ACT.4 Welcome to Rio de Janeiro 01 出陣
メイとオルガ選手が完全勝利をおさめた《アクセル・ファイト》ハンブルク大会から、およそ二週間後――六月の第一金曜日である。
その日が、ブラジルに出立する当日であった。
瓜子とユーリが出場する《ビギニング》ブラジル大会が開催されるのは第四土曜日で、まるまる三週間はあちらで過ごすことになる。ブラジルは時差が大きくてコンディションを整えるのに難航するという見込みであったため、シンガポールのときよりも一週間早く前乗りすることになったのである。
「で、ブラジルは六月から冬なんすよね。でも、気温は三十度近くまで上がることもあるっていうし……なかなかイメージがつかみにくいっすよね」
「うみゅ。何にせよ、ベル様の故郷に足を踏み入れるのかと思うと夢見心地を禁じ得ないユーリちゃんなのです」
特急電車の座席にて発車の時間を待ちながら、瓜子とユーリがそんな呑気な言葉を交わしていると、また後部座席から鞠山選手がにゅっと顔を覗かせてきた。
「前回と違って、今回はくつろぎまくってるようだわね。それはけっこうな話だわけど、くれぐれもお師匠様の前で粗相するんじゃないだわよ?」
「押忍。もちろんです。鞠山選手のお師匠さんにお会いできるのも楽しみっすよ」
瓜子は笑顔で、そんな風に答えることができた。前回のシンガポール遠征を経て、瓜子も飛行機に対する気後れを払拭することがかなったのだ。
ただし今回のフライトは、きっかり二十四時間にも及ぶ。
成田空港からオランダのアムステルダムまでで十二時間、そこから目的地のリオデジャネイロまででまた十二時間、合計二十四時間となるのだそうだ。日本からリオデジャネイロまでの直行便は存在せず、どの国を経由してもフライトの時間に大きな差はないのだという話であった。
この長旅に参加するのは、五名。出場選手の瓜子とユーリ、正規コーチの立松とジョン、サブコーチのサキと鞠山選手、そして雑用係の蝉川日和だ。あとは現地で、鞠山選手の柔術の師匠たるドミンゴ・エステベス氏なる人物と合流する手はずになっていた。
「それに、鞠山選手にも感謝してるっすよ。アトミックの七月大会のオファーがあったのに、こうして同行してくださったんですからね」
「ふふん。日本に戻って三週間もあれば、コンディションを整えるのに不自由はないんだわよ。対戦相手がわからないなら、対策や分析も必要ないだわしね」
「それもきっと、自分やユーリさんの影響なんですもんね。なんだか、心苦しいです」
今回、鞠山選手や灰原選手――それにその他のストロー級およびバンタム級の選手には、いささか奇妙な形式でオファーがかけられていたのだ。それは、出場は確約するが、対戦相手は七月になってから発表するという内容になっていた。
「わたいがリサーチしたところ、ストローとバンタムのトップファイターには、のきなみ同じ形のオファーがかけられたんだわよ。つまりは、今回のブラジル大会の結果次第――あんたたちがアトミックを卒業してベルトを返上するかどうかで、イベントの内容が変わってくるという寸法だわね」
そう言って、鞠山選手はにんまりと笑った。
「あんたたちが王座を返上するなら王座決定トーナメント、しないなら次期挑戦者を選定する何らかの予選試合が組まれるわけだわね。何にせよ、わたいが王座に一歩近づいたことに変わりはないんだわよ」
「押忍。現段階では、自分もなんて言っていいかわからないっすけど……とりあえず、目の前の試合に集中します」
「そうだわね。あんたたちがアトミックに思いを馳せるのは、このブラジル遠征を乗り越えてからなんだわよ」
「どーでもいーけど、ガキみてーに突っ立ってんじゃねーよ」
「だから! 気安くわたいのヒップを叩くんじゃないだわよ!」
と、鞠山選手がわめいたところで、特急電車の発車が告げられた。
前回と同じく、まずはこちらの電車で成田空港までおもむき、そこからアムステルダムを目指すのだ。瓜子は通路をはさんだ向こう側に座しているジョンに呼びかけた。
「オランダに着いても、すぐ次の飛行機に乗り換えるんすよね? せっかくオランダまで行くのに、残念っすね」
「あははー。ボクはもう、ニホンにネをオろしてるからねー。レムだって、もうナンネンもアムステルダムにはカエってないんじゃないかなー」
日本で温かな家庭を築いたジョンは、いつも通りの柔和な笑顔でそんな風に言っていた。
ジョンはレム・プレスマンのお供として何度も来日している内に、ついに移住することになったのだ。ジョンのような人間に日本が第二の故郷として選ばれたのは、誇らしい限りであった。
その後も和やかに言葉を交わしながら、一行は成田空港を目指す。
飛行機に対する気後れがなくなると、瓜子の中にはささやかながらも旅情というものが発生した。気の置けない人間に囲まれながら二十四時間にも及ぶ長旅に繰り出すというのは、まぎれもなく非日常的な行いであろう。瓜子の隣では、ユーリもご機嫌な様子でにこにこと笑っていた。
(ブラジルはベリーニャ選手の故郷だし、行った先では鞠山選手のお師匠さんに稽古をつけてもらえるし……それで最後には、ジルベルト系列の強豪選手との試合だもんな。ユーリさんにしてみれば、楽しいことずくめなんだろう)
そうしてユーリが幸せそうにしていれば、瓜子も同じ気持ちに至るのが自然の摂理というものである。瓜子はシンガポール遠征の際よりもさらに満ち足りた気持ちで、長き道のりに挑むことがかなったのだった。
◇
やがて成田空港に到着したならば、前回と同じように搭乗の手続きである。
しかし面倒な話はすべて立松たちが受け持ってくれるので、瓜子とユーリは黙って付き従うのみだ。今後、自分たちだけで飛行機に乗るべしと言いつけられても、瓜子にはまったく勝手がわからなそうであった。
今回は前回よりも五割増しで長い滞在となるが、荷物の量に変わりはない。どうせ衣類も向こうで洗濯するのだから、荷物が増える理由もないのだ。なおかつ遊び心のない瓜子は、荷物の大半が着替えやタオルで占められていた。
ユーリはそこにスキンケアの用品などが多少ばかり上乗せされるが、それでもやっぱり大した差ではない。ユーリも瓜子も稽古と試合のことしか念頭にないため、それ以外に荷物を増やす理由がなかったし、前回もこの装備でまったく不自由はなかったのだった。
そんな味気ない荷物を空港で預けたならば、いざ飛行機に搭乗する。
しかしけっきょくは、ユーリを筆頭とする人々と楽しく会話に励むばかりだ。飛行機に対する気後れがなくなると、瓜子はほとんど遠足気分であった。
ただしここからは、未知なる領域に踏み込むことになる。
何せ、合計で二十四時間にも及ぶフライトであるのだ。成田空港を出発したのは昼前で、乗り継ぎのアムステルダムに到着する頃には日がかわろうとしていたのだった。
しかし、飛行機の外に出てみると、まだ西の果てに太陽が居残っている。
日本とアムステルダムでは七時間の時差が生じるため、こちらはようやく黄昏時を迎えようかという刻限であったのだ。
そこで瓜子は、初めて体内時計がわずかに軋む音色を聞いたような気がした。
瓜子の肉体はすでに眠りを求める刻限であるのに、まだ日の光が地上に降り注いでいる。それは何だか、異世界にでも足を踏み込んだような感覚であったのだった。
しかし、乗り継ぎには一時間もかからなかったので、またすぐさま機上の人である。
飛行機の中にこもってしまえば、周囲の明るさを不自然に感じることもない。それで、行き場を失っていた睡魔がすみやかに舞い降りてくることになった。
「すみません。自分はちょっと寝かせてもらいますね。……ユーリさんは、眠くないんすか?」
「うみゅ。ワクワクドキドキがまさってしまい、ねむねむの気配がやってこないのです。ユーリはうり坊ちゃんの寝顔で心を満たしますので、どうぞお気遣いなく」
「やだなぁ。そんなじっくり見られてたら、眠くても眠れないっすよ」
などと言いながら、数分後には瓜子の意識も途絶えていた。
座席で眠るというのは慣れない行為であるものの、まがりなりにもビジネスクラスであるのだから文句を言ってはバチがあたるだろう。これがエコノミークラスであったなら、肉体にもより大きな負担が掛けられていたはずであった。
そうして瓜子はアイマスクや耳栓のお世話になることもなく、それなりに安らかな眠りに落ち――そこで、夢を見た。
夢に登場したのは、ユーリである。
ただしユーリは、夢の中で眠っていた。白いふわふわとしたワンピースのようなものを着たユーリが、草原とも芝生ともつかない場所でゆったりと横たわり、安らかな寝顔を見せていた。
その無垢なる寝顔に、瓜子は温かい気持ちになる。
ただ――それと同時に、不安の萌芽めいたものが瓜子の心の片隅で蠢いていた。
(起きてください、ユーリさん……早く起きないと……)
早く起きないと、いったい何だというのだろうか。
あんなに幸せそうな顔で眠るユーリの邪魔をしてはならない。そんな風に思いながら、瓜子の心はどんどん切迫していった。
そして、ユーリの姿がじわじわと白く霞んでいく。
もともと純白の姿をしたユーリが、白い光に呑み込まれていくかのようであった。
瓜子は慌てて手を差し伸べようとするが、どんなに手をのばしてもユーリには届かない。
そうしてユーリの姿が白い光の中に溶けて、瓜子が泣き叫びそうになったとき――シャボン玉のように、白い夢が弾け散った。
うっすらとまぶたを開いた瓜子の目に、ユーリの寝顔が飛び込んでくる。
それは、現実世界のユーリであった。ユーリもまた深く倒した座席の上で、すぴすぴと眠っていたのだ。
瓜子は手探りでユーリの手をつかみ、その寝顔を見つめ続けた。
すると、瓜子の心に生じた空虚は温かいもので満たされていき――瓜子も再び眠りに落ちることになったのだった。
◇
しばらくして、瓜子はユーリとともに目を覚ました。
ちょうど機内食が届けられたタイミングであり、腕時計で確認してみると午前の八時半である。こちらの腕時計は日本の時間のまま、設定を動かしていなかった。
味はまずまずだがボリュームの足りない機内食をたいらげて、またユーリや他のメンバーと語らっていると、三時間ていどでついに目的地に到着する。
固く強張った身体をほぐしながら、飛行機の外に出てみると――瓜子はまた、不可解な感覚に陥ることになった。
瓜子の腕時計は、おおよそ正午を指し示している。
しかし世界は、闇に包まれていた。リオデジャネイロとの時差はちょうど十二時間であるため、こちらは深夜の0時であったのだ。
「うわぁ、夜だねぇ。……えーとえーと、日本とブラジルでは、日本のほうが時間が進んでるんだっけ?」
「はい。だから……今は金曜日の深夜ってことっすね」
「ではでは、半日ほど過去に戻ったような心地だねぃ。寿命が半日のびたみたいで、お得な気分だにゃあ」
ユーリの無邪気な反応に、鞠山選手が「たわけたことを抜かしてるんじゃないだわよ」と指摘した。
「これで日本に戻ったら、今度は半日分進んでるんだわよ。それなら、プラマイゼロなんだわよ」
「ああ、言われてみればそうですねぃ。半日分の寿命のためにブラジルに移住することはできないので、つつしんで現実を受け入れる所存ですぅ」
ユーリはあくまで呑気であり、そしてやっぱり幸せそうだった。
かくして一行は、遠きリオデジャネイロの地を踏むことに相成ったのだった。




