02 有意義な時間
「試合の対策に入る前に、まずは各自のコンディションを見るために、立ち技と寝技のサーキットだね」
ウォームアップの完了後、小笠原選手がそのように宣言した。来栖舞、兵藤アケミ、雅と、頼もしいコーチ陣が三名も居揃っているが、もっとも場を取り仕切ることに手馴れているのは小笠原選手なのである。
「多賀崎さんと御堂さんは分かれてもらうとして、他に対戦を避ける組み合わせはないね? これは小手調べだから、三組に分かれてさくさく進めちゃおうか」
三名のコーチ陣を除くと、総勢は十五名だ。それがざっくりとした体重別で、三組に振り分けられることになった。
体重が軽い順に、ひと組目は愛音、小柴選手、瓜子、鞠山選手、武中選手。ふた組目は、灰原選手、蝉川日和、多賀崎選手、香田選手、オリビア選手。三組目が、魅々香選手、浅香選手、ユーリ、小笠原選手、高橋選手という顔ぶれに相成った。
「わーっ! ストローで、あたしだけ重い組じゃん! ……ま、それも楽しそーだけどさ!」
「ちなみに、立ち技の次は寝技のサーキットだから、そのつもりでね」
「ぎゃーっ! それは勘弁だよー! あんたたち、ほんとに正直にウェイトを申告したのー?」
「こんな場所で虚偽の申告をする人間がいるわけないんだわよ。もう試合の三週間前なのに、怠惰なウサ公は思うさま肥え太ってるだわね」
「ふーんだ! ご老体は代謝が悪いから、ウェイトを絞るのもひと苦労だねー!」
「雅ちゃん。失礼なウサ公が何か言ってるだわよ」
「だ、だから、雅ねーさんは関係ないでしょー? いちいちねーさんを引っ張り出すなってば!」
そんな一幕を経て、まずは立ち技のサーキットが開始された。
人数を絞ったので、三分四ラウンドでインターバルは三十秒だ。鞠山選手や武中選手と手を合わせるのはひさびさのことであったので、瓜子も胸が躍ってならなかった。
ただし試合が近いため、くれぐれも熱くなりすぎてはならない。防具もしっかり装着して、十日間にも及ぶ過酷な合宿稽古がついにスタートされた。
(合宿のラスト二日は、もう二週間前の調整期間なんだもんな。本当に、オーバーワークには気をつけないと)
そんな自戒が必要なぐらい、瓜子は昂ってしまっていた。何せ三週間後には、あのサキと対戦するのである。それで瓜子が昂揚しないわけはなかったのだった。
しかし手合わせをする鞠山選手たちが落ち着き払っていたために、瓜子もほどよい熱気でスパーにいそしむことができた。
アウトファイターたる鞠山選手や愛音とのスパーは、有用だ。もちろんサキのようなステップワークを再現できる人間は存在しないが、ここ最近のアウトスタイル対策を補強されるような心地であった。小柴選手も意識して、瓜子を相手にする際は足を使ってくれているようである。
いっぽう武中選手は生粋のインファイターであるが、彼女と手合わせをするのは昨年の夏合宿以来であるので、とても新鮮だ。そして彼女は、格段に力強さと切れ味が増していた。
「よし。それじゃあ次は、寝技のスパーだ」
こちらの組でそのように宣言したのは、兵藤アケミであった。香田選手の組は雅に、浅香選手の組は来栖舞に譲ったようである。
六月のブラジル大会ではグラップラーと対戦するため、瓜子は寝技も磨きぬいている。そうしてサキにばかりかまけないという条件で、コーチ陣は五月大会の出場を容認してくれたのだ。その甲斐あって、鞠山選手を除く三名に後れを取ることはなかった。
寝技のスパーでは蝉川日和が抜けるが、そちらの組も余分に一本をこなしたらしく、同時にサーキットは終了する。合計三十分近くにも及ぶ連続スパーをやりとげた瓜子たちが大汗をかいてへたばっていると、来栖舞が厳粛なる声をあげた。
「わたしも皆と稽古に励むのは昨年の夏以来なので、目覚ましい成長ぶりに驚かされている。そして、浅香くんの稽古を見守るのは初めてのこととなるが……やはり君の実力は、アマチュアの域ではないようだ」
「と、とんでもありません。わたしはまだまだ、穴だらけですので……」
「しかし、桃園くんを除く全員が、君からタップを奪われていた。同門の選手を取り立てるのは恐縮だが、今の美香からタップを奪えるというのは……決して生半可な話ではないはずだ」
「くふふ。舞ちゃんの秘蔵っ子にダブルで土をつけてもうて、申し訳ない限りやねぇ」
そちらの組には、魅々香選手と高橋選手が居揃っていたのだ。ストライカーの高橋選手はまだしも、魅々香選手からタップを奪えるというのは賞賛に値するはずであった。
(まあ、ウェイトは浅香選手のほうがあるんだし、柔術の腕も同じ茶帯だけど……でも、相手はアトミックのフライ級王者だからなぁ)
浅香選手は百七十五センチという長身で、階級はユーリと同じくバンタム級。実に均整の取れた身体つきで、二十一歳とは思えないようなグラウンドテクニックを有していた。
「その代わり、立ち技では手も足も出なかったろうね。ま、めぐみは頑丈だからぶっ壊されることもないだろうけどさ」
そのように語る兵藤アケミも、誇らしそうな思いがわずかににじんでいる。そちらに向かって、来栖舞は「うん」とうなずいた。
「さすがに朱鷺子や道子や美香が相手では、分が悪い。しかし、桃園くんの攻撃から最後まで逃げきったのは、大したものだ」
「い、いえ。ほ、本当に逃げるいっぽうでしたので……ユ、ユーリさんは、やっぱりすごいです」
と、浅香選手は純朴そうな顔を赤らめる。彼女は『トライ・アングル』の熱烈なファンでもあるのだ。
「桃園くんは目が悪いために、距離感が甘い。しかしそのぶん攻撃のリズムが独特で、対戦する相手は幻惑させられるはずだ。初めてのスパーで逃げきったというだけでも、立派なものだと思う」
「その評価はありがたいけど、めぐみはあくまでアマだからね。まずはプロの面々に指導してやるべきだろ」
そんな風に言いながら、兵藤アケミは瓜子たちの姿を見回してきた。
「こっちの面々は、みんな大したもんだったよ。花はステップの切れ味が増してるし、邑崎も格段に力強さが増してる。そっちの武中さんも大したもんだし……猪狩は、言うまでもないね」
短からぬ時間を経て、ついに瓜子や愛音も兵藤アケミから呼び捨てで呼ばれるようになったのだ。あまり交流の機会がなかった武中選手に敬称がつけられていることで、瓜子はその得難さを噛みしめることになった。
「とにかく、選手全体の地力の底上げを痛感させられた。これならどんなメニューを組んでも、力不足で弾かれる人間はいないんじゃないかな」
「うん。それじゃあ今の内容も踏まえつつ、試合を想定したカリキュラムに移行しようか」
小笠原選手の提案で、次のステップに進むことになった。
「まずは、立ち技と寝技で分けようか。どっちを優先的に鍛えたいか、おのおの申告してもらえる?」
瓜子は迷わず、立ち技を希望した。サキばかりでなく、ブラジル大会で対戦する相手もグラップラーながら非常に厄介な立ち技の技術を有しているのだ。
いっぽうユーリはうきうきとした様子で、寝技の稽古を志願する。ユーリがブラジル大会で対戦するのは、外連味のないグラップラーであるのだ。もちろん立ち技の稽古も必要であろうが、寝技にいっそうの磨きをかけることも重要であった。
そうして、瓜子と同じく立ち技を希望したのは――蝉川日和、灰原選手、高橋選手、香田選手、浅香選手、小笠原選手の六名であった。そして、オリビア選手がにこにこと笑いながら挙手をする。
「ワタシは試合もないので、どっちでもかまわないですー。人数合わせで、立ち技の組に入りましょうかー?」
「うん、ありがとう。御堂さんと多賀崎さんは、どうする?」
「正直、あたしもどっちでもかまわないんだよね。ここは御堂さんに任せるよ」
「あ、い、いえ。わ、わたしも多賀崎さんと別の組に加えていただこうかと……」
おたがいに謙虚であるために、相手の判断にゆだねようとしていたのだ。すると、来栖舞が「では」と声をあげた。
「道子とはさんざん稽古を積んでいるので、美香が寝技の組に入るといい。人数的には、これで大きな問題はないように思うが……もう少し、細かい要望を聞いておくべきかな?」
「そうだね。小柴、邑崎、武中さんなんかは、寝技の対策を磨きたいのかな?」
「は、はい。わたしの相手は、グラップラーですので……」
「愛音の相手は、オールラウンダーであるらしいのです! よって、組み技や寝技のディフェンスを磨きたく思うのです!」
「わたしはどちらかというと、組み技のオフェンスを磨きたい感じですね。組み技ありなら、立ち技の組でもかまいません」
「じゃあ、武中さんは立ち技のグループに移ってもらおうか。どうせ最終的には、みんなまんべんなく鍛えることになるんだしね」
ということで、立ち技の組は九名に増員された。
「じゃあまず、二連戦する猪狩の希望を聞こうか。やっぱり、アウトスタイル対策かな?」
「いえ。せっかく背の高い方々が勢ぞろいしてるんで、まずはそっちの対策を磨かせていただけませんか?」
瓜子の返答に、小笠原選手は「ああ」と笑った。
「そういえば、ブラジルでやり合う相手はやたらと背があるんだっけ。インチの表記だったんでピンとこなかったんだけど、何センチなの?」
「百七十五センチです。ちょうどオリビア選手や浅香選手と同じ数値なんすよね」
「へえ。ストロー級で、百七十五か。しかも今回は、グラップラーなんだもんね」
「押忍。でも、スタンドのスタイルが厄介なんすよ。ブラジルでも有名な選手らしくて、コーチ陣がかなり有益な情報を集めてくれたんです」
瓜子がブラジルで対戦するのは、エズメラルダ・コルデイロ選手――あちらのプロモーションで一種独特のキャリアを築いた、異能の実力者であったのだった。
「そのエズメラルダ選手っていうのは、『遅れてきた新鋭』っていう異名らしいんすよ。……自分たちには馴染み深い異名っすよね」
「あはは。桃園や灰原さんなんかも、そんな風に呼ばれてたねぇ。つまり、デビュー当時はパッとしなかったけど、後から強烈な実力が開花したってこと?」
「押忍。エズメラルダ選手はその身長だったんで、もともとはバンタム級だったらしいです。でも、パワー負けするからフライに落として――さらにストローまで落としたら、連戦連勝で王座も目の前ってとこまで来たらしいです」
「じゃあ、ほとんど十キロぐらい落としたわけか。《ビギニング》のサイトで画像を見たけど、かなりひょろそうだったよね」
「ええ。実物もひょろひょろみたいです。階級を落とすたびに勝率が跳ねあがったんで、技術さえあれば筋肉なんていらないっていう信条に落ち着いたらしいっすよ」
まあ、それは極論であったとしても、実際に立派な戦績を築いているのだ。ファイターとしては細身でも、確たる技術があれば筋力の不足をカバーできるのだろう。
「で、その選手はとにかくインファイトを仕掛けてくるらしいです」
「インファイト? そんなに背があったら、手足も長くて窮屈になりそうだけど」
「それが、ほとんど肘と膝しか使わないらしいんすよ。それで隙を見つけたら相手に覆いかぶさってギロチンチョークを狙うか、グラウンドに引き込むかで、勝った試合はみんな一本勝ちらしいです」
「へえ。ちょっと想像しにくいなぁ。でも、最終的な狙いがチョークや組みつきなら……ここは、浅香の出番かな?」
「押忍。でも、肘や膝は小笠原選手たちが強力でしょう? それで覆いかぶさるアクションまで加えてくれたら、ありがたいっす。……ユーリさんも背はありますけど、肘や膝のアクションがスローモーすぎて、稽古になんないんすよね」
瓜子が小声で伝えると、小笠原選手は「あはは」と笑った。
「ストローだったら、きっと相手も素早いんだろうしね。オッケーだよ。じゃ、他のメンバーの希望も聞いておこうか」
「あたしは、スタンドで殴り合いながらの組みつきかなー! オフェンスもディフェンスも磨きたいから、キヨっぺはちょーどいーかも!」
「わ、わたしもそこに参加させていただきたいです」
「じゃ、あたしもそっちに入ったら、人数的にもちょうどいいんじゃない? 上手い具合に、のっぽ軍団が余るからさ」
「あはは。あたしはのっぽってほどじゃないですけどね。でも、出稽古で猪狩の相手をしてるんで、あたしやオリビアは要領をわきまえてますよ」
「ああ、高橋とオリビアはもうその稽古の経験があったわけね。それじゃあ、それでひとまず分かれてみようか」
というわけで、瓜子は小笠原選手、高橋選手、オリビア選手、浅香選手という、申し分のない面々に力を添えてもらうことがかなった。百七十センチを超える女子選手などはそうそういないので、ありがたい限りである。
「ありがとうございます。自分ばっかり優先してもらっちゃって、どうもすみません」
「この後は他のメンバーのために協力してもらうから、そこは持ちつ持たれつさ。……でもやっぱり、猪狩と桃園にはブラジルで結果を出してもらわないといけないからね」
そう言って、小笠原選手は力強く笑った。
そうして合宿稽古の初日の午後は、きわめて有意義に過ぎ去っていったのだった。




