07 死闘
第二ラウンドが終了して、最後のインターバルである。
フェンス際で椅子に座した多賀崎選手はセコンド陣のアドバイスを聞きながら、リングドクターに止血の措置を施されている。試合中のタイムストップでは治療を施すことを禁じられているが、インターバル間では許されるのだ。
しかし、流血でドクターストップの危険がない限りは、左頬の裂傷など大勢には影響しないことだろう。それよりも重要であるのは、頭部のダメージとスタミナであった。
序盤から中盤まではステップワーク、終盤では猛攻を見せたため、多賀崎選手はかなりスタミナを使っている。さらに、最後の最後で魅々香選手に打ち負けてしまったのだ。それまでの猛攻を考えればポイントは取れているはずであったが、初回のラウンドのダメージがしっかり残されているのだとしか思えなかった。
いっぽう魅々香選手も、ダメージは小さくない。レバーに三ヶ月蹴りをクリーンヒットされたダメージは甚大であろうし、その後にも猛攻にさらされているのだ。その爬虫類めいた顔には何の表情も浮かべられていなかったが、多賀崎選手に劣らないほどのダメージを抱えているはずであった。
四ッ谷ライオットではトレーナーが、天覇館では来栖舞が、それぞれ厳しい表情でアドバイスを送っている。それを聞く両者の瞳には、それぞれ闘志の炎が燃えあがっていた。
そうして迎えた、最終ラウンドである。
泣いても笑っても、これで決着だ。おそらくポイントは互角であり、この最終ラウンドで優勢に立ったほうが王座を手にできるはずであった。
客席は非常な盛り上がりであるし、控え室にも熱気がわきかえっている。
ただし、瓜子と灰原選手だけは無言である。モニターからかもし出される多賀崎選手と魅々香選手の気迫が、二人から言葉を奪っていた。
ラウンド開始のブザーとともに、両者は勢いよく前進する。
決して無茶な突進ではない。冷静に、かつ果敢に、勝利を求めるための前進であった。
相手の間合いに踏み込む前に、多賀崎選手は右ミドルを射出する。
それをブロックした魅々香選手は、長い腕を多賀崎選手の軸足にのばした。この試合で初めて見せる、片足タックルの動作である。
多賀崎選手は魅々香選手の逞しい両肩に手をあてがって、それを回避する。
魅々香選手はそこから身を起こしつつ、右アッパーを繰り出した。
いっぽう多賀崎選手は蹴り足を戻すと同時に、身をのけぞらせながらの膝蹴りだ。
魅々香選手の右拳は首をねじった多賀崎選手の左頬をかすめて、多賀崎選手の膝蹴りは魅々香選手の胸もとを浅く叩いた。
その一撃で、また多賀崎選手の左頬から血が滴る。
そして、レバーにダメージを抱える魅々香選手には、そのていどの衝撃でも苦痛であったことだろう。
しかし両者は一歩も引かず、その距離から新たな攻撃を繰り出した。多賀崎選手は左ジャブ、魅々香選手は左のショートフックだ。
多賀崎選手の拳が先に命中し、それでやや勢いを落とした魅々香選手の拳がこめかみを叩く。
二人はわずかによろめいたのち、そこから距離を作りなおした。
多賀崎選手は一歩の踏み込み、魅々香選手は半歩の踏み込みで拳の当たる、危険な間合いだ。その距離で牽制の拳を振るいつつ、両名ともに踏み込みのチャンスをうかがった。
きわめて高度で、しかも神経の削れる間合いの取り合いである。ダメージを重ねた最終ラウンドでそのような真似ができるのは、恐るべき精神力であった。
なおかつ、多賀崎選手は相手の足もとにちらちらと視線を送っており、魅々香選手は時おり下方にも左ジャブのように手をのばしている。おたがいに、テイクダウンのプレッシャーまでかけているのだ。
いったいどちらが主導権を握るのかと、瓜子は固唾を飲んで動向をうかがう。
すると、多賀崎選手が大きく踏み込み――それから逃げる格好で、魅々香選手が後退した。
多賀崎選手は、前屈の体勢だ。フェイントなのか本気なのか、タックルのモーションである。
しかし魅々香選手は、下がりながら右ミドルを出していた。この試合で初めて使う、蹴り技である。
多賀崎選手は素晴らしい反射速度で、頭部をガードする。その腕に、魅々香選手の蹴り足が衝突した。
頭は守ったが、多賀崎選手はわずかによろめいてしまう。
その肩口に、魅々香選手がつかみかかった。そして繰り出されたのは、左の膝蹴りだ。
多賀崎選手は腕を十字に組んで、その膝蹴りをブロックする。
そうして魅々香選手の蹴り足が戻される動きに合わせて、軸足へと手をのばした。
多賀崎選手の両腕が、魅々香選手の右足を抱え込む。
そうして多賀崎選手が大きく踏み込むと、魅々香選手はマットに倒れ込んだ。
多賀崎選手は猛然と、その上にのしかかる。
その股座に、魅々香選手の足の甲が引っ掛けられた。さらに、多賀崎選手の右腕を両手で引きながら、その足をおもいきり跳ね上げる。柔術のエスケープ技、フックスイープである。
多賀崎選手の身は横合いに投げ出されて、今度は魅々香選手がその上にのしかかる。
多賀崎選手はすぐさま両足で相手の胴体をはさみこみ、フルガードのポジションを取りながら身をねじり、相手の右肩を上側から巻き込み、ヒップスローで再びポジションを入れ替えた。
多賀崎選手が上となり、しかもマウントポジションだ。
しかし魅々香選手は一瞬と停滞することなく、おもいきり腰を跳ね上げた。
まだ重心が安定していなかった多賀崎選手は前側に倒れ込み、右手をマットにつく。魅々香選手がその腕をつかんで身をよじると、また上下が入れ替わってしまった。
マウントポジションからの反転であるので、多賀崎選手は下になったがガードポジションだ。
多賀崎選手もまた動きを止めず、両足を振り上げて、魅々香選手の右腕と頭部を絡め取った。三角締めの仕掛けである。
魅々香選手はすぐさま立ち上がり、上半身で相手を押し潰し、技を無効化する。
すると多賀崎選手は凄まじい勢いで腰を切り、腕ひしぎ十字固めに移行した。
魅々香選手は多賀崎選手の頭の側に回り込み、その技をも無効化する。そうして身を伏せて、上四方のポジションを取った。
ようやく場が沈静したかに思えたが――多賀崎選手は、狂ったようにブリッジを繰り返した。よくよく見れば、魅々香選手の逞しい右腕が多賀崎選手の首を抱え込もうとしている。魅々香選手はまったく停滞しておらず、ダースチョークを狙っていたのだ。
その腕がクラッチされるより早く、多賀崎選手は腰を切って横合いに逃げていく。そして、首にかけられた魅々香選手の右腕をもぎ離し、相手の身を突き放しながら、立ち上がった。
多賀崎選手はそのままよろめいて、背中をフェンスにぶつけてしまう。
いっぽう魅々香選手はマットにへたりこんだまま、ぜいぜいと息をついていた。
スタミナを大きく使った状態から、あれほど熾烈な寝技の攻防を見せたのだ。多賀崎選手は自分の膝に手を置いて、ふいごのように呼吸を繰り返した。
魅々香選手は膝を立てて中腰の姿勢になったが、やはりそのまま分厚い肩と背中を上下させる。その骨張った顔から滴った汗が、マットにいくつものしみを作っていた。
レフェリーは無情に、『ファイト!』という声を投げかける。
多賀崎選手はフェンスから背中を引き剥がし、魅々香選手は全身を震わせながら立ち上がった。
両者は何とか向かい合ったが、どちらも前屈みの体勢である。もはや、背筋をのばすこともできなくなっているのだ。
腕も、胸の下までさげられてしまっている。今ならば、相手の顔を殴り放題であったが――そんな力は、どちらにも残されていなかった。
残り時間は、一分半である。
序盤の立ち技、中盤の寝技で、もうそれだけの時間が過ぎてしまったのだ。ただし両者には、もうその時間を戦い抜くだけのスタミナも残されていないように見えた。
そんな中、二人は示し合わせたように前進する。
ただしどちらも、腕を上げることができない。それで肩からぶつかり合って、相撲のように組み合うことになった。
細かく震える腕がのろのろと持ち上げられて、何とか相手の胴体を拘束しようと画策する。それはまるで、四匹の死にかけた蛇がもがいているような有り様であった。
おたがいの右腕が、おたがいの左脇に差し込まれる。
左腕は、相手の右腕の上から背中にのばされた格好だ。実に緩慢に、四ツの組み合いが完成された。
そこで先に手をクラッチさせたのは、魅々香選手のほうである。同じぐらい緩慢な動きであったため、リーチでまさる魅々香選手のほうが優位を取ったのだ。
魅々香選手は右足を引き、相手の肩に押し当てた顔を支点にして距離を作る。多賀崎選手にクラッチをさせまいという意図である。この状態でも、魅々香選手は一手ずつ着実に勝利を目指そうとしていた。
クラッチをあきらめた多賀崎選手は、なんとか左腕を持ち上げて、魅々香選手の咽喉もとにもぐらせる。そうして自らも足を引き、相手のクラッチを解除するべく身を引こうとした。
その瞬間――魅々香選手の左足が、多賀崎選手の左足を横合いから蹴りつけた。
柔道の足技の応用であろう。それで魅々香選手が身をよじると、多賀崎選手は力なく倒れ込みそうになった。
しかし多賀崎選手は不屈の闘志で踏み止まり、逆に相手を押し倒そうと前進する。
すると、魅々香選手が右足を振り上げた。
緩慢な動作であるが、膝蹴りだ。腹を蹴られた多賀崎選手は、マウスピースを吐き出しそうな勢いで口を開いた。
しかしその目は、まだ死んでいない。
多賀崎選手は狂ったように身をよじり、魅々香選手のクラッチを引きちぎった。
支えを失った魅々香選手は、よろよろとたたらを踏む。
そちらに向かって、多賀崎選手が右拳を振り上げた。腕は完全に垂れていたので、斜め下方からのアッパーともフックともつかぬスイングだ。
そして――それと同時に、魅々香選手も右拳を振り上げていた。
軌道は、多賀崎選手と同一である。両者ともに、腕にはまったく力が入っていない。それはまるで、肩から紐で吊るされた拳を、身をよじることで無理やり振り上げたような様相であった。
そんな二つの拳が、それぞれの目標を目指す。
目標は、相手の顔面だ。
そこに先に到達したのは、魅々香選手の拳である。それもまた、腕の長さだけが招いた結果なのだろうと思われた。
ほとんど拳も開きかけている手の先が、多賀崎選手の左頬を打つ。
寝技の攻防でマットにぬぐわれた血が、また虚空に四散して――多賀崎選手は、横倒しになった。
魅々香選手は死にかけた怪物のような面相で、その上にのしかかろうとする。
レフェリーがその身を抱きとめて、片腕だけを頭上で振り回した。
試合終了のブザーが、大歓声にかき消される。
フェンスの扉が開かれて、リングドクターが多賀崎選手のもとに駆け寄った。
『三ラウンド、四分五十一秒! 右フックにより、魅々香選手のKO勝利です!』
瓜子の腕が、骨も折れよとばかりの怪力に締めあげられた。
瓜子が目をやると、灰原選手はぽろぽろと涙をこぼしている。しかしその顔は、幼い子供のように笑っていた。
「なんだよ、もう……なんでマコっちゃんは、いっつもこういう試合になっちゃうのかなぁ……」
多賀崎選手は『アクセル・ロード』でも、それから帰参したのちの《アトミック・ガールズ》でも、毎回大接戦であったのだ。ロレッタ選手、青田ナナ、魅々香選手、マリア選手、時任選手――そこに含まれないのは、《フィスト》で対戦したラウラ選手ぐらいかもしれなかった。
「それは多賀崎選手が、どんな相手との勝負でも決してあきらめないからでしょうね。……多賀崎選手は、本当にすごいと思います」
「……そんなの、わかってるもん」
と、灰原選手は涙に濡れた頬を瓜子の肩にすりつけてきた。
モニター上では魅々香選手もマットにへたりこみ、ほとんど這いずるようにして多賀崎選手に近づいていく。半身を起こして左頬の裂傷の処置を受けていた多賀崎選手は、震える右手を魅々香選手に差し出した。
魅々香選手もまた、震える両手で多賀崎選手の手の先をつかみ取る。
二人はもはや、表情を動かす力も残されていないように見えたが――ただその瞳には、とても満ち足りた輝きが灯されていたのだった。




