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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
30th Bout ~Bustling Spring~
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05 追憶

 瓜子が入場口の扉の前で待機していると、やがて客席から猛烈なる歓声が届けられてきた。

 青コーナー陣営のサキが、入場を開始したのだ。仏頂面をしたサキがかったるそうに花道を闊歩している姿を想像すると、瓜子は思わず胸が詰まってしまった。


 そしてその後には、瓜子の名を呼ぶアナウンスが告げられてくる。

 たちまち倍増した大歓声の向こう側に『Rush』のイントロの音色を聞き取り、山寺博人のしゃがれた歌声が響くのと同時に、瓜子は花道に足を踏み出した。


 熱気と歓声が、四方八方から押し寄せてくる。

 瓜子はすでにアリーナ会場での試合を何度も体験した身であったが――もっとも熱狂を感じたのは、今日この日であった。


 千六百名ていどの人々が、咽喉もかれよとばかりに歓声をあげてくれている。

 これほどにたくさんの人々が、瓜子とサキの対戦に熱狂してくれているのだ。その事実が、瓜子に深い感動を与えてくれた。


 それらの人々がどんな思いで熱狂しているのは、わからない。瓜子のサキに対する思いなどというものはごく個人的な感情であるのだから、それに共感できる人間などはまず存在しないはずだ。


 これが瓜子の卒業試合ということで、熱狂しているのだろうか。

 瓜子とサキのどちらが強いのか、そんな思いで熱狂しているのだろうか。

 あるいはただ単純に、試合の内容に期待をかけて熱狂しているのだろうか。


 理由は、何でもかまわない。瓜子がすべての思いをぶつけようというこの姿を、これだけたくさんの人々が見守ってくれているというだけで、瓜子には十分だった。


 そんな思いを胸に花道を踏み越えた瓜子は、ウェアとシューズを脱いでサイトーに受け渡す。

 サイトーは相変わらずの、不敵な笑顔だ。

 柳原は気合のあまりに、表情が強張っている。

 立松は力強く笑いながら、瓜子にマウスピースをくわえさせてくれた。


 それらの面々と拳をタッチさせてから、瓜子はボディチェック係の男性と向かい合う。

 顔に薄くワセリンを塗られて、グローブや手足の状態を確認され、マウスピースの有無を確認され――すべてが滞りなく終了したならば、瓜子はステップを一段ずつゆっくりと踏みしめて、八角形の舞台に上がった。


 対角線上の位置では、サキがかったるそうに突っ立っている。

 その姿を目にした瞬間、瓜子は思わず笑いそうになってしまった。


 心臓は、ほどよいリズムで胸郭を打っている。

 瓜子はこれほど昂揚しているのに、心拍数は一定だ。これならば、ベストの状態でサキと拳を交わせるはずであった。


 しかしその前に、まずはタイトルマッチのセレモニーである。

 瓜子は一刻も早く試合を始めたかったが、コミッショナーの宣言ののちに国歌が流されると、また胸が詰まってしまった。


 瓜子はこれから、サキとタイトルマッチを行うのである。

 中学生の頃から心を奪われて、瓜子を格闘技の世界に引きずり込んだサキと、チャンピオンベルトを懸けて戦うのだ。これが本当に現実の出来事であるのかと、瓜子は我を失ってしまいそうだった。


 瓜子が初めてその試合を目にしたとき、サキはまだプレマッチに出場するアマチュア選手だった。ヘッドガードとニーパットとレガースパットを装着したサキが、アマチュア選手とは思えぬ流麗さで次々とKOの山を築いていったのだ。


 当然のこと、サキは十八歳になるのと同時にプロに昇格した。

 その後も、KOに次ぐKOである。左足のタトゥーを開陳したサキは、その鋭い蹴りでもって並み居る選手を次々とKOに下していった。瓜子がタトゥーの文化に抵抗を持っていないのは、最初からサキに憧れていたためなのかもしれなかった。


 そんなサキでも、時には負けることがあった。

 強引な組み技でグラウンドに引きずり込まれて、それを跳ね返すことができずに時間切れとなって、判定負けを喫することがあったのだ。それを格闘技チャンネルの放映で目にした瓜子は、涙がにじむぐらい悔しがっていたものであった。


 さらに印象的であったのは、『マッド・ピエロ』たるイリア選手との対戦だ。

 サキの少し後にプロデビューしたイリア選手もまた、奇怪なカポエイラの技でKO勝利を積み上げていった。そして最初の戦いでは、サキが敗北してしまったのだ。サキはイリア選手の織り成すトリッキーな攻撃をかいくぐることができず、ずっと後手に回されて、けっきょく判定負けとなってしまったのだった。


 そのときも、瓜子は悔し涙をにじませることになった。

 しかもそれは王座挑戦を懸けた一戦であったため、サキに勝利したイリア選手が当時の王者に挑戦して、チャンピオンベルトを巻くことになったのである。真の王者に相応しいのはサキであるはずだと、すでに品川MAに入門していた瓜子は無念の思いをサンドバッグに叩きつけることになった。


 しかしそれから一年ほどで、サキは瓜子の無念を晴らしてくれた。

 黄金世代のトップファイターを次々と薙ぎ倒したサキは王座挑戦の権利を勝ち取り、イリア選手からチャンピオンベルトを奪ってみせたのである。それで瓜子はテレビの前で、ひとり滂沱たる涙を流すことになったのだった。


 そんなサキを追いかけるべく、瓜子も稽古に邁進した。

 その結果、《G・フォース》でランキング一位という立場を獲得することになった。


 そして、事業に失敗した両親が北海道に転居することになり――ひとり東京に居残ることを決意した瓜子は、サキとユーリに出会うことになったのだった。


(あれからもう、四年以上も経ってるんだ)


 おごそかなる国歌の旋律にひたりながら、瓜子はそんな思いを巡らせた。

 今日は五月の第三日曜日であり、瓜子がサキたちと出会ったのは四年前の一月だ。

 そして、瓜子がサキと対戦したのは、同年の九月となる。

 あと四ヶ月ほどで、サキとの初対戦からも丸四年となってしまうのだった。


 その四年間で、瓜子たちはさまざまな変転を遂げてきた。

 サキは妹分たる理央を見舞った不幸からも立ち直り、また良き先輩となってくれたが、ベリーニャ選手との一戦で左膝を痛めて、一年以上も休業することになった。その期間に、瓜子はメイと連戦し、《カノン A.G》にまつわる騒乱を乗り越えて、現在の王座を獲得するに至ったのである。


 瓜子が最初に獲得したのは暫定王座であり、いずれはサキと統一戦を行う予定になっていた。しかし、《カノン A.G》にまつわる騒乱が勃発したために瓜子のベルトも奪われてしまい――なおかつ、その騒ぎがなかったとしても、サキの復帰は間に合わなかった。サキは六丸の世話になって、なんとか引退せずに済んだという状況にあったのだ。


 そうして瓜子はサキのいない舞台で、ストロー級の王者となった。

 階級の名称は変更されたものの、これはかつてサキが保持していた王座となる。サキは第四代王者で、瓜子は第五代王者だ。瓜子としては、負傷欠場しているサキに代わって、このチャンピオンベルトを預かっているつもりであった。


 だが――規則正しい生活に身を置くことで自然に体重が落ちたサキは、アトム級に階級を落とすことになってしまった。

 いずれはサキがアトム級の王者になるので、そうしたら王者対決でもすればいいと、当時のサキは軽口を叩いていた。きっとそんな未来はやってこないのだろうと薄々思いながら、瓜子はサキの気づかいを嬉しく思っていた。


 しかし、そんなサキの軽口が、実現することになったのだ。

 すべては、サキの取り計らいである。いよいよ瓜子の《アトミック・ガールズ》卒業が現実味を帯びてきたところで、サキが挑戦者に名乗りをあげたのだった。


『ありがとうございました。それでは、ご着席ください』


 いつしか国歌の演奏は終了し、リングアナウンサーの声が響いた。

 我に返った瓜子は、熱気と歓声を知覚する。客席には、揺り戻しのように熱狂の渦が巻き起こっていた。


『メインイベント、第十試合、ストロー級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします!』


 レトロなマジシャンのような風体をしたリングアナウンサーが、元気いっぱいに声を張り上げる。

 瓜子は慌てて我が身を顧みたが、体内には熱が満ちており、心拍数も平常のままだった。軽く拳を振ってみると、たちまち寝ぼけていた肉体に活力がみなぎったので、瓜子はこっそり安堵の息をつくことになった。


(立ったまま夢でも見てたような気分だな。まあ、今日ばかりはしかたないか)


 瓜子はグローブに包まれた手の平で自分の顔をぴしゃぴしゃと叩き、対角線上のサキへと視線を飛ばす。

 フェンス際に立ったまま、サキは傲然と腕を組みつつリングアナウンサーの声を聞いていた。


『青コーナー、挑戦者。百六十二センチ。五十・五キログラム。新宿プレスマン道場所属……《アトミック・ガールズ》アトム級第七代王者……サキ!』


 凄まじいばかりの声援が吹き荒れたが、サキは微動だにしない。

 それもまた、瓜子が何年も見続けてきたサキの姿であった。


『赤コーナー、王者。百五十二センチ。五十一・九キログラム。新宿プレスマン道場所属……《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、《フィスト》ストロー級第四代王者……猪狩、瓜子!』


 瓜子は軽く右腕を上げたのち、サキとすべての人々のために一礼した。

 客席には、いっそうの歓声が吹き荒れている。しかし瓜子も、心を乱すことはなかった。


 瓜子は胸を弾ませながら、レフェリーのもとでサキと向かい合う。

 サキは、相変わらずの姿だ。昨日の調印式や今日の試合前にもサキの元気な姿は見届けていたが、試合衣装の姿になってもその印象は変わらなかった。


 サキは青と白というカラーリングで、ハーフトップとファイトショーツという試合衣装である。

 顔も手足も胴体も、すべてがすらりと引き締まっている。本日はかろうじて五十キロ以上の数値であったが、無駄肉が一片も存在しないことに変わりはなく、全身が革鞭でできているかのようなしなやかさだ。そのしなやかな体躯がどれだけ鋭い攻撃を生み出すかは、瓜子の骨身に刻みつけられていた。


 そしてサキは、血のように真っ赤なショートヘアーだ。

 以前よりもいっそう大胆に短い髪であったが、最近のロングヘアーに見慣れていた瓜子としては、やっぱりかつての姿を想起させられてしまう。そしてそれが、瓜子の心をいっそう奮い立たせてくれた。


 長い前髪を失ったサキは、剥き出しの顔で切れ長の目を光らせながら、瓜子の姿をじっと見返している。

 白刃のごとき鋭い眼光であるが、負の感情はいっさい感じられない。ただ目前の試合に集中しているのだ。その対象が瓜子自身なのだと考えると、また胸が高鳴ってやまなかった。


 四年前の初対戦では、この時間でもサキは瓜子を見ようとしなかったのだ。

 あの頃のサキは理央を見舞った不幸を受け止めきれず、荒んだ生活に身を置いていた。ユーリが挑発するまでは、そのまま格闘技をやめてしまおうという考えであったのだ。そうしてユーリに挑発されたのちには、格闘技など無意味であると証明すると言いたてて無差別級王座決定トーナメントにエントリーしたのだった。


 瓜子がサキと対戦したのは、そのトーナメントの予選大会となる。

 サキと言葉を交わすこともできなくなってしまった瓜子は、自分の思いを届けるために、せめて拳を交わそうという悲壮な決意を固めるに至ったのである。


 しかしサキはそんな瓜子の思いをはぐらかすように、常とは異なる試合運びを見せた。試合が始まると同時に片足タックルを仕掛けて、パウンドの嵐を降らせたのだ。

 瓜子は力ずくでその窮地から脱したが、その後もサキの強さに圧倒されるばかりであった。

 そして一発のバックハンドブローを当てただけで、必殺の燕返しをくらってしまい、一ラウンドで試合は終わってしまったのだった。


 瓜子は自分のすべてを否定されたような心地で、打ち沈むことになった。

 しかしもちろんその日に負った痛みや無念は、この四年間で完全に払拭されている。元気に振る舞うサキの姿が、瓜子の心を完全に癒やしてくれたのだ。


(それに……あたしがユーリさんと決裂しそうになったとき、尻を叩いてくれたのもサキさんだしな)


 もはや瓜子は、何の無念も抱えていない。

 この胸の内に渦巻くのは、かつての思い――憧れの存在であるサキに自分のすべてをぶつけたいという熱情のみであった。


「では、クリーンなファイトを心がけて!」


 周囲の歓声に負けないように声を張り上げつつ、レフェリーがグローブタッチをうながした。

 瓜子は、両方の拳をサキに差し出す。

 するとサキはそれを黙殺して瓜子の頭を抱え込み、耳もとに口を寄せてきた。


「待たせたな」


 いつも通りのぶっきらぼうな声で、サキはそう言った。

 瓜子はどうしようもなく胸の内側をかき回されながら、「押忍」と答えてみせる。

 サキは瓜子の拳ではなく肩を小突いてから、しなやかな足取りでフェンス際に退いていった。

 瓜子は目に浮かんだものをぬぐってから、自らもフェンス際に引き下がる。


 そして――試合開始のブザーが鳴らされたのだった。

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