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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
30th Bout ~Bustling Spring~
781/955

07 策略

 客席には、凄まじいばかりの歓声がわきかえっている。

 ただそれは、悲鳴まじりであるようにも感じられた。恐れ多いことながら、この近年では瓜子のほうがサキよりも人気でまさってしまっているのである。瓜子が初回から苦境に立たされて、多くの人々が不安と焦燥をかきたてられているのだろうと思われた。


 試合時間が二分経過したところで、瓜子はレバーと右腕と左足にダメージをもらってしまった。

 レバーのダメージは甚大で、瓜子の肉体はすでに大きな虚脱感にとらわれている。これはのちのちのスタミナにも大きく関わってくるはずであった。


 それと同じぐらいダメージが深いのは、右腕だ。上腕はまだ一発の蹴りをくらったのみであるが、前腕にサイドキックと肘打ちをくらってしまった。瓜子の頑丈な骨はびくともしていないものの、拳を握るだけで前腕には熱い痛みが跳ね回った。


 それに比べれば左足はまだ軽微であったものの、それでも体重をかけると痺れるような痛みが走る。これ以上サキの鋭い蹴りをくらったならば、踏み込みに支障が出るほどのダメージを負ってしまいそうだった。


 試合開始からわずか二分でこれほどのダメージを負うというのは、いったいいつ以来であったか――赤星弥生子との一戦でも、序盤ではここまでの事態に至っていなかったはずであった。


(それでも、勝負はここからだ……サキさんは打たれ強いタイプじゃないから、一発でも当てれば流れを変えることができる)


 ただ問題は、その一発を当てるのが尋常でなく難しいということである。

 攻撃を受けずにかわすという一点において、もっとも技量が優れているのはサキと犬飼京菜が双璧をなすのではないかと思われた。


 それでも瓜子は、懸命にその道を探るしかない。

 何としてでもサキの懐にもぐりこみ、一発を当てるのだ。瓜子はまだ一発の攻撃も出していないのだから、自分の攻撃がどれだけ通用するかも確認できていなかった。


(サキさんのステップワークはすごいけど、あたしだって機動力が生命なんだ。足を潰される前に、あたしも全力でステップを踏む。それに、組み技の仕掛けも織り交ぜれば……きっとどこかで、チャンスが生まれるはずだ)


 そうして息を整えた瓜子が、全身の虚脱感をこらえながら足を踏み出そうとしたとき――サキが、ふわりと前進してきた。

 その長い前足がのばされて、瓜子の左膝を狙ってくる。関節蹴りだ。


 この技は遠い間合いを保つのにうってつけであるので、瓜子も十分に対策を磨いている。

 瓜子はステップインすることで関節蹴りをかわし、サキの懐にもぐりこもうとした。

 すると――鼻先に、火花のような痛みが弾け散った。

 サキの、フリッカージャブである。サキは右足の関節蹴りをかわされると、そのままマットを踏みしめて、フリッカージャブを放ってきたのだ。それはまるで、瓜子がこの近年で習得した追い突きを思わせる所作であった。


 思わぬ反撃をくらった瓜子は、それでもめげずに左ジャブを射出する。サキが自分からパンチの間合いに入ってくるというのはあまりに想定外であったが、これがチャンスであることに変わりはなかった。


 しかしやっぱりリーチに差があるため、サキのフリッカージャブが楽に届く間合いでも、瓜子にとってはまだ遠い。サキがわずかに上体をそらせるだけで、瓜子の左拳は空を切った。


 そして、次の瞬間――瓜子の背筋に、冷たい悪寒が走り抜けた。

 瓜子はほとんど本能で、ぐっと下顎を引き絞る。それと同時に、鋭い痛みが下顎に炸裂した。


 サキが、左アッパーを繰り出してきたのだ。

 サキは瓜子の左ジャブをかわすためにスウェーしながら、左拳を突き上げてきたのだった。


 瓜子はさらなる混乱に見舞われながら、右フックを射出する。

 しかしまだ間合いが遠いため、やっぱりスウェーバックでかわされてしまう。

 そして瓜子は、とっさに左腕で腹を守った。

 その前腕に、重い衝撃が走り抜ける。今度は、右膝が突き上げられてきたのだ。


 もともとレバーにダメージをもらっていた瓜子は、ガードごしでも小さからぬダメージを負ってしまう。

 そしてさらに、右頬を叩かれた。サキが、左フックを繰り出してきたのだ。


 狙いすました、一撃必殺のカウンターではない。瓜子の動きに合わせて咄嗟に繰り出された、乱打戦の一発だ。よって瓜子も、致命的なダメージではなかったが――しかしその分、心をかき乱されてしまっていた。


(どうしてサキさんが、パンチの間合いから逃げないんだ? まさか、もうあたしの動きが鈍ってるって判断したのか?)


 確かに瓜子はレバーブローの影響で大きな虚脱感を抱えていたし、さきほどの右フックも鋭さを失っていた。右腕のダメージは、それだけ深かったのだ。

 しかしそれでも、試合はまだ序盤である。あの冷静で慎重なサキがこんなに早い時間からインファイトを仕掛けるなどとは、まったく道理にそぐわなかった。


(やっぱりどこかに不調を抱えてて、短期決着を狙ってるとか……? いや、そんな憶測はどうでもいい! これは、チャンスなんだ!)


 たとえサキが不調を抱えていたとしても、瓜子は全力を尽くすのだ。その一点に、迷いはなかった。


 瓜子は右足を踏み込むことでスイッチをして、右の追い突きを繰り出す。

 しかしサキはアウトサイドに踏み込むことでその攻撃を開始して、再び左フックを繰り出してきた。


 こめかみを撃ち抜かれた瓜子は目の奥に火花が散るのを感じながら、腰をねじり、左ストレートを射出する。

 しかしやっぱり間合いが遠いため、簡単にかわされてしまう。そうして右フックで反撃されたため、瓜子は左腕で頭部をガードした。


 サキが左右のフックを振るうなど、いったいいつ以来のことだろう。

 アウトファイターであるサキは、遠い位置から真っ直ぐの拳を振るうのが常であったのだ。


 胸中の疑念をねじ伏せながら、瓜子は奥足となった左のローを繰り出した。

 サキは鋭いバックステップで瓜子の蹴り足をすかし、そして――再び踏み込みながら、フリッカージャブを繰り出してきた。


 瓜子もしっかりガードを固めていたため、それは腕でブロックする。

 すると、視界の下方にぞっとするものが見えた。サキは返す刀で、レバーブローを繰り出してきたのだ。


 ここで再びレバーブローをくらったら、致命傷になりかねない。

 瓜子は腰を屈めながら右腕をおろすことで、なんとかブロックすることができた。

 しかし、もともと痛んでいた右腕にさらなる痛みが走り抜け、ガードごしにもレバーのダメージが深まる。


 瓜子は嘔吐感を覚えながら、左足を踏み込んだ。サウスポーの姿勢でレバーを前面に置くことを危険と判じたのだ。

 そしてその動きに、今度は左の追い突きを連動させる。


 それをウィービングでかわしたサキは、右のショートアッパーを繰り出してきた。

 左拳はまだ戻しているさなかであるし、右腕はレバーを守っていたため、間に合わない。瓜子はまた下顎を引くことでその攻撃に耐えるしかなかった。


 二度目のアッパーをくらってしまい、視界がぼやける。

 間にはさんだ左フックも、小さからぬダメージであったのだ。思いも寄らないサキとのインファイトで、瓜子ばかりがダメージを負ってしまっていた。


 頭部のダメージに、レバーのダメージ、そして右腕もずきずきと熱を帯びている。

 瓜子の呼吸はどんどん浅くなっていき、それにつれて心臓が早鐘のように胸郭を打ち始めた。


 そこにまた、サキの拳が飛ばされてくる。

 今度は、左のストレートだ。


 カウンターで右ストレートを出そうとした瓜子は、すんでのところで思い留まる。

 この間合いでは、当たらない。サキは瓜子よりも十センチ長身で、リーチ差はそれ以上であるのだ。サキは自分の拳が当たるぎりぎりの間合いをキープしているがために、瓜子の攻撃を難なく回避しているのだった。


(攻撃を出すより前に、もっと間合いを詰めるんだ)


 サキの鋭い左ストレートを横合いにかわしながら、瓜子は左足を踏み込もうとした。

 そこに下方から、危険の気配がたちのぼってくる。サキは左腕を引きながら、すでに左の膝蹴りを繰り出す体重移動を開始していたのだ。


 それが瓜子には、手に取るように知覚できる。

 たび重なるダメージが、早くも瓜子を集中力の限界突破とも言うべき領域にいざなったのだった。


(この膝蹴りは、かわせない。ダメージを最小限に抑えて、反撃するんだ)


 瓜子は左の踏み込みを決行しながら、左腕でボディを守った。

 そして、右ストレートを射出する。サキも膝蹴りのモーションに入っているのだから、バックステップではなく上体の何らかの動きでかわすしかなかった。


 サキは――首を右側に倒すことを選んだ。

 膝蹴りを出しているのだからスウェーバックのほうが容易であるように思えたが、きっと瓜子の組みつきを警戒したのだろう。実際、瓜子は次なるアクションに組みつきを選ぶべきかと思案していた。


 こんな風に思案できるのも、この領域にあるためである。

 相手の動きも自分の動きも、スローモーションのように感じられる。ただ瓜子だけが、その不可思議な時間の流れの中で思考を巡らせることがかなうのだ。それがこの得体の知れない感覚の恩恵であった。


 そこで瓜子は、最善と思える手を打った。

 これからかわされる右ストレートで、そのままサキの首裏をつかむのだ。

 そして自分も、膝蹴りを叩き込む。これが現状で瓜子の思いつく、最善の一手だった。


 そしてその前に、まずはサキの膝蹴りが瓜子のもとに到達する。

 腹を守った瓜子の左腕に、重い衝撃が走り抜けた。


 左腕を通過した衝撃が、またじわじわと瓜子の体内を揺さぶってくる。

 ただでさえ回復に時間のかかるレバーのダメージが、加算されるいっぽうだ。瓜子は全身を駆け巡る虚脱感をものろのろと知覚しながら、回避された右拳の指を開き、サキの首裏をつかんだ。


 フックから組み技に移行するのはMMAの常套手段であるが、ストレートからの移行はあまり普通でないだろう。その意外性で、サキの裏をかくことができた。

 サキのしなやかな首裏をしっかりと抑えつけ、瓜子は右膝を振り上げる。


 サキの左膝が下がっていき、それで空いた空間を瓜子の右膝がせりあがっていく。

 その膝蹴りをより深くヒットさせるために、瓜子はサキの身を引き寄せようとした。


 そこに、思わぬ抵抗の力が加えられてくる。

 サキが右足一本で、後方に跳びすさろうとしているのだ。


 そうはさせじと、瓜子は右腕に力を込める。

 その瞬間――鈍さと鋭さの混在した痛みが、瓜子の右の前腕と上腕に弾け散った。これまでの時間でサキに与えられた痛みである。


 痛みだけなら、耐えることもできただろう。

 しかし、それらのダメージは、瓜子の握力を低下させていた。それで瓜子の指先は、サキの首裏からもぎ離されてしまい――瓜子の膝蹴りは、空を切ることになった。


(くそっ! それじゃあ、次のアクションだ!)


 瓜子は空振りした右足がマットに戻るのを待って、大きく踏み込んだ。

 だが――サキとの距離は、縮まらない。右足一本で跳躍したサキは、そのままゆるゆると後ずさっていった。


 きわめて緩慢な動きに見えるが、それは瓜子の感覚がおかしくなっているためだ。サキはマットの上をすべるようなステップワークで、瓜子から遠ざかっていったのだった。


(ここで逃げられたら、まずい! なんとしてでも、追いつくんだ!)


 瓜子はがむしゃらに、サキを追いかけた。

 だが、そんな動きもスローモーションのように感じられる。瓜子は、ねっとりとした泥沼をかきわけているような心地であった。


 いっぽうサキは、緩慢ながらもなめらかな動きで遠ざかっていく。その上半身はいっさい軸がぶれておらず、足の動きなどは舞でも踊っているように優雅そのものであった。


 サキはこんなにも優美な所作で、ステップを踏んでいたのだ。

 それを初めてこの感覚の中で目にした瓜子は、その優美さに見とれてしまいそうだった。


 しかし今は、試合のさなかである。瓜子はこの領域の中にある間に、なんとか決着をつけなくてはならなかった。

 しかし、サキとの距離は縮まらない。これまでは自分からインファイトを仕掛けていたサキが、何の迷いもなく逃げに徹していた。


 瓜子の視界は、どんどん白く染まっていく。

 この時間、瓜子は呼吸ができていないのだ。さらに、この状態に陥る前から、瓜子は深いダメージと疲労で呼吸が浅くなっていた。そこから生じる酸素欠乏というのも、おそらく集中力の限界突破を迎えるための前提条件であるのだ。


(まさか……!)と、瓜子がひとつの理解に至ったとき、ついに視界が白い光に閉ざされた。


 それと同時に、右膝に重い衝撃が走り抜ける。

 瓜子はそれ以外の感覚を認識できないまま、ただ奥歯を噛みしめた。


 じわじわと、五体の感覚が蘇っていく。

 まずは、耳を聾する大歓声だ。

 その大歓声が、耳ばかりでなく全身の皮膚を振動させる。その感覚が、瓜子に覚醒をうながした。


「……ギブアップかね?」


 次には、そんな言葉が届けられてくる。

 瓜子は何度も目をしばたかせてから、頭をもたげた。


 高い位置に、レフェリーの厳しい顔が浮かんでいる。

 瓜子はマットの真ん中で、膝立ちの姿勢になっていた。さっきの衝撃は、右膝がマットに衝突した感覚であったのだ。


 おそらく瓜子は瞬間的に意識を失い、マットに片膝をついたのだろう。

 レフェリーの向こう側では、サキが大きく肩を上下させている。サキもまた、さきほどのインファイトで相応の力を振り絞っていたのだ。


(それが……サキさんの作戦だったんですね)


 サキはおそらく、瓜子の集中力の限界突破を発動させるために、インファイトを仕掛けてきたのだ。

 そして瓜子がその領域に没入したならば、ひたすら逃げて時間を稼ぐ。そうして、瓜子の力が尽きるのを待ったのだった。


(本当に……なんてことをしてくれるんですか、サキさんは)


 瓜子は絶大なる虚脱感の片隅で、またとない喜びを噛みしめることになった。

 そうしてマットに右の拳をつき、嘔吐感をこらえながら身を起こして――レフェリーに向かって、「やれます」と答えてみせた。


 レフェリーは厳粛なる面持ちで、「構えて」と告げてくる。

 瓜子が鉛のように重い両手の拳を上げると、レフェリーも両手でグローブをつかんできた。瓜子の余力を確認するのだ。瓜子は総身の力を振り絞って、レフェリーが与えてくる圧力に耐えてみせた。


 レフェリーはしばし迷うような表情を見せてから、後退し――

 そして、「ファイト!」と告げてきた。


 瓜子は、まだサキと試合を続けることを許されたのだ。

 瓜子は果てしない虚脱感とそれを上回る喜びにひたりながら、サキのもとに足を踏み出した。

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