ACT.2 黄金の十日間 01 集合
四月の最終土曜日である。
その日から、ついに心待ちにしていたゴールデンウイークであった。
ただしもちろん、瓜子たちは遊楽に出向くわけではない。ゴールデンウイーク恒例の、合同合宿稽古が開始されるのである。日々の稽古も充実していたが、やはりこのイベントにはかけがえのない楽しさと過酷さが存在するのだった。
しかも本年は暦の関係で、なんと十連休である。間に平日をはさむことなく、ぶっ続けで十連休であるのだ。これでは楽しさも過酷さもいや増すばかりであった。
「いやー! 正直、げんなりする気持ちもあるんだけどさー! でも、お泊り会は楽しーしね!」
そんな風にのたまわったのは、駅前で合流した灰原選手である。たまたま電車の到着時間が近かったため、駅からの道のりを四ッ谷ライオットの両名とご一緒することになったのだ。
合宿稽古の会場たる武魂会東京本部道場は、JRの大手町駅から徒歩七分の場所に位置する。そちらに向かうまでの行き道も、参加メンバーの意気は揚々であった。
この楽しく過酷な合宿稽古も、ついに本年で四度目の開催となる。
ただし昨年はユーリも入院中であったため、参加できなかった。瓜子も毎日午前中にユーリの入院する山科医院まで出向き、午後から参加していたのだ。そんなユーリが心から嬉しそうに闊歩している姿を目にするだけで、瓜子は胸が詰まってしまいそうだった。
「今回は、けっこー顔ぶれも入れ替わってるしねー! どんな感じになるのかなー!」
ユーリに劣らず楽しげな顔をした灰原選手がそんな風に言いたてると、同じく駅前で合流した愛音が小首を傾げた。
「昨年と、そんなに顔ぶれが入れ替わっているのです? 間に赤星道場の夏合宿をはさんでいるので、愛音はいささか記憶が錯綜しているのです」
「とりあえず、サキとメイっちょと鬼っちがいないじゃん! その代わりに、関西勢が山盛りだけどねー!」
「はあ。でも、鬼沢選手は昨年も参加していないはずなのです」
「あれー? そうだったっけー? さすがバンタム級はパワーが違うなーって感心した覚えがあるんだけど!」
「だからそれは、きっと夏合宿の記憶なのです。愛音よりも、灰原選手の記憶のほうがよほど錯綜しているようなのです」
「そっかそっかー! ま、こまかいことはどーでもいーじゃん!」
「言いだしっぺは、灰原選手なのです。まったく、浮かれた灰原選手につける薬はないのです」
などと言いながら、愛音も昂揚のあまりに口数が増えているようである。つまりは、誰もがこのイベントに心を弾ませているということであった。
そんなこんなで、一同は会場に到着する。
その入り口には、このイベントの責任者である小笠原選手が笑顔で待ちかまえていた。
「ああ、来た来た。呼び鈴が鳴るたびに出てくるのは面倒だから、ここで待ってたんだよ。みんなが最後だから、さっそく着替えてくれる?」
「押忍。よろしくお願いします」
小笠原選手の案内で入館し、そのまま真っ直ぐ更衣室を目指す。そちらではまだ何名かの女子選手が着替えのさなかであったため、ともに支度を済ませて、いざ懐かしの鍛練場へと乗り込んだ。
「うんうん。今年も、なかなかの壮観だねぇ」
小笠原選手は満足そうに笑いながら、その場の面々を見回した。
本年の参加者は、十八名である。
プレスマン道場からは、瓜子、ユーリ、愛音、蝉川日和。
四ッ谷ライオットからは、灰原選手、多賀崎選手。
武魂会船橋支部からは、小柴選手。
玄武館からは、オリビア選手。
天覇ZEROからは、鞠山選手。
天覇館東京本部からは、来栖舞、魅々香選手、高橋選手。
ビートルMMAラボからは、武中選手。
柔術道場ジャグアルからは、兵藤アケミ、香田選手、浅香選手。
つい先日、ジャグアルの特別顧問に就任したという、雅。
これに武魂会小田原支部の小笠原選手を含めて、総勢十八名であった。
「初参加は、雅さんを除く関西勢の御三方と……あとは、高橋ぐらいかな?」
小笠原選手の言葉に、灰原選手は「えー?」と首を傾げた。
「ミッチーって、初参加だったっけー? もはや常連のイメージなんだけど!」
「まごうことなき、初参加ですよ。去年はバンタム級のトーナメントで小笠原さんと当たる可能性があったから、あたしも鬼沢さんも遠慮したんです」
「やっぱり、灰原選手の記憶はあてにならないのです」
「まあまあ。高橋は赤星さんの合宿稽古で常連だったから、そのあたりで記憶が入り乱れるんだろうね。初参加のみなさんも常連のみなさんも、最終日までよろしくお願いします」
小笠原選手の挨拶に、十七名の人間がそれぞれの流儀で挨拶を返した。
何にせよ、これは過去最大の人数だろう。瓜子と同じ感慨にとらわれたのか、小笠原選手は懐かしそうに目を細めていた。
「最初の合宿稽古は、たしか十人きっかりだったよね。まあ、あれは小人数でがっちり稽古しようってコンセプトだったけどさ。四回目ともなればみんな手馴れてるだろうし、赤星さんのほうでも経験を積んでるから、問題はないと思う。それでも初参加の四名をフォローしつつ、有意義な稽古を目指しましょう」
「は、はい! わたしなんてアマチュアの分際で顔を出しちゃって、本当にすみません。何か雑用があったら、ご遠慮なく申しつけてください」
そのように言い出したのは、浅香選手である。かつてユーリとのグラップリング・マッチで寝技の実力を発揮して、その後のプレマッチでも堂々たる勝利を飾った、関西勢の期待の新人だ。そんな浅香選手に対して、小笠原選手は朗らかな笑顔を返した。
「この合宿稽古では、年齢もキャリアも不問だよ。全員が全員に対して、礼を尽くすこと。もちろん年長者を敬うのは大切なことだけど、そっちこそ変に遠慮しないようにね」
「大丈夫だよ。気弱な後輩どもは、アタシが尻を叩いてやるからさ」
土佐犬を思わせる顔立ちをした兵藤アケミが勇ましい笑顔で答えると、小笠原選手も「よろしく」と笑顔を返した。
「それじゃあみんなには、ウォームアップを始めてもらおうか。その間に、今後の指針をざっくり説明させていただくね」
小笠原選手は昨晩からこちらで宿泊を始めたそうなので、きっと午前中から稽古に励んでいたのだろう。来栖舞、兵藤アケミ、雅という指導者たちとともにウォームアップのさまを見守りながら、小笠原選手はよどみなく説明を開始した。
「毎年のことだけど、この合宿稽古では試合が決まってる選手を優先して稽古の内容を取り決めていくよ。ただ今回も、かなりの人数が試合を控えてるからさ。その情報を共有するために、ひとりずつ簡単に紹介していくね」
このたび試合を控えているのは、総勢十一名であった。
まず、《アトミック・ガールズ》五月大会で試合を組まれたのは、七名。瓜子はサキとのタイトルマッチ、ユーリはグラップリングのエキシビションマッチ、小笠原選手はキックルールの公式マッチ、愛音、灰原選手、鞠山選手、香田選手、浅香選手は、それぞれ通常のワンマッチであった。
あとは六月に、高橋選手が天覇館の全国大会、小柴選手と武中選手が『NEXT ROCK FESTIVAL』に出場する。鬼沢選手はそちらで高橋選手と対戦する可能性があるため、今回も参加を見合わせたのだった。
「まあ、桃園のアトミックはエキシビションだから、六月のブラジル大会に備えないとね。相手は、生粋のグラップラーなんでしょ?」
「はいぃ。なんとなんと、ジルベルト柔術に連なるお人なのですぅ」
「幸せそうなお顔だねぇ。猪狩も、同門の選手を相手取るんだって?」
「押忍。こっちもグラップラーですけど、スタンド状態でもかなり厄介なファイターらしいです」
「細かい部分は、あとで聞かせていただくね。……それにしても、サキとタイトルマッチでやりあった一ヶ月後にブラジル遠征とはねぇ。よくコーチのみなさんがオッケーを出したもんだよ」
「押忍。きっと自分とサキさんの心情を汲み取ってくれたんだと思います」
ウォームアップに励みながら、瓜子はまた立松たちに感謝の思いを捧げることになった。
小笠原選手は「そっか」と笑ってから言葉を重ねる。
「それで、アトミックの他の面々は……花さんと灰原さんが中堅選手を相手にした調整試合、香田がフライ級の初戦で、こっちも中堅選手。浅香はプレマッチで、なかなか腕が立ちそうな新人選手。で、邑崎だけが《フィスト》のトップファイターが相手か」
「押忍なのです! 《アトミック・ガールズ》VS、炎の三番勝負なのです!」
なんとその日には《フィスト》のアトム級のトップファイターが三名も出場して、愛音、大江山すみれ、犬飼京菜とそれぞれ対戦するのである。
「三月大会で小柴が《フィスト》の選手を危なげなく下したもんだから、あちらさんも火がついたのかな。それでその次は、アンタたちが《フィスト》にまで出向くんだって?」
「はいなのです! 五月の勝敗とは関わりなく、愛音たち三名が《フィスト》の夏の大会に出場するのです! 愛音としては、願ったりかなったりなのです!」
「うんうん。どうかアトミックの底力を見せつけてやっておくれよ。……で、アタシはまたまたキックルールだけど、立ち技の稽古は普段からみっちり積んでるから、合宿稽古では関係なく総合的な稽古を積ませていただくつもりだよ。たぶんこの後には、アタシも大一番が控えてるだろうからね」
「大一番?」と兵藤アケミがうろんげに反問すると、小笠原選手は笑顔で「うん」とうなずいた。
「桃園がブラジル大会で結果を出したら、きっと《ビギニング》と正式契約を結ぶことになるんだろうからね。そうしたらアタシが献上したバンタム級王座もすぐさま返還されて、また奪い合いさ。そのあたりのことも照準に入れて、オリビアやジジにも休みが入れられたんだと思うんだよね」
「つまり……去年と同じく、王座決定トーナメントが開かれるだろうって見込みなわけかい?」
「うん。アタシはいちおう桃園にしか負けてないけど、高橋、鬼沢、オリビア、ジジは、勝ち負けが入り乱れてるからね。これで新しいトップを決めるには、またトーナメントを開くのが一番手っ取り早いんじゃないかな」
「ふふん。それなら、ストロー級も同様だわね」
「うん。だから今回は花さんも灰原さんも調整試合なんだと思う。そうじゃなかったら、花さんに黄金世代の誰かをぶつけそうなもんだしね。それは王座を巡るサバイバルマッチの開幕までお楽しみってことになったんじゃないかな」
「まったく異存はないだわよ。それできっとアトム級は手空きと見なされて、《フィスト》との対抗戦に駆り出されたんだろうだわね」
「どっちも大賑わいで、楽しい限りだね。で、残るフライ級だけ動きがないけど……御堂さんと多賀崎さんは、いずれ《フィスト》でタイトルマッチなんだよね?」
「うん。だからこの合宿稽古でも、美香と多賀崎くんだけはスパーで当たらないように配慮をお願いする。多賀崎くんが望むなら、わたしもそちらの指導役から外れよう」
来栖舞のそんな言葉に、多賀崎選手は力強く「いえ」と応じた。
「せっかく来栖さんがいらっしゃるのに、そんなもったいないことはできません。いま試合が決まってないってことは、少なくとも二ヶ月以上は開くでしょうからね。それなら、隠す手の内もありませんよ」
「承知した」と、来栖舞はうっすらと笑った。とても穏やかな、人間味のある笑顔だ。
「で、高橋は天覇のトーナメントだから、まんべんなく鍛えるしかない、と。《NEXT》に出る小柴と武中さんはそれなりの強豪とやりあうみたいだから、あとで対戦相手のプロフィールをよろしくね」
小柴選手と武中選手は気合のほどを競い合うように、それぞれ「はいっ!」と声を張り上げた。
「これだけの人数がいて、完全な手空きはオリビアと蝉川だけなんだもんね。まあ、蝉川は二週間前に試合をしたばかりだし、オリビアはアタシと同じく七月からが本番なんだろうけどさ。これだけ気合が充満してたら、空調設備が追いつかなさそうだ」
「くふふ。うちらはせいぜい、高みの見物を楽しませていただくわぁ」
雅は普段通りの妖艶なる薄ら笑いでそんな風に言っていたが、彼女もついにジャグアルの特別顧問に就任したのだ。彼女がそちらでどれだけ熱心にコーチ役に励んでいるかは、瓜子も人づてに聞いていた。
気合の入っていない人間など、この空間にひとりとして存在しない。それで瓜子はユーリとともに、心置きなくこの過酷な環境を楽しむことがかなったのだった。




