08 憧憬の果て
「四分経過! 残り一分!」という立松の声が、どこからともなく聞こえてきた。
集中力の限界突破を迎えていた瓜子は途方もなく長い時間を過ごしていた感覚であったが、第一ラウンドはまだ一分も残されていたのだ。逆算すると、サキがインファイトを仕掛けてから瓜子が力尽きて動きを止めるまでに、二分の時間が費やされたわけであった。
(本当に、ひどい作戦を立ててくれましたね、サキさん……)
半ば朦朧となった頭で、瓜子はそのように考えた。
自分からインファイトを仕掛けて、瓜子を窮地に追い込むことで集中力の限界突破を発動させた上で、逃げに徹して自滅を待つ。おそらくそれが、サキの作戦であったのだ。
その作戦を遂行するために、サキはまず瓜子の身にダメージを与えた。瓜子が五体満足であったならば、サキのほうこそがKO負けを喫する危険があったのだ。実際、瓜子の右腕がこうまで痛んでいなければ、最後の膝蹴りでそれなり以上のダメージを与えられていたはずであった。
すべてが、サキのプラン通りであったのだ。
だから今も、プランのさなかであるのだろう。瓜子が覚束ない足取りで前進すると、サキはまたマットの上をすべるようなステップワークで逃げ始めたのだった。
瓜子は赤星弥生子との対戦で、集中力の限界突破を二回、発動させている。
だからサキは、瓜子がこれほど弱々しい姿をさらしていても、決して近づこうとしないのだ。
残り時間は一分であるのだから、瓜子もスタミナを温存して、次のラウンドに勝負をかけるべきであるのかもしれない。
しかし、瓜子の思惑は別にあり――後方からは、立松の声が聞こえてきた。
「相手もへばってるぞ! このラウンドで、決めちまえ!」
瓜子はよたよたと前進しながら、思わず笑ってしまいそうだった。
こんなとんでもない状況で、瓜子は立松と意見を同じくすることができたのだ。それは瓜子に、大きな勇気を与えてくれた。
サキのステップワークは優雅そのものであったが、そのしなやかな体躯は汗に濡れていた。
もう肩を上下させてはいないものの、胸は大きく上下している。クールなポーカーフェイスを保持しながら、サキも疲労の極みにあったのだ。
きっとこの試合に備えて、サキはインファイトの猛稽古を積んできたのだろう。
しかしサキは、生粋のアウトファイターだ。慣れないインファイトに身を置けば、普段以上にスタミナを消費するはずであった。
そして、自分で言うのもはばかられるが、相手は瓜子なのである。インファイトを得意とする瓜子を相手に、自分の間合いを保って、ついにはノーダメージで切り抜けた。その技量には感服するばかりだが、それだけのことをやり遂げるには尋常ならざる集中力を必要とするはずであった。
しかもサキは、集中力の限界突破を迎えた瓜子のもとからも、逃げてみせたのである。
そのためにこそ、瓜子の身にダメージを刻みつけていたのであろうが――それでも並の選手であれば、逃げきれなかったに違いない。その状態から脱することがかなったのは、後にも先にも赤星弥生子ただひとりであったのだ。
(だからやっぱり、サキさんは……弥生子さんに負けないぐらいの、強敵なんですよ)
そんな思いを噛みしめながら、瓜子は前進する足を止めた。
場所は、ケージの中央である。それでもサキがサイドに移動し続けているため、瓜子は正対できるように身体の向きだけを変えていった。
背後からは、「残り四十五秒!」という声が聞こえてくる。
レフェリーは、「ファイト!」と呼びかけてきた。
客席の大歓声は、会場の屋根を吹き飛ばさんばかりの勢いだ。
それらのすべてにひたってから、瓜子はマウスピースを噛みしめて――そして、サキのもとに駆けだした。
瓜子はとてつもない虚脱感を抱えているため、走る動作も覚束ない。犬飼京菜などと比べれば、実にぶざまな姿であっただろう。しかし瓜子は一秒でも早く、サキのもとに駆けつけなければならなかった。
それでもサキがサイドに回ろうとするので、瓜子は同じ勢いのまま突進する。
すると――サキの動きが、ぐんと勢いを増した。マットの上をすべるようなステップワークではなく、サキ本来の流麗かつ力強いステップワークに戻したのだ。それは左膝に負担がかかるため、サキがここぞという場面まで封印する動きであった。
(それだけ、あたしの突進を嫌がってくれたんですね)
瓜子は大いなる誇らしさを胸に、サキへと躍りかかった。
瓜子は、やけくそになったわけではない。第二ラウンドまで持ち越せばスタミナの回復を望めるが、そこで有利になるのはサキのほうではないかと判じたまでのことであった。
今のサキは、それなり以上に消耗している。しかし一分間のインターバルがあれば、それに見合った回復を見込めるだろう。いっぽう、あちこちにダメージを抱えている上に集中力の限界突破を発動させてしまった瓜子は、サキほどの回復は見込めなかった。
ならば、瓜子がもっとも優勢に立てるのは、今この瞬間である。
きっと立松もそのように考えて、発破をかけてくれたのだ。
今の瓜子は満身創痍であるため、再びインファイトの状態になれば、すぐさま二度目の限界突破を望めるかもしれない――きっと立松も、そのように考えたのだろうと思われた。
しかし相手は、サキである。右腕にダメージを負った瓜子が二度目の限界突破を発動させても、たった数十秒では逃げられてしまうかもしれない。
そのときは、次のラウンドに勝負をかけて――三度目の限界突破を目指すのだ。
瓜子にとっては、それが自分のすべてをぶつけるということであった。
咽喉や肺が、焼けるように痛い。
無理に駆けたため、左足まで痛んできた。
それらのすべてを呑みくだして、瓜子はサキに迫り寄った。
本来のステップワークでも逃げきれないと判じたサキは、ついに関節蹴りを繰り出してくる。
それを左膝で受け止めた瓜子は、オーバースイングの右フックを繰り出した。
サキはなめらかなスウェーバックで、それを回避する。
しかし、関節蹴りとスウェーバックが重なり、その場に留まっている。そんなサキのもとに、瓜子は左のボディアッパーを叩きつけた。
だらりと下げられていたサキの右腕がボディを守り、瓜子の拳はそこに衝突する。
完全にガードされてしまったが、これがこの試合における瓜子の初めてのヒットであった。瓜子は試合が始まってから四分以上も、すべての攻撃を回避されていたのだった。
(前回の試合でも、あたしは一発の攻撃しか当てられませんでしたよね)
瓜子は左拳を引きながら、右のローを繰り出した。
サキは右足を引くことで、それを回避する。そしてその場から逃げようという動きを見せたため、瓜子はすかさず右の追い突きを射出した。
その一撃一撃に、瓜子はすべての力を振り絞っている。
というよりも――もはや全力を込めない限り、まともな攻撃を振るうこともできなかったのだ。
たった三回の攻撃で、瓜子の肉体は限界を迎える。
そして、肉体の限界というものは、集中力の限界突破にも直結していた。
瓜子の視界が、再び白く染まっていく。
自分の動きもサキの動きも、のろのろと緩慢になっていき――消えたばかりのあの不可思議な感覚が、再び瓜子のもとに舞い戻ってきた。
そんな中、瓜子の繰り出した右の追い突きは、サキの顔の左側にかわされていた。
サキはそのまま、斜め後方に逃げていこうとする。
そうはさせじと、瓜子はのばした右腕をそのまま下方にのばした。
さらに左腕をのばして、サキの右膝に狙いをつける。フェイントではなく、本気の片足タックルだ。
するとすぐさま、サキの右膝が浮き上がってきた。カウンターの、膝蹴りである。
しかし、瓜子にとってはそれでかまわなかった。肝要なのは、サキの足を止めることであるのだ。ここで再び距離を取られたら、ラウンドの終了まで捕まえることはできないはずであった。
瓜子はさらに前進することで、サキの膝蹴りを胸もとで受け止める。
それでも今の瓜子には泣きたくなるぐらいの衝撃であったが、意識を飛ばされるほどではなかった。
そうしてサキの右膝に逃げられた瓜子は、サキのしなやかな胴体に狙いを切り替える。サキの両脇を差そうというアクションだ。
残り時間はもう四十秒を切っているのだろうから、ここで組みついても意味はない。ユーリやマリア選手ばりのスープレックスでも繰り出せればその限りではないが、今の瓜子にはそんな技量もスタミナも存在しなかった。
だからきっと、サキも困惑していることだろう。
その困惑が、サキの動きを鈍らせていた。
それこそが、瓜子の真の目的であった。
サキの裏をかくには、これぐらいの意表をつく必要があるのだ。
いっそこのまま瓜子に組みつかせたほうが、サキにとって危険は少ないはずであったが――サキは両手を突っ張って瓜子の前進をさえぎり、アウトサイドに逃げようとした。
今の瓜子は右足を踏み込んでいるので、アウトサイドは右側だ。
組みつきを防がれた瓜子はいくぶん低い姿勢のまま、左方向に旋回した。
シンガポールの試合では考えなしにくるくる回るなとサキに指摘された瓜子であるが、アウトサイドに逃げる相手には回転技がもっとも有効である。瓜子は右足を踏みしめて、逃げるサキへと攻撃の手を繰り出した。
瓜子の左拳に、重い衝撃が走り抜ける。
左右の違いはあったが、四年前と同じ感覚だ。瓜子があの試合で唯一サキに当てることがかなったのが、このバックハンドブローであった。
ただし今回はしっかり拳を握っているし、なおかつ拳から得られる感触に硬さが足りなかった。きっと頭を打つことはできず、腕でブロックされたのだ。
だけど、それでいい。
瓜子の真の狙いは、下方にあった。
瓜子が首をねじ曲げると、サキの凛々しい顔がちらりと見える。
やはりサキは、両手で頭部をガードしていた。瓜子がバックハンドブローを繰り出すことを予期しながら、アウトサイドへと逃げたのだ。
しかし瓜子は左腕ばかりでなく、左足も大きくのばしていた。
形としては、ローのバックキックだ。ただしバックハンドブローをガードされた時点で回転は止まり、ただ足がのばされた状態にある。
しかし、バックハンドブローを警戒していたサキは、足もとまで注意が及んでいない。
優美なるステップを踏もうとしていたであろうサキの左足が、瓜子の左足に衝突した。
サキの身体が、がくりと沈み込む。左膝に爆弾を抱えているサキは、踏ん張ることができなかったのだ。
瓜子はその足をさらに蹴りはらう格好でサキのほうに向きなおりながら、右拳を振りかぶった。
渾身の、右フックである。
このタイミングなら、確実に当たる――そのように確信した瓜子の背筋に、冷たい感覚がたちのぼった。
大きく体勢を崩しながら、サキは深く曲げた右足一本でマットを踏みしめている。
そして、蹴りはらわれた左足をマットにつくと――その左足が、信じ難い鋭さで虚空に跳ねあがった。
すべての動きがスローモーに見える世界の中で、サキの左足だけが優美に舞い上がっていく。そのふくらはぎに刻まれた燕のタトゥーが、天空を目指して飛翔した。
燕返しである。
サキは体勢を崩しており、常とは異なるモーションであったが、瓜子はそのように確信した。また、たとえ燕返しでなかったとしても、それが瓜子の頭部を狙ったハイキックであることに変わりはなかった。
瓜子は右フックを出しているさなかであるが、サキの左足はその上方を駆け抜けていく。
これはもはや、かわせない。瓜子がヘッドスリップの要領で首をねじってハイキックの威力を受け流したとしても、次なるかかと落としでとどめを刺されてしまうことだろう。
(だったら……!)
瓜子は蹴りから逃げる方向ではなく、向かい合う側に首をねじり、下顎を引き絞った。
サキの左足が、恐ろしい鋭さで瓜子の顔面に迫ってくる。瓜子はそこから目をそらさず、マウスピースを噛みしめた。
サキの左足が、真正面から瓜子の顔面に衝突する。
当たった部位は、額のど真ん中だ。それが、瓜子の選択であった。
額は頭蓋骨の中でも、ひときわ頑丈だ。
また、人間の頭部は左右からの衝撃に弱く、脳震盪を起こしやすい。
なおかつ、当たるとわかっている打撃というものは、意外に耐えられるものである。
そんな情報だけをよすがとして、瓜子はサキの左ハイを額で受け止めてみせたのだった。
(それに……サキさんの燕返しは最後のかかと落としがとどめだから、最初のハイは鋭いけど重くないんだ)
それでも瓜子の頭には、小さからぬ衝撃が駆け巡った。
もともと白濁しかけていた視界が、急速に白く染まっていく。瓜子の力も、もはや枯渇する寸前であった。
それでも瓜子は、最後まであがく。
それが、瓜子の覚悟であった。
瓜子の額に弾き返されたサキの左足は、猟銃で撃たれた燕のように力なく墜落していく。
その姿を視界の端におさめながら、瓜子は左足を踏み込んだ。
そして今度はその足を軸に、右側に旋回する。
瓜子の右腕には、もはやサキを仕留めるだけの力も残されていないのだ。
だから、遠心力を利用したバックハンドブローを撃つしかない。それが、瓜子の最後の決断であった。
瓜子はすべての力で右拳を握り込み、旋回する。
後のことは、後のことだ。この攻撃を回避されたならば、またそのときの力をすべて振り絞るだけのことであった。
その回転の途中で、瓜子の視界は真っ白に染まる。
すべての感覚が津波のような勢いで舞い戻り、大歓声が五体を包んだ。
スローモーに感じていた自分の動作も、もとの速度を取り戻す。
瓜子は何も見えない純白の世界で、右の拳をおもいきり振り抜いた。
その右拳に、硬い感触が爆発し――それと同時に、ラウンド終了のブザーが鳴り響いた。
すべての抑制を失って、瓜子はマットに倒れ込む。
痛みと疲労が、驟雨のように瓜子の五体に降り注いできた。
瓜子は真っ白の世界の中で、ただ荒い呼吸を繰り返す。
そうして、世界がじわじわと色彩を取り戻していき――フェンス際で倒れ伏しているサキの姿が見えた。
その切れ長の目は、まぶたに隠されている。
まるで午睡でも楽しんでいるかのように、その寝顔は安らかであった。
そして――その足もとに立ち尽くしていたレフェリーが、頭上で両腕を交差させた。
ラウンド終了のブザーに引き続き、試合終了のブザーが鳴らされる。
そんな中、レフェリーは瓜子のもとに歩み寄ってきた。
「……立てるかね?」
瓜子はマットにへたりこみ、両手で上体を支えている格好であった。
声は出せそうになかったので、瓜子は再びマウスピースを嚙みしめて、総身の力を振り絞った。
生まれたての子鹿のように、全身が細かく震えている。
視界が歪み、吐き気がして、全身の骨がバラバラになってしまいそうだったが――それでも瓜子は、立ち上がることができた。
レフェリーは大きくうなずいて、瓜子の右腕をつかみ取る。
そうして瓜子の右腕が高々と掲げられると、暴風雨のように歓声が荒れ狂った。
『一ラウンド、四分五十九秒! バックハンドブローにより、猪狩瓜子選手の勝利です! 王者の勝利によって、タイトルの移動はありません!』
ケージ内に、セコンド陣とリングドクターとコミッショナー氏が踊り込んできた。
立松は瓜子の身を支え、リングドクターはサキのもとに駆けつけ、コミッショナー氏は瓜子の腰にチャンピオンベルトを巻いた。
そして――リングドクターが手をかける前に、サキはのろのろと身を起こし、フェンスにもたれて座る格好を取った。
瓜子は思わず、「あ……」と声にならない声をあげてしまう。すると立松はすべてを察したように、瓜子の身をサキのもとに導いてくれた。
サキはかったるそうな面持ちで、リングドクターの問いかけに答えている。
その右のこめかみに、氷嚢が当てられていた。おそらくそこに、瓜子のバックハンドブローが命中したのだ。
立松の手をすりぬけた瓜子は、サキのもとにへたりこんだ。
サキの切れ長の目が、面倒くさそうに瓜子を見る。その顔も、クールなポーカーフェイスのままであったが――その瞳には、とてもやわらかい光がたたえられていた。
サキの薄くて形のいい唇が動いたが、大歓声のために聞き取れない。それで瓜子が両手を使ってにじり寄ると、サキの手が瓜子の首をつかんで引き寄せてきた。
「……これで、一勝一敗だからなー。でけー顔すんじゃねーぞ、ちびタコ」
瓜子は「押忍」と答えたつもりであったが、言葉にならなかった。
両方のまぶたから、大量の涙がふきこぼれていく。
そうして瓜子がサキの身を抱きすくめると、サキはとても面倒くさそうに瓜子の頭を撫でてくれたのだった。




