02 タイトル・リマッチ
ベリーニャ選手もケージに上がると、派手なタキシードを纏ったリングアナウンサーが朗々たる声音で試合開始のアナウンスを始めた。
もちろんすべて英語であるため、瓜子にはほとんど聞き取れない。
そうして、アメリア選手の名前がコールされると、会場には再びブーイングの嵐が吹き荒れたのだった。
「うひゃー! こいつのことが嫌いならわかるけど、ただベリーニャの対戦相手ってだけでこんな扱いなのかー! ま、こいつは性格も悪そうだけどさ!」
灰原選手はむしろ楽しげな声音で、そんな風に言っていた。アメリア選手が『アクセル・ロード』のサブコーチとしてユーリとグラップリングのスパーリングを行った際、反則の肘打ちを見舞わせたことは、みんな記憶に留めているのだ。
ともあれ、アメリア選手はブーイングなど知ったことかという迫力で、ぶんぶん右腕を振り回している。その眉間には、ノミで削ったような深い皺が刻まれたままであった。
アメリア選手はかつての絶対王者で、デビューしてから数年ばかりも無敗の記録を打ち立てていたのだ。その連勝記録をストップされた上にタイトルまで奪われたのだから、ブーイングがあろうとなかろうと最大限に奮起しているはずであった。
そうしてベリーニャ選手の紹介アナウンスに切り替えられると、たちまちブーイングは大歓声に移行する。
しかしやっぱりベリーニャ選手は、草原にたたずむ若鹿のように静謐なままであった。
やがてアナウンスが終了したならば、両選手はレフェリーのもとで向かい合う。
やはりこのたびも、相変わらずの体格差だ。十キロ近くもリカバリーしていそうなアメリア選手に対して、ベリーニャ選手はほとんどナチュラルウェイトであるように見受けられるので、ひと回り以上もアメリア選手のほうが大きく見えた。
身長は、アメリア選手のほうが三センチ上回っているのみである。
しかしレスリングのメダリストである彼女は首も手足も胴体もどっしりとしており、尋常ならぬ力感を発散していた。
それに対して、ベリーニャ選手は凪いだ海のように静謐だ。
ベリーニャ選手もそろそろ三十歳が間近な年代であったが、その肢体に備わった瑞々しさには何の変化も見られなかった。
「さー、どうなるのかなー! 前回は、ベリーニャの完勝だったもんねー!」
「そうッスよねー。でも、このアメリアって選手も化け物みたいに強そうでしたよねー」
「そりゃあ、バンタム級の絶対王者だったんだからね。ベリーニャだって、一発でももらったら危ないと思うよ」
「それでも勝利するのは、ベリーニャ選手であるのです。ベリーニャ選手に打ち勝てるのはこの世にただひとり、ユーリ様を置いて他にないのです」
客人たちは熱のこもった様子で、そんな言葉を交わしていた。
昨年末の試合において、アメリア選手は猛烈なる突進をすべてすかされて、あっさり一本負けを喫していたのだ。ただし、アメリア選手の突進力は規格外であったので、ベリーニャ選手がそれだけの実力であったということであった。
ユーリが無言であったので、瓜子も無言で画面を見守る。
そんな中、両選手はフェンス際まで引き下がり、試合開始のホーンが鳴らされた。
大歓声の中、アメリア選手は勢いよく前進する。
ただし、ケージの中央まで到達したならば、そこで立ち止まってベリーニャ選手の接近を待ち受けた。やはり今回は、頭から突っ込むことを避けるようだ。
ベリーニャ選手は、間合いの外で軽やかなステップを見せる。
スタンド状態におけるベリーニャ選手は、完全なボクシングスタイルだ。蹴り技は牽制の関節蹴りぐらいしか使わず、軽妙なステップワークとパンチの技術だけで相手を翻弄し、ここぞというタイミングでタックルを成功させる。口で言うのは簡単であるが、その練度が凄まじいのである。
ただしベリーニャ選手はナチュラルウェイトで試合に臨むために、きわめてほっそりとした体格で、並の選手よりもパワーで劣るはずである。それに、これだけ細身であるならば、打たれ強い道理もなかった。
誰がどう考えても、ベリーニャ選手を突き崩すとしたらその一点であろう。スピードとテクニックに特化したベリーニャ選手の弱点は、パワー不足と打たれ弱さであるのだ。誰よりもパワフルなアメリア選手がパワー勝負に持ち込めれば、勝機が生まれるはずであった。
(ただ……ベリーニャ選手はもともと無差別級で、何十キロも重いリュドミラ選手にも勝ってるんだよな)
なおかつベリーニャ選手の最終目標は、実の兄たちである。ベリーニャ選手はデビュー当時から、偉大なる兄たちに追いつくために修練を重ねているのだと公言しているのだった。
(きっとその中には、ミドル級の絶対王者であるジョアン選手も含まれてるんだろう。だから……パワーに屈しないスタイルっていうものを磨き続けてるんだろうな)
そんな想念にふける瓜子の前で、試合は静かに続けられている。
ベリーニャ選手もアメリア選手も牽制のジャブや関節蹴りを出すばかりで、まだおたがいの身に触れてもいないのだ。それで四十秒ばかりも経過すると、会場には狂おしいほどの声援がわきたった。
そして――ベリーニャ選手が、ふいに大きく踏み込んだ。
その右足がするするとのびあがって、アメリア選手の下顎に突き刺さる。いきなりの、顔面を狙った前蹴りである。アメリア選手は何の反応もできないまま、膝から崩れ落ちることになった。
ベリーニャ選手は静謐な表情のまま、アメリア選手の上にのしかかる。
横向きの体勢であったアメリア選手は仰向けになろうと試みたが、その前にベリーニャ選手が腰にまたがり、重心を安定させた。アメリア選手の太い腰が潰されて、むしろ腹ばいの方向にねじられてしまう。ベリーニャ選手が、そうなるように体重をかけたのだ。
ベリーニャ選手に背中を預けるのは致命傷になりかねないため、アメリア選手は何とか上半身をねじって仰向けに返ろうと身もだえる。
しかしベリーニャ選手は小揺るぎもしないまま、フックのスイングでアメリア選手の顔面に右拳を叩きつけた。
ただ何故か、狙ったのは額である。目もとや鼻や口もとを狙えばもっと大きなダメージを与えられるものであるのに、ベリーニャ選手は額のど真ん中を狙って何度かのパウンドを繰り返した。
それでもアメリア選手は恐慌状態に陥って、子供のように頭を抱え込んでしまう。
するとベリーニャ選手は握っていた拳を開き、刃物のように指先を立てて、アメリア選手の咽喉もとに右手を差し込んだ。
そうしてアメリア選手の咽喉もとを通過させた右手で自分の左上腕をつかみ、クラッチを組む。その体勢で、ベリーニャ選手が左側に腰をねじると――腰を圧迫されたアメリア選手の首が、ほとんど真横にねじ曲げられることになった。
いささか変則的であるが、フェイスロックである。
アメリア選手はじたばたと足を動かしながら、左手でベリーニャ選手の腕を、右手でマットをタップした。
ベリーニャ選手は何事もなかったかのように立ち上がり、さらなる大歓声が爆発する。
結果は――一ラウンド、五十九秒で、ベリーニャ選手の一本勝ちである。
さしもの瓜子も呆気に取られて、灰原選手は「どひゃー!」と声をあげた。
「秒殺で終わっちゃったよ! こんなの、大人と子供じゃん!」
「ああ。最初の前蹴りだって、狙いすました一発だったんだろうし……アメリアに何もさせないまま、試合を終わらせちゃったね」
多賀崎選手は、溜息をついている。
そうして瓜子が、ユーリのほうを振り返ると――ユーリは前回の試合と同じように、涙をこぼさないまま、ただうっとりと目を細めていた。
『完勝! まぎれもない完勝です! ベリーニャ・ジルベルト、初の防衛戦を秒殺の一本勝ちで終了させました!』
日本のスタジオで試合模様を見守っていたアナウンサーは、灰原選手に負けないぐらい惑乱した声をあげていた。
『かつての絶対王者であったアメリアに、秒殺勝利! いやあ、深見さん! ベリーニャの強さは、とどまるところを知りませんね!』
『はい。驚きました。ベリーニャ選手が蹴りを使うというのは、ずいぶん珍しいように思いますが……そうでなくとも、素晴らしい一撃でしたね。まるで抜き身の日本刀のような前蹴りでした』
『ワンアクションでダウンを奪い、マウントポジションを取ってからは数発のパウンドで圧倒し、最後はフェイスロック! すべてが流れるような、美しい五十九秒でした! ……おっと、勝利者インタビューです!』
そちらのスタジオには通訳の人間も控えており、ベリーニャ選手の勝利者インタビューがリアルタイムで解説された。
『ベリーニャ、見事な勝利でした。前回のタイトルマッチも一ラウンドで勝負を決めていましたが、今回は大幅にタイムを縮めましたね?』
『はい。稽古の成果をお見せすることができて、嬉しく思っています』
画面上でベリーニャ選手にマイクを突きつけているのは、運営代表のアダム氏である。《アクセル・ファイト》の大きな大会では、おおよそアダム氏がインタビュアーの役目を受け持っているのだった。
『アメリアはかつての絶対王者であり、その名に相応しい活躍を見せていました。そんなアメリアを一ラウンドで仕留めるのに、あなたはどのようなトレーニングを積んできたのですか?』
『何も特別なトレーニングではありません。私はいつ誰と向かい合っても勝利できるように、あらゆるトレーニングを継続しています』
《アクセル・ファイト》のチャンピオンベルトを腰に巻かれたベリーニャ選手は、試合前と変わらぬ静謐な面持ちである。
そして現場では、通訳の男性がアダム氏とベリーニャ選手の言葉をポルトガル語に通訳して客席に届けている。こちらの番組ではその通訳の男性が語るのと同じタイミングで、日本語に訳してくれていた。
『あなたのストイックなスタイルが、今日の結果を生んだということですね。しかし相手は、難敵のアメリアです。何か特別な対策を練ったりはしなかったのですか?』
『はい。私が心がけたのは、無傷で試合を終わらせることだけです。前回の試合では彼女に怪我を負わせてしまったため、今回はそのような事態に至らないようにと集中していました』
ベリーニャ選手のそんな言葉に、灰原選手がまた「どひゃー!」と声をあげた。
「これ、煽ってるんじゃなく、天然で言ってるんだよねー? あたしがアメリアの立場だったら、しばらく立ち直れないかも!」
「うん。怪我をさせたって言っても、パンチやパウンドで顔に色をつけたぐらいのことだからね。それを回避しながら勝ちを狙うなんて……よっぽどの実力差がないと、不可能だよ」
「ジルベルト柔術は、あくまで護身の術であるのです。ベリーニャ選手は常々、相手を傷つけないで制圧するのが理想であると公言されているのです。サキセンパイの膝靭帯を壊してしまったときも、ベリーニャ選手はとても悲しそうなお顔であったのです」
「あー、あたしもDVDで観たッスよー。でも、タイトルマッチで相手に怪我をさせないように気をつけるなんて、ハンパないッスねー」
他の面々がやいやい騒ぐ中、やっぱりユーリは無言である。
さすがに瓜子も心配になってきたので、ユーリに語りかけることにした。
「あの……ユーリさんは《アクセル・ファイト》でベリーニャ選手の試合を観ても、泣いたりしないっすよね。もしかして……試合内容が、不満なんすか?」
うっとりとモニターを見つめていたユーリは、「ほえ?」と小首を傾げた。
「何をおっしゃる、うり坊ちゃん。確かに寝技の攻防がひかえめなのは残念のイタリでありますけれども、その短い時間の中にもベル様のカミワザなグラウンドテクニックはぎゅうぎゅうに詰め込まれているのです。ユーリが不満を抱くいわれなど、どこにもありませんでしょう?」
「それなら、いいんすけど……昔の試合とかでは大号泣だったから、やっぱり気になっちゃうんですよね」
「にゃっはっは。それはベル様がピンチに陥れば、ハラハラドキドキでユーリのお胸は揺さぶられてしまうのです。……弥生子殿との試合なんかでは、そのままお負けになられてしまったしねぇ」
去りし日の《レッド・キング》において、若き赤星弥生子とベリーニャ選手が対戦した一戦のことである。かつてメイの部屋でその試合を見届けた際、ユーリは比喩でなく号泣していたのだった。
「まあ確かに、大接戦のほうが気持ちを揺さぶられちゃいますよね。今のところ《アクセル・ファイト》ではベリーニャ選手が苦戦する場面もなかったから、涙までは出ないってことっすか」
「うみゅうみゅ。その通りでございますわん。……ベル様ご自身も、あのように安らいだお顔だしねぇ」
そのように語るユーリは、どこか寂しげであるように見えた。
なんだか――ベリーニャ選手が強敵に巡りあえないことに、同情しているかのようだ。
「お? なんだ、ありゃ?」と、灰原選手がうろんげな声をあげる。
それで瓜子が画面に向きなおると、派手な身なりをした女性がケージに上がりこんできたところであった。
金色に染めあげたちりちりの髪で、サイケな柄のトップスとだぶだぶのスウェットパンツを纏っている。そのトップスの袖から覗く腕には、素人とは思えない筋肉の線が浮いていた。
『おっと! ガブリエラ・ドス・サントスです! バンタム級の若き新鋭が、ケージに姿を現しました!』
日本のスタジオのアナウンサーが、興奮した声を張り上げた。
どうやらこちらも、《アクセル・ファイト》に所属する選手であるらしい。浅黒い肌で鼻があぐらをかいた勇猛な顔立ちで、にやにやと挑発的な笑みをたたえている。その女性がアダム氏からぶんどったマイクで何かわめきたてると、スタジオの女性がそれを通訳した。
『あんなロートルに連勝したぐらいで、いい気になるんじゃないよ。まあ、あんた自身も立派なロートルだけどね。その立派なチャンピオンベルトは、あたしがいただくよ』
そうしてそのガブリエラ・ドス・サントスなる女子選手がアダム氏にマイクを突き返して両腕を振り上げると、会場には歓声とブーイングが吹き荒れた。
『ガブリエラが、王者ベリーニャに挑戦を表明しました! ついにガブリエラにも、タイトルマッチのチャンスがやってきたのでしょうか?』
『はい。彼女も着実に実績を積んでいますからね。これまでのトップファイターはいずれもアメリア選手に敗れていますので、今後の挑戦者には彼女のように若い世代が相応しいのかもしれません』
アナウンサーと深見氏は、そんな風に語っている。
そしてこちらでは、灰原選手が「ふーん?」と声をあげていた。
「こいつ、そんなに強いのかなー? ドサクサまぎれで、タイトルマッチに絡もうとしてるとか?」
「いや。《アクセル・ファイト》はセキュリティが厳重だから、スタッフの許可もなしにこんな場所まで乗り込めないよ。アダムさんも笑ってるから、きっとシナリオ通りの演出なんだろう。ベリーニャとアメリアのどっちが勝とうと、次の挑戦者はこいつだって決められてたんだろうね」
「へー! 試合の前からそんなことを決めてるなんて、用意周到だねー!」
「さっき深見さんも言ってたけど、この階級はアメリアに蹂躙された後だからさ。挑戦者の候補は、そんなに多くなかったんだろうね」
多賀崎選手の含蓄ある言葉を聞きながら、瓜子はユーリに向きなおった。
「だそうですよ。新たなライバルが現れたら、ベリーニャ選手も喜ぶんじゃないっすか?」
「うみゅ……それはそれで、何だか悔しいにゃあ」
「何すか、もう。業の深いお人っすね」
瓜子が愛情をこめて髪のひとふさを引っ張ると、ユーリは恥じらうように「にゃはは」と笑った。




