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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
インターバル
765/955

約束

《アトミック・ガールズ》三月大会の翌日――三月の第三月曜日である。

 瓜子たちは試合に出場していなかったため、その日も容赦なく副業の予定が入れられていた。というよりも、瓜子たちは帰国してから一週間の骨休めの期間が与えられて、これが副業の仕事始めであったのだった。


 しかし幸いなことに、本日の仕事は打ち合わせのみとなる。それものきなみ『トライ・アングル』がらみの案件であったため、瓜子にとってはもっとも胸の弾む内容であった。


 そしてまた、帰国してから『トライ・アングル』のメンバーと顔をあわせるのは、これが初めてのこととなる。昨日は『ワンド・ペイジ』も『ベイビー・アピール』もそれぞれライブであったため、祝勝会に駆けつけることもできなかったのだ。彼らはその分、瓜子とユーリをさんざんもてはやしてくれたのだった。


「いやー、シンガポールの試合はマジですごかったな! 瓜子ちゃんは相変わらず一ラウンドKOだったけど、一瞬も目を離せなかったよ!」


「相手選手も、どえらく強そうだったもんな! ま、瓜子ちゃんほどじゃないけどよ!」


「ユーリさんの相手も、すごかったですね。ユーリさんの攻撃をあそこまでくらって立っていた選手は、初めてなんじゃないですか?」


「ほんとほんと。あれはあれで、化け物じみてたよ。ユーリちゃんの蹴りやら何やらはハンパないもんなぁ」


 と、能動的に声をかけてくれるのは、漆原を除く『ベイビー・アピール』の三名と西岡桔平である。漆原は千駄ヶ谷にまとわりつき、山寺博人は仏頂面でそっぽを向き、陣内征生が目を泳がせているのも、なんだか懐かしき光景だ。


 ただそこで、常ならぬ現象が起きた。陣内征生が目を泳がせながら、おずおずと発言したのである。


「ぼ、僕もキッペイさんのお宅で、一緒に試合を拝見しました。お、お二人とも、本当に凄かったと思います」


「おー! ついに陣内が、酒の力を借りずに瓜子ちゃんたちと喋ったぞ!」


「あ、いや、その……シ、シンガポールの試合でも僕たちの曲を使ってもらえたのが、すごく嬉しくって……」


 と、陣内征生は誰とも視線を合わせないまま、弱々しく口もとをほころばせた。

「そうかそうか!」と、タツヤはその丸っこい肩を抱く。


「瓜子ちゃんはワンドの曲で、ユーリちゃんは『Re:boot』だもんな! 両方に関わってるお前らが羨ましいぜ!」


「あ、ど、どうもその、恐縮です……」


「いいっていいって! 陣内は、可愛げがあるからな! ……で、山寺はまたダンマリかよ? どうせお前も西岡の家で、一緒に観てたんだろ? お前は瓜子ちゃんにこそこそしゃべりかけるんじゃなく、こういう場でこそ素直に声をかけろよ!」


 笑顔のタツヤにはやしたてられて、山寺博人は「うるせえな」と顔をしかめてしまう。そのタイミングで、千駄ヶ谷がパンッと手を打ち鳴らした。


「では、再会の挨拶はここまでとして、打ち合わせを開始いたしましょう。時間は、有限ですので」


 ひときわやんちゃなタツヤとダイも、「へーい」と大人しくなる。それもまた、瓜子にとっては懐かしくて胸の温まる光景であった。


 本日の打ち合わせは、四月に行われる東京の追加公演と、同月にリリースされるライブ映像作品、そしてその先に予定されているセカンドアルバム、および六月以降のライブ活動についてである。ユーリのみならず『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』も本業の活動があるために、何事も先倒しで話を詰めておかなければならないのだった。


 とりわけ厄介なのは、やはりユーリであろう。何せ《ビギニング》の六月大会を終えないことには、その後のスケジュールがまったく定まらないのだ。現時点で確定しているのは七月に試合を行うことはなかろうという一点であったが、六月大会で大きなダメージを負ったならば音楽活動もままならないので、あまり予定を詰め込むこともかなわないのだった。


「《ビギニング》は国内外と規模の大小を取り合わせて月に複数回の興行を開いていますが、各選手に試合が組まれるペースは平均して二、三ヶ月置きということになっています。となると、ユーリ選手が正式契約を勝ち取ったとしても、次の試合は八月か九月……かなうことならば、八月には予定を空けていただき、夏のロックフェスにまた参戦したいところですね」


「はい。以前にちょっとだけ運営のスタッフさんにお話をうかがう機会があったんすけど、《ビギニング》からのブッキングを受けるかどうかは選手の自由意思にゆだねられるそうです。もちろん、契約の段階で最低限の試合数が設定されるので、それを下回ったらファイトマネーが減額されるわけですけど……《ビギニング》は興行の回数が多いから、どこかで挽回する余地がありそうなんすよね。八月のブッキングをお断りして九月に試合を設定してもらうっていうのも、まあ不可能ではないみたいです」


「なるほど。今回のように出場する月があらかじめて設定されているのは、あくまで特殊な形態の契約であるわけですね?」


「はい。ただし、あちらのブッキングをことごとくお断りして自分の都合ばかり優先していたら、規定の試合数をこなしても評価は下がってしまうみたいっすね。それでファイトマネーが減額されることはありませんけど、あまりに評価が下がると契約を打ち切られてしまうみたいです」


「そのような形で契約解除されるのは不名誉の極みですし、今後の選手活動にも支障をきたしかねません。なんとか格闘技の本業をおろそかにしないまま、副業の音楽活動も満足な結果を目指せるように、こちらが配慮に配慮を重ねるべきでしょうね」


 と、ユーリにまつわる話では、おおよそ千駄ヶ谷と瓜子が語らうことになった。何せユーリは、契約内容といったものに無頓着であるのだ。同じ立場である瓜子がそれなりに内容をわきまえているのは、幸いな話であった。


 そして実務の話題になれば、もちろん瓜子も黙って拝聴するのみである。そちらの主題はセカンドアルバムについてであり、今回は新たなカバー曲の候補が選定されたのだった。


「現時点で『トライ・アングル』は『ベイビー・アピール』から三曲、『ワンド・ペイジ』から四曲、合計七曲をカバーしておりますので、最低でもあと三曲は補充するべきでしょう」


 そうして全十曲の楽曲をそろえて、カバーアルバムを作製しようという予定であるのだ。まあ、カバーといってもすべて『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』の楽曲であるため、半分がたはセルフカバーのようなものである。ただ、歌うのはユーリであるし、各バンドもそれぞれ相手の楽曲に参加しなければならないわけであるから、楽曲の選定には入念な吟味が必要になるのだった。


 まずは、ユーリが感情を込めて歌えるような歌詞であるか。次に、ユーリの声域に適したキーであるか。または、そういうキーに変更が可能であるか。そして、八名の編成で理想的なアレンジを施せる見込みが立つか。さらに、アルバム全体のバランスを保てるような曲調であるか。それらのすべてをクリアーしなければならないのだから、これはなかなかに難題であった。


 しかしまあ、各バンドが挙げた候補曲はすでに全メンバーに周知されていたので、あとはディスカッションに励むばかりである。いったいどの曲が選ばれるのかと、瓜子はひそかに胸を高鳴らせながらその場の熱い議論を見守るばかりであった。


 そうして昼過ぎに開始された打ち合わせは午後の四時に終了し、ようやく解放の時間である。

『ベイビー・アピール』から祝勝会を兼ねたディナーのお誘いを受けたが、それはお断りすることになった。プレスマン道場から瓜子の携帯に連絡が入っていたのである。ついに《ビギニング》から六月大会の詳細について連絡が入ったので、なるべく早い時間に道場まで出向いてほしいとのことであった。


「ついに来ましたね。まあまだ二、三ヶ月はあるから焦ることはありませんけど……今度はどんなお相手なのか、わくわくしちゃいますね」


「うんうん。そもそも、どこの国で試合をすることになるのだろうねぇ」


 そうして瓜子とユーリは存分に胸を躍らせながら、プレスマン道場に向かったわけであるが――そちらで待ちかまえていた立松は、何故だか仏頂面であった。


「あれ? どうしたんすか、立松コーチ? 何か納得のいかない内容だったんすか?」


「いや……これはまあ、気合のあらわれってやつだ。お前さんがたも、心して聞いてくれ」


 道場はまだ自由稽古の時間帯であるので、稽古場ではプロ選手と熱心なアマ選手が稽古に励んでいる。そちらの面倒はジョンやサイトーにおまかせして、立松は瓜子たちを事務室に招いた。


「今さら言うまでもないが、《ビギニング》代表のスチットさんは誠実で信用の置けるお人だ。ただ……それと同時に、容赦もへったくれもないお人だな」


「押忍。そんなに強敵を準備してくださったんなら、自分もユーリさんも嬉しいっすけど」


「相手選手の話だけじゃねえんだよ。……まあいい。順序立てて説明する。しつこいようだが、心して聞いてくれ」


 立松が深刻な面持ちであるために、瓜子もパイプ椅子で背筋をのばす。いっぽうユーリも表面上は、かしこまった顔をしていた。


「この前の大会の開会式で、スチットさんは海外進出に力を入れるって宣言してたろ? どうやらこの六月大会も、その一環らしいな」


「なるほど。でも《ビギニング》は、もともとあちこちの国で興行を打ってるんすよね? 日本はこの前が初めてでしたけど、タイ、韓国、中国なんかで実績があるんでしたっけ?」


「ああ。これまでは、アジアを中心に興行を打ってた。だから今度は、その外にまで進出するって話らしい。……六月大会が開催されるのは、ブラジルのリオデジャネイロだ」


「ぶらじるっ!」と、ユーリが呆気なくつつましい顔をかなぐり捨てた。


「ブラジルといえば、恐れ多くもベル様のお膝元ではありませぬか! ユーリとうり坊ちゃんは、ブラジルで試合をすることができるのですか!?」


「うん、まあ、桃園さんはそんな感じなんだろうな。……猪狩はブラジルについて、どんな印象を持ってる?」


「ブラジルっすか。それはもちろんブラジリアン柔術発祥の地なんですから、MMAの本場でもあるんじゃないっすか?」


「ああ。言うまでもなく、ブラジルには強豪選手がひしめいてる。一時期は、《アクセル・ファイト》の王者がブラジルの選手で埋め尽くされたぐらいだしな。選手層の厚さで言えば、北米と一、二を争うぐらいだろう」


 立松は難しい顔をしたまま、逞しい腕を胸の前で組んだ。


「それでだな……今回は、ブラジルとの対抗戦が企画されたってわけだよ。しかも、女子選手オンリーの興行なんだそうだ」


「えっ! 女子選手オンリーですか! それは、思い切りましたね!」


「ああ。それで夏頃には、男子選手オンリーの興行も計画してるらしい。だからまあ、どっちの陣営にとっても前哨戦って扱いなのかもしれんが……こっちにしてみりゃ、これが本番だ。《ビギニング》の精鋭とブラジル陣営の対抗戦で、その中にお前さんがたも組み込まれてるってわけだな。うがった見方をするなら、お前さんがたは女子選手の陣営を補強するために今回の契約を持ちかけられたのかもしれねえぞ」


 それは、光栄な話である。今度はシンガポールの面々と手を携えてブラジルの強豪選手を相手取れるならば、瓜子の胸は高鳴るばかりであった。


「本当にスチットさんは、凄腕のプロモーターなんすね。……でも、どうして立松コーチは苦いお顔をしてるんすか?」


「それは、ブラジルの試合のしんどさを伝え聞いてるからだよ」


 真剣かつ深刻な顔を保持したまま、立松はそのように語った。


「まず言うまでもなく、ブラジルってのは遠い。日本の裏側ってのは大げさな表現らしいが、それでも飛行機で一日がかりだ。下手をしたら、二十四時間でも収まりきらないぐらいだろう。それで時差もきっかり十二時間だから、今度こそコンディションを整えるのにそれなりの気合を入れる必要があるだろうな」


「押忍。でも、時差は十二時間なんすね。それがそんなに心配なんすか?」


 ユーリが『アクセル・ロード』で出向いたラスベガスは、十六時間の時差であったのだ。それでもユーリはあれだけの結果を出したのだから、瓜子とて弱音を吐く気にはなれなかった。

 しかし立松は、難しい顔のまま首を横に振る。


「それはあくまで、しんどさの一因だ。それに加えて、ブラジルってのは特殊な環境なんだよ。日本人選手には、ブラジルでの試合を嫌がる人間も少なくないって話だしな」


「押忍。何がそんなに、負担なんすか?」


「簡単に言っちまえば、究極のアウェイなんだよ。ブラジルに限らず、南米ってのはスポーツに熱狂するお国柄だ。そら、サッカーなんかでもフーリガンなんてもんがあっただろ。自国の選手に対して思い入れが強烈だから、相手選手に対する風当たりも尋常じゃないってわけだな。……今回ばかりは、お前さんがたの人気も防波堤にならねえはずだぞ」


「なるほど。でも、ブーイングぐらいなら上等っすよ。ね、ユーリさん?」


「もちのろんなのです! ユーリもデビューして一年ぐらいは、小さからぬブーイングをいただいておりましたので!」


「……そのブーイングも、日本の比じゃねえと思うけどな」


 そんな風に言ってから、ようやく立松は苦笑を浮かべた。


「ま、お前さんがたなら、どんなアウェイでもへこたれることはねえか。ただし、《アクセル・ファイト》で過去のブラジル大会をチェックしておけ。そうすれば、ブラジルの流儀ってもんが理解できるだろうからよ」


「押忍。お手数ですが、そちらもよろしくお願いします」


「ああ。《ビギニング》の過去の試合映像が大放出されるってんで、こっちも胸を撫でおろしたところなのにな。今度の相手は、ブラジリアンときたもんだ。対戦相手については可能な限り情報をかき集めるから、そっちがまとまるまではまんべんなく稽古だな」


「押忍。対戦相手は、どんな感じなんでしょう?」


「今はまだ、名前と所属ジムしかわからん。……ああ、そうそう。所属ジムは、どっちもジルベルトの系列だったぞ」


「じるべるとっ!」と、ユーリは再び奮起する。

 立松は、苦笑を深めながら手を振った。


「今はアトミックにだって、ジルベルト柔術アカデミーの選手が出場してるだろうがよ? ベリーニャ選手が出てくるわけでもあるまいし、興奮しなさんな」


「でもでも、本場ブラジルのジルベルト柔術道場なのですから――!」


「あくまで、系列ジムだよ。ジルベルトの誰かさんに鍛えられた誰かさんが立ち上げた新興ジムってことだろう。しかしまあ、寝技に力を入れてることに間違いはないだろうから……猪狩なんかは、またまた正念場だな」


「押忍。本場ブラジルのグラップラーなんて、わくわくしちゃいますね」


 立松は処置なしといった様子で肩をすくめる。

 ただ、最前までの深刻な気配はすっかり払拭されたし、瓜子たちを見つめる目にはとても満足そうな光が瞬いていた。


「ま、こいつはすでに契約済みの試合なんだから、どんなに思い悩んだって正面突破するしかない。試合の開催は六月の最終土曜日で、まるまる三ヶ月も猶予があるからな。オーバーワークに気をつけて、気合を入れていけ」


「押忍。ご指導、お願いします」


 そうして瓜子が一礼したところで、卓上の電話が鳴り響いた。その小さな液晶ディスプレイを覗き込んだ立松は、「ふふん」と鼻を鳴らす。


「昨日の今日で、パラス=アテナからか。サキや邑崎にも、出番が回ってきたかな。……じゃ、そっちも問題なければウォームアップを始めておけ」


「押忍。失礼します」


 あらためて一礼して、瓜子はユーリとともに事務室を出た。


「いやあ、ちょっと予想外でしたけど、かなり気合の入る内容でしたね」


「うんうん。立松コーチにどうなだめられようとも、ユーリは感動を禁じ得ないのです。本場ブラジルでジルベルト柔術の選手と対戦できるだなんて、なんだか夢みたいだにゃあ」


 うっとりと目を細めるユーリの姿に心を温かくしながら、瓜子は更衣室に向かおうとした。

 すると、行く手からしなやかな輪郭をした人影が近づいてくる。それで瓜子は、ますます楽しい心地になった。


「サキさん、お疲れ様です。今日は早かったっすね」


「おー。立松っつぁんは、事務室か?」


「押忍。パラス=アテナから電話みたいです。サキさんの試合が決まったんすかね」


「ほうかい。そんなら、ちょうどよかったなー」


「ちょうどよかった?」と、瓜子が小首を傾げたとき――事務室のドアが叩き開けられて、真っ赤な顔をした立松が飛び出してきた。


「サキ! お前、どういうつもりなんだ!?」


「どーゆーもこーゆーも、パラス=アテナの三代目組長が語った通りだよ」


 サキはいつも通りのクールな面持ちだが、立松はわなわなと肩を震わせている。何か、尋常ならざる気配であった。


「ど、どうしたんすか? いったい何があったんです?」


「アタシとおめーに、試合のオファーがあったんだろ。二度手間にならねーで、けっこーな話じゃねーか」


 立松はぎゅっと眉をひそめながら、サキの顔をにらみつけた。


「お前……本気なんだな?」


「何がだよ? 本気でも冗談でも、やることに変わりはねーだろ」


 サキは相変わらずの人を食った態度であったが――ただ、長い前髪から覗く切れ長の目には、なんだか白刃のごとき鋭い眼差しがたたえられていた。


「……わかった。お前が本気なら、俺も文句はねえよ」


 立松はいったんまぶたを閉ざし、すべての激情を呑みくだすように深呼吸をしてから瓜子に向きなおってきた。


「アトミック五月大会のオファーがあった。内容は……ストロー級のベルトをかけた、お前さんとサキのタイトルマッチだ」


「え?」と、瓜子は立ちすくむ。

 立松の語った言葉が、しばし理解できなかったのだ。


「アトム級王者のサキがストロー級王座への挑戦を表明して、パラス=アテナがそれを受諾した。お前さんも受諾すれば、マッチメイクは成立だ。……このオファー、どうする?」


「え、あ、いや……サ、サキさんが、自分の王座に挑戦? ちょ、ちょっと意味がわかんないんすけど……」


「なんでだよ。おめー、先輩様のありがてーお言葉を忘れちまったわけじゃねーだろうなー?」


 サキの言葉が、瓜子の心を遥かなる昔日へと吹き飛ばした。

 あれはもう、二年近くも前のこと――サキが、アトム級への転向を表明した日のことである。


 左膝のリハビリに励みながら稽古に勤しみ、規則正しい生活に身を置いた結果、サキは平常体重が五十キロを切ってしまった。それで、瓜子が所属するストロー級からアトム級に転向することになったのだ。


 それは、いつか再びサキと対戦したいと願う瓜子にとって、きわめてショッキングな出来事であったのだが――しかし瓜子は気落ちすることなく、その事実を受け止めた。当初の瓜子はそれよりも、サキが現役選手として復帰できる喜びにひたっていたのだ。決して心を偽ることなく、瓜子はサキにお祝いの言葉を投げかけたつもりであった。


 だけどやっぱり瓜子の心の奥底には、無念の思いが渦巻いていたのだろう。

 そして瓜子は常々、感情が駄々洩れであると称されていた。きっとそのときも、喜びの思いと無念の思いがこぼれまくっていたのである。

 そんな瓜子に、サキはひとつの言葉を投げかけてくれた。


「で、おたがい相手がいなくなったら、王者対決でもぶちかましゃあいいだけのこった。そんときは、おめーの階級でリベンジマッチを受けてやんよ」


 サキは、そのように言っていたのである。

 瓜子は決して、その言葉を忘れていなかった。何より、サキがそんな言葉をかけてくれたのが嬉しかったのだ。


 ただし、そんな話が実現する可能性はきわめて低いのだろうと思っていた。

 しかし、サキは――それを実現させるために、パラス=アテナに連絡を取っていたのだった。


「どーせおめーは《ビギニング》の六月大会でも大暴れして、そのままアトミックからおさらばするんだろーからな。だったらこれが、ラストチャンスだろ」


 サキはいつも通りの軽妙な口調で、そのように言いたてた。


「これでアタシは、アトムとストローの二冠王だ。《フィスト》のベルトは勘弁してやるから、ありがたく思えや」


「……そうはいかないっすよ。全身全霊で、アトミックのベルトも守り通してみせます」


「ほうかい」と、サキは肩をすくめた。

 その切れ長の目には、白刃のごとき光がたたえられたままであり――そしてその口には、滅多に見せない微笑がたたえられた。


「ま、せいぜい踏ん張れや。お情けで、こっちが出稽古に出てやんよ。立松っつぁん、二ヶ月ばかり留守にすっけど、よろしくなー」


「……赤星道場か? それとも、ドッグ・ジムか?」


「さてな。敵陣営の人間に、わざわざ教えてやる必要はねーだろ」


 そうしてサキは、かったるそうな足取りで道場を出ていき――瓜子は六月のブラジル遠征の前に、とてつもない大一番を迎えることに相成ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ついにここまでにきて、ジルベルト柔術とサキとの対戦来ましたね。相変わらずサキさん素直ではないですけど、行動自体は周りへの思いやり感じますね。 [気になる点] 太平洋越えるの飛行は結構しんど…
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