act.3 Try・Angle in Nagoya 01 出番前
《アトミック・ガールズ》一月大会の八日後――一月の最終月曜日である。
その日、ついに『トライ・アングル』のファーストアルバムが発売されることになった。
アルバムタイトルは、ずばり『Try・Angle』である。ファーストアルバムにバンド名をそのまま用いるというのは、古き時代から連綿と続くお決まりのパターンであるとのことであった。
ちなみに三角形を意味する英単語のつづりは『triangle』であるため、『トライ・アングル』のユニット名の英語表記とは一文字だけ異なっている。これは、ユーリと『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』の三つの布陣が寄り集まったことを意味するのと同時に、「試す」の意味である「try」という言葉を重ねているためである。『トライ・アングル』の結成当初から、グッズ等では『Try・Angle』という英語表記が採用されていたのだった。
何はともあれ、『トライ・アングル』のファーストアルバムが発売された。
これまでにリリースされた七曲のオリジナル曲に三曲の新曲を加えた、全十曲の堂々たる内容である。新曲の中からシングルカットされた『ハーレム』は何とスポーツドリンクのCMソングに起用され、ミュージックビデオの再生数も過去最高の上昇率を叩き出していた。
ちなみにアルバムとシングルは同日リリースで、『ハーレム』に関しては演奏陣のパートを入れ替えたバージョン違いとなる。アルバムではダイがドラムで西岡桔平がパーカッション、リュウがエレキギターで山寺博人がエレアコギターという編成になり、シングルではそれが入れ替えられるという格好である。瓜子はその録音の現場でリュウがエレアコギターを弾く姿を初めて拝見したわけであるが、山寺博人とはまったく異なる流麗なる演奏を見せつけられて、たいそう感服したものであった。
なおかつ、シングル盤のカップリング曲は『YU』と『スノードロップ』のアンプラグド・バージョンという豪勢な内容で、しかもアルバムとの同時購入特典なども準備したものだから、こちらも過去最高の予約数を叩き出したとのことであった。
ひとつ特筆するべき点は、アルバムがオリジナル曲のみで構成されていることであろう。『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』のカバー曲、およびユーリのソロ時代の楽曲は含まれていないのだ。
ファーストシングルである『ハダカノメガミ』と『ピース』、セカンドシングルである『burst open』と『ケイオス』、そして三ヶ月連続でリリースされた『Re:Boot』と『YU』と『スノードロップ』で、計七曲だ。そこに『ハーレム』を筆頭とする三曲の新曲を加えて、ファーストアルバムが完成されたわけであった。
かつてその内容が発表されたとき、世間は大いにどよめいたという。何せ『トライ・アングル』のライブにおいて、『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』のカバー曲はいずれも大好評であったのだ。『アルファロメオ』や『ジェリーフィッシュ』などはもはや代表曲のような扱いであるし、シングルのカップリング曲としてミュージックビデオが作製された楽曲に関しては、オリジナルの楽曲に負けないぐらいの再生数を記録していたのだった。
この采配には、ちょっとした裏事情が存在する。
まずは、ユーリを除くメンバーたちがオリジナル曲だけでアルバムを作りあげたいと主張したことである。八名で合奏すればカバー曲もオリジナル曲に負けない完成度であったものの、カバー曲はあくまでカバー曲であるためファーストアルバムには相応しくないというのがユーリを除くメンバー一同の見解であった。
そんな要請を受けた運営陣はさして悩むこともなく、解決策を考案した。いずれカバー曲のみで構成したセカンドアルバムを作製しようという話に落ち着いたのだ。
もとよりオリジナル曲だけでも曲数としては十分であるし、そちらもまたアルバムから外すべき楽曲が見当たらない。であれば別々にリリースしてしまえばいいという、安直かつ能動的な結論であった。
もちろんファーストアルバムの楽曲は、すべてが新録である。去年発売された三曲などはさしてアレンジも変更されていないものの、『トライ・アングル』というのは演奏を重ねるたびに異なる魅力を爆発させることがかなうのだ。これまでのシングルをすべて買い集めていた人々でも、決して不満を抱くことはないはずであった。
そして、通常盤と同時に発売される特装盤であるが――そちらも、物凄い内容になっていた。そちらはメインの音源の他に、別なる音源とライブ映像がそれぞれ付随するのである。
ライブ映像というのは、昨年敢行した三ヶ月連続ワンマンライブの最終日の模様を収録したものだ。贅沢なことに、それはアルバムの特典映像として扱われることに相成ったのだった。
そして、別なる音源というのは――ユーリが退院してから初めて行ったスタジオ練習の模様である。漆原たちの要請で録音されていたそちらの音源が、ついに日の目を浴びることになったのだ。
そのタイトルは、『復活の日~Re:Boot~』と銘打たれていた。
長期にわたって入院していたユーリが、その身にあふれかえった熱情を余すところなくぶちまけた。その内容が、録音されているのである。正直なところ、そちらのデモ音源を耳にした際、瓜子は当時の記憶を呼び起こされて滂沱たる涙を流してしまったのだった。
そちらには、オリジナル曲もカバー曲もユーリのソロ時代の楽曲もごちゃまぜで収録されている。そして、オリジナル曲に関してはアルバムの楽曲と完全にかぶってしまうわけだが――それでもやっぱり、聴く人間を失望させることにはならないだろう。その音源には、ようやく『トライ・アングル』の活動を再開できるというユーリたちの喜びが炸裂しまくっているのだ。瓜子のように特別な思い入れを抱いておらずとも、人々の心を揺さぶってやまない何かが秘められているはずであった。
では、落ち着いた環境でレコーディングされたメインのアルバムのほうはどうかというと――そちらはそちらで、素晴らしい完成度である。どれだけ落ち着いた環境であっても、『トライ・アングル』の爆発力に変わりはないのだ。それでいて、そちらは荒々しい演奏の中に確かな洗練が感じられてやまないのだった。
そんな具合に、特装盤のほうもとてつもない充実度である。
まあ、その他にも特典ブックレットやおまけ映像などでは瓜子のあられもない姿がさんざん写り込んでいるわけであるが――瓜子は心を無にすることで、羞恥の思いをやりすごすしかなかった。
そうして『トライ・アングル』のファーストアルバムは、発売と同時に大変な反響を巻き起こし――そんな中、アルバムリリースを記念した東名阪ツアーが決行されたわけであった。
◇
「世間のあーちすとの方々に比べればミニマムな規模らしいですけれど、ユーリたちにとっては特大イベントでありますよにゃあ」
東名阪ツアーの初日、名古屋公演の会場の楽屋において、ユーリはそのようにのたまわっていた。
まあ、瓜子も同様の心情である。東名阪とはすなわち日本の三大都市たる東京、名古屋、大阪を指しており、『トライ・アングル』は二月の前半の二週間で三回のライブを決行するわけであった。
これでも三月に《ビギニング》のシンガポール大会という大一番を抱えるユーリを慮り、最大限に数を絞った結果であるという。ならばこちらも、全力で使命を全うするしかなかった。
「もちろん、ライブは楽しいのだよ? でもでも、こうして名古屋や大阪に出向くには、前後の日まで拘束されてしまいますし……それだけが、ユーリをあんにゅいな心地にさせるのです」
そう言って、ユーリは珍しくもけだるげに息をついた。その美貌と相まって、ずいぶんな色っぽさである。
「まあ、昨日は昼まで稽古してましたし、明日もきっと午後から稽古するんでしょうけど、お気持ちはわからなくもないっすよ。自分には、どうぞお好きなだけぼやいてください」
「うみゅ。千さんはもちろん、メンバーのみなさまにもこのような話は聞かせられないので、うり坊ちゃんだけが頼りなのです」
と、ユーリが無垢なる笑顔をさらすものだから、瓜子も心を満たされるばかりであった。
「じゃ、そろそろみなさんと合流しますか? それとも、もうちょっとゆっくりしておきます?」
「いえいえ、合流いたしましょう! うり坊ちゃんがみなさんにちやほやされる光景を目にしたならば、ユーリの心も晴れわたるに違いないのです!」
「ユーリさんは、弥生子さんが相手のときにしかすねないんすよね。なんだか、不思議な話っすよ」
「すねてないですぅ」とふくよかな唇をとがらせるユーリとともに、瓜子は楽屋を出た。
千駄ヶ谷は会場のスタッフと打ち合わせをしているため、今は瓜子だけがユーリのそばに控えている。さきほどリハーサルを終了させて、最初のステージ衣装に着替えたところであったのだ。メイク係や衣装係は、最終日の東京公演でのみ招集される手はずになっていた。
「みなさん、お疲れ様です」
瓜子たちが入室すると、さきほど別れたばかりのメンバーたちが歓声とともに出迎えてくれた。
それらのメンバーもユーリも、八名おそろいのステージ衣装に身を包んでいる。毎度お馴染みのモッズスーツであるが、本年はスーツが黒でドレスシャツがダークレッドという、一昨年に仕上げられた最初のステージ衣装を逆転させたカラーリングであった。しかし何にせよ、みんなでおそろいというだけでユーリは至福の面持ちであったし、どのようなカラーリングでも格好いいことに変わりはなかった。
まだ本番まで時間があるので、おおよそのメンバーはジャケットを着用していない。タツヤやダイなどはドレスシャツの前を大きくはだけた、あられもない格好だ。ただ陣内征生はひとりだけ、かっちりと黒いネクタイまでしめていた。
「名古屋でやるのは、初めてだもんな! チケットも速攻でソールドアウトだったって話だし、盛り上がること間違いなしだぜ!」
「おうよ! どうせだったら景気よく、全国ツアーでもぶちあげたいところだったよな!」
タツヤやダイを筆頭に、メンバーの意気も揚々である。そうしてそんなメンバーたちに囲まれていると、ユーリも稽古をできないわびしさを忘れて明るい表情になるのが常であった。
瓜子自身も、もちろんきわめて楽しい心地である。『トライ・アングル』のライブを舞台袖から拝見できるというだけで胸は躍ってしまうし、こうしてユーリ以外のメンバーたちと過ごす時間も掛け値なしの楽しさであるのだ。そして、ユーリがおそろいのステージ衣装に浮かれるのと同様に、瓜子はスタッフとしてグッズTシャツを着られるのがひそかな喜びであったのだった。
ちなみに今回もグッズの製作に関しては、円城リマがアート・デザインに大きく関わっている。瓜子が現在着用しているTシャツにも、彼女の手掛けたイラストがでかでかとプリントされていた。
そのデザインは、ユーリの裸身である。裸の背中を向けたユーリが、横顔で流し目を送っている構図だ。このイラストはアルバムの裏ジャケットに採用されており、特装盤ではトシ先生が撮影した写真が使われていた。
そうしてメンバー一同が楽しく過ごしていると、楽屋のドアがノックされる。
瓜子が応対に出てみると、スタッフの案内で三名の招待客がやってきたことが告げられた。
「ほ、ほ、本当に楽屋まで来ちゃいました! あ、あつかましい真似をして、どうもすみません!」
楽屋に入室するなり、招待客のひとりがそんな声を張り上げた。
柔術道場ジャグアル所属の、浅香選手である。ここ名古屋は、彼女の地元であったのだ。彼女と同行していたのは見知らぬ娘さんたちであったが、そちらも道場の関係者であるという話であった。
「おー! 去年ユーリちゃんと寝技の勝負をしてた、めぐみちゃんだよな? 近くで見ると、やっぱでっけーな!」
そんな遠慮のない声をあげたのは、ダイである。浅香選手は身長百七十五センチで、平常体重も六十五キロ以上であるのだ。ただし、均整の取れた体格をしているし、容姿もわりあい柔和であるため、ごつい印象はまったくなかった。
「きょ、きょ、恐縮です! ほ、本当にわたしたちなんかがお邪魔しちゃって、よかったんですか?」
「いいさいいさ。東京では十人ぐらい招待してたんだから、ちょっと物足りないぐらいだよ」
と、西岡桔平に次いで面倒見のいいリュウが穏やかに笑いかけると、浅香選手と同行していた二名の娘さんがきゃあきゃあと黄色い声をあげた。その片方はなかなかどっしりとした体格であったが、もう片方はずいぶん華奢な体格をしている。それに気づいたリュウが、ドレッドヘアーを揺らしつつ小首を傾げた。
「三人とも、道場の関係者なんだよな? そっちのその子も、門下生なのかい?」
「い、いえ! わたしのパパが道場主なんですけど、わたしは門下生ではありません!」
そんな話も、瓜子は事前に聞いていた。柔術道場ジャグアルにおいてはこちらの三名が『トライ・アングル』の熱心なファンであったが、みんな本日の公演のチケットを取れなくて落胆していたのだという話であったのだ。
そして驚くべきことに、そんな浅香選手を招待したのはユーリ本人に他ならなかった。《アトミック・ガールズ》一月大会の控え室で同席した折にそんな話を聞かされて、ユーリがおずおずとお招きしたのだそうだ。
そんな浅香選手を前にして、ユーリはいくぶん気恥ずかしそうに微笑んでいる。ユーリは自分の熱心なファンに対して腰が引ける傾向にあったが、浅香選手はグラップリング・マッチで楽しい時間を共有した相手であるため、それなりに思い入れを抱いているようであるのだ。ユーリが及び腰で親切を施すというのはこれまでにあまり見られなかった姿であるため、瓜子としてもなかなかに感慨深かったのだった。
「去年の試合は、すごかったよな! めぐみちゃんもユーリちゃんに負けねえぐらい、ぐりんぐりん動いてたもんよ! あんなの、絶対に真似できねえよ!」
ダイが豪快に声を投げかけると、浅香選手は真っ赤な顔で「と、とんでもないです」と縮こまってしまった。
「わ、わたしなんて、けっきょく一本も取れませんでしたし……まあ、わたしなんかがユーリさんにかなうわけもないんですけど……」
「それでもあれは、すごい試合だったと思いますよ。ユーリさんと鞠山さんの一戦に負けないぐらいの内容だったと思います」
西岡桔平もやわらかな表情で、そのように言葉を添えた。漆原を除く面々は、みんな格闘技チャンネルの放映でユーリと浅香選手の一戦を見届けているのだ。
「浅香さんは一月の大会で、ついにMMAデビューしたそうですね。その日は仕事で観戦に行けなくて、残念でした」
「あー、俺たちもそうだったんだよなー! プレマッチだと、格闘技チャンネルでも放映されねえのかなぁ?」
浅香選手があわあわと慌てていたので、瓜子が代わりに「うーん」と考えた。
「本選の試合時間が短いと、プレマッチも放映されるチャンスなんすよね。あの日は……なんだかんだで半分ぐらいの試合は一ラウンド決着だったんで、うまくいけば放映されるかもしれません」
「おー! そう言う瓜子ちゃんも、一ラウンド決着だったもんな! ネットニュースで血まみれの顔を見たときは、ひっくり返りそうになっちまったけどよ!」
「ほんとだぜ! でも、可愛いお顔には傷ひとつなくて安心したよ!」
瓜子の左こめかみの裂傷は、もうテープや包帯による措置も終了している。担当の医師が宣言していた通りに医療用ホッチキスの傷痕はまざまざと残されていたが、それも髪の毛で隠蔽されていた。
それはともかくとして、今はせっかくのゲストたちをもてなすべきであろう。瓜子がそのように考えていると、タツヤが陽気に浅香選手へと呼びかけた。
「そういえば、真央ちゃんは来なかったんだな! 真央ちゃんは、ライブとかに興味ないのかな?」
「あーっ! みなさんは一昨年の合宿稽古ってやつで、香田さんともお会いしてるんですよね! サプライズのライブがあったって聞いて、あたしはすっごく羨ましかったです!」
と、道場主の息女であるという娘さんが、興奮した面持ちでそのように答えた。
「香田さんはあんまり音楽とか聴かないみたいですけど、そのライブはすごく感動したって言ってましたよ! でも、今は……ちょっと体調がよくないみたいです」
「ふーん? 風邪でもひいちまったのかい?」
「あ、いえ……これって、言ってもいいのかなぁ?」
娘さんが視線を向けると、浅香選手はこくこくとうなずいた。
「もうパラス=アテナにも伝えたから、隠す必要はないって言ってましたよ。……香田さんは、フライ級に階級を落とすことになったんです」
「え? あのムキムキボディで、階級を落とすのかよ? そいつは、大変そうだな!」
「は、はい。だからかなり、減量がきついみたいで……あまり無理をしないといいんですけど……」
浅香選手のそんな言葉を聞きながら、瓜子は思わずユーリと顔を見合わせることになった。
香田選手は無差別級からバンタム級に転向して以来、四連敗という結果になってしまっている。まあ、バンタム級にはトップファイターしか存在しないので、しかたのない面もあるのであろうが――本人にとっては、しかたないで済ませられる話ではないはずであった。
「香田選手が、フライ級に落とすんですか。ドライアウトであの体格を維持できたら、ものすごい脅威になりそうですね」
と、格闘技に詳しい西岡桔平は穏やかな笑顔でそう言った。
リュウもまた、「まったくだな」と肩をすくめる。
「まあ、身長的にはフライ級でも大きくないほうなんだろうけどよ。それでもあのパワーを維持できたら、無双できそうだ。真実ちゃんたちはひと苦労だな、こりゃ」
「ええ。でも、ちょうどオリビアさんがバンタム級に階級を上げてしまったところだから、新たなライバルの誕生に喜ぶかもしれませんね」
西岡桔平たちのそんな会話に、浅香選手は瞳を輝かせた。
「み、みなさんは本当に、格闘技についてお詳しいんですね! なんだか、誇らしい気持ちでいっぱいです!」
「あはは。浅香さんの活躍にも期待してますから、今後も頑張ってくださいね」
そんな具合に、『トライ・アングル』のメンバーたちは存分に浅香選手たちをもてなしてくれた。山寺博人や漆原は我関せずの態度であるし、陣内征生はひとりで目を泳がせていたが――楽屋には、とても和やかな空気があふれかえりつつあったのだった。




