05 青い目の空手家と凶拳
第九試合は、オリビア選手とジジ選手の一戦である。
オリビア選手が入場すると、ユーリの存在に気づいた人々が怒涛のごとき大歓声を振り絞る。《アトミック・ガールズ》ではセコンドが帽子をかぶることも禁止にしていたため、ユーリはその目立つ頭と美貌をさらけ出していたのだ。純白の髪をした人間などはそうそういないのだから、どんなに遠目でも判別は難しくないはずであった。
ユーリは困り果てた様子で、その純白の頭を抱え込んでしまう。
すると、笑顔のオリビア選手がユーリのウェアの裾を引っ張って、自分の隣に並ばせた。遅ればせながら、灰原選手と同じ作戦を取ることになったのだ。
「ったくもー! うり坊もピンク頭も罪作りだよねー!」
灰原選手はけらけらと笑いながら、瓜子の肩を抱いてきた。
瓜子としては、ユーリの心の安息を祈るばかりである。
そうして次には、ジジ選手の入場が開始される。
相変わらずの、派手な姿だ。まあ、彼女の派手さは大がかりなタトゥーに起因するので、こればかりは変わりようもなかった。
そんなジジ選手とオリビア選手が、レフェリーのもとで向かい合う。
まだバンタム級に階級を上げてから間もない両者であるが、そうとは思えないほどどちらも逞しい肉体が完成されていた。
身長百七十五センチのオリビア選手は、それでもまだシャープな部類である。ただし、ひょろりとして見えるのは首や手足が長いためであり、骨格の出来はジジ選手にも負けていなかった。
いっぽうジジ選手はオリビア選手よりも十センチ小さいし、リカバリーの数字もけっこうなものなのだろう。今や押しも押されもしないバンタム級の逞しさであった。
オリビア選手がのんびりとした面持ちで両手の拳を差し伸べると、ジジ選手はにやにやと笑いながらそれを平手で引っぱたく。鬼沢選手に敗北しても、ジジ選手の不敵なキャラクターに陰りは見られなかった。
そうして試合が開始されると――ジジ選手が、いきなり突進を見せた。
オリビア選手が長い足による前蹴りではばもうとすると、身体をねじって回避して、ひと息に間合いを詰める。そうして振るわれたのは、猛烈なる右フックだ。
オリビア選手はしっかりガードを固めていたが、その一発で長身が揺らいでいた。
さらにジジ選手は左のフックも叩きつけてからオリビア選手の長身に組みつき、向かいのフェンスにまで押し戻す。あれよあれよという間に、壁レスリングの攻防になってしまった。
「わー、すっげー馬鹿力! オリビアだって、めっちゃパワーアップしてるのになー!」
そんな声をあげる灰原選手のかたわらで、瓜子もぐっと拳を握り込む。開始数秒で、ジジ選手の恐ろしさが発揮されたようであった。
(いきなりのラッシュは、ジジ選手のもともとのスタイルだ。でも、それですぐさま組み合いに持ち込むってのは、ここ最近のスタイルだよな)
激烈なる突進を売りにしていたジジ選手は、スタイルチェンジを目論んでいると見なされている。これまでの試合でも、ジジ選手の変化は嫌というほど見せつけられていたが――今回は、これまでのスタイルとの融合までもが発露していた。
そもそもジジ選手はユーリと対戦した三年ほど前から、スタイルチェンジに取り組んでいたのだ。それだけの歳月をかけていれば、新たなスタイルが完成されてもおかしくはなかった。
(まあ、三年前と今じゃあ、また目指してるスタイルも違うんだろうけど……何せコーチは、一流の中の一流だからな)
その一流のコーチたるハンサム・ブロイことブロイ会長は、フェンスの向こう側からジジ選手の試合を見守っている。
オリビア選手をフェンスに押し込んだジジ選手は、一転して粘着質な攻撃だ。相手の下顎に頭を押し当てて、相手の右脇を差しあげながら、太腿のあたりに膝蹴りを撃ち込んでいる。相手の体力を削りながら、隙あらばテイクダウンまで持ち込もうという強い意欲が感じられた。
しかしオリビア選手も、長きにわたってさまざまな稽古に取り組んできた身である。たとえ生粋のストライカーでも、組み技や寝技の防御は徹底的に磨き抜いていた。
それでけっきょくテイクダウンには至らず、膠着状態と見なされて、ケージの中央で仕切り直しとなる。
するとジジ選手は、軽快にステップを踏み始めた。しかもスイッチをして、サウスポーのスタイルだ。序盤から、惜しみなくさまざまな攻め手を見せようという姿勢であった。
いっぽうオリビア選手は、すり足で間合いを測っている。
その顔は早くも汗に濡れていたが、表情を落ち着いたものだ。玄武館の世界大会で優勝の経験もある彼女は、精神のほうも磨き抜かれていた。
そうして訪れた次の展開は、ジジ選手によるヒット&アウェイである。
小気味よくステップを踏みながら左ジャブを振るい、自分のリズムを作っていく。オリビア選手もジャブやボディブローで迎え撃っていたが、その拳がジジ選手の身に触れることはなかった。
「上手いですね。現段階でもポイントはジジ選手に傾いているでしょうから、このまま逃げきってもいいという考えなのでしょう」
しばらく静かにしていた武中選手が、そんな寸評を述べたてた。
ジジ選手は北米でも勝てるように、堅実なスタイルを磨いたのではないかという見込みであったのだ。四ヶ月間の空白を経て、またそのスタイルが洗練されたようであった。
オリビア選手が近づこうとすると、ジジ選手は素早く逃げてしまう。
そして、チャンスがあれば自分から組みつきだ。それはオリビア選手の長い腕で阻まれたが、ただ逃げるばかりでないという手ごわさが感じられた。
そうして一ラウンド目は静かなまま終わり、第二ラウンドである。
セコンドに檄を飛ばされたのか、オリビア選手は初回よりも強気で前進していく。まあ、檄と言ってもチーフセコンドはジョンであるのでずいぶんやわらかな物言いであろうが、言葉の内容は的確であるはずであった。
(ジョン先生だって、ハンサム・ブロイに負けないぐらいの名コーチだぞ)
そのように念じる瓜子の前で、オリビア選手は力強く前進していく。
すると、ジジ選手が鋭い踏み込みからの左フックを見せた。
それをガードしたオリビア選手は、すかさずレバーブローを返す。
それを右腕でブロックしたジジ選手は、再びオリビア選手の胴体に組みついた。
オリビア選手はジョンから習い覚えた首相撲で迎え撃ったが、相手の突進力に負けてまたフェンスに押し込まれてしまう。
あとは、初回と同じ展開だ。ただし、ジジ選手もいっそうの力でオリビア選手を抑え込み、嫌がらせの域を超えた膝蹴りを何発も撃ち込んだ。
オリビア選手もたゆみなく壁レスリングの稽古に打ち込んでいるのだが、ジジ選手の圧力を跳ね返すことはかなわない。ジジ選手が、それだけの力を見せているのだ。もとより尋常ならざる突進力を持っているジジ選手は、フェンスに押し込む力もそれ相応なのだろうと思われた。
今回は前回よりも長い時間をかけた上で、ブレイクとなる。
するとオリビア選手が、めげずに前進した。スタミナの温存よりも、攻めることを選んだのだ。
今回は、遠い距離から前蹴りや右ミドルも狙っていく。ジジ選手はステップワークで回避していたが、初回のラウンドよりも足取りは鈍りつつあった。
「ジジはそんなにスタミナがあるタイプじゃなさそうだもんねー! いけいけ、オリビア! ぶっ飛ばしちゃえー!」
オールラウンダーに成長しつつあるジジ選手に蹴り技を多発するのはテイクダウンを取られる危険が生じるが、オリビア選手もそんなリスクはわきまえた上で攻勢に出ているのだろう。ジジ選手の陣営はポイントゲームを重視しているように見受けられるので、こちらも二ラウンド連続でポイントを取られることは何としてでも避けたいはずであった。
オリビア選手の攻撃はきわめて重いので、一発でも当たれば流れを変えることができるだろう。
しかし、その一発が、なかなか当たらない。ジジ選手はスタミナを使ってでも、すべての攻撃を回避しようという構えであった。
そして、二ラウンド目の残り時間が一分を切ったとき――ジジ選手が、ラッシュを仕掛けてきた。
インファイトを得意にするオリビア選手は、臆することなくそれに応じる。これだけ距離が詰まれば、ジジ選手もかわすのではなく腕を使ってガードするしかなかった。
オリビア選手がひときわ得意とするのは、ボディブローだ。たとえ腕でブロックしても、腕にダメージが溜まるはずである。
だが――じわじわと後退を余儀なくされたのは、オリビア選手のほうであった。
オリビア選手もすべての攻撃をブロックしているが、ジジ選手の突進力に押されてしまっているのだ。なおかつジジ選手は組みつきのフェイントも織り交ぜるため、それを回避するためにもオリビア選手は後退する必要に迫られた。
どちらも有効打は与えられていないが、前進するジジ選手のほうが優勢に見えてしまう。
そして、ラスト一分で攻勢に出てラウンドのポイントを奪取しようというのも、北米では定番の作戦であるはずであった。
オリビア選手は果敢に打ち返しているが、最後にはフェンス際に追い込まれてしまう。
そうしてジジ選手がフェイントならぬ組みつきを見せて、形ばかりフェンスに押し込んだところで、第二ラウンドは終了した。
完全に、ポイントはジジ選手のものである。
一ラウンド目も僅差ながら、ジジ選手が取っているだろう。オリビア選手は、いよいよ追い込まれてしまった。
「うーん、もどかしいなー! ここぞって場面で、ジジにいいとこを取られちゃうねー!」
「ええ。ジジ選手は、穴らしい穴もないっすからね。唯一の弱みは、スタミナなんでしょうけど……上手い具合に休みながら試合を進めているように見えます」
ジジ選手はこれまで以上に、勇猛さと堅実さが噛み合っている。鬼沢選手に翻弄されていたのが、嘘のようだ。あるいはあの敗戦が、ジジ選手をいっそう成長させたのかもしれなかった。
(運営陣はジジ選手の手の内を暴くために、本命の小笠原選手の出番を取っておいてるんじゃないかって話だったけど……時間が経てば経つほど、ジジ選手は手ごわくなりそうだな)
瓜子はそのように考えたが、いま戦っているのは小笠原選手ではなくオリビア選手だ。オリビア選手は自分の持ち味で、勝利を目指さなければならなかった。
そうして開始された、第三ラウンド――今度は両者が、勢いよく前進した。
オリビア選手はレバーブロー、ジジ選手は左のショートフックを繰り出す。おたがいにそれをブロックしてから、またインファイトが開始された。
「うわー、マジか! ジジはもうバテバテだと思ったのになー!」
「だからこそ、前に出たのかもしれませんね。ジジ選手は足を使って逃げるより、インファイトのほうが楽なのかもしれません」
そしてオリビア選手は手足が長いゆえに、懐に入られると窮屈になってしまう。それでもオリビア選手の重い攻撃を恐れずに突進できるというのは、ジジ選手のストロングポイントであろう。こんな強引なやり口でオリビア選手から優勢を取れるのは、ジジ選手ぐらい頑丈で突進力に秀でている人間だけであるはずであった。
これではならじと思ったか、あるいはセコンドからのアドバイスか、オリビア選手はフェンスに押し込まれる手前から首相撲に切り替えた。
ジジ選手は頭を振って逃げようとするが、オリビア選手は執拗に仕掛けていく。そしてついに、ジジ選手の首を両手で抱え込むことがかなった。
オリビア選手はジジ選手の身体を左右に振りながら、強烈な膝蹴りを叩きつける。
これは、ユーリにも負けないほどの破壊力であろう。ジジ選手は右腕で脇腹をガードしたが、それだけでは防ぎきれない衝撃が胴体に響いたはずであった。
オリビア選手は、さらに右膝も振り上げる。
極彩色のタトゥーに彩られたジジ選手の左腕に、オリビア選手の重い膝が深々とめり込んだ。
その瞬間――ジジ選手が、凄まじい突進を見せる。
そして、オリビア選手の左足を内側から掛けて、マットに押し倒した。
オリビア選手はすかさず両足でジジ選手の胴体をはさみこみ、全身を突っ張らせる。パウンドや肘打ちをくらわないように、相手の上半身を遠ざけるための処置である。
しかしジジ選手も、しばらくは動こうとしなかった。やはり、スタミナにゆとりがないのだ。派手なタトゥーに彩られたその顔は、もはや泣き笑いのような形相になっていた。
レフェリーは厳粛なる面持ちで、『ファイト!』とうながす。
オリビア選手はブレイク狙いであるため、動く理由がない。いっぽうジジ選手はその体勢のまま、オリビア選手の足に肘を振り下ろした。
肘を垂直に落とすのは反則であるため、脇を開いて角度をつけた攻撃だ。それほどの破壊力は見込めない、嫌がらせの攻撃であった。
その攻撃が五発に及んだところで、レフェリーは『ブレイク!』と命じた。
灰原選手は、「ふいー!」と大きく息をつく。
「なんとかスタンドに戻れたねー! 勝負は、ここからだー!」
試合の残り時間は、あと二分半である。
その時間で、オリビア選手はKO勝利を目指さなければならなかった。
オリビア選手はぐっしょりと汗に濡れそぼった身で、前進する。
ジジ選手は――足を使って、逃げ始めた。
(まだ逃げる足が残ってるのか……頑張ってください、オリビア選手!)
沈着なるオリビア選手は無茶な大技を仕掛けることもなく、ローやボディブローを振るって相手を追い詰めていく。
その途中から、ハイやミドルも繰り出された。さすがのジジ選手もこの遠い距離からテイクダウンを狙えるほどのスタミナは残っていないという判断だろう。実際に、ジジ選手がミドルを腕でブロックした際にも、組みつこうという動きは見せなかった。
完全にオリビア選手の優勢であるが、しかし時間はどんどん過ぎ去っていく。
この優勢でテイクダウンのポイントを取り戻すことがかなっても、判定に持ち込まれたら勝機はない。瓜子は手に汗を握って、最後の逆転劇を願うことになった。
オリビア選手は重い鉈を思わせる蹴り技で、ジジ選手を追い込んでいく。
ジジ選手はもはや逃げるいっぽうであるが、それでも何とかサイドに回って、フェンスにだけは押し込まれなかった。
残り時間は、一分だ。
オリビア選手は大股で踏み込んで、渾身の右ミドルを放った。
ジジ選手は決死の形相でそれをブロックする。
そして――ジジ選手が、前進した。まだ蹴り足を戻していないオリビア選手に、組みつこうという動きだ。
ここでテイクダウンを取られたら、万事休すである。
オリビア選手は蹴り足を戻しながら両腕を突っ張って、何とかジジ選手の前進を食い止めようとした。
その腕を強引に振り払い、ジジ選手はオリビア選手の両脇に腕を差し込もうとする。
すると、オリビア選手は振り払われた腕でジジ選手の逞しい肩をつかみ、左足だけで後方に跳びすさった。
それでもジジ選手は、突進を止めない。それを食い止めようとするオリビア選手の肘が折れ曲がり、両者の上半身が急接近した。
その瞬間、右足でマットを踏みしめたオリビア選手が、左膝を振り上げた。
鋭く曲げられた左膝が、ジジ選手の腹にめり込む。
ジジ選手は苦悶の形相となり、オリビア選手の身を突き放した。
ジジ選手はよたよたと後ずさり、オリビア選手は何歩かたたらを踏んでから、前進する。そして、槍のような右ストレートを繰り出した。
顔面を撃ち抜かれたジジ選手は、背後のフェンスに激突する。
しかし、倒れない。高い鼻から大量の鮮血をこぼして、痛んだ腹を抱え込みながら、ジジ選手は牙が描かれたマウスピースを剥き出しにして、にいっと微笑んだ。
その横っ面に、オリビア選手が左フックを叩きつける。
さらに、右フックもクリーンヒットした。ジジ選手は腹を抱え込んでおり、顔面が無防備であったのだ。
(いや、だけど……)
ジジ選手は殴られる瞬間、逆の方向に首を振っていた。衝撃を逃がすための、ヘッドスリップである。もはやその顔は鼻血まみれであったが、うすら笑いがたたえられたままであった。
オリビア選手は一歩後退し、両腕で守られた腹に前蹴りを叩き込む。
ジジ選手はたまらず身を折ったが、しかし倒れようとはしなかった。
オリビア選手はどこか苦痛をこらえているような顔で、再び右フックを叩きつける。
しかしジジ選手は、それもヘッドスリップで受け流した。
オリビア選手は青い瞳に覚悟をたたえて、ジジ選手の首に両手を回す。
そして、腹を庇うジジ選手の腕に、渾身の膝蹴りを叩きつけた。
それでもジジ選手が倒れないため、オリビア選手は左の膝蹴りも追加する。
さらに、オリビア選手が右膝を振り上げようとしたとき――試合終了のブザーが鳴らされた。
「わーっ、どっちどっち!? レフェリーストップ? 時間切れ?」
レフェリーは厳しい面持ちで、両者の間に割って入った。
ジジ選手はレフェリーの腕を振り払いつつ、その場にへたり込む。そしてオリビア選手も精魂尽き果てた様子で、マットに尻もちをついた。
控え室も客席も、騒然としている。
そんな中、リングアナウンサーの声が響きわたった。
『すべてのラウンドが終了したため、判定に入ります! ジャッジペーパーの集計まで、少々お待ちください!』
灰原選手は「時間切れかー!」と、瓜子にしがみついてくる。
あちこちから、落胆の気配が伝わってきた。判定勝負では、オリビア選手に勝ち目はないのだ。
「それでもオリビアさんは、凄かったですよ! あと五秒あれば、絶対にKO勝ちでした!」
「しかし、勝負にたらればは禁物だからなぁ。今日は、ジジも凄かったよ」
「ああ。どっちも、凄かった。これを相手取る他の連中は、大変だな」
懇意にしている女子選手が少ないためか、武中選手やセコンド陣の声がよく聞こえてくる。
そんな中、後ろのほうに引っ込んでいた時任選手がひょこひょこと瓜子に近づいてきた。
「ほんとに凄い試合だったねぇ。あたしだったら、オリビアの勝ちにしたいところだけど……猪狩さんは、どう思う?」
「……残念ですけど、オリビア選手の勝ちはないっすよね」
「うんうん。『勝ち』は、ないよねぇ」
時任選手は自らの敗北を引きずっている様子もなく、ふにゃんと笑った。
そんな中、リングアナウンサーの声が響きわたる。
『それでは、判定の結果をおしらせいたします! ……ジャッジ横山、29対28、赤、ジジ!』
客席からは、惜しみない歓声と拍手が送られる。
瓜子たちのようにオリビア選手に肩入れしていなければ、何も落胆するいわれもないのだろう。
そして瓜子も、まだ落胆まではしていなかった。
『……ジャッジ大木、28対28、ドロー!』
客席のざわめきが驚きの気配を帯び、灰原選手は「えっ?」と身を乗り出した。
『サブレフェリー原口、28対28、ドロー! ……以上、二票以上の差がつかなかったため、この試合はドローとなります!』
レフェリーはまだマットにへたりこんだままである両者の腕を上げようとしたが、ジジ選手はその手を振り払った。
そして、鼻血のあふれる顔をタオルで押さえたまま、オリビア選手を蹴っとばすふりをする。オリビア選手は、くたびれきった顔で笑っていた。
「なになに、どーゆーことー? 引き分け判定とかたまーにあるけど、あたしよくわかってないんだよねー!」
「最終ラウンドがKO寸前だったから、オリビア選手に2ポイントつけたジャッジが二人いたってことっすね。それで最初の二ラウンドはジジ選手が1ポイントずつ取ってるから、同ポイントで引き分けってことです」
「おー、なるほどー! そーいえば、うり坊とジュニアの試合もそんな感じだったもんねー!」
ようやく理解が及んだ様子で、灰原選手はいっそうきつく瓜子の身を抱きすくめてきた。
「自分が引き分けだったらモヤモヤしそうだけど、オリビアが負けなかったんなら、よしとするかー! ジジのやつだって、すごい根性だったもんねー!」
「はい。バンタム級の人たちは、本当に大変っすね」
「あはは! あたしは、羨ましいぐらいだけどなー!」
そうして控え室にも、祝福の拍手が響きわたることになった。
モニターでは、オリビア選手がジジ選手に握手を求めている。ジジ選手は、それも平手ではねのけていたが――ただ、タオルの上に覗く目は、笑っているように見えなくもなかった。




