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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
30th Bout ~Bustling Spring~
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03 白き怪物の記憶

 大歓声のあふれかえった花道を、ユーリが笑顔で闊歩していた。

 いつも通りの軽やかな足取りで、時おりくるりとターンを切りながら、客席に向かってひらひらと手を振る。これが《アトミック・ガールズ》の卒業試合になるかもしれないなどという気負いは、どこにも感じられなかった。


 いっぽうユーリを迎える歓声のほうには、そういった思いも存分ににじんでいるように感じられる。昨年の九月に復帰を果たしたばかりであるユーリが、また《アトミック・ガールズ》から離脱してしまうかもしれないのだ。ユーリの躍進を喜びつつ、それを惜しむ気持ちだって同じぐらいの質量でわきかえるはずであった。


 しかし、現時点ではまだ何も確定していないため、人々も気持ちを持て余しているのだろう。そんな思いが、歓声に切迫した響きを持たせているのではないかと思われた。


 そんな中、ボディチェックを終えたユーリは跳ねるような足取りでケージに上がり込む。

 青コーナー陣営の相手選手は、そんなユーリの姿をじっと見据えていた。


 これはあくまで、エキシビションのグラップリング・マッチである。

 しかし運営陣たるパラス=アテナは、まったく妥協のない相手を準備していた。こちらは昨年の世界大会において七十四キロ以下級の黒帯の部で準優勝を収めた強豪選手であったのだ。


 出身はオランダで、現在は日本に在住しているらしい。

 背丈は百七十センチで、平常体重は七十四キロ以上であるのだろう。同じ背丈の男性に負けないぐらい、肉厚で逞しい体格であった。


(これでも、六月に対戦するアナ・クララ選手より格下っていう扱いなのか)


 先刻は大江山すみれがそのように語っていたし、プレスマン道場のコーチ陣も同じ見解であった。柔術黒帯というのはそれだけで素晴らしい成果であるが、女子の重量級は人数が少ないため、大会の結果だけでは評価できないという話であった。


 しかしそれでも、黒帯は黒帯だ。《アトミック・ガールズ》で柔術の黒帯を保持しているのは、兵藤アケミただひとりなのではないかと思われた。

 もちろんユーリはそんな兵藤アケミにも勝利しているが、彼女はあちこちに故障を抱えていた。ことグラップリング・マッチに関しては、鞠山選手のほうがよほど強敵であるはずだ。そしてその鞠山選手は師匠と離別してしまった関係から、いまだ茶帯の身分であったのだった。


 ユーリもすっかり肉厚になってしまったが、それでも平常体重は六十五キロだ。なおかつ腰がくびれたモデル体型であるため、骨格までもが頑健であるオランダの選手と向かい合うと、なよやかに見えてならなかった。


(でもこれはエキシビションなんだから、勝ち負けにこだわる必要はない。怪我にだけは気をつけてくださいね、ユーリさん)


 サキとのタイトルマッチに挑む自分のことは脇に置いて、瓜子はそんな祈りを捧げることになった。


 そんな中、ついに試合が開始される。

 こちらの試合は、五分一ラウンドだ。六月に大きな試合を控えたユーリのために、運営陣が負担の出ないように取り決めてくれたのだった。


 しかしこの短い時間であれば、相手もスタミナのロスを恐れずに仕掛けてくるだろう。そんな瓜子の想像に応じるかのように、相手選手は猛然とユーリにつかみかかった。


 圧倒的な体格差で、ユーリを押し潰そうという動きである。

 そうして相手がユーリの両脇に腕を回そうとすると、ユーリが奇妙な動きを見せた。腕を差し返すのではなく、相手の首裏に両手を回したのだ。


 これはグラップリングではなく、首相撲のモーションである。

 ルール上、打撃技は禁じられている。それでもユーリはジョンから習い覚えた首相撲の手順で相手の頭を抱え込み、ロックを固めて、相手の身体を左右に揺さぶった。


 ユーリが躍動したために、相手の組みつきは不発に終わる。それで相手は力まかせに、ユーリを押し倒そうとした。

 ユーリはひらりとステップを踏んで、相手の圧力を受け流す。そうしてさらに、相手の身体を左右に揺さぶり――そして、ローキックさながらの足払いを仕掛けた。


 バランスを崩したところで軸足を蹴りはらわれて、相手は横合いに倒れ込む。

 ユーリはよどみなく、その上にのしかかった。まずはサイドポジションで、そこから速やかに上四方へと移行した。


 相手も柔術の熟練者であるため、身体をよじりながらユーリの圧迫から逃れようとする。

 しかし、べったりとのしかかったユーリの身体は、動かない。そしてその右腕が、外側から相手の頭を抱え込んでいた。

 ユーリが得意とする、ノースサウスチョークである。

 たちまち相手は、物凄い勢いで腰をバウンドさせたが――数秒とかからず、ユーリの肩をタップすることになった。


 もともと鳴りやんでいなかった歓声が、さらなるうなりをあげる。

 技を解除したユーリはにこにこと笑いながら、ぴょこんと立ち上がった。これはエキシビションであるため、どちらかが動けなくなるまでは何本でも勝負が続けられるのだ。


 ユーリの実力を思い知った相手は一転して、慎重に詰め寄ろうとする。

 しかしユーリは遠慮も気後れもなく、ぴょこぴょこと前進する。そして相手が適切な対応を見せる猶予も与えず、無造作に抱きついた。


 相手は慌てふためきながら、組手争いを開始する。それですみやかに、四ツの組み合いの形となった。

 するとユーリはすぐさま相手の背中で両手をクラッチして、相手に体重をあびせながら、内側から右足を引っ掛けた。


 相手はあらがうすべもなく倒れ伏したが、今回はハーフガードのポジションだ。決してユーリの右足を逃がしてなるものかと、両足で二重がらみの拘束を見せた。

 その間に、ユーリは相手の右腕を絡め取っている。そして相手が両手をロックするより早く、手首を固定して、肘を深く曲げさせながら、頭の側にねじっていく。相手の腕がVの字に曲げられる、V1アームロックである。ハーフガードのポジションでは極めきるのも難しいように思えたが、相手は肩関節を壊される前にと早急にタップした。


 この時点で、まだ一分しか経過していない。

 客席の歓声は熱を帯びるいっぽうであり――そしてそれは、留まるところを知らなかった。観客たちは、残りの四分間もユーリの強さに酔いしれることになったのである。


 三本目では、相手のがむしゃらな両足タックルでユーリが上を取られることになった。

 しかしユーリは背中から倒れ込むのと同時に両足を振り上げて、もっとも得意な三角締めを極めてみせた。


 四本目では、相手がペースチェンジを求めて足を使い始める。しかしユーリは無遠慮に接近して、相手をフェンスに押し込み、壁レスリングの攻防の末にテイクダウンを奪い、腕ひしぎ十字固めから三角締めのコンビネーションでタップを奪った。


 その次には、また相手のタックルで上を取られてしまう。

 そして相手がポジションキープに徹しようとすると水揚げされた魚のようにびちびちと跳ね回り、相手の重心を崩して、ロールエスケープで上を取り戻した。そして最後は、膝十時固めでフィニッシュである。


 ユーリは組んだ後の機動力で、相手を圧倒した。

 パワーは相手のほうが上であり、技術だって大きな差はないに違いない。というよりも、相手は黒帯の腕であるのだから、本来は技術でもユーリにまさっているはずであるのだ。

 それを無効化するのが、ユーリの機動力であった。組み合う前は隙だらけのユーリであるが、組んだ後の流麗なる動きはベリーニャ選手さながらであるのだ。鞠山選手や卯月選手はその機動力に対応できる実力を有していたが、この選手には備わっていなかった。それでユーリの動きについていけず、一方的にタップを奪われることになったのだ。


 しかし瓜子は、相手選手が弱いとは思わなかった。立ち技においても寝技においても、相手は力感にあふれかえっており、ひとつひとつの対処は決して間違っていないように思えたのだ。

 しかし相手の対処が実を結ぶ前に、ユーリが手を進めてしまうのである。

 相手が弱いのではなく、ユーリが強いのだ。

 十七歳の年に稽古を始めて、二十三歳になったユーリは、この六年ばかりで積み上げてきた力を余すところなく振り絞って、この強豪選手を制圧しているのだった。


 客席には、凄まじいまでの歓声が響きわたっている。

 そして瓜子は、いつしか涙を流してしまっていた。水を得た魚のように躍動して、次から次へとタップを奪っていくユーリの強さと美しさに、どうしようもなく心をつかまれてしまったのだ。


 きっと客席の人々も、同じ思いで歓声を振り絞っているのだろう。

 かつては人気先行のアイドルファイターとして連敗を重ねていたユーリが、これほどのモンスターに成長を遂げたのだ。


 沙羅選手、オリビア選手、魅々香選手、来栖舞、リュドミラ選手、小笠原選手――マリア選手、沖選手、ジジ選手、オルガ選手、青田ナナ、秋代拓海――赤星弥生子、兵藤アケミ、ジーナ選手、香田選手――《アトミック・ガールズ》の舞台だけで、ユーリはそれだけの選手に打ち勝ってきた。そして今、ユーリは世界に足を踏み出して、《アトミック・ガールズ》の舞台から羽ばたこうとしている。自分にその資格があることを、ユーリは全身で証明しているのだった。


 恐ろしいほどの熱狂に包まれた五分間は、それで終了した。

 ユーリが奪ったタップは、合計で十本である。世界大会で準優勝した強豪選手から一本のタップを奪われることもなく、ユーリはその時間を駆け抜けた。


 試合終了のブザーが鳴らされると、ユーリはマットに正座をして、相手の手を取りながら深々と一礼し、そしてふわりと立ち上がった。

 その白い肢体が汗に濡れて、光り輝いている。

 今日のユーリは、雪ではなく光の精霊であるかのようであった。

 そうしてユーリは精霊のごとき微笑みをたたえながら、客席の四方にも礼をしていった。


 そのたびに、割れんばかりの歓声が響きわたる。

 瓜子は立松の差し出したタオルで顔中の涙をぬぐい、後ろのほうでウォームアップに励んでいた小笠原選手は「やれやれ」と笑いを含んだ声をあげた。


「まったく、なんて試合を見せてくれるんだよ。間にインターバルがあって、心底ラッキーだったね」


「それはまた、ずいぶん弱気な発言だわね。トキちゃんは、ベルトと一緒に誇りまで奪われたんだわよ?」


 鞠山選手もまた、不敵な笑いを含んだ声でそのように応じる。

 瓜子はモニターのユーリから目を離すことができたかったので、小笠原選手の「ふふん」と笑う声を背中で聞くことになった。


「わかったよ。アタシらはこの先、桃園のいない《アトミック・ガールズ》を盛り上げていかなきゃならないんだもんね。まずは豪快なKO勝利で、お客の心を奪うとするか」


 やはり誰もが、これがユーリの卒業試合であると見なしているのだ。

 ユーリと同じ立場でありながら、瓜子は心をかき乱されてならなかった。


 そうしてユーリは退場し、会場には十五分間のインターバルが告げられて――控え室に、ユーリが戻ってきた。

 ユーリは精霊でなく、満腹な子猫のような顔で笑っている。

 ただ、その瞳にも白く光るものがあった。


 しかし、瓜子の目などはすっかり赤くなっていることだろう。

 それに気づいたユーリは、いっそう幸せそうに笑った。


「おりょりょ? 今日はユーリも、うり坊ちゃんのお胸を揺さぶることができたのかしらん?」


「ええ、おっしゃる通りっすよ。自分も、試合でお返ししてみせます」


「にゃっはっは。そんな宣言をされずとも、ユーリの号泣は必至でありますぞよ」


 ユーリはふにゃふにゃ笑いながら、真っ白な拳を差し出してきた。

 瓜子はバンテージを巻かれた拳を、そこに押し当てる。


 そうしてユーリは非公式のエキシビションマッチでありながら、《アトミック・ガールズ》の歴史にまたその名前を刻みつけ――それを見届けた人々の心にも、決して忘れられない記憶を刻みつけたのだった。

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