ACT.1 下準備 01《アクセル・ファイト》ブラジル大会
時節は、四月に突入した。
瓜子とユーリ、それに《アトミック・ガールズ》を主戦場にする女子選手にとっては試合が存在しない中休みの月となるが、もちろん退屈するいとまはない。毎度毎度の話であるが、こういう平時にどれだけたゆみなく稽古を積むかで、試合の結果は左右されるのである。来月の五月大会でサキとのタイトルマッチなどというものが組まれた瓜子などは、とりわけ奮起しながら稽古に励むことになった。
いっぽう自らプレスマン道場を離脱したサキは、赤星道場とドッグ・ジムの両方で出稽古を積んでいる。サキ自身は一切の連絡を断っていたが、それぞれの関係者が義理を通すために一報を入れてくれたのである。
『まあ、サキさんは自身が分析の能力に優れているので、我々が助言を送る必要はないようだ。ここだけの話、猪狩さんの対戦相手に肩入れするというのは、あまり気が進まなかったので……そういう意味では、私も心労を抱えずに済んだよ』
赤星弥生子などは、電話でそのように告げてくれたものであった。
「ありがとうございます。お世話をかけますけど、サキさんをどうぞよろしくお願いします」
『うん。どのような結果になろうとも、背筋が震えるような名勝負になることは確定しているからね。試合の当日は、私も心して見守らせていただくよ』
赤星弥生子にそのように言ってもらえるのは、瓜子にとっても光栄の限りである。瓜子自身は、どんなにぶざまな姿をさらすことになろうとも、とにかく自分のすべてをサキに叩きつけようという所存であった。
「にしても、サキのほうからそんな話を持ちかけるなんてねー! その一ヶ月後には《ビギニング》の試合だってのに、あまりにハードじゃない?」
灰原選手は不満げな面持ちでそのように言っていたが、瓜子はサキの行いを心からありがたく思っている。《ビギニング》の六月大会が迫っているからこそ――瓜子と《ビギニング》の半年にわたる特別契約期間が終わりに近づいたからこそ、サキはこのような行動を取ったのだ。
瓜子が六月大会でも結果を出したならば、《ビギニング》と専属契約を交わす可能性が濃厚である。そうしたら、少なくとも瓜子が《ビギニング》から契約解除されるまで、サキと対戦する可能性は失われるのである。それでサキはこれがラストチャンスだと考えて、自らストロー級王座への挑戦を表明してくれたのだった。
ともあれ、瓜子は稽古に励むばかりである。
サキとのタイトルマッチでも、《ビギニング》の六月大会でも、最高の結果を目指す。たとえどれだけハードであっても、瓜子にそれ以外の道は存在しなかったのだった。
そうして四月に入ってからも、日々はあっという間に流れ過ぎ――気づけば、四月の第二日曜日である。
その日はおよそ二ヶ月ぶりに、ユーリとともに暮らすマンションに客人を迎え入れることになった。愛音、蝉川日和、灰原選手、多賀崎選手という、実に馴染み深い顔ぶれだ。その目的は、《アクセル・ファイト》に出場するベリーニャ選手の試合を見届けることであった。
「でも、イネ公は例のBSチャンネルに加入してるんでしょ? だったら、わざわざ集まる必要なくない?」
「それを言うなら、多賀崎サンもご両親がそちらのチャンネルに加入したとうかがっているのです。灰原サンも、そちらにお邪魔すればいいのではないのです?」
「だってさー、試合はみんなで観たほうが盛り上がるじゃん!」
「だったら、愛音だってユーリ様と同じ喜びを分かち合いたいのです」
というわけで、この顔ぶれがマンションに集結したわけである。
その中で、蝉川日和はひとり満身創痍であった。彼女は昨日の土曜日、《G・フォース》の試合に出場していたのだ。瓜子とユーリは副業の仕事があったために観戦にも出向けなかったが、愛音はセコンドとして同行し、蝉川日和が勝利する姿をしっかり見届けていた。
「蝉川は、ランカーを相手にKOを収めたんだってね。まったく、大したもんだ」
多賀崎選手がそんなねぎらいの言葉をかけると、蝉川日和は青痣のういた顔で「いえいえ!」と嬉しそうに笑った。
「勝ってもこの有り様ッスから、コーチ陣にはセッキョーの嵐だったッスよー! ディフェンスの稽古はしてたのに、いざとなると熱くなっちゃうんスよねー!」
「それでも勝ったんだから、大したもんだよ。デビュー一年でランカーを下したんなら、いよいよ王座が見えてきたね」
「いえいえ! ランカーって言っても、九位ッスから! あと八人はぶっ倒さないと、王座には手が届かないッスよー!」
「王座挑戦は、そういうシステムではないのです。蝉川サンは、もうちょっと試合以外の話も学ぶべきであるのです」
と、客人の一行はその日も瓜子たちの部屋を楽しく賑やかしてくれた。
そんな中、ユーリはひとりでせわしなく身を揺すっている。ベリーニャ選手の勇姿を拝見したくて、うずうずしているのだろう。瓜子たちは本日も昼下がりまで副業の仕事であったため、すでに終了している試合をストリーミング配信のアーカイブとやらで観戦するのだった。
「それじゃあ、パソコンの準備をしちゃいますね。くつろぎながら、お待ちください」
ユーリの心情を慮って、瓜子はノートパソコンの電源を入れた。
その間も、灰原選手は元気いっぱいに発言する。
「今日の試合って、めっちゃ早朝に生配信してたんでしょー? そりゃー仕事がなくったって、リアルタイムで観るのはキビしいよねー!」
「ええ。時差がちょうど十二時間ですから、プレリミなんかは朝の五時からだったみたいっすね。でも、BSチャンネルだとメインの試合しか放映されないんすよね?」
「ああ。いちおう家でも録画しておいたけど、開始時間は午前八時だったね。現地で言うと、土曜日の午後八時からメインカードが開始されたってわけか」
多賀崎選手の返答に、灰原選手は「んー?」と小首を傾げた。
「でも、北米とかの大会はこっちだと正午からスタートだったよね! あっちのほうが、時差は大きいんじゃなかったっけ?」
「ラスベガスだと、時差は十六時間だね。だから、こっちの正午から十六時間マイナスすると、午後の八時になるわけだよ」
「あー、そーゆーことか! よくわかんないけど、わかったわかった!」
「一文で、ものの見事に矛盾しているのです。灰原選手は、暗算が苦手なのです?」
「うっさいなー! ちょっといい大学にいってるからって、威張らないでよねー!」
「これぐらいの暗算は、小学生のレベルだと思うのです」
と、瓜子が視聴の準備をするわずかな時間でも、まったく賑やかさには変わりがなかった。
「はい、お待たせしました。数時間前の試合なのに、もうきちんと試合ごとに分割されてますね」
瓜子が操作を完了させると、テレビ画面にパソコンの画面が転送された。メイの試合を観るために加入した、《アクセル・ファイト》の公式配信チャンネルである。愛音や多賀崎選手が加入しているBSチャンネルでは大きな大会のメインカードしか放映されないが、こちらではしっかりプレリミナルカードの試合も表示されていた。
試合の開催日は現地の時間で言うと昨日の土曜日で、場所はブラジルのリオデジャネイロである。これは《アクセル・ファイト》においてもっとも大きな大会であるナンバーシリーズという興行であるが、それがこの地で開催されたのだ。つまり《アクセル・ファイト》においても、ブラジルという地がそれだけ重要であるということであった。
「このナンバーシリーズっていうのは基本的に北米で開催されてるんすけど、年に二、三回だけブラジルやカナダなんかで開かれてるみたいっすね」
「それで、ベリーニャの防衛戦がメインイベントに設定されたわけだ。それはもう、めちゃくちゃ栄誉なことだよね」
北米に進出して《アクセル・ファイト》の王者になったベリーニャ選手が、故郷ブラジルで防衛戦を行うのだ。現地でどれだけの盛り上がりを見せるかは、想像に難くなかった。
「で、うり坊たちもいずれこの会場で試合をするってんだからねー! もー、羨ましいったらありゃしないよー!」
と、灰原選手が瓜子にしなだれかかってくる。四月に入って、《ビギニング》の六月大会の概要が正式に告知されたのだ。瓜子はサキとのタイトルマッチばかりでなく、そちらの試合に向けても稽古を積んでいるさなかであった。
「……でも、今回ばかりは愛音も大学があるのでご一緒できないのです。長期休暇の期間でなかったことが悔やまれてならないのです」
そんな風に言いながら、愛音はじっとりした目つきで蝉川日和のほうを見た。先日のシンガポール大会は愛音もたまたま大学の長い春休みの期間中であったので同行できたが、さすがに六月の終わりには都合がつかなかったのだ。いっぽうフリーのアルバイターである蝉川日和は今回も雑用係を頼まれていたので、「てへへ」と嬉しそうに笑っていた。
「猪狩さんの試合を生で観られて、海外旅行までできて、おまけにバイト代までもらえるんスからねー。なんか、夢みたいなお話ッスよー」
「……愛音の羨みをものともしない蝉川サンの豪胆さには、感服するばかりであるのです」
「とりあえず、ベリーニャの試合を拝見しようか。桃園が期待ではちきれんばかりになってるからさ」
「うみゃあ。多賀崎選手の心遣いに、感涙を禁じ得ないのですぅ」
ユーリはもじもじと肢体をよじり、多賀崎選手は苦笑する。そんな微笑ましい姿を横目に、瓜子は目的のサムネイルをクリックした。
この大会のメインイベント、ベリーニャ選手とアメリア選手のタイトルマッチだ。昨年末にはベリーニャ選手がアメリア選手のタイトルに挑戦する形であったが、今回はベリーニャ選手がアメリア選手の挑戦を受ける格好である。これはおよそ四ヶ月越しの、ダイレクト・リマッチであったのだった。
これは《アクセル・ファイト》のメイン大会であるため、こちらの配信でも日本人による解説がつけられている。解説役は、ちょっと懐かしい深見道場の深見氏であった。
「おー、深見さんって、あの深見さんッスかー? あの人って、ほんとにすごい人なんスねー」
「ああ、蝉川はこのお人の秘蔵っ子とキックで対戦してたんだっけ」
「ふふーん! あたしだって、アトミックで激勝してるけどねー!」
深見氏の秘蔵っ子、宗田星見選手である。《カノン A.G》および《アトミック・ガールズ》の舞台で一色ルイ、鞠山選手、灰原選手に三連敗した宗田選手は、武者修行と称してキックの舞台に殴り込みをかけて、素晴らしい戦績をあげていたのだ。それを昨年の二月、蝉川日和がプロデビュー戦でKOに下してみせたのだった。
「でも蝉川さんに負けて以降は、また連勝記録をのばしてるみたいっすね。しっかり実績を作ったんだから、そろそろMMAに戻ってきてほしいっすね」
「うんうん! そしたらあたしが、返り討ちにしてやるさー!」
灰原選手が元気に声をあげた頃、ついに青コーナーからアメリア選手が入場してきた。
《アトミック・ガールズ》女子バンタム級の、かつての絶対王者である。彼女は試合が開始されるまでにこやかな表情を振りまく人間であったはずだが、このたびは入場の際から眉間に深い皺を刻んで、鬼の形相になっていた。
そして、そんなアメリア選手に、盛大なブーイングが捧げられている。その勢いに、灰原選手が「何これ?」と目を丸くした。
「こいつ何か、悪いことでもしたの? 前回のタイトルマッチでは、大歓声だったよねー?」
その試合模様も瓜子たちがシンガポールに遠征する直前、このメンバーで一緒に視聴していたのだ。その日のことを懐かしく思いながら、瓜子は「ええ」とうなずいた。
「これが、ブラジルの洗礼らしいっすよ。コーチに言われて、ブラジルの試合をいくつか拝見したんすけど……ブラジル出身の人気選手と対戦する選手は、こういう目にあうらしいです」
「へーっ! そーいえば、サッカーとかバスケとかでも海外の試合はブーイングがすごいもんねー! 面白いじゃん!」
「お、やっぱり灰原選手も、そういうのに燃えるタイプっすか?」
「うん! 最近は大歓声ばっかだから、ブーイングが恋しいよねー! いやー、人気者はつらい!」
「ふふん。あんたも負けがこんでたデビュー当時は、それなりにブーイングを浴びてたもんね。……でも、これは規模が違うなぁ」
多賀崎選手の言う通り、画面からでもブーイングの凄まじさが感じ取れた。
これが、スポーツに熱狂する国民性というものであるのだろう。日本では、なかなかお目のかかる機会のない光景だ。それに対抗するために、アメリア選手は入場時から気合を入れているのかもしれなかった。
(まあ、そうじゃなくっても、一ラウンドで完封された相手とのリベンジ・マッチで、しかもタイトルマッチだからな。気合が入って、当然か)
ボディチェックを完了させたアメリア選手はケージに上がったのちも同じ形相で、屈伸運動を開始する。その間も、怒号のごときブーイングが会場中に吹き荒れていた。
そうして、ベリーニャ選手が赤コーナーの花道に現れると――それが、大歓声に転じた。
やはりジルベルトファミリーのトップファイターであるベリーニャ選手は、祖国でこれほどの人気を博しているのだ。それでもベリーニャ選手は相変わらずの静謐な面持ちであったが――ただ、そのしなやかな体躯からは以前よりもさらにくっきりとした風格が感じられてならなかった。
大歓声とは関係なく、彼女はついに《アクセル・ファイト》の王者となったのだ。昔日より最強の名を欲しいままにしていたベリーニャ選手が、その名声に相応しい実績を築いたのである。いまやベリーニャ選手は名実ともに、女子最強の選手であったのだった。
そんなベリーニャ選手の姿を、ユーリは陶然とした目で見守っている。
ユーリはいつか、ベリーニャ選手と再戦することがかなうのか――瓜子の心にはいつもそんな疑念がくすぶっていたが、今日もそれを口にすることなく、ベリーニャ選手の勇姿を黙って見守ることにした。




