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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
29th Bout ~First step worldwide~
738/955

act.1 Welcome to Singapore 01 出陣

《アクセル・ファイト》シドニー大会の一週間後――二月の最終日曜日である。

 その日がついに、シンガポールに出陣する当日であった。


 瓜子とユーリは早い時間にマンションを出て、新宿駅で他の面々と合流したのちに、成田エクスプレスなる特急電車に乗車する。リムジンバスと比較すると、こちらのほうが数十分ばかりは早く到着できるので、身体への負担を少しでも軽減させようと思案した結果である。何せこの後には、八時間にも及ぼうかという飛行機の長旅が待ちかまえているのだった。


 なおかつ座席は、グリーン車だ。普通車と比べると千五百円ばかりも割高であったが、どうせ交通費は《ビギニング》もちであるのだから遠慮することはないと、立松が手配してくれたのである。この時点で、庶民代表たる瓜子は恐縮するばかりであった。


「ったく、お前さんもワールドクラスプレイヤーの端くれだってのに、なかなか格好がつかねえな」


 立松は苦笑を浮かべていたが、そのがっしりとした身体からはすでに気合がこぼれまくっている。立松自身、海外の試合に出向くのは数年ぶりであるとのことであった。


「これまでにも機会がなかったわけじゃねえが、何せ俺は英会話がお粗末だからよ。それで毎回、ジョンにまかせちまってたんだ」


「ウン。でも、ボクもカイガイはひさびさだよー。よっぽどムリがないカギりは、シューイチにまかせてたからねー」


 修一とは、篠江会長のファーストネームである。道場の運営を立松たちに一任しているぶん、海外の活動は篠江会長が率先して担っているというわけであった。


 しかしまた、瓜子たちのシンガポール遠征が決定した際、立松たちは篠江会長に相談しようともしなかった。そんな選択肢を頭に浮かべた様子すらなく、自分たちが同行すると決めていたのだ。瓜子とユーリにとって、こんなにありがたい話はなかった。


 よって瓜子も万全の態勢で、シンガポールに向かうことができる。

 ただ――この出立の時間だけは、どうにも落ち着かない。それで瓜子が電車の座席に収まってもまだそわそわと身を揺すっていると、隣の座席であったユーリが「どうしたにょ?」と呼びかけてきた。


「うり坊ちゃんは、ずっとそわそわしているのです。それはかわゆすぎる限りなのですけれども、グリーン車なら『トライ・アングル』のツアーでも使わせていただいたよねぇ?」


「あ、はい。でも自分は、飛行機も初体験なんすよ。なんか、試合よりも緊張しちゃいますね」


「それはまた、頼りないことだわね。海外の試合で調子を崩す選手は少なくないだわけど、あんたもまんまとその轍を踏むんだわよ?」


 と、後ろの座席であった鞠山選手がシートの上からにゅっと顔を出してきた。


「いや、飛行機に緊張してるだけなんで、到着した後は大丈夫だと思うんすけど……鞠山選手は、海外の試合を経験してるんすか?」


「もちのろんだわよ。MMAでは機会がなかっただわけど、柔術やグラップリングの試合でフロリダやサン・パウロやアブダビまで出向いた経験があるんだわよ」


「アブダビ? って、どこでしたっけ?」


「アラブ首長国連邦の首都だわよ。《SLコンバット》発祥の地だわね」


《SLコンバット》とはグラップリングの世界大会で、かつてはベリーニャ選手と来栖舞の対戦が実現している。そしてその大会は、ブラジリアン柔術に魅了されたアラブの王子様が設立したという話であったのだった。


「シンガポールはほとんど赤道直下で、四季のない熱帯性モンスーン気候なんだわよ。この季節でも日中は三十度前後のはずだわし、おまけに間もなく乾季が到来するんだわよ。気合を入れないと、コンディションを崩すだわよ?」


「押忍。気をつけます。……『アクセル・ロード』も、そういう環境に近かったんすよね。なんだか、ユーリさんに一歩近づけたような気分です」


 ユーリは「うにゃあ」と頭を引っかき回し、鞠山選手は「ふふん」と鼻を鳴らした。


「そうやって、あんたたちはふにゃふにゃ過ごしてればいいだわよ。飛行機ごときに余計な気力を使うんじゃないだわよ」


「どーでもいーけど、いつまでもガキみてーに突っ立ってんじゃねーよ」


「痛いだわね! 気安くわたいのヒップを叩くんじゃないだわよ!」


 鞠山選手の隣の席は、サキであったのだ。その頼もしい声と鞠山選手のわめき声が、瓜子の心を少なからずほぐしてくれたようであった。

 通路をはさんだ向こう側には立松とジョンが座しており、その後方には愛音と蝉川日和が座している。これがシンガポール遠征のフルメンバーである。あとは現地のジムを間借りして、二週間にわたる最終調整に取り組む所存であった。


 座席についてキャップとスツールの装備を解除したユーリは、ご機嫌の様子で身を揺すっている。その身に纏っているのは温かそうなボアジャケットであり、瓜子も高校の卒業式の日にユーリからプレゼントされたパーカーの下に、『トライ・アングル』のメンバーからプレゼントされたカーディガンを着込んでいる。たとえ向かう先が三十度前後の気候であろうとも、こちらはまだまだ冷え込みの厳しい初春であるのだ。余計な荷物がかさむとしても、道中の防寒対策をおろそかにすることはできなかった。


「参考までに、『アクセル・ロード』の合宿所では気候の違いとか気になりましたか? 沙羅選手なんかは、かなりスタミナを削られてましたよね」


「うにゅ? 確かに油断するとお肌がかぴかぴになってしまうので、保湿には注意しておりましたけれど……稽古や試合では、どうだったかにゃあ。楽しかった思い出しかないにゃあ」


 宇留間千花との対戦は合宿所を出た後のことなので、思い出の中から除外されているのだろう。そしてユーリは瓜子の顔を見つめ返しながら、ふいに透き通った微笑みをたたえた。


「でもでも、楽しかったのは稽古や試合に没頭してる間だけで、それ以外の時間はうり坊ちゃんに会えない寂しさがぐりんぐりん渦を巻いていたのです。今回はうり坊ちゃんばかりでなく頼もしいセコンドのみなさままでご一緒なので、ユーリは嬉しさいっぱいなのです」


「……はい。そんな過酷な環境を乗り越えたユーリさんに追いついたなんて、失言でしたね。さっきの言葉は、つつしんで取り消させていただきます」


「にゃっはっは。ユーリとて、まんまと玉砕してしまったぞよ。……だから、あんなことになっちゃったんだろうしねぇ」


 あんなこととは、もちろん宇留間千花との対戦についてであろう。

 ユーリが肉体的にも精神的にも万全のコンディションであったなら、きっとあんな結果にはなっていなかった――瓜子も、そのように考えている。ユーリはあの赤星弥生子にすら勝利することができたのだから、本来であれは宇留間千花にそうまで大きく後れを取るとは思えなかったのだ。

 ユーリはトーナメントの連戦でコンディションを崩し、ウェイトも減るいっぽうであったし――そしてそれ以上に、瓜子やセコンド陣の不在によって調子を乱していたのだろうと思われた。


(もちろん、その環境で勝ち抜くことが『アクセル・ロード』の条件だったんだろうけど……)


 ならばユーリは、『アクセル・ロード』に適性がなかった。それはイベントが進行しているさなかにも、瓜子が噛みしめていた思いであった。しかし、『アクセル・ロード』というのはきわめて特殊なイベントであるのだから、そこで最大限にポテンシャルを発揮できなくとも、決して恥じる必要はないはずであった。


(このシンガポール大会なら、ユーリさんはいつも通りの化け物っぷりを発揮できるはずだ。……あたしもユーリさんに負けないように、頑張ろう)


 瓜子は、そんな決意を新たにした。

 その頃には、初めての飛行機に対する緊張などは跡形もなく消え去っていたのだった。


                 ◇


 その後、成田駅に到着したならば、数々の手続きを済ませて無事に搭乗することができた。

 機内の座席に着席した際にはまた多少の緊張を覚えることになってしまったものの、それも大した話ではない。ユーリの笑顔とセコンド陣の熱気が、瓜子の心を安定させてくれた。


 出発するのは午前の十時過ぎで、到着するのは午後の六時前だ。昼食は機内食であり、これも瓜子にとっては初体験である。ウェイトの調整があるので食事量も考慮しなければならなかったが、機内食というのは実にささやかなボリュームであったので何も気にせず完食することができた。大喰らいのユーリなどは、実に物足りなさそうな顔をしていたものである。


 そうして、八時間弱のフライトを経て――プレスマン道場の一行は、ついにシンガポールに到着した。

 シンガポールには、ひとつの空港しか存在しない。よって、そちらに降り立った瓜子は小さからぬ感慨を噛みしめることになった。


「この景色、見覚えがありますよ。『アクセル・ロード』では、シンガポール陣営の選手が飛行機に乗り込むシーンも放映されてたんすよね」


「おー、そうなんだねぇ。なかなかの異国情緒ですわん」


「そら、きょろきょろしてねえで、外に向かうぞ。《ビギニング》のスタッフが出迎えに来てるはずだからな」


 立松の号令で、人で賑わうロビーを踏み越える。こちらにはしっかり冷房がきいていたものの、行き交う人々がみんな夏の装いであったため、一行もそれぞれの上着を脱いで腕にかけることに相成った。

 滞在は二週間にも及ぶので、プレスマン道場の一行は誰もが大きなキャリーケースを引いている。サキや蝉川日和はキャリーケースの持ち合わせがなかったので、友人知人から借り受けたのだそうだ。かくいう瓜子は、ユーリが複数所持していたのでそれをお借りした次第であった。


『アクセル・ロード』では大荷物であったユーリも、今回は他の面々と同程度である。今回は身を装うことに気合を入れていなかったし、思い出のよすがを持ち込む必要もなかったのだ。ただし、日本を離れた気安さでキャップひとつしかかぶっていないものだから、すれ違う人々はみんなユーリの美貌と色香に目を剥いてしまっていた。


「新宿プレスマン道場のみなさんですね? ようこそ、シンガポールに」


 ロビーの出口にまで至ると、そこに《ビギニング》のスタッフたる女性が待ちかまえていた。現地のスタッフであるはずだが、実に流暢な日本語だ。また、シンガポールは中華系の人種が多いので、外見からも出自を察することは難しかった。


「本日はこのままホテルまでお送りすることになっていますが、何か予定の変更はございますか?」


「いや、問題ないよ。どうぞよろしくな」


「はい。それでは、こちらにどうぞ」


 スタッフの案内で空港の外に出ると、一気にシンガポールの熱気が押し寄せてくる。

 ただし、乾季が近い影響なのか、湿度はあまり感じられない。そしてこれは瓜子の錯覚であるのか、南国の甘い花や果実のような香りが入り混じっているように思えてならなかった。


 空港の周囲は、立派な建造物と豊かな緑が混在している。きっと空港というのは郊外に設置されるものなのであろうが、その周囲には利用客のためにさまざまな設備が準備されるのだ。空港を出てすぐであるそのエリアは、近代的な建造物が自然の威容を圧倒していた。


 ただ、飛行機が行き来する関係からか、背の高い建造物は少なく、空がとても広い。

 日本であればもう暗くなっている刻限であるはずだが、シンガポールの空はようやく夕刻らしい気配がにじみ始めたところであった。


(本当に……ここは、日本じゃないんだな)


 そんな感慨が、あらためて瓜子の身に降りてくる。

 そしてユーリはオレンジ色に染まりつつある空を見上げながら「きれいだねぇ」とつぶやいていた。


 ユーリは、うっとりとした表情だ。

 立松は気合の入った顔、ジョンはやわらかい笑顔、サキはポーカーフェイス、鞠山選手はしたり顔、愛音は緊迫の面持ち、蝉川日和はぽけっとした顔をしている。


(あたしは、どんな顔をしてるんだろうな)


 そうして瓜子は頼もしいチームメイトとともに、立派なリムジンバスに乗り込むことに相成ったのだった。

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