食事である。こちらのホテルに深夜に営業している飲食施設は存在しなかったし、外まで繰り出すのは不用心であったため、そんな準備をしていたのだ。
その後は軽いミーティングをしたのちに、それぞれの部屋に戻って休養を取る。それで眠れようと眠れまいと、明日の正午にはジムまでおもむき、無理のない範囲で汗をかき、午後の六時にホテルまで戻って、食事をとって就寝する。それが立松たちの組んだ初日のスケジュールであった。
「これで明日の夜にぐっすり眠れれば、とりあえず生活時間を修正できるだろうっていう見込みなんすよね。それでもまあ、しばらくは体内時計のズレに悩まされるだろうって話ですけど」
「うみゅ。日本の時間にあてはめると、お昼にちょっぴりしか食事をとらず、夜までぐっすりお昼寝をして、深夜0時からお稽古開始っていうスケジュールなんだものねぇ。それはカラダがびっくりしてしまいそうですわん」
「人間は完徹すると、体内時計を戻すのに二週間はかかるとかいう説もありますもんね。まあ、試合までは三週間ありますし、じっくり取り組むしかないでしょう」
「うみゅうみゅ。しかし、この時間にこれっぽっちしか食べられないというのは、悲しみのイタリでありますにゃあ」
と、ユーリはキャリーケースから引っ張り出した物資を手に、切なげな溜息をつく。それらはカロリーバーにゼリー飲料という、味もそっけもない食料に他ならなかった。
「今は深夜の0時だって身体に言い聞かせないといけないんだから、しかたないっすね。それでも腹ペコだと余計に眠れないから、これだけでも食べておくことになったんでしょう」
「むにゃー。就寝前の暴食はお肌の敵であると同時に脂肪のもとだものねぇ。明日のお昼ごはんが待ち遠しいですわん」
そうしてわびしい食事をたいらげたのち、三十分ばかりもくつろいでいると、部屋のドアをノックされた。
ドアを開けると、先刻までと同じ姿をした立松たちが立ち並んでいる。現在は日本とさほど変わらない気温であるので、着替える必要がなかったのだろう。誰もがTシャツの上に一枚上着を羽織っているていどの軽装であった。
「それじゃあ、ラウンジでミーティングだ。よそ様の迷惑にならないようにな」
一行は再びエレベーターに乗り込み、一階のラウンジを目指す。この時間ではすべてのサービスが終了していたが、ラウンジだけは開放されていた。
「到着したのが深夜だったせいか、ここがブラジルだって実感がわかねえな。ただし、ブラジルであることに間違いはない。このあたりはそうまで治安が悪いこともないはずだが、何せとびっきりのアウェイなんだからな。くれぐれも用心するんだぞ」
「押忍。《ビギニング》の出場者だってことがバレると、嫌がらせを受ける危険もあるってお話でしたよね」
「ああ。こっちはブラジルの選手を叩き潰すために乗り込んできたわけだからな。シンガポールよりも、喧嘩腰の人間は多いだろうと思う。ただし、酒場なんかに近づかなければ、そうそう危険な目にあうことはないだろう。せいぜい、冷やかしの言葉をぶつけられるぐらいだろうが……どうせあっちは、ポルトガル語だ。何か騒がれても、聞き流しておけ」
「そうだわね。ただし、うり坊とピンク頭がホテルを出るときは、帽子の着用を忘れずにおくんだわよ? あんたたちは『トライ・アングル』の活動でも顔と名前を売ってるから、いっそうの用心が必要なんだわよ」
「押忍。でも、ブラジルの方々ってそんなに血の気が多いんすか? 日本で出会った方々はみんな大人しそうだったんで、まだあんまりイメージがわかないんすよね」
「どうせあんたが口をきいたのは、ベリーニャぐらいなんだわよ。他に誰か、親しくしていた相手でもいるんだわよ?」
「ええまあ確かに、親しくした相手はいないっすけど……《カノン A.G》の時代に雅さんがやりあったアレクサンドル選手とかベアトゥリス選手とかも、寡黙な感じだったじゃないっすか?」
「ずいぶん懐かしい名前が飛び出すだわね。その時点で、ブラジリアンとの交流の薄さが丸わかりなんだわよ」
ひとりワンピースにジャケットという小洒落た身なりをした鞠山選手は、ずんぐりとした肩をすくめた。
「たとえば……何年か前に、『アクセル・ロード』のブラジル版が開催されたんだわよ。そのときも、出場選手はラスベガスの合宿所に収容されただわけど……予選大会が終了して、決勝進出が決まった選手たちが一時帰国したとき、空港では何百人っていう人間が出迎えることになったんだわよ」
「え? 決勝戦の後じゃなくって、前っすか?」
「そうだわよ。そのときはスケジュールにゆとりがあったんで、一時帰国が許されたんだわね。でも、決勝進出が決まっただけで、まだ正式契約を勝ち取ったわけでもないんだわよ。それでも、そんな大層な出迎えを受けることになったんだわよ」
「それってつまり、ユーリさんと宇留間さんが決勝戦の前に一時帰国したようなもんっすよね。それで何百名もの人間が空港まで出迎えって……いったいどういう立場の人たちが、そんなに集まったんすか?」
「もちろん中心になるのは、選手の地元の人間だろうだわね。それぐらい、ブラジルには地元愛の強い人間が多いんだわよ。世界最高峰の舞台である《アクセル・ファイト》の『アクセル・ロード』に勝ち抜いたら、地元では英雄の扱いなんだわよ」
そう言って、鞠山選手はにんまりと笑った。
「あんたたちは、そんなブラジルの選手を叩き潰そうとしてるんだわよ。しかも今回は、ブラジルvsシンガポールと日本の連合軍っていう構図なんだわから、余計に殺気立つだろうだわね。立松コーチの言う究極的なアウェイっていうのは、つまりそういうことなんだわよ」
「なるほど……でも、自分たちはこちらのジムのお世話になるんすよね。そっちの門下生の方々なんかは、大丈夫なんでしょうか?」
「それはもちろん、対戦相手と交流の薄いジムが選ばれてるから、反感は最小限に食い止められるだろうって話だな」
立松の言葉に、鞠山選手はまた「そうだわね」と言葉を重ねる。
「あんたたちに限って言えば、交流が薄いどころかライバル関係にあるジムなんだわよ。あんたたちが対戦するのはジルベルト系列の選手で、お世話になるのはルタ・リーブリ系のジムだわね」
ルタ・リーブリというのも、ちょっとひさびさに聞く名称である。それは昔年からブラジリアン柔術と対立する一派であり、瓜子がさきほど名前をあげたアレクサンドル選手やベアトゥリス選手もルタ・リーブリ派の筆頭であるヴァーモス・ジム所属の選手であった。
「まあ、柔術とルタ・リーブリがバーリトゥードでやりあってたのは数十年前の話で、今はおおよそ遺恨も解消されてるんだわよ。ただ、ライバル関係にあることは確かだわね。だからきっと《パルテノン》の連中は、柔術系のジムをあてがわれてるんだわよ」
「ああ、巾木選手と横嶋選手は、ヴァーモス・ジムの選手と対戦するんすよね」
「そう。そして、あんたたちが世話になるのもヴァーモスの系列ジムなんだわよ。……だから、《パルテノン》の二人に向けられる反感の余波が及ぶ危険性は否めないだわね。けっきょく、用心が必要なんだわよ」
聞けば聞くほど、殺伐とした話である。
日本でも《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の不和や和解などが取り沙汰されているが、それとは比較にならないぐらい差し迫った空気であるようであった。
「それでもまあ、トレーニングの邪魔をされることはないだろう。そんな真似をするやつがいたら、こっちだって黙っちゃいないからな」
「ウン。それに、ジムではシンガポールのセンシュともゴウリュウできるしねー」
それは、事前に聞かされていた。シンガポールから出陣する八名の選手の内、三名は瓜子たちと同じジムを割り振られており――そしてそれは、エイミー選手とグヴェンドリン選手とヌール選手という顔ぶれであったのだった。
「ヌール選手とは交流もありませんでしたけど、ユニオンMMAのお二人は心強いっすよね。またお会いできるだけで、嬉しくなっちゃいます」
「ふふん。グヴェンドリンは《ビギニング》のストロー級の五番手ぐらいのポジションだろうだわから、悪く言うなら穴埋め要員だわね。それでも、格上のレッカーやミンユーを差し置いて抜擢されたんだわから、きっと運営陣に目をかけられてるんだわよ」
「《アクセル・ジャパン》に抜擢されたのも、グヴェンドリン選手だったわけだしな。ミンユー選手はディフェンシブだし、レッカー選手は極端なストライカーだから、オフェンシブかつオールラウンダーのグヴェンドリン選手が有望視されてるのかもな」
そう言って、立松コーチは力強く笑った。
「今回は力を借りるばっかりじゃなく、こっちも力を貸してやれ。……ただしその前に、時差ボケを解消しないとな。しばらくは思うように身体が動かないかもしれんが、決して焦るんじゃないぞ? 俺たちが責任をもって、試合までにはベストのコンディションに持っていってやるからな」
瓜子の「押忍」という声とユーリの「はぁい」という声が交錯した。
そうして、しばらくののちにはミーティングも終了して――瓜子たちにとっては昼間のように感じられるブラジルの最初の夜は、無事に終わりを迎えたのだった。
 




