02 到着
空港を出てから三十分ほどで、プレスマン道場の一行が宿泊するホテルに到着した。
巨大な建物の全面がガラス張りで、オレンジ色の夕陽に照らされるさまが実に壮麗である。十九階建てで、客室は千五百室にものぼるという、瓜子がこれまで体験したことのない規模とグレードのホテルであった。
「こちらのホテルは創業三年目で、フィットネスルームも充実しております。チェックインの手続きをいたしますので、こちらにどうぞ」
スタッフの案内で歩を進めると、ますますホテルの立派さが間近に迫ってくる。通路も階段もぴかぴかで、瓜子の脳内には分不相応の四文字が飛び交うばかりであった。
「あ、あの、自分は寝る場所さえ確保できたら、それで十分だったんすけど……」
瓜子がこっそりそんな心情を打ち明けると、立松は苦笑した。
「コンディションを整えるには、その寝床も重要だろ。ここは《ビギニング》に斡旋されたホテルなんだから、堂々としてろ」
「はあ……もうちょっと庶民的なホテルはなかったんすかね?」
「そういう場所は、セキュリティも心配だろ。こんな娘っ子どもを引き連れてたら、こっちのほうが安心できねえや」
そんな風に言われては、瓜子も納得するしかなかった。
それに、ホテルの宿泊費はすでに算出されており、それは決して法外な額ではなかったのだ。ツインルームでひとり頭一日一万円であれば、日本国内でもまあそこそこという値段であるはずであった。
(まあ、こっちは八人で十一日分は実費なんだから、けっこうな額になっちゃうけど……それこそ、必要な経費だよな)
これもすべては、万全のコンディションで試合に臨むための措置である。
そのように考えた瓜子は気後れを排しつつ、立派なホテルに足を踏み入れることにした。
ロビーも外観から想像できる通りの立派さで、たくさんの人々が行き交っている。おおよそはアジア系の外見であったが、欧米人と思しき人間も少なくはない。そして、開襟のシャツにハーフパンツというラフな装いをした人間もちらほら見受けられた。
シンガポールはアジアでもっとも豊かな国であるし、リゾート地としても知られているのだ。ビジネス目的と観光目的の人間が入り混じり、そこにはきわめて雑多な熱気があふれかえっているように感じられた。
スタッフの案内でチェックインしたならば、それぞれカードキーを受け取る。当然のように、瓜子はユーリ、立松はジョン、サキは鞠山選手、愛音は蝉川日和と同室であった。
「それじゃあ、十五分ていどくつろいだら合流して、食事にするか。どうせ部屋は隣り合ってるから、時間になったらこっちから声をかけるよ」
「では、わたしはロビーでお待ちしております」
《ビギニング》のスタッフもまだ仕事は終わっていないようで、そんな風に言っていた。
プレスマン道場の一行は、巨大なエレベーターで客室を目指す。ホテルマンに荷物を持ってもらうというのも瓜子にとっては初体験であったが、もはや気後れを覚えることもなかった。
瓜子たちが滞在する客室は、十五階である。そちらに足を踏み入れるなり、ユーリは「ふいー」と息をついた。
「なかなかに楽しい旅でしたけれど、やっぱり座りっぱなしというのは肩が凝るものだねぇ。ぺこぺこのおなかを満たしたら、ぜひともフィットネスルームとやらにお邪魔したいところですわん」
「コーチたちは、今日ぐらいゆっくりしろって言いそうですね。まあ、相談してみましょう」
そんな風に答えながら、瓜子は巨大なベッドに腰を下ろした。
やはり客室も、立派なものである。『トライ・アングル』の遠征でもそこそこ立派なホテルを準備してもらえるようになった身であるが、それよりもひとつかふたつはグレードが違うようだ。ベッドの片方はクイーンサイズであり、壁には巨大なモニターや得体の知れない抽象画、ベッドの脇には最新型の加湿器が設置されている。ただ、部屋のサイズはほどほどであったので、眠らせた気後れが目を覚ますこともなかった。
「ふむふむ……このサイズであれば、ベッドはひとつで十分でありますにゃあ」
瓜子の隣に座したユーリが、甘えた眼差しを向けてくる。
瓜子は苦笑を浮かべつつ、ユーリの髪のひとふさを優しく引っ張った。
「自分はかまいませんけど、誤解されそうだから人前での発言は控えてくださいね」
「にゃっはっは。ムラサキちゃんの目が怖いので、もとよりそのつもりなのです。さてさて、トレーニングの準備をしておこうかにゃあ」
ベッドからぴょんと下りたユーリは、もう片方のベッドの上で荷物を広げ始めた。まあ、トレーニングの準備と言っても、ウェアやタオルを出しておくぐらいのものだ。キャリーケースに詰め込まれているのも、大半は着替えであった。
「こっちで洗濯もできるって話でしたけど、やっぱ二週間は長いっすよね。こんなに家を離れるのも、自分は初体験っすよ」
「うみゅ。ユーリは『アクセル・ロード』以来でありますけれど……うり坊ちゃんさえそばにいてくれたら、どこでも実家気分なのです」
瓜子のほうを振り返ったユーリが、ふにゃんと笑う。ユーリはこういう何気ない発言のほうが、瓜子の心を揺さぶることが多かった。
(まあ確かに、ユーリさんだけじゃなくサキさんたちも一緒だから……心細さは、皆無だよな)
今のところは《ビギニング》のスタッフとしか接していないので、英会話の不自由さも体感していない。どこに出向いても異国情緒は満載であるが、これならば数日ていどで順応できそうな気がした。
「でも今は、屋外に出てる時間も短いですしね。外はなかなかの暑さですから、体調管理には気をつけましょう」
「うみゅ。どこもかしこも冷房がききまくっているものねぇ。そういえば、あちらの窓から屋内プールが垣間見えていましたぞよ」
「……まさか、水着なんて持ってきてないっすよね?」
「にゃっはっは。さすがに調整期間にプールで遊ぶ時間はなかろうと思い、手ぶらですのじゃ。でもきっと、水着だったらいくらでも買えると思うよぉ?」
「無駄遣いは控えましょう。……おっと、もう時間みたいっすね」
ドアがノックされたので出てみると、レーヨンのシャツとハーフパンツに着替えたジョンが笑顔で立っていた。
廊下には愛音と蝉川日和も居揃っており、立松が最後のドアをノックする。すると、花柄のワンピースにシアーのカーディガンに着替えた鞠山選手が悠然と現れた。
「うわぁ、素敵なお召し物ですねぇ。よくお似合いですぅ」
ユーリの屈託ない寸評に、鞠山選手は「ふふん」と自慢げに鼻を鳴らす。その後に続いたサキは、仏頂面であった。
「こいつはひとりでリゾート気分だなー。まったく、気楽なもんだぜ」
「ディナーの時間にまで気を張る理由は皆無なんだわよ。一流の選手はそういうオンオフにも長けているもんだわよ」
「戴冠の経験もねー老いぼれガエルがなんか言ってやがるぜ。いいから、とっととメシにしよーぜ」
「ああ。まずは、ロビーでスタッフさんを拾わないとな」
総勢八名でエレベーターに乗り込み、再びホテルのロビーを目指す。ソファに座ってタブレットを操作していた女性スタッフは、こちらの接近に気づいてすぐさま腰を上げた。
「お疲れ様です。食事はホテル内のレストランかフードコートですまされますか? 徒歩圏内にも、飲食店は充実しておりますけれど」
「ホテル内でけっこうだよ。なるべく、くつろげる場所がいいな」
「それでは、フードコートにご案内いたします。そちらで明日からの予定を確認させてください」
ホテルの一階を移動すると、ロビーから少し離れたエリアがまるまるフードコートになっていた。シンガポール料理に中華料理に韓国料理と、ラインナップも実に豊富である。
「減量は順調だが、油ものは控えろよ? 炭水化物も、ほどほどにな」
「押忍。ただ、このあと身体を動かすどうかで、食事量は変わってきますよね」
「うん? あとは、寝るだけだろうが? ……まさか、着いた初日に稽古する気か?」
「稽古って言っても、マシーントレーニングぐらいっすよね。フィットネスルームが充実してるんでしょう?」
ユーリがもじもじしているので瓜子が代弁の役目を果たすと、立松は苦笑しながら頭をかいた。
「練習中毒も、ここに極まれりだな。……許してやるけど、オーバーワークにだけは気をつけろよ? 二週間後の本番に備えて、ここからじっくりコンディションを整えていくんだからな」
「押忍。ありがとうございます」
というわけで、瓜子とユーリはここから汗をかく前提で献立をチョイスした。どちらにせよ油ものを控えることに変わりはないので、海南鶏飯なるチキンライスと醸豆腐なるマレー風のおでんだ。ユーリは肉骨茶というスープに目をひかれていたが、そちらは脂まんさいのスペアリブが使われていたため断念した。
セコンド陣も海老焼きそばやカレー料理など、シンガポール料理を中心に料理を購入する。それらの支払いも、すべて瓜子とユーリが受け持つのだ。カードキーを提示すれば、宿泊料金に加算することが可能であるとのことであった。
そうして必要な食事を獲得したのち、フードコートの座席に腰を落ち着ける。客席はほどほどの賑わいで、居心地もよかったが――ただやっぱり、ユーリの存在が尋常でなく人目をひいていた。
「それでは、明日のスケジュールを確認させていただきます。お食事を進めながらお聞きください」
ドリンクだけを購入した女性スタッフが、そのように語り始めた。
「明日からは、ユニオンMMAでトレーニングの最終調整に取り組んでいただきます。そちらへのご案内でわたしの業務はひとまず終了となりますので、その後に何か不測の事態が生じた際には名刺の連絡先にご一報をお願いいたします」
「何から何まで、すまないね。こっちはシンガポールに何の伝手もなかったから、助かったよ」
「とんでもありません。《ビギニング》に出場される方々が本来の実力を発揮できるようにケアするのが、わたしどもの役目ですので」
運営代表のスチット氏を見習っているかのように、こちらの女性スタッフも善意と誠実さにあふれかえっている。立松は海老焼きそばをすすりつつ、その笑顔を用心深そうに見返した。
「ただ、ひとつだけ確認させてもらいたいんだが……ユニオンMMAには、エイミー選手とグヴェンドリン選手が居揃ってるんだよな? こっちはそのお二人と対戦したばかりなんだが、不都合はないのかい?」
「ええ、もちろんです。あちらの方々が遺恨をお持ちのようでしたら、わたしどもも別のジムを紹介しておりました。エイミー選手もグヴェンドリン選手も、プレスマン道場のみなさんがいらっしゃることを心待ちにされています」
「それなら、いいんだけどよ。数あるジムの中で、どうしてそのジムが選ばれたのかが不思議だったんだよな」
「ユニオンMMAは設備も充実しておりますし、施設の規模も申し分なく、出稽古の受け入れに関しても積極的です。とりわけ、日本人選手の最終調整をお手伝いしていただく機会が多かったですし……あ、まだお伝えしていませんでしたが、ギガントMMAの方々も何名か、すでに合流されています。女子選手のご両名も、そちらに含まれておりますよ」
女子選手のご両名――大晦日の日本大会に出場した、巾木選手と横嶋選手であろう。彼女たちも不測の事態に見舞われることなく、今回の三月大会に出場することになったのだ。
「あの二人まで、居揃ってるのか。なかなか賑やかなことになりそうだな」
「はい。もとよりユニオンMMAは有力な女子選手が在籍しておりますので、ご紹介させていただきました。やはり最終調整では、体格の近いスパーリングパートナーが必須でありましょうからね」
さらに事務的な話を片付けてから、女性スタッフは早々に立ち去った。
その後ろ姿を見送りつつ、立松は「やれやれ」と肩をすくめる。
「エイミー選手にグヴェンドリン選手、巾木選手に横嶋選手だとよ。呉越同舟もいいとこだな、こりゃ」
「それに、ユニオンMMAにはランズ・シェンロンも所属してるんだわよ。美香ちゃんを苦しめた、なかなかの実力者なんだわよ」
「ああ、そんなのもいたっけか。……やっぱりシンガポールでも、名のある選手は集中してるみたいだな」
「シンガポールはMMAの歴史がまだ浅いから、それが自然の摂理なんだわよ。あとはイーハン・ウーやシンイー・イエンハオの所属するプログレスMMAと、ルォシー・リムやユーシー・チェンが所属するアディソンMMAファクトリー……ユニオンMMAを含めて、それが三大勢力だわね」
「さすが鞠山さんは、博識だな。心強い限りだぜ」
立松の言葉に、鞠山選手は「ふふん」とずんぐりした胴体をそらせる。
すると、辛そうなカレーを頬張っていた蝉川日和が左手の指を折り始めた。
「あの『アクセル・ロード』ってイベントには、八人の選手が出てたッスよね。三大ジムに二人ずつ所属してるってことは、あとの二人は無名のジムってことッスか?」
「真実と対戦したロレッタ・ヨークは、無所属なんだわよ。自分の家にトレーニングルームを建てて、専属のトレーナーを雇ってるだわね」
「ああ、そんなお人もいたッスね。となると、最後のひとりは……」
「ヌール・ビンティ・アシュラフ。あの娘が所属するドージョー・テンプスフギトは、まあ弱小の部類だわね。ただし、貧困層も気軽に通えるようにレッスン料を低価格に抑えた、善意あふるる道場なんだわよ。ブラジルなんかでも、そういう道場から思わぬ才能が飛び出すことは珍しくないだわね」
「あー、ヌールさんってのも、すっごくいいヒトそうでしたもんねー。もう片っぽのイーハンさんとかいうのが性格悪そうだったから、余計に印象的だったッスよー」
蝉川日和は実に率直であったが、まあ瓜子も基本のところでは同じ気持ちであった。『アクセル・ロード』において一回戦を勝ち抜いたシンガポール陣営はイーハン選手とヌール選手のみであり、前者は不遜な高飛車キャラ、後者は謙虚で沈着なキャラという印象であったのだ。ただそれは、リアリティショーたる『アクセル・ロード』の演出が加味されている可能性も無視できなかった。
「あれ? そんでもって、今回はそのヌールさんも出場するんじゃありませんでしたっけ?」
「ヌールはフライ級だから、ギガントの巾木祥が相手取るだわね。なかなか興味深いマッチメイクなんだわよ」
「おー、そうでしたっけー。日本人選手を応援したいッスけど、ヌールさんにも頑張ってほしいッスねー」
実に無邪気な面持ちで、蝉川日和はそんな風に言っていた。しかしそれもまた、瓜子と同じ心情である。斯様にして、瓜子は蝉川日和に共感する機会に事欠かなかったのだった。
「他の選手の応援よりも、まずは自分たちのことなのです。愛音はユーリ様のために、蝉川サンは猪狩センパイのために死力を尽くすべきなのです」
「わかってるッスよー。猪狩さんの稽古をお手伝いできるなんて、光栄ッス」
と、蝉川日和は毛先のはねた頭を引っかき回しながら、照れ臭そうに笑った。
「こっちこそ、蝉川さんがスパーリングパートナーを引き受けてくれたのは心強いです。今回の対戦相手は、ちょうど背丈や体格なんかも蝉川さんに近いみたいですからね」
「それに、強気で突っ込んでくるところもな。まあ、けっきょく試合映像なんかは確認できなかったが、勝った試合はみんなスタンドでのKO勝ちっていう生粋のストライカーだ。流血のドクターストップなんて結果もいくつか混じってたから、くれぐれも気をつけろよ」
厳しい顔をした立松に、瓜子は「押忍」と答えてみせる。
しかしまあ、相手が百六十センチ以上の背丈であるならば、どんなに突進されても頭突きをくらうことはないだろう。そういう意味で、山垣選手のような危険さはないはずであった。
しかし相手は、シンガポールのトップファイターである。オールラウンダーのグヴェンドリン選手でもあれだけ打撃技が巧みであったのだから、生粋のストライカーであればどれだけの実力になるのか――想像しただけで、瓜子は胸が熱くなってしまった。
そうして食事をたいらげた後は、立派なフィットネスルームでマシーントレーニングに励み――シンガポールで迎える最初の夜は、至極平穏に過ぎ去っていったのだった。




