10 決着
いつしか客席には、凄まじいまでの歓声があふれかえっていた。
ユーリが大きく動いたことにより――そしてそれでも小笠原選手の優勢が変わらなかったことにより、人々はさまざまな激情をかきたてられたのだろうと思われた。
瓜子も、それは同じことである。小さからぬダメージを負ったユーリと、少なからずスタミナを使った小笠原選手――今後はどのように試合が動くのか、瓜子には見当もつかなかった。
「ただおそらく、これで終わることはないだろう。もう小笠原さんには、同じ作戦を続けるスタミナも残されていないはずだ」
赤星弥生子が言う通り、インターバル中の小笠原選手は疲労をあらわにしていた。椅子に座ってフェンスにもたれた小笠原選手は全身を氷嚢で冷やされながら、大きく口を開けてぜいぜいと息をついていた。
いっぽうユーリも痛めた箇所にあちこち氷嚢をあてがわれていたが、その表情はのほほんとしている。試合中には菩薩像のごとき静謐さを見せるようになったユーリであるが、インターバル中は解除されるようだ。ユーリが復帰してから二ラウンド目までもつれこむのは初めてのことであったので、これは新たな発見であった。
ケージに入ってユーリの面倒を見るのはサキの役割であり、ジョンはフェンスの向こう側からユーリの後頭部に語りかけている。そして愛音はフェンスの上によじのぼり、そこからのばした手でユーリの首筋に氷嚢をあてがっていた。インターバル中にケージまで入れるのは一名のみであるが、愛音の所作もルール上は許されているのだ。
ユーリやジョンの表情の明るさに、瓜子は救われている。どう考えても一ラウンド目のポイントは小笠原選手のものであったが、より深刻な気配に包まれているのは小笠原選手の陣営であった。
「まあ、一方的な展開ではあったけれど、ダウンなどを取られたわけではないし、二ポイントを取られることはないだろう。それに……やっぱり桃園さんの試合が判定までもつれこむというのは、想像し難いね」
「ふん。逆に言えば、判定までもつれこめばトキちゃんが勝つ可能性が濃厚だわね」
「いやいや! トッキーはバテバテじゃん! あの状態でフルラウンドやりあうのは無理っしょ!」
「どうだろうな。小笠原はまだ若いけど、立派なベテランファイターだ。試合中のスタミナ配分をおろそかにすることはないはずだよ」
周囲の面々はそのように語らっていたが、瓜子は無言のままモニターに集中していた。
そんな中、『セコンドアウト!』のアナウンスが鳴り響く。頭から水をかぶった小笠原選手はそれを汗ごとタオルでぬぐわれてから立ち上がり、ユーリは微笑みまじりの顔でマウスピースをくわえた。
『ラウンドツー……ファイト!』
大歓声の中、両者が再びケージで向かい合う。
そして――小笠原選手が、思わぬ勢いで前進した。
まずはその長い足が、ユーリの左足に左インローを叩き込む。
そうしてユーリがバランスを崩したならば、打ち下ろしの右ストレートが炸裂した。
おもいきり左頬を撃ち抜かれたユーリは、まろびながら下がろうとする。
その腹に、右ミドルが叩き込まれた。
身を折るユーリの顔面に、左ジャブと右フックが繰り出される。
ユーリが慌てて頭部を守ると、今度は重いレバーブローだ。
小笠原選手の思わぬ猛攻に、いっそうの歓声が吹き荒れる。
そして瓜子は、決して取り乱さないようにと奥歯を噛みしめた。
小笠原選手は新たな汗を散らしながら、なおも攻撃を続けている。
ユーリもその半分はガードしてみせたが、もう半分はまともにくらっていた。迂闊に反撃をすることもままならない、一方的な乱打戦である。一ラウンド目の慎重に慎重を重ねたスタイルと打って変わって、小笠原選手は火のついたような猛攻を見せていた。
インターバル中には大きく口を開けていたのに、今は鋭く口もとを引き締めて、小笠原選手はユーリの身に的確な攻撃を叩き込んでいる。
小笠原選手は、まだこれだけのスタミナを残していたのだ。
それで、ユーリがもっとも苦手とする乱打戦――それを、第二ラウンドの開始と同時に仕掛けてきたのだった。
ユーリが組みつきの動きを見せると、小笠原選手はその肩を突き放してから、さらに右ストレートを叩き込む。それでようやく、両者の間に距離が生まれた。
おたがいに、大きく息をついている。ユーリはまた深いダメージを重ね、小笠原選手は大きくスタミナを使ったのだ。ユーリは左の目尻が切れて、レバーの辺りも青紫色になっていた。
そうしてユーリが前に出ようとすると、また右ローが飛ばされる。
ふくらはぎの真ん中あたりを狙った、低い軌道の右ローだ。ユーリが足をもつらせながら、それでも前進しようとすると、小笠原選手は左フックから右アッパー、さらにレバーブローというパンチのみのコンビネーションでその足を止めてみせた。
小笠原選手の目は、強く明るく輝いている。
その長身も、水を得た魚のように躍動していた。
「おそらく……小笠原さんにとっても、一ラウンド目は我慢の時間だったのだろうね」
赤星弥生子が、沈着な声でつぶやいた。
「初回でそれなりのダメージを与えて反撃の危険性を下げてから、二ラウンド目でたたみかける。それが当初からの作戦だったのだろう。ここまでは、小笠原さんの目論見通りに試合が進んでいるということだ」
「ふん……それでも油断できないのが、このピンク頭だわよ」
鞠山選手がぶすっとした声でそのように答えたとき、ユーリがいきなり右のハイキックを繰り出した。
そして、蹴り足を前に下ろして、今度は左ミドルを繰り出す。《アクセル・ジャパン》で対戦したエイミー選手のために考案した、蹴り技のみによるコンビネーションだ。さらにユーリは左の蹴り足も前に下ろして、右のミドルにまで繋げた。
二発の蹴りは問題なく回避した小笠原選手の左腕に、その右ミドルが炸裂する。
それもきっちりガードはできていたのに、小笠原選手はたたらを踏んだ。ユーリの蹴りには、それだけの破壊力が秘められているのだ。
このラウンドでは小笠原選手も打ち気になっていたため、最後までかわしきることができなかったのだろう。こういう事態を避けるために、小笠原選手は集中力を振り絞っていたのだ。
しかし、一発で赤く変色した左腕を軽く振った小笠原選手は、むしろ澄みわたった面持ちで関節蹴りを繰り出した。
ユーリが膝を立ててそれをガードすると、今度は小笠原選手が蹴り足を前に下ろして大きく踏み込む。そして、ユーリの顔面に右拳を叩きつけた。
距離が詰まったので、ユーリは組みつこうとする。
小笠原選手はそれを突き放して、右ローを繰り出した。
またふくらはぎの真ん中を蹴りぬかれたユーリは、痛みにこらえかねた様子で倒れ込む。
すると小笠原選手は、倒れたユーリの左足をさらに蹴りつけた。『アクセル・ロード』での沙羅選手を思い出させる、容赦のない追撃だ。
ユーリはマットから背中を浮かせて座った体勢になり、そのまま小笠原選手に近づこうとする。
小笠原選手は最後にその左足を蹴りつけてから、悠然と引き下がった。
レフェリーに『スタンド!』とうながされると、ユーリはマットに両手をつき、左足に体重をかけないようにしながら立ち上がる。そして、立った後も完全に後ろ足重心であった。
「ふん……前足を潰されたら、踏み込みの力も半減以下だね」
犬飼京菜が、感情を押し殺した声でつぶやく。
そうして試合が再開されると、小笠原選手は無慈悲に右ローを繰り出した。
これはさすがのユーリも予期していたようで、右足一本で後方に跳びすさる。
小笠原選手は肩で大きく息をつきながら、その場に踏み止まった。さすがに、スタミナが尽きてきたのだろう。二ラウンド目の試合時間は、すでに半分を過ぎていた。
二ラウンド目の半分であるのだから、試合そのものも折り返しに入ったということである。
ユーリは左足を潰されて、他にもあちこちダメージを負っている。いっぽう小笠原選手は左腕に右ミドルをくらったのみであるが、かなりのスタミナを消費していた。
そこで先に動いたのは、ユーリである。
ユーリはなるべく左足に体重をかけないようにと、ひょこひょことした足取りで前進する。もはやステップとも呼べないような足運びだ。
ただ――その顔は、菩薩像のように静謐である。
左の目尻には血がにじみ、頬も赤く腫れかけていたが、その瞳には何もかもを見透かすような透明の眼差しが宿されている。
こんなユーリと試合の場で向かい合うのは、どれほどの恐怖であるのだろう。
だが、小笠原選手は怯むことなく、自らも前進した。そうして繰り出されたのは、右ローではなく前蹴りであった。
真正面から腹を蹴り抜かれたユーリは、力なく後ずさる。
しかしまた、何事もなかったかのように前進した。
小笠原選手は、左ジャブで牽制する。ユーリの接近を警戒しているが、足を使って逃げようという気はないらしい。あるいは、それだけのスタミナが残されていないのかもしれなかった。
「……確かに小笠原さんは、スタミナ配分に長けているようだね。これだけのスタミナを使っても、まだ余力を残している。こうして小さく動きながら、息を整えているのだろう」
ずっと沈着であった赤星弥生子の声に、わずかな感情がにじんだ。焦りなのか、感心しているのか、あるいは苛立ちなのか――そこまでは判然としない、ごくわずかなゆらぎだ。
「おそらく小笠原さんは、この後の作戦も綿密に立てている。これ以上、小笠原さんのシナリオ通りに試合が進むと……あるいは……」
左ジャブを連発していた小笠原選手が、ふいに右フックを繰り出した。
それにこめかみを撃ち抜かれたユーリは、がっくりと膝をつく。
そして、小笠原選手が下がろうとすると――ユーリは、ばね仕掛けの人形のごとき勢いで跳躍した。深く曲げた右足一本で、小笠原選手に飛びかかったのだ。
小笠原選手はこの試合で初めて焦った顔を見せ、とっさに右フックを繰り出した。
しかし、打点が高すぎる。ユーリはわずかに頭を伏せるだけで、その右フックをかいくぐり――そして、小笠原選手の胴体に組みついた。
ユーリの突進に押し倒されないようにと、小笠原選手は足を突っ張る。
それと同時に、ユーリはおもいきり身をのけぞらせた。
後方に倒されることを用心していた小笠原選手も、前側に重心を移していたのだろう。それであえなく、両足をマットから引っこ抜かれることになった。
マリア選手を彷彿とさせる、豪快なフロントスープレックスである。
ユーリは左足を潰されているのに、右足一本でこのような動きを見せることができるのだ。
そして、ユーリの勝利を願ってやまない瓜子でさえもが、ぞくりと背筋を震わせた。
小笠原選手は秋代拓海にスープレックスの連発をくらって、頸椎を痛めることになったのだ。小笠原選手は長身であるがゆえに、スープレックスのダメージが余計にふくれあがってしまうのかもしれなかった。
小笠原選手の頭と肩が、マットに叩きつけられる。
首はほとんど、くの字に曲がっていた。
そうして小笠原選手の上にのしかかったユーリは、すぐさまサイドに回り込もうとしたが――それは、できなかった。小笠原選手の長い足が、ユーリの左足にからみついていたのだ。
ユーリは上半身を起こして、小笠原選手の足を解除しようと試みる。
すると、小笠原選手が下からユーリの下顎を殴りつけた。
マットを背中につけた状態での不自由な攻撃であったが、的確に下顎を捕らえたために、ユーリの動きが一瞬硬直する。その間隙を突いて、小笠原選手は足を開き、今度はユーリの胴体をはさみこんだ。
あのユーリが、ハーフガードからフルガードに戻されてしまったのだ。
しかも小笠原選手は足の力だけでユーリの胴体を締めあげつつ、上半身をおもいきり突っ張った。首と肩だけで体重を支えて、背中が浮いている状態である。長身の小笠原選手にこの体勢を取られると、もはや拳も届かないのだった。
ユーリは透き通った眼差しで小笠原選手の姿を見下ろしてから、胴体をはさむ足に手をかける。
しかし小笠原選手は、決して拘束をゆるめようとしなかった。その汗にまみれた顔には、決死の形相が浮かべられていた。
あのユーリが怪力をふるっても、小笠原選手の拘束はゆるまない。
そして、その状態で十五秒ほどが経過すると、膠着状態と見て取ったレフェリーが『ブレイク!』と申しつけた。
ストライカーである小笠原選手が、ユーリの仕掛けたグラウンド戦から脱したのだ。
ただ膠着状態を維持するという、きわめて消極的なやり口であったものの――このような形でユーリがグラウンド戦から逃げられるのは、初めてのことではないかと思われた。
ユーリは左足をかばいながら、ゆっくりと立ち上がる。
小笠原選手は、それよりも緩慢な動きであった。スープレックスのダメージと、スタミナの消費――それにきっと、両足にも力が入らないことだろう。ユーリの怪力にあらがって、足の力だけで拘束し続けるというのは、大変な労力であったはずであった。
小笠原選手は全身から滝のような汗を流しつつ、激しく肩を上下させている。その口も、マウスピースが剥き出しになるぐらい大きく開かれていた。
いっぽうユーリはスタミナも十分であるが、満身創痍だ。とりわけ足のダメージというものは、試合中には決して回復が見込めないのだった。
第二ラウンドの残り時間は、すでに一分を切っている。
そして、レフェリーが『ファイト!』と試合を再開させると――二人は同時に、前進した。
二人とも、足がもつれている。もはやステップを踏むこともできないため、あとはべた足で前に出るしかないのだ。
小笠原選手は、遠い距離から右ストレートを出した。
その拳にも、もはや小笠原選手らしい力感は残されていなかったが、目の悪いユーリはかわしきれずに左頬を叩かれてしまう。それでもめげずに組みつきのモーションを見せると、小笠原選手は長い腕を突っ張ってそれを食い止めた。
すると――ユーリが、その右腕を両手で捕らえた。
小笠原選手はそれを振りほどこうとしたが、ユーリの手は離れない。スタミナの尽きた小笠原選手に対して、ユーリはまだまだ元気であるのだ。左足のダメージ以外は、不屈の闘志で相殺させているはずであった。
ユーリは小笠原選手の右腕を左右に振って、なんとか重心を崩そうとする。
すると、小笠原選手が左膝を振り上げて、ユーリのレバーに膝蹴りを叩き込んだ。
さしものユーリも身を折って、崩れ落ちそうになる。
だが、いまだその手は小笠原選手の右手首をつかんでおり――そして、ユーリの右足がマットを蹴った。
ユーリの身が宙に浮きあがり、右腕に全体重をかけられた小笠原選手は力なく倒れ込む。
そしてユーリは小笠原選手もろともマットに倒れ込みながら、左足を旋回させて相手の首を刈った。
小笠原選手の右腕も、まだ捕獲したままである。そうしてユーリが相手の懐に右足をもぐりこませると、両足で右腕をはさみこむ形となり――二人の背中がマットに着く頃には、腕ひしぎ十字固めの形が完成されていたのだった。
ブラジリアン柔術の技、飛びつき十字固めである。
小笠原選手の右腕は、ユーリの怪力で真っ直ぐにのばされた。
それでも小笠原選手はタップをしなかったが、菩薩像のごとき静謐な表情をしたユーリが腹を浮かせてより甚大な痛撃を与えようというモーションを見せると、レフェリーがその肩をタップした。
大歓声の狭間から、試合終了のブザーが響きわたる。
技を解除したユーリは両腕をマットに投げ出して、動かなくなった。
いっぽう小笠原選手は身をよじり、力なく右腕を抱え込む。それぐらい、技は深く極まっていたのだ。
『二ラウンド、四分五十二秒! 飛びつき十字固めにより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の一本勝ちです!』
怒号のような歓声が、会場を震わせる。
控え室でも、あちこちから感嘆の声があげられていた。
しかし瓜子は、モニターを見つめたままである。
そして、黒いポロシャツを纏った医療スタッフがユーリのもとに駆け寄るさまを見守った。
カメラの位置が悪く、ユーリがどのような表情をしているのかはわからない。
そしてケージにはベッドサイドモニタまで持ち込まれて、その計測器がユーリの指先に装着されようとしたとき――ユーリはぴょこんと半身を起こした。
ユーリはきょとんとした顔で、周囲を見回す。
これまでと、まったく同じ様相である。それで瓜子は、大きな安堵と小さな無念の入り混じった息をつくことになった。
「……やっぱり今回も、ほんの数十秒で目が覚めたみたいだな」
と、立松がこっそり囁きかけてくる。
「これじゃあ原因の探りようもねえだろうけど……とりあえず、悪化してないことを喜んでおくとしよう」
瓜子は短く、「押忍」と答えた。
モニターでは、小笠原選手も半身を起こしている。しかし、立ち上がる体力は残されていないようで、座ったままユーリに笑いかけていた。
ユーリはたちまちしゃっちょこばって、小笠原選手の前で正座の姿勢になる。
小笠原選手は汗だくの顔で笑いつつ、左手でユーリの肩を小突いた。その右腕には、リングドクターから氷嚢をあてがわれていたのだ。
すでにリングアナウンサーも待機していたが、二人はかまわずに言葉を交わしている。
そして、小笠原選手があらためて左手を差し出すと、それを両手でつかみ取ったユーリの顔に、ようやく無垢なる笑みがたたえられた。
その姿に、客席からは盛大に拍手が鳴らされて――瓜子の目には、涙がにじんだ。
三年前の無念が、今ようやく晴らされたのだ。
きっと、勝敗などは関係ないのだろう。おたがいに全力を尽くして、最高の試合を見せることができた――その一点こそが、肝要であるのだ。小笠原選手の眼差しは、ユーリに負けないぐらい無邪気に澄みわたっていた。
かくして、ユーリと小笠原選手の二度目の試合は、大歓声の中で終わりを告げて――ユーリの腰には、再び《アトミック・ガールズ》バンタム級のチャンピオンベルトが巻かれることに相成ったのだった。




