06 ガトリング・ラッシュとサムライ・キック
試合開始のブザーの後、レフェリーが「ファイト!」と右腕を振り下ろす。
四方から押し寄せる歓声と熱気をかきわけるようにして、瓜子はケージの中央に進み出た。
さまざまな感情にとらわれていた瓜子の心が、ぐんぐん研ぎ澄まされていく。
サキの放つ静謐なる気迫が、瓜子の心をすみやかに引き締めてくれた。もはや如何なる追憶も、瓜子の熱情をさまたげはしなかった。
(自分のすべてをぶつけて、サキさんに勝つ。それだけだ)
瓜子は最初からギアを上げて、前後と左右にステップを踏んだ。
サキは半身の体勢で、前側の腕をだらりと垂らして、奥側の腕を胸の高さで構えている。数年前から瓜子の脳裏に刻みつけられている、カンフーのようなフリッカースタイルだ。
だが――その姿が、瓜子の記憶と反転していた。
サキが前に出しているのは、左半身であったのだ。サウスポーであるサキが、オーソドックスの構えになっていたのだった。
(そんな奇策で、あたしを惑わそうっていうんですか?)
瓜子はそのように考えたが、負の感情にとらわれることはなかった。四年前のサキは瓜子の存在を拒絶していたが、今日のサキは全力で瓜子を叩きのめそうとしているのだ。そのように信じることができる限り、瓜子の熱情は揺るがなかった。
(サキさんが策士だってことは、周知の事実ですからね。コーチ陣にも鞠山選手にも雅さんにも、どんな手を使われても動揺するなって教え込まれてますよ)
よって瓜子は臆することなく、ステップを踏み続けた。
負傷欠場から復帰して以降、サキはますます武芸の達人めいた技の鋭さを体得したのだ。何にせよ、サキの間合いに入るには細心の注意が必要であった。
(きっとサキさんは、機動力と攻撃力を奪うために、あたしの手足を狙ってくる。でも、隙があったら頭やボディだって狙ってくるだろう。とにかくこっちは、すべての攻撃を無効化するつもりで動くんだ)
そのように思案する瓜子の正面に、サキのフリッカージャブが飛ばされてくる。
まだサキの長い足でも届かないぐらいの距離であるので、何も恐れることはない。牽制ですらなく、リズムをつかむためのアクションだろう。それでも瓜子は油断することなく、距離を測ったが――かすかな違和感が、脳裏をよぎった。
(フリッカージャブが、ぬるい。これだったら、間合いに入ってても簡単にかわせるよ)
たとえ当てるつもりのない攻撃でも、サキがこのように気の抜けた動きを見せるのは常にないことであった。
しかしまさか、今日のサキが試合で手を抜くことなどありえない。それだけは、瓜子も決して疑いはしなかった。
(それじゃあ、あたしを油断させようとしてるとか? それならまあ、ありえない話じゃないけど……あたしって、こんなていどで油断すると思われてるの?)
それも、しっくりこない考えであった。瓜子がこの試合にどれだけの思いを懸けているのか、サキは過不足なく理解しているはずであるのだ。そして瓜子の気性や実力なども、サキは隅々までわきまえているはずであった。
(それじゃあ、裏の裏をかいてるとか……? いやいや、それでも油断しない限り、こんな攻撃は当たりっこないし……こんな風に考え込んでるだけで、サキさんの術中なのかな)
そのとき、不吉な予感が瓜子の心にたちのぼった。
まさか、左膝の調子が悪いのでは――という考えがわきたったのだ。
(いや、左膝の調子が悪いからって、サウスポーをやめる理由にはならないけど……それじゃあ逆に、左膝をかばって右足を痛めたとか? それでしかたなく右足を引っ込めて、慣れないオーソドックスの構えを取ってるから……こんなぎこちない動きになってるの?)
サキが試合で手を抜くことは考えられないが、思わぬ不調を抱え込むことならばありえる。そんな思いが瓜子の心を重くした。
しかし今は、試合のさなかである。瓜子は決して、そんな思いで集中を乱したりはしなかった。
だが――次の瞬間、思わぬ事態が勃発した。
いきなり大きく右足を踏み込んだサキが、左足を振り上げたのだ。
瞬間的に、瓜子は理解した。
これは、燕返しにつなげるためのハイキックである。瓜子の脳裏に刻みつけられている燕返しのフォームと、その姿はぴったり一致していた。
瓜子はほとんど無意識に、スウェーバックで上半身をのけぞらせる。
サキの燕返しを回避するには、こうしてスウェーバックで初撃をやりすごして次のかかと落としに備えるか、あるいは初撃を腕でブロックしてかかと落としの発動を阻止するしかないのだ。反射的に頭を沈めてかわしたくなる軌道であるが、そうしたらもうかかと落としをくらうことが確定してしまうのだった。
何よりこの燕返しを警戒していた瓜子は、本能でスウェーバックすることができた。
そうして視界を広げながら、サキの左足の軌道を追う。返す刀でかかと落としに移行しならば、それをブロックして、組み技に持ち込むのだ。
(まさか、いきなり燕返しを出してくるなんて――)
そんな驚きを頭の片隅で噛みしめながら、瓜子がサキの左足の軌道を追っていると――燕のタトゥーが刻みつけられたサキのしなやかな左足は、そのまま楕円の軌跡を描いてマットに舞い降りていった。
(……燕返しじゃない!)
瓜子がそのように判ずると同時に、右脇腹に痛撃が爆発した。
レバーに思わぬ衝撃が走り、瓜子の意識を明滅させる。
そしてさらに次の瞬間には、左足のふくらはぎの真ん中に痛撃が爆発した。
瓜子はわけもわからぬまま、痛んだ足で後ずさる。
その鼻先に、何かが通り過ぎていく。それはサキの、右手によるショートフックであった。
瓜子はさらに距離を取り、レバーのダメージと左足の痛みをこらえながら、サキと相対する。
サキは何事もなかったかのように、その場に立っていた。
右半身を前に出した、サウスポーのスタイルである。左ハイを放った時点で、サキのスイッチは完了していた。
いつも通りの、サキの優美な立ち姿だ。
そしてサキはその姿のまま、ふわりと前進してきた。
サキの左足が、再び振り上げられる。
今度はハイではなく、ミドルハイの軌道である。瓜子がガードを固めると、上腕の真ん中に痛撃が走り抜けた。
これは、足の甲ではなく中足による蹴りだ。サキの中足と自身の骨にプレスされて、上腕の筋肉が押し潰されたような心地であった。
この痛みを、瓜子は知っている。これは一昨年の大晦日、赤星弥生子からくらった痛みに他ならなかった。左足のふくらはぎに走る痛みも、それは同様であった。
やはりサキは、まず瓜子の手足を潰そうとしているのだ。
しかしその前に、サキはさまざまな罠を張り巡らせた。まずはオーソドックスの構えでぎこちない動きを見せて、そこからいきなり燕返しを想起させる左ハイを放ち、けっきょく燕返しは発動させないまま――おそらくは、レバーブローと右ローに繋げた。そうして瓜子に体勢を整える間を与えず、万全の態勢で左ミドルハイを繰り出してきたのだ。
どのアクションがどういった効果を狙っていたのかも、瓜子には判然としない。
ただ瓜子は、すでに三発もの攻撃をくらっていた。すべての攻撃を回避しようという気概であったのに、レバーと左足と右腕に痛撃をもらってしまったのだ。人体の急所たるレバーに、赤星弥生子も狙ってきたふくらはぎと上腕――それらはすべて、瓜子が死守しようと考えていた部位であった。
(やっぱり……やっぱりサキさんは、こんなに凄いんだ)
瓜子はフェンスに押し込まれないように、サキのアウトサイドに逃げようとした。
上腕とふくらはぎはじんじんと疼いているし、レバーのダメージも甚大である。瓜子はこんな序盤から、気の遠くなるような虚脱感を与えられてしまった。
そして、アウトサイドに逃げようとする瓜子の鼻先に、右のフリッカージャブが飛ばされてくる。
瓜子が知る通りの、鋭い攻撃だ。やはりサキは、どこにも不調など抱えていなかった。オーソドックスに構えていたのも、何らかの作戦であったのだ。
瓜子がフリッカージャブを防御しながら何とか遠ざかろうとすると、ぞっとするような鋭さでサイドキックが飛ばされてくる。
瓜子は咄嗟にボディを守ったが、今度は右の前腕に鋭い蹴りをもらってしまった。
頭やボディを守るならば、その腕を叩き潰す。サキのサイドキックには、そんな執念が込められているように思えてならなかった。
そしてさらに、サキはマットの上をすべるようなステップワークで追いかけてきて、右のローを放ってきた。
バックステップを踏むいとまはなかったため、瓜子は左足を高く掲げてカットする。これ以上、足にダメージをもらうことはできなかった。
すると――右ローを軽くヒットさせたのちに素早く足を下ろしたサキが、瓜子の左膝に手をのばし、逆の手で右肩を押してきた。
テイクダウンを取るための、ニータップである。
おそらくサキが試合中にこんな動きを見せるのは、初めてのことであった。
完全に虚を突かれた瓜子は、背中からマットに倒れ込んでしまう。
そして、サキの足をとらえようという両足も乗り越えられて、マウントポジションを取られてしまった。
すべてが、流れるような動きである。
あらゆる場面において、サキは瓜子の一歩先を行っている。瓜子の考えなど、サキにはすべて見透かされているかのようだった。
瓜子は頭部をガードしつつ、サキの重心を崩すべく腰をバウンドさせる。
サキのグラウンドテクニックは、下手をしたら瓜子を下回るぐらいであるのだ。この二ヶ月間、赤星道場やドッグ・ジムでどれだけの猛稽古を積んでいようとも、そこまで飛躍的に実力が上がる道理はなかった。
案の定、瓜子が腰をバウンドさせるだけで、サキは頼りなげに重心を崩す。
ユーリを筆頭とするさまざまな相手に鍛えられた瓜子には、脅威たりえないグラウンドテクニックであった。
(これなら、逃げられる!)
次のアクションでさらに重心を崩して、強引に立ち上がる――瓜子がそのように考えたとき、サキが左肘を振りかぶった。
その流麗なる動きにぞっとした瓜子は、頭部のガードをぎゅっと固める。
サキの左肘が、瓜子の右前腕に叩きつけられた。
さきほど、サイドキックで蹴り抜かれた部位である。
瓜子の骨は頑丈であったが、またその骨とサキの左肘で筋肉を押し潰された感覚であった。
そして――その肘打ちをヒットさせるなり、サキは何の未練もなく身を起こして、瓜子のもとから遠ざかっていった。
重心を崩されかけていたものの、マウントポジションという有利なポジションをあっさり捨ててしまったのだ。
もしかしたら、サキは――瓜子の右腕にダメージを与えるためだけに、テイクダウンを仕掛けたのかもしれなかった。
そしてサキは、横たわっている瓜子の左足を蹴りつけてきた。
今度は、右ローをくらったふくらはぎのど真ん中である。そこは肉が張っている反面、蹴る側も瓜子の骨密度で自爆をする危険のない部位であった。
瓜子は寝転がったまま、サキの右膝を狙って足裏の蹴りを飛ばす。
それを回避したサキは、冷徹に同じ箇所を蹴りつけてきた。
それほどダメージが溜まりやすい部位ではないものの、これだけ的確に攻撃をくらうのは危険である。瓜子は上半身を起こして座った体勢になり、その状態で後ずさろうとした。
するとサキはサイドに回り込みながら、執拗に左足を蹴りつけてくる。
瓜子は何とか正対しつつ、左の手足を前側にかざし、柔術立ちの技術で身を起こした。
とたんに、サキは遠ざかっていく。
そしてどこからか、「二分経過です!」の声が聞こえてきた。これはおそらく、サキのセコンドを務めている榊山蔵人の声である。
(……まだ二分しか経ってないのか)
その二分で、瓜子はレバーと手足にダメージをもらってしまった。
これが、サキの強さであるのだ。
レバーのダメージから生じた虚脱感で、瓜子は立っているのもしんどい状態であったが――それでも胸の奥底には、得も言われぬ昂揚と喜びがあふれかえっていたのだった。




