02《アクセル・ファイト》ハンブルク大会(下)
「それじゃあ次は、オルガ選手の試合っすね」
胸中に生じた熱をなんとかなだめながら、瓜子はノートパソコンを操作した。
オルガ選手の試合は、プレリミナルカードの第四試合だ。相手はイングランドの選手であったが、明らかにアフリカ系の容貌をしていた。
「さあ、こっちはどうなるかな。小笠原もこのサービスに加入したって話だから、わくわくしながら見届けただろうね」
「うんうん! トッキーとオルガっちの試合も、すげかったもんねー! で、《アクセル・ファイト》で再戦しようとか約束してたんだっけ? オルガっちに先に越されて、トッキーは悔しがってるかなー!」
「重い階級はロシアのほうが注目されてそうだから、しかたないさ。ま、桃園なんかは問答無用で大注目されてるだろうけどさ」
「いやーん。乙女に重いは禁句なのですぅ」
そうして賑やかに騒ぎながら、この場に集まった面々は両選手の入場を見守った。
オルガ選手の姿を目にするのは、一年半ぶりのことだ。彼女はユーリが渡米している間に、日本からロシアに帰った身であった。
相変わらず、オルガ選手は逞しい。身長が百七十四センチもあるため、六十一キロの階級でもすらりとしたシルエットであるが、やはり骨格がしっかりしているために力強いことこの上なかった。
「オルガに比べると、さっきの選手もかすんじゃうね。でも、それは相手も同じことか」
アフリカ系の出身と思しき相手選手は、オルガ選手ほど骨太の体格はしていない。しかしその代わりにしなやかな筋肉がまんべんなく盛り上がっており、オルガ選手とはまた趣の異なる力感をみなぎらせていた。
頭は赤く染めており、肌は黒褐色に照り輝いている。身長は百六十七センチで、ユーリと同じ数値だ。これは、ユーリと同じバンタム級の一戦であった。
褐色の髪と灰色の瞳をしたオルガ選手は、氷のような無表情で相手選手を見据えている。
相手選手は厳つい顔立ちだが、表情そのものは安らかだ。この大舞台で、緊張している様子は微塵もない。これはこれで、要注意であった。
「うーん、どっちも強そうだねー! さすがは《アクセル・ファイト》ってことなのかなー!」
「そりゃあどの選手だって、それぞれの国のトップファイターなんだからね。日本で言えば、桃園と小笠原が対戦するようなもんさ」
「あはは! 貫禄ではちょっとばっかり負けちゃうけど、トッキーもピンク頭もオルガっちに勝ってるんだもんねー! そう考えると、すごいなー!」
灰原選手の何気ないコメントに、ユーリは「うにゃあ」と照れている。しかしユーリはオルガ選手どころか《アクセル・ファイト》のランキング二位たるパット選手に勝利しているのだから、このハンブルク大会に出場しているどの選手よりも格上という扱いであるはずであった。
(でも、そんな番付はどんどんくつがえされていくんだろうからな)
この相手選手は二十四歳であったし、オルガ選手などは瓜子と同世代であるのだ。これからは、こういった世代がベリーニャ選手やアメリア選手やパット選手が君臨するバンタム級の舞台をかき乱していくのだろう。そういえば、前回のブラジル大会でベリーニャ選手に挑戦を表明していたガブリエラ選手も、そういう若い世代であるはずであった。
瓜子がそんな感慨を噛みしめる中、試合が開始される。
オルガ選手はゆったりと、相手選手は軽やかにステップを踏みながら進み出た。
(このステップひとつで、相手選手も只者じゃないってことは丸わかりだな)
やはりアフリカ系の選手というのは、筋肉の質が違っているのだろう。マリア選手をさらに力強くしたような、躍動感のあふれるステップワークだ。
いっぽうオルガ選手は、ごつごつとした固い動きを特徴にしている。こちらは何となく、すべてを押し潰しながら前進する戦車のような迫力だ。
相手選手は前後にステップを踏みながら、牽制のジャブやローのモーションを見せている。
いっぽうオルガ選手は余分な動きをいっさい見せず、相手からの接触をじっと待ち受けている。なかなかに、対照的なファイトスタイルであった。
「目の前でこんなぴょこぴょこ動かれたら、惑わされそうッスねー。この相手選手も、やっぱりストライカーなんスか?」
「いえ。愛音は、オールラウンダーと聞いているのです。バネのある打撃とステップワークに加えて、タックルの勢いと柔術の手腕も見事であるとのことなのです」
そういった話は、瓜子もコーチ陣から聞いていた。プレスマン道場でも長らくオルガ選手を出稽古で迎えていたため、やはり今回の出場には関心をひかれていたのだ。
「いっぽうオルガは、ストライカー寄りのオールラウンダーってことになるのかな。組み技や寝技も見事なもんだけど、相手を仕留めるのは打撃技ってイメージだからね」
「うんうん! オルガっちは重くてパワフルだから、寝技のスパーとかうんざりだったなー! ……わっ!」
と、灰原選手が大きな声をあげたのは、相手選手が大きな踏み込みから左のショートフックをヒットさせたためであった。
しかししっかりブロックできたらしく、オルガ選手の長身は揺らぎもしていない。そして自らも踏み込んで、コンパクトかつ力強い右フックを振るった。
相手選手は素晴らしい反応速度でバックステップを踏み、その攻撃を回避する。
すると今度はオルガ選手のほうが大きく踏み込んで、再びの右フックを振るった。
これはタイミングがよかったらしく、相手選手もバックステップが間に合わずに左腕で頭部をガードする。
しかし、オルガ選手の右拳がヒットすると、相手の身体が大きく流された。オルガ選手は日本人の男子選手よりも拳が大きく、握力もパンチ力も尋常でなかったのだ。
たたらを踏んだ相手選手はにやりと不敵な笑みを見せてから、いきなりオルガ選手に飛びかかった。
獣のように上体を屈めた、両足タックルである。オルガ選手はカウンターの膝蹴りを繰り出したが、それが勢いに乗る前に両足をつかまれて、マットに尻もちをつくことになった。
しかしオルガ選手は慌てず騒がず、座った状態で後方にずっていく。
オルガ選手の両足を捕獲した相手も、問答無用でそれに引きずられていた。
やがて背後のフェンスまで到着したならば、オルガ選手はそこに背中をつけて立ち上がっていく。その間も、相手選手は打つ手なしだ。規格外のパワーに裏打ちされたオルガ選手の的確な動作は、やはり機械さながらであった。
一緒に身を起こすことになった相手選手はオルガ選手の下顎に頭を押し当てて、壁レスリングに移行する。
しかし、頭を振って相手の圧迫をいなしたオルガ選手はぐっと腰を落とすと、何の苦もなくポジションを入れ替えてしまった。
そうして今度はオルガ選手が頭で相手の下顎を圧迫しながら、右膝を左腿に叩きつけていく。嫌がらせでは済まない、力強い攻撃だ。相手選手は、明らかに苦しげな顔になっていた。
「わー、すっげー! 相手だってムキムキなのに、パワーで圧勝じゃん!」
「しかもオルガは、機械みたいに動きも正確だからね。それこそ、プレスマシーンとでも呼びたくなるところだよ」
灰原選手たちがそのように語る間も、オルガ選手は一定のリズムで右膝を撃ち込んでいく。相手選手の左腿は、見る見る青紫色に変色していった。
相手選手は何とか腰を落として圧迫から逃れようとするが、オルガ選手はびくともしない。そして、テイクダウンを狙おうという素振りも見せず、ひたすら膝蹴りを撃ち続けた。
すると何故だか、客席からはブーイングがあがり始める。
相手選手の苦境に苛立っている――というよりは、試合に退屈しているような気配である。まあ確かに、オルガ選手の右膝以外にはいっさい動きが見られないのだ。オルガ選手のポジションキープ能力が高いために、一種の膠着状態が生まれたわけであった。
すると、観客のブーイングに背中を押されたような格好で、レフェリーが『ブレイク!』と宣言する。
オルガ選手はロボットのような従順さで身を引き、相手選手は忌々しげに口もとをねじ曲げた。
そうして試合が再開されると、相手選手はいっそうの勢いでステップを踏み始める。
ただし、躍動感はいくぶん減じていた。おそらく、執拗な膝蹴りで左足にダメージを負ったのだ。いまや彼女の左腿は、くっきりと青黒くなってしまっていた。
オルガ選手は無表情に、ためらいなく前進していく。
そして、相手選手が大振りの右フックを放つと、それをかいくぐって胴タックルを仕掛けた。
両脇を差されて片足を掛けられた相手選手は、呆気なく倒れ込む。
それでも何とか両足でオルガ選手の右足をはさみこみ、ハーフガードのポジションを取ったが、オルガ選手はかまわず上体を起こして、左右のパウンドを振るい始めた。
オルガ選手が怖いのは、このパウンドである。ひときわ頑強な骨格と拳を持つオルガ選手は、パウンドの威力も尋常でないのだ。
そしてオルガ選手は体幹も強い上に、寝技における重心の掛け方も秀逸である。ハーフガードのポジションでも決して重心を崩すことなく、凶悪なパウンドを振るうことができるのだ。その猛攻にさらされた相手選手は頭を抱え込みながら狂ったようにもがいたが、オルガ選手の身は揺るぎもしなかった。
そうしてオルガ選手が右のパウンドを集中させると、相手選手はそれを嫌がって反対側を向いてしまう。
するとオルガ選手は、相手のこめかみに左肘を落とし始めた。
その何発目かで血がしぶき、オルガ選手の白い顔にぽつぽつと返り血が散る。
そこでレフェリーが割って入り、試合の終了を告げた。
一ラウンド、二分四十三秒、パウンドアウトでオルガ選手のTKO勝利である。
客席には歓声が爆発したが、返り血を浴びたオルガ選手はやはり最後まで無表情のままだった。
「わー、オルガっちもノーダメージで勝っちゃったよ!」
そんな風に言ってから、灰原選手は無邪気に笑った。
「でもさ、アトミックに出てたやつが勝つのって、やっぱうれし-ね!」
「ええ。アトミックの選手も世界で通用するっていう、何よりの証拠っすよ」
瓜子もまた、深い感慨を噛みしめることができた。
オルガ選手も《カノン A.G》の陰謀に巻き込まれて、不本意な時間を過ごすことになった身であるのだ。しかし、日本で過ごした時間も決して無駄ではなかったのだと、そんな風に信じたかった。
「二人ともノーダメージのKO勝ちで、言うことないッスねー。でも、寝技の攻防が少なかったから、ユーリさんは退屈だったんじゃないッスかー?」
「むにゃあ。そんな大それたことは言えないですけれども……もうちょっと、メイちゃまやオルガ殿のグラウンドテクニックを堪能したかったところですにゃあ」
そんな風に言ってから、ユーリはふにゃんと微笑んだ。
「でもでも、きっとそれはメイちゃまやオルガ殿がグラウンドテクニックを披露するまでもなく勝ててしまったということなのでしょう。お二人の強さが証明されたのですから、ユーリの浅ましき物寂しさなどはぐっとこらえるのです」
「うん。二人は、本当に強かったね。あたしも早く試合をしたいよ」
多賀崎選手は雄々しく笑い、灰原選手も「だよねー!」と笑った。
「マコっちゃんは先週もおやすみだったから、なおさらっしょ? で、うり坊たちは一ヶ月後にもうブラジル大会かー! いいなー、羨ましいなー!」
「それで再来週には、もう出発なわけだもんね。猪狩のコンディションも、問題ないのかい?」
「押忍。昨日までは加減しましたけど、今日から完全復帰っすよ」
今日――プレスマン道場の四名は、午後からドッグ・ジムまで出稽古におもむくのである。灰原選手はバニー喫茶の勤務、多賀崎選手は家の用事で、参加できないのだという話であった。
「でも、一週間はまるまる潰れちゃったわけだし、それ以前に先週までは二試合分の稽古が必要だったんだもんね。本当に、過酷な道を選んだもんだよ」
「あはは。でも、サキさんとの対戦は二の次にできませんでしたからね。おかげさまで、気力も満点です」
瓜子は強がりでなく、そのように答えることができた。
確かに本来であれば、ブラジル大会に集中するべきだったのだろう。しかし瓜子はそれと引き換えにしても余りあるぐらいの充足感を手中にしていたのだった。
(どんな相手だって、きっとサキさんのほうが手ごわい。あたしは絶対に勝ってみせますから……見ててくださいね、メイさん)
メイは今頃、遥かなるハンブルクで眠りに落ちている頃だろう。時差が七時間ということは、あちらは深夜の二時過ぎであるのだ。
瓜子より七時間遅れで起床するメイも、きっと瓜子に負けないぐらい充足した思いで今日という日を過ごすことになるのだろう。そんな風に考えると、瓜子はいっそう満ち足りた心地であった。




