act.4 Nightmare in Sydney 01 集合
二月の半ばを過ぎる頃には、『トライ・アングル』の東名阪ツアーも無事に終了した。
三度にわたる公演はいずれも大盛況で、ファーストアルバムとニューシングルの売れ行きも予想値をずいぶん上回っているらしい。SNSなどにおいても『トライ・アングル』はキャリアを重ねるごとに飛躍的に魅力が増していくと、大層な評判であるとのことであった。
『トライ・アングル』のスタッフの端くれであり、そして熱烈なファンである瓜子にしてみても、心から満足のいく結果である。
四月には、また映像作品のリリースや追加公演の予定なども立てられていたが――それはまた、そのときの話だ。大きな仕事をやり遂げたユーリと瓜子は、三月の試合に向けて死力を尽くす所存であった。
しかし二月の間にも、まだ大きなイベントが控えている。
それはメイが出場する、《アクセル・ファイト》のシドニー大会に他ならなかった。
◇
「いやー、お待たせお待たせ! 今日はよろしくねー!」
瓜子とユーリが暮らすマンションにやってくるなりそんな声を張り上げたのは、毎度おなじみ灰原選手であった。
それと一緒にやってきたのは、灰原選手の大切な相方である多賀崎選手と、そして愛音と蝉川日和の両名である。
本日は、二月の第三日曜日――《アクセル・ファイト》シドニー大会の当日であった。
この一行は、ともにメイの試合を見届けるためにこちらのマンションに参じたのだった。
「うり坊たちの部屋は、めっちゃひさびさだよねー! 相変わらず、女二人の住み家とは思えない有り様だなー!」
そんな風に述べながら、灰原選手はすっかりはしゃいでいる。灰原選手や多賀崎選手がこのマンションにやってきたのは、去年ユーリが退院した日以来であるはずであった。
ひさびさの客人をお招きしたのは、リビング兼トレーニングルームの一室だ。テレビがこの部屋に存在する以上、こちらにお招きするしかないのである。トレーニング機器は部屋の端に寄せて、分厚いマットは可能な範囲で丸めて、空いたスペースに座卓と座布団を準備したものの、四名ものお客を招いたならばなかなかの窮屈さであった。
「片付いてなくて、申し訳ありませんね。せまいでしょうけど、おくつろぎください」
「せまいのは、マコっちゃんの部屋で慣れてるけどさ! それにしても、汗くさくない? さては、日曜日だってのにまたトレーニングしてたんでしょー?」
「汗くさいのは、いつものことっすよ。マットにもにおいがしみこんじゃってますからね」
「ユーリ様は、汗までもがフローラルな香りであるのです! もしも汗くさいとしたら、それはすべて猪狩センパイの責任であるのです!」
と、愛音までもが加わると、さらなる騒がしさである。
しかし、今日という日に愛音を招待しないわけにはいかなかった。デジタル音痴たる瓜子たちに代わって本日の試合の視聴の準備を整えてくれたのは、他ならぬ愛音であったのだった。
《アクセル・ファイト》のメイン大会は、かつて《アクセル・ジャパン》や『アクセル・ロード』を放映していたBSチャンネルに加入すれば視聴できる。しかし今回は《アクセル・ファイト》の地方大会であったため、《アクセル・ファイト》公式の動画配信サービスに加入しなければならなかったのだった。
テレビ放送ではなく動画配信であるため、それに加入するには通信の環境を整えなければならない。それでまずはインターネットの回線を開き、ノートパソコンを購入し、それをテレビに転送する準備をしなければならなかったわけであった。
「それぐらい、頭を悩ませるような話じゃないでしょーよ! てか、インターネットの回線を開いてなかったって時点で、こっちは驚きなんだけど!」
「はあ。自分もユーリさんもガラケーで、パソコンも持ってなかったっすからね。本当に、邑崎さんには感謝しています」
「いえいえ。ユーリ様のためなら、なんの苦労でもなかったのです」
そうして愛音がちらちらと視線を送ると、ユーリは「ありがとねぇ」とふにゃんと微笑む。さすれば、愛音も大満足の面持ちであった。
ともあれ、愛音のおかげで観戦の環境は整えられた。メイが日本を出てからすぐさま愛音に泣きついたので、一月下旬に行われたレオポン選手のグラスゴー大会もリアルタイムで見届けることがかなったのだ。そちらはパウンドアウトで、レオポン選手のTKO勝利であった。
「メイっちょの試合が終わったら、ハルキくんの試合も見せてほしいなー! 当然、過去の試合も見られるんでしょ?」
「はい。ていうか、《アクセル・ファイト》の過去の試合も見放題なんすよ。これで月額二千七百円なら、めちゃくちゃお得なんでしょうね」
「うんうん! でも、日本語の解説がついてるのは、大きな大会だけなんだっけ?」
「ええ。『アクセル・ロード』の北米バージョンなんてのもありましたよ」
なんとそちらでは、ユーリたちの会話に英語の吹き替えがあてられていたのだ。なるべく声質の似た声優がキャスティングされたのであろうが、ユーリが普段とやや異なる甘ったるい声で英語をしゃべるさまは、絶大なる違和感をもたらしてやまなかった。
「で、今日の試合は生配信を拝見できるってわけだ。でもたしか、《アクセル・ファイト》って毎週のように試合があるんじゃなかったっけ?」
多賀崎選手の問いかけに、瓜子は「そうっすね」と答える。
「メイン大会は月に一回で、あとは地方大会とかセミの大会が毎週のように開催されてるみたいです。だから正直、まったく追いかけられないんすよね」
「あたしらもアトミック以外の試合は、対戦相手の研究ぐらいでしか見る習慣がないもんね。でも、世界の女子選手の試合ってのは、参考になるんじゃない?」
「ええ。メインの大会を中心に、そういう試合をぽつぽつ拾って拝見しました。ね、ユーリさん?」
「はいっ! ベル様の試合は、至高の極致であられたのです!」
ベリーニャ選手が《アクセル・ファイト》で行った過去の三試合も、すべて視聴することがかなったのだ。それを思い出したのか、ユーリは陶然たる面持ちになっていた。
「ベリーニャは、来月ようやく四回目の試合だっけ? たしかまた、同じ相手とやりあうんだよね?」
「はい。アメリア選手との、ダイレクト・リマッチってやつっすね。《アクセル・ファイト》では、わりと定番みたいです」
瓜子の返答に、蝉川日和が「定番?」と小首を傾げる。
「ダイレクト・リマッチって、おんなじ相手と続けて試合をするって意味ッスよね? なんでそんなもんが、定番になるんスか?」
「たとえば今回で言うと、アメリア選手は女子バンタム級の絶対王者だったんすよね。そういう選手が負けたときは、本当に実力通りの結果だったのかどうか確認する意味でも、ダイレクト・リマッチが組まれるみたいです」
「アメリア選手もお強いのでしょうけれども、ベル様の強さは次元が異なっておられるのです! ベル様の実力を疑うなど、許されざるべきボートクであるのです!」
「別に自分が疑ってるわけじゃないっすよ。アメリア選手も向こうじゃ人気選手なんでしょうから、ベリーニャ選手とのリマッチは大いに盛り上がるって面もあるんでしょう」
かくいう瓜子は、アメリア選手に小さからぬ反感を抱いている。彼女が『アクセル・ロード』のサブコーチとして招聘された際、ユーリと寝技限定のスパーに取り組みながら、肘打ちを使ったためである。おそらくは、ユーリが予想以上の実力であったために、頭に血をのぼらせたのであろうが――それで反則の行為に及ぶなど、選手としても人間としても恥ずべき行いであるはずであった。
(でも……《アクセル・ファイト》の現役王者を一瞬でも本気にさせたってことで、メイさんはユーリさんの実力をほめてくれたんだよな)
そんな思い出にひたりながら、瓜子は座卓に準備したノートパソコンを操作した。
まだ購入してから一ヶ月ていどであるので、マウスを操作する手つきも覚束ない。しかし、《アクセル・ファイト》の試合を視聴する手順だけは、しっかり身体に叩き込まれていた。
テレビ画面に映像を転送させた上で、瓜子は目的のサムネイルをクリックする。
画面に映し出されるのは、照明の落とされたケージのみだ。現在は、プレリミナルカードとメインカードの間に存在するインターバルのさなかであった。
「この生配信があるから、やっぱり時間調整が必要なわけか。でも、シドニーの大会でもメインカードに抜擢されるなんて、メイはさすがだね」
「はい。しかも、女子選手の試合はメイさんだけっすからね」
現在、日本は午後の五時前である。シドニーは日本よりも二時間進んでおり、メインカードの開始はあちらの時間で午後七時からであった。
その暗いケージを眺めているだけで、瓜子は胸が高鳴ってしまう。
もうすぐそこにメイが現れて、試合を見せてくれるのだ。メイと別れて、ひと月と三週間――その期間、瓜子はいっさいメイと連絡を取っていなかったのだった。
ただ、篠江会長からの連絡で、メイは元気だと知らされている。今日の試合に関しても、万全のコンディションで臨めるものと聞かされていた。
メイも孤独に押し潰されることなく、為すべきことを為しているのだ。
瓜子はそれを、全力で追いかけなければならないのだった。
「……海外では、アトミックの放映を見る手段がないんだよね?」
と、多賀崎選手がふいに穏やかな声でそのように言い出した。
「ええ。多賀崎選手が『アクセル・ロード』で対戦したロレッタ選手も、アトミックのDVDを買いあさって研究してましたよね。……メイさんにも、プレスマン道場から送る予定になってますよ」
「そっか。DVDの発売日が、待ち遠しいところだね」
「うんうん! でも、うり坊は血みどろになっちゃうから、メイっちょもびっくりだろうねー!」
多賀崎選手の腕を抱きすくめながら、灰原選手も笑顔で言いたてた。
瓜子は心を温かくしながら、「そうっすね」と笑ってみせる。
そのとき――スポットに照らされたケージにリングアナウンサーが出現して、客席の観客たちに歓声をあげさせた。
瓜子もまたいっそう胸を高鳴らせながら、身を乗り出す。メイの出番は二試合目であったが、胸の昂りを抑えることは難しかった。
今回は、普段のリングアナウンサーとは別人のようである。まあ、毎週のように試合を行っていれば、同じ人物が担当することは難しいのだろう。海外の地方大会であれば、なおさらであった。
そのリングアナウンサーが、英語で何かを語っている。誰が語ろうとも、やはり瓜子のヒアリング能力では聞き取ることがかなわない。しかしオーストラリアも英語圏であるため、会場は大いにわきたっていた。
そうしてリングアナウンサーがフェンス際に引っ込むと、さっそく第一試合の選手たちが入場を始める。
テロップで確認したところ、赤コーナー陣営がオーストラリア、青コーナー陣営がドイツの選手であるようだ。やはりシドニー大会では、オーストラリアと各国の若手選手の対戦がメインになるようであった。
「おー! 盛り上がってきたねー! お客は何人ぐらい入ってるんだろ?」
「集客まではわからないですけれど、こちらは2000年に開かれたオリンピックのために作られた施設で、二万人まで収容できると聞いているのです」
何事に関してもリサーチ能力の高い愛音が、灰原選手の疑問に答えていた。
瓜子もオーストラリアの格闘技事情などはまったくわきまえていないが、《アクセル・ファイト》の開催地に選ばれるぐらいであるのだから、それなりに活況であるのだろう。また、そうであるからこそ、メイの養父も養子をMMAファイターとして大成させようなどと考えついたのだろうと思われた。
メイは今頃、控え室で爛々と目を光らせながらウォームアップに励んでいるのだろう。
そんな風に想像すると、瓜子の胸はいっそう高鳴ってやまなかった。




