03 絶対王者
試合の後には勝利者インタビューが行われたが、そちらも英語のやりとりであったため、内容はさっぱりわからなかった。これは全世界に配信される動画であるため、わざわざ日本語の通訳などはつけられないのだ。日本限定のサービスとして準備されているのは、月に一度のメイン大会における日本語の解説のみであった。
しかしそれでも、語っているのはメイである。たとえ内容を聞き取れなくとも、メイのハスキーな声を聞いているだけで瓜子は新たな涙をにじませてしまった。
そうしてメイが退場し、画面に次の試合に出場する選手のプロフィール画像が映し出されたところで、瓜子はようやく脱力する。何だかもう、自分が試合をした後のようにぐったりしてしまった。
「あはは! ピンク頭が『アクセル・ロード』に出てたときも、こんな感じだったよねー! まったく、情が深いんだから!」
「うるさいっすよ。多賀崎選手の試合を観た後は、灰原選手だって大泣きしてたじゃないですか」
「うるさいやーい!」とわめきながら、灰原選手は多賀崎選手に抱きついた。
多賀崎選手は苦笑を浮かべつつ、持参したペットボトルのお茶を口にする。
「でも、メイはさすがだったね。これなら、この先も安心だ」
「はいなのです。やっぱり篠江カイチョーやリュークコーチの指導力はさすがなのです」
「うんうん。メイさんに会えないのは寂しいッスけど、これからも頑張ってほしいッスねー」
メイの試合が完全に終わったことで、ようやく他なる面々も気安く語り始めた。
そんな中、ユーリは無言で瓜子の姿を見守っている。その眼差しがあまりに優しいものだから、瓜子は何度目かの涙をこぼしてしまいそうだった。
「この後は、ぜーんぶ男どもの試合なんだよねー? 日本人選手とか出てるのかなー?」
「いえ。みんなオーストラリアや海外の選手のはずっすよ。メインは大きな大会で活躍してる選手同士の対戦らしいっすけど、不勉強な自分は存じあげない人たちでした」
「日本大会で、卯月さんとかがメインを飾るようなもんか。あたしらも、もうちょい勉強するべきなんだろうね」
「でも、どうせだったら女の試合を観たいなー! あたしらにも、ベリーニャとかの試合を観せてよー!」
ライブ配信を二の次にして過去の試合映像をあさるというのは、なかなかに失礼な話であるように思えたが――しかしまた、誰に義理立てする筋合いもない。なおかつ、地方大会よりはメインの大会の試合を観戦したほうが有意義と言えるのかもしれなかった。
「それじゃあ、ベリーニャ選手とアメリア選手のタイトルマッチでも観てみますか? 今度はユーリさんが号泣しちゃうかもしれませんけど」
「にゃっはっは。確かにユーリはコーコツのルツボに叩き込まれてしまうでしょうけれども、これまでだって涙は流していないはずですぞよ?」
それは確かに、ユーリの言う通りである。よくも悪くも、そちらはユーリが涙を流すような内容ではなかったのだ。
「あ、だけど、多賀崎選手や邑崎さんはBSチャンネルのほうでチェックしたんじゃないっすか?」
そちらの両名は『アクセル・ロード』の放映をきっかけとして、《アクセル・ファイト》のメイン大会や日本大会が放映されるBSチャンネルに加入しているはずであるのだ。しかし多賀崎選手は鷹揚に、「いいよいいよ」と手を振った。
「そういえば、灰原にはその録画映像を観せてなかったからさ。せっかくだから、こいつがどんな感想を持つのか聞いてみたいもんだね」
「愛音も異論はないのです。重要な試合映像は、繰り返し視聴することで見識が深まるものと理解しているのです」
ということで、テレビ画面には昨年末に行われたベリーニャ選手とアメリア選手のタイトルマッチが映し出されたわけであるが――それを初めて目にした灰原選手と蝉川日和は、ひたすら呆れるばかりであった。
「何これ……相手は、絶対王者なんでしょ?」
アメリア選手は数年にわたって、女子バンタム級の絶対王者として君臨した。そもそも《アクセル・ファイト》に女子部門が設立されたのも、運営代表のアダム氏が彼女の強さと華やかさに魅了されたためであるのだ。
もともとアメリア選手は、レスリングの世界大会の銀メダリストである。しかも、二十歳やそこらでその栄冠をつかみ取ったのち、早々にMMAへと転向したのだ。それからMMAの舞台でも圧倒的な強さを見せつけて、ついには女子選手として史上初の百万ドルのファイトマネーを獲得したのだった。
彼女の持ち味は、突進力である。レスリングで鍛えあげた筋力を打撃技にも活用して、相手をさんざん痛めつけたのちに、最後はマットに薙ぎ倒してとどめを刺す。その問答無用の破壊力は、二年半ほど前に行われた青田ナナとの一戦でも如実に示されていた。
そのアメリア選手が、ベリーニャ選手に完全に翻弄されてしまっている。
ベリーニャ選手はスタンド状態において軽やかなるステップワークを見せるのが常であったが、突進力を売りにするアメリア選手はまったくつかまえることがかなわなかったのだった。
アメリア選手がどれだけの突進を見せても、ベリーニャ選手はふわふわと受け流してしまう。そしてただ逃げるだけではなく、離れ際には的確なパンチを叩き込んでいくのだ。一ラウンド目の半ばを過ぎる頃にはアメリア選手の両方のまぶたが切れて、鼻からも血がしたたっていた。
それでもさすがはレスリング巧者で、アメリア選手もテイクダウンだけは許さない。
しかし彼女もまた、タックルはすべて潰されてしまっている。ひたすら突進するアメリア選手とそれを優雅に受け流すベリーニャ選手は、闘牛とマタドールさながらであった。
「ベリーニャもベリーニャで、強さに磨きがかかってるよね」
「うんうん! なんだか、サキみたい! ……いや、サキともちょっと雰囲気が違うかー」
「サキセンパイだったら、もっと早い段階でボディや足への蹴りを狙っているのです。それはそれで、すごい話なのですけれど……ベリーニャ選手は、ステップワークとパンチだけで主導権を握っているのです。これはまた、別の凄さなのです」
「これ、マジですげーッスねー! 相手のほうがリーチがあって、しかもスピードだって尋常じゃないのに! あたしだったら、真正面から迎え撃つしかないッスよー!」
蝉川日和の言う通り、背丈やリーチはアメリア選手のほうがややまさっている。そしてその踏み込みの鋭さは、メイにも負けていないのだ。
しかしアメリア選手はベリーニャ選手に指一本ふれることができず、一方的に攻撃をもらい続けている。しかもその攻撃は顔面に集中しているため、どんどん無惨な面相に変じていった。
眉間に深い皺を刻み込んだアメリア選手は、もはや鬼の形相だ。
いっぽうベリーニャ選手は穏やかな面持ちで、ほとんど汗すら浮かべていない。そうして特に奇矯な動きを見せるでもなく、ごく軽やかにステップを踏んで、的確な攻撃を叩き込んでいくのだった。
そうして一ラウンド目の残り時間が一分を切ったとき、アメリア選手が何度目かの両足タックルを見せた。
最後の力を振り絞ったかのような、これまで以上の勢いだ。
だがやはり、ベリーニャ選手はふわりと回避してしまう。その優雅さは、風にそよぐ柳さながらであった。
マットに膝をついたアメリア選手は、その状態からグラウンド戦に持ち込まれないようにと、機敏に立ち上がる。その油断のなさは、大したものであったが――そんなアメリア選手のもとに、ベリーニャ選手が音もなく接近した。
アメリア選手は鬼の形相で、右フックを振り回す。
それをかいくぐったベリーニャ選手はアメリア選手の胴体に組みつき、足をかけ、いとも簡単にテイクダウンを成功させた。
そして、ベリーニャ選手の足をはさみこもうとするアメリア選手の両足からするりと抜け出して、馬乗りになり、右腕をつかみ取る。アメリア選手が両腕をロックさせると、その内側に右足を差し込んで、横合いに倒れながら、両足をロックした。
ユーリも得意とする、三角締めである。
そして――そのなめらかなる挙動は、ユーリ以上であった。
アメリア選手はいまだに両腕をロックしているが、ベリーニャ選手はそのまま相手の首と右腕を両足で引き絞る。
そしてきっかり三秒後、ベリーニャ選手は何事もなかったかのように技を解除して、立ち上がった。
レフェリーは慌ててアメリア選手のもとに屈みこんだのち、両腕を交差させる。
大歓声の中、試合終了のホーンが響きわたった。ベリーニャ選手はわずか三秒で、アメリア選手の意識を刈り取ったのだ。アメリア選手は目尻からの出血と鼻血で顔面を真っ赤に染めながら、白目を剥いてブラックアウトしていた。
「うへー……ベリーニャって、こんなに強かったっけ?」
「そりゃあ強いよ。何せ、桃園や来栖さんに勝ってるんだからな。でも……昔からこんなに強かったら、秋代なんかに後れを取ることはなかっただろうね」
「はい。ベリーニャ選手は、秋代の反則で怪我しちゃったことを自分の未熟さのせいだって仰ってましたからね。その悔しさも、バネになったんでしょう」
そんな風に応じながら、瓜子はユーリの様子をうかがった。
以前にこの試合を目にしたときと同じように、ユーリはうっとりと目を細めている。そのまま意識を失ってしまうのではないかというぐらい、恍惚とした面持ちだ。
(ベリーニャ選手のドキュメント番組を見返すと、今でも泣いちゃうことが多いけど……あれは大苦戦の末の逆転勝利だからなのかな)
ともあれ、ユーリが《アクセル・ファイト》におけるベリーニャ選手の試合を観ても、涙を流すことはなかった。これ以外の二試合でも、ベリーニャ選手はノーダメージの完全勝利であり――そして、ユーリをひたすら恍惚とさせるのだった。
「うーん。これで来月、また同じ相手とやりあうんスか? 相手の勝ち目なんて、1ミリもなさそうッスけど」
蝉川日和が疑念を呈すると、多賀崎選手も「そうだなぁ」と頭をかいた。
「だけどまあ、たぶんベリーニャは打たれ強いタイプじゃないと思うんだよね。ナチュラルウェイトで試合に出てるから体格も華奢なほうだし、そもそもこれまでまともに殴られた経験もなさそうだし……だからこそ、秋代なんかに後れを取ったんじゃないかなぁ」
「うんうん! 一発でも攻撃をもらったら、なんか危なそうだよねー! ……ただ、アメリアの攻撃が当たる図がイメージできないんだけど」
「そこなんだよね。だからまあ、アメリアの作戦次第かな。これだけ突進をすかされたら、今度は違う手で来るでしょ」
そんな風に言ってから、多賀崎選手はユーリのほうに向きなおった。
「何にせよ、ベリーニャが相手だったら桃園のほうが面白い試合を見せてくれそうだよね。……あんたはまだ、ベリーニャのことを追いかけてるんでしょ?」
「はいぃ。でもでもそれは、夢のお話ですので……ユーリは目の前の試合を頑張るだけなのです」
ユーリが夢から覚めたように微笑むと、多賀崎選手は眩しそうに目を細めた。
「あんたは《アクセル・ファイト》ランキング二位のパットを倒したんだから、アメリアと同格のはずさ。手の届かない夢ではないだろうから、頑張りな。……あたしもあたしなりに、協力するからさ」
「ありがとうございますぅ。多賀崎選手にそのように言っていただけると、心強さのキョクチなのですぅ」
「わかったから、そんな目であたしを見ないでよ。……猪狩はよく、こんな目に耐えられるもんだねぇ」
「ちょっとー! マコっちゃんをユーワクしないでもらえる!?」
「ユーリ様! 愛音も全身全霊でお力になる所存なのです!」
と、ユーリを取り囲んでちょっとした騒ぎになってしまう。
瓜子が和やかな心地でそれを見守っていると、蝉川日和がこそこそと近づいてきた。
「あたしはやっぱ、キックのほうが性に合ってるみたいッス。……で、MMAだったら、猪狩さんの試合が最高ッス」
「あはは。真っ赤な顔して、何を言ってるんすか」
「た、たまには邪魔者のいないところで、お気持ちを伝えたかったんスよ」
そう言って、赤い顔をした蝉川日和は毛先のはねた頭を引っかき回した。
そんな感じに、ひさびさの会合のひとときは賑やかに過ぎ去っていったのだった。




