02 ナイトメア
瓜子たちが見守る中、《アクセル・ファイト》シドニー大会の第一試合が開始された。
オーストラリアと北米の選手による、男子バンタム級の一戦である。レオポン選手と同じ階級であったが、どちらの選手も格段に逞しい体格をしているように見えた。
それにどちらもレスリングを得意にしているらしく、荒っぽい打撃を交換しては組みつきに移行して、しかもおたがいになかなか倒れない。その展開のまま一ラウンド目が終了すると、客席からは不満げな喚声があげられた。
「これは《アクセル・ファイト》恒例の、高レベルの膠着状態ってやつかな。なまじ実力者同士だとおたがいにディフェンス能力が高くて、こういう状況になりやすいって話だよね」
「だったらせめて、ストライカー同士の対戦がよかったなー! 壁レスリングばっかりじゃ、飽きちゃうよ!」
「でも、北米はレスリングが盛んであると聞くのです。それに対抗できるオーストラリアの選手も、さすがなのです」
「オーストラリアは、けっこう柔道も強いイメージがあるよね。ていうか、三年連続で金メダルを取った柔道の選手がMMAに転向したとかいう話題で、盛り上がってなかったっけ?」
と、元気に言葉を交わすのは、おもに多賀崎選手と灰原選手と愛音の役割であった。
キックの選手である蝉川日和も、やはり組み技の攻防には関心が薄いのだろう。いっぽうユーリもテレビ画面を眺めながら、うとうとと船を漕ぎ始めていた。
「大丈夫っすか、ユーリさん? 組み技がお好きになっても、こういう攻防にはテンションが上がらないんすね」
「うにゃあ。組み技の攻防も楽しいことは楽しいのですけれど……何か展開が進まないと、ユーリはねむねむの魔法にかけられてしまうようなのでぃす」
ユーリは寝技の攻防をこよなく好んでいるが、ポジションキープに徹することには興味がない。壁レスリング合戦の膠着状態というのは、ユーリにとってそちらの部類に含まれるのかもしれなかった。
そうして二ラウンド目が開始されても、試合に大きな動きはなかった。どちらの選手も荒っぽい打撃はなかなかの迫力であるし、組み技の攻防はたいそうな力感であるのだが、実力が拮抗しているために試合が進まないのだ。多賀崎選手が語っていた通り、おたがいのディフェンス能力の高さが膠着状態を生み出してしまうようであった。
結果、最終ラウンドでも決着はつかず、勝負は判定にゆだねられる。2対1のスプリットで、からくも北米の選手の勝利であった。
「ま、本番はここからだしねー! いよいよメイっちょの登場だー!」
灰原選手のそんな言葉とともに、瓜子は再び身を乗り出した。
まずは青コーナー陣営から、対戦相手が入場する。たしかオーストラリアのプロモーションで活動する選手であるはずであったが、テロップにはアイルランドの国旗が表示されていた。
「オーストラリアで暮らすアイルランド人ってことなのかな? まあ、オーストラリアはなかなかの多文化国家だって評判だしね」
多賀崎選手は、そんな風に言っていた。
まあ、どこの生まれであろうと、関わりのない話である。重要なのは、その選手がオーストラリアのプロモーションで実績を積んで、《アクセル・ファイト》に出場するチャンスをつかんだ実力者であるという一点であった。
現地で活躍する選手であるためか、さきほどの赤コーナー陣営の選手に負けないぐらいの歓声を浴びている。栗色の髪で白い肌をした、精悍な面立ちの女子選手だ。ウェアを脱ぐと、いかにも組み技をやりこんでいそうな肉厚の体型であった。
そして――赤コーナー陣営の花道から、メイが登場する。
その姿を目にした瞬間、瓜子の心臓はどうしようもなく跳ね回ってしまった。
メイは、白黒ツートンのウェアを纏っている。
《アクセル・ジャパン》でも、メイはそのカラーリングを――瓜子やユーリと同じカラーリングを選んだのだ。それを思い出しただけで、瓜子は涙ぐんでしまいそうだった。
篠江会長、リューク・プレスマン、ビビアナ・アルバに背中を守られながら、メイはひたひたと歩いている。赤みを帯びた金色のドレッドヘアーに半ば隠されたその顔は、厳しく引き締まった無表情であり、ただ黒い瞳だけが炎のように燃えている。それもまた、瓜子が知る通りの姿であった。
ボディチェックのためにウェアを脱ぎ捨てると、同じカラーリングのハーフトップとファイトショーツである。そこから覗く引き締まった手足や胴体のなめらかさにも、何も変わるところはなかった。
ボディチェックを終えたメイがケージインすると、リングアナウンサーが選手紹介のアナウンスを開始する。その中で、『シンジュク・プレスマン・ドージョー!』と『ナイトメア! メイ・キャドバリー!』という言葉だけが、瓜子の耳にくっきりと響きわたった。
メイと対戦相手が、レフェリーのもとで向かい合う。
やはりこのたびも、対戦相手のほうがひと回りは大きかった。これはもう、重くて細い骨を持つ瓜子とメイの宿命である。身長差も五センチ以上はあったので、同じ階級の選手とは思えないほどであった。
しかしメイは炎のような眼光で、相手の姿を見据えている。
《アトミック・ガールズ》に参戦した当初は、相手の姿をろくに見ようともしなかったメイであるが、もうあの頃とは心持ちが違うのだ。メイはさまざまな思いを抱えながら、今は真剣にMMAという競技を楽しんでいるはずであった。
軽くグローブをタッチさせたのちに、両者はフェンス際まで引き下がる。
そうして、試合開始のホーンが鳴らされると――メイは、獣のような敏捷さで進み出た。
その鋭いステップに、瓜子は思わず息を呑んでしまう。
ひと息に間合いを詰めたメイは、相手の顔面に左ジャブを刺したのち、すぐさま引き下がった。
一瞬遅れて、相手の右拳が虚空を横薙ぎにする。右フックで反撃したのだが、メイはもう間合いの外でステップを踏んでいた。
先手を取られた相手選手は、気持ちを落ち着けようとばかりに自らもステップを踏む。
その動きに合わせて、メイが再び懐にもぐりこんだ。そうして放たれたのは、レバーブローだ。それをクリーンヒットされた相手選手は苦しげに顔をしかめながら、後方に逃げようとした。
それを追いかけて、メイは左右のフックを叩きつける。
相手選手はそれをガードして、今度は左のショートフックを返したが、その頃にはもうメイもバックステップを踏んでいた。そして、相手の攻撃をすかしたのちに、アウトサイドに踏み込んで、地を這うようなカーフキックを叩きつけた。
メイの頑強なる足で、カーフキックをまともにくらったのだ。相手選手はレバーブローをくらった際よりも苦しげな顔つきで、また下がろうとした。
そこに、メイの左ジャブが飛ばされる。
相手がとっさにガードすると、メイはさらに右のボディフックにまで繋げた。そちらは、クリーンヒットである。
相手選手は左足を引きずりながら、さらに逃げようとする。
それを追い詰めようとするメイは、獲物を狙う黒豹さながらであった。
メイが大きく踏み込もうとすると、相手はカウンターの膝蹴りで迎え撃つ。
しかしメイは素晴らしい反射速度で足を止めると、相手の膝蹴りを空振りさせたのち、真っ直ぐのばした右ストレートをヒットさせた。
相手選手が右フックを振るったならば、ダッキングでかわしたのちにレバーブローをお見舞いする。
相手の注意が腹に向くと、今度は顔面に右フックだ。左頬を撃ち抜かれた相手選手は、ダウンをこらえるようによたよたと後ずさった。
それを追いかけて、メイは右ローのモーションを見せる。
相手がとっさに左足を持ち上げると、ガードの隙間から右アッパーを叩きつけた。
相手選手は惑乱して、大振りの右フックを繰り出す。
それをスウェーでかわしてから、メイは左フックをヒットさせた。
そして再びの、カーフキックである。頭、腹、足と、的確に攻撃を散らされて、相手選手は防御もままならないようであった。
二発目のカーフキックをクリーンヒットされた相手選手は、苦悶の形相で倒れ込む。
メイは躊躇なく、その上にのしかかった。
相手選手は身をよじって逃げようとしたが、その動作も弱々しい。メイは獣のごとき俊敏さで馬乗りになって、パウンドを乱打した。
速射砲のごとき、パウンドの嵐である。メイの最大の武器は、この回転力であるのだった。
相手選手は、ただ必死に頭を抱え込むばかりである。
メイは的確に、淡々と、そして暴虐なる勢いでもって、拳を振るい続けた。
相手選手は守りに徹していたが、頭を抱えているだけですべての攻撃を防げるわけではない。ガードの隙間をぬった拳が顔面にヒットすると、おびただしいまでの鼻血がこぼれた。
相手選手は死にかけた獣のような所作で、横を向いてしまう。
そうしてメイが右肘を振りかぶると、厳粛な顔をしたレフェリーが割って入った。
大歓声の中、試合終了のホーンが鳴らされる。
タイムは、一分十五秒――これだけ激烈な攻防でありながら、それだけの時間しか経っていなかったのだ。
瓜子が大きく息をつくと、灰原選手が「やったやったー!」とはしゃぎながら抱きついてきた。
「もー! うり坊が気合ムンムンだから、しゃべるスキもなかったよー! メイっちょ、完勝だったね!」
「……はい。凄い試合でした」
今回の相手は、《アクセル・ジャパン》で対戦したアン・ヒョリ選手に劣る実力ではないと言われていた。そんな相手にノーダメージで、百秒以内の秒殺勝利をもぎ取ってみせたのである。なおかつこの試合には、メイの強さというものが余すところなく詰め込まれていた。
メイは常にアクティブでありながら、決して冷静さも忘れなかった。
そして今も表情を乱すことなく、レフェリーに右腕を上げられている。その凛々しく引き締まった顔を見つめていると、ついに瓜子の目から涙がこぼれてしまった。
メイは日本を離れる悲しさをも乗り越えて、これほどの強さを身につけたのだ。
そんなメイの覚悟と強靭さが、瓜子の胸を震わせてやまなかった。そうしてこのひと月あまり、こらえにこらえていた涙がふきこぼれてしまったのだった。
(でも、これは喜びの涙だから……許してくださいね)
涙で曇るメイに向かって、瓜子は心中で呼びかけた。
腕をおろされたメイはリングドクターに面倒を見られている対戦相手のもとにひざまずき、何か短く言葉をかけてから、握手を交わす。メイのそんな堂々たる居住まいを見せつけられると、瓜子の目からいっそうの涙がこぼれてしまった。
「あーあ、やっぱり泣いちゃった! ま、気持ちはわかるけどねー!」
灰原選手はけらけらと笑いながら、瓜子の頭に頬ずりをする。
そのとき、瓜子の左手が温もりに包まれた。
目だけでそちらを確認すると、ユーリが天使のような顔で微笑んでいる。
そのピンク色の唇が、「よかったね」という形に動かされた。
瓜子もまた、「はい」という形に唇を動かす。
すると、瓜子の手の先を包んだ温もりが、いっそうの熱と力を帯びたのだった。




