09 白い怪物とストライク・イーグル
ユーリと小笠原選手の一戦は、意外な静けさの中で進められていった。
ユーリは前後にステップを踏んでおり、小笠原選手はすり足で間合いを測っている。どちらも迂闊に手を出そうとはせず、小笠原選手が一発の右ローを出しただけで、試合時間は一分を過ぎてしまった。
ユーリという規格外のモンスターを相手取るのに、乱打戦というのはひとつの有効な手立てであったが、小笠原選手はそれを選択しなかった。乱打戦というのは自分もダメージを負う危険があるし、それ以上に組み技を仕掛けられる機会も生まれやすいためだろう。ユーリの特性を思い知っている人間こそ、乱打戦にひそむ危険性は把握しやすいはずであった。
いっぽうユーリも、むやみに手を出そうとしない。コンビネーションの乱発はなるべく控えるというのが、ジョンたちの構築した基本戦略のひとつであったのだ。生粋のストライカーで、ユーリとスパーをした経験が豊富で、なおかつ卓越したリーチを持つ小笠原選手を相手に、コンビネーションの乱発は通用しないだろうという見込みであったのだった。
「もちろん、シアイのテンカイシダイでは、そのカギりじゃないけどねー。あくまで、トキコがゲンキなウチはってことだよー」
かつて稽古場で、ジョンはにこにこと笑いながらそんな風に言っていた。小笠原選手はユーリのことをよく知っていたが、こちらもこちらで同じぐらい小笠原選手の特性というものをわきまえているのだ。これぞ、出稽古でさんざんスパーを重ねてきた恩恵と弊害であった。
ともあれ、小笠原選手が元気な間はコンビネーションの乱発を控えようという算段である。
そして、序盤は相手の出方をうかがうという方針であるのだが――どうやらあちらも、それは同様であるようであった。
(おたがいに手の内を知り尽くしてたら、それが当然か。……その後には、どんな展開が待ってるんだろう)
瓜子は固唾を飲みながら、モニターの二人を見守った。
試合時間が一分半に達すると、さすがに客席からは焦れたような喚声があげられる。それでもやはり、二人はステップとすり足で間合いを測るばかりであった。
レフェリーもまた厳粛な面持ちで、『ファイト!』とうながす。
すると――そのタイミングで、小笠原選手が関節蹴りを繰り出した。
膝の正面を狙った、危険な蹴りである。ユーリがすかさず後方に逃げたために当たりはしなかったが、両者の距離はいっそう開いてしまった。
(小笠原選手は器用だから、アウトファイトだってお手の物だしな。やっぱり、その線でいくのか?)
十一センチも身長でまさる小笠原選手にアウトファイトを仕掛けられるのは、厄介である。しかしまた、厄介であるからこそ、ジョンたちも対策を練り抜いているはずであった。
(ただ……むやみに距離を取ろうって感じではないんだよな)
いったん開いた両者の距離は、また中間距離ぎりぎりの間合いに近づいている。そして、片目をつぶっているユーリは間合いを測ることが何より苦手であるため、それは小笠原選手の選択であるはずであった。
(小笠原選手の長い足でも、ぎりぎり届かないぐらいの距離だけど……いったい、どういう目論見なんだろう)
瓜子がそんな風に考えたとき、ユーリがぴょこんと前進した。
それで間合いが詰まったため、すかさず小笠原選手の蹴り足が飛ばされる。今度は、腹を狙った前蹴りであった。
腕を高めに構えているユーリは防御が間に合わず、白い腹のど真ん中を蹴り抜かれてしまう。
瓜子は一瞬ひやりとしたが、ユーリは慌ててバックステップを踏み、大きなダメージを負った様子はなかった。ただやはり、白い肌に赤い痕が残されてしまった。
そうして、試合時間が二分に達すると――またユーリがうかうかと小笠原選手の間合いに踏み込み、蹴り技が放たれた。
今度はなんと、右のハイキックだ。うまくかわせば、組み技に持ち込めるチャンスであったが――それを左腕でブロックしたユーリは勢いに押されてよろめいてしまったため、チャンスには繋がらなかった。
二分が過ぎて、出された攻撃はわずか三発である。
しかも、右ロー、前蹴り、右ハイという内容で、まったく統一感がない。ユーリの組み技を警戒しているのは確かであろうが、むやみに距離を取ろうという気配はないし、ハイキックなどという大技も出してきたし――瓜子には、小笠原選手の思惑がまったく知れなかった。
「……小笠原さんは、すごい集中力だね」
と――瓜子のすぐそばに立っていた赤星弥生子が、ふいにそんなつぶやきをもらした。
「でも彼女は、これを十五分間も続けられるのかな。もしも、そんな真似が可能だったら……桃園さんは、危ないかもしれない」
「……どういうことっすか?」
モニターからは目を離せないまま、瓜子はそのように反問した。
「自分には、小笠原選手がどういう作戦で挑んでいるのかわかりません。もし弥生子さんが、それを見抜いたんなら……自分にも教えていただけませんか?」
「これは、作戦うんぬんの前段階の話だよ。小笠原さんはただ、その場その場でもっとも正しい攻撃を出しているだけなのだろうと思う」
「正しい攻撃って?」と問い質したのは、瓜子ではなく灰原選手であった。その声も、常にないほどの緊張をはらんでいる。
「この際の正しい攻撃というのは、反撃をくらわないということだね。桃園さんが打撃や組みの技を出せない距離とタイミングをつかんだときにだけ、もっとも有効と思われる攻撃を出している。ある意味では……私のスタイルに似ているのかな」
「あんたのスタイルって、あの古武術スタイルってやつ? トッキーは、普通の技しか使ってないけど」
「うん。私はその戦法を取る際、自然体で脱力しているからね。私の攻撃が奇異に見えるのは、基本姿勢が異なっているためなのだろう」
確かに古武術スタイルを使う際の弥生子は、両腕をだらりと垂らしている。それで振り子のように拳を振り上げて、変則的なアッパーなどを放つのだ。
いっぽう小笠原選手はやや腕の位置が低いだけで、普通の構えを取っている。繰り出される攻撃も、ごくオーソドックスなものだ。赤星弥生子の古武術スタイルとは、どこにも似た要素がなかった。
「私のスタイルは、見様見真似でどうにかできるものではない。小笠原さんも、私を真似ようなどという意図はなく……ただ、桃園さんを相手取るにはこれがもっとも有効であると判じて、自分なりの答えに行き着いたのじゃないかな」
赤星弥生子がそのように語ったとき、四度目の攻撃が繰り出された。
今度は一回目と同じく、低い軌道の右ローだ。それが同じ箇所にヒットしたため、もともと赤かったユーリのふくらはぎがいっそう赤い血の色を浮かばせた。
「今のも、右ローが最善だったのだろうと思う。前蹴りを出すには距離が詰まりすぎていたし、ハイなどを出していたら組みつかれていただろうからね」
赤星弥生子は、静かな声音で言いつのった。
「ただ、みんなも知っている通り、桃園さんは目が悪い。それで、普通では考えられないようなタイミングで、こちらの間合いにうっかり踏み込んでくる。そこで瞬間的に判断して、もっとも正しい攻撃を返すというのは……とても神経が削れるんだ。私でも、それを十五分続けろというのは無理な話だね」
「弥生子さんに無理だったら、小笠原にだって無理だと思いますよ。あいつがそんな武芸の達人みたいな稽古にばかり取り組んでいたとは思えませんからね」
多賀崎選手が張り詰めた声をあげると、赤星弥生子は沈着に「うん」と応じた。
「私も、そのように考えている。だからこれは、桃園さんの力を削る一手なのだろうと思うよ」
そのとき、初めてユーリが反撃した。
遠い間合いからの、右ミドルだ。それをバックステップでかわした小笠原選手は、自らも右ミドルを繰り出した。
ユーリの蹴りが当たらない距離まで退いたのに、小笠原選手の蹴りはボディを守ったユーリの左腕にヒットする。これが、十一センチの身長差であるのだ。その一撃で、ユーリの左上腕にも赤い痕が刻まれることになった。
時間はすでに、三分を過ぎている。
ユーリの攻撃は一発も当たっておらず、小笠原選手の攻撃は五発ヒットした。その現状を打破するべく、ユーリは前進しようと試みたが――その白い腹に、再び前蹴りがめりこんだ。
今回は勢いよく前に出ようとしたところであったので、先刻よりも深くヒットした。
それでもユーリはめげることなく、前進の構えを見せたが――すると今度は、左インローを飛ばされた。左足の内側を蹴られたユーリはよろめいてしまい、その間に小笠原選手は距離を取ってしまう。
そうしてユーリが大きく動き始めたことで、赤星弥生子の言葉に説得力が増した。小笠原選手は、まさしく最善の手を打っているのだ。その目的は、ただひとつ。ユーリを近づけないまま、ダメージを重ねていくことであった。
口で言うのは、簡単な話である。レスラーやグラップラーを相手取るストライカーであれば、誰もがそれを理想の作戦と考えることだろう。小笠原選手は、その困難な作戦を達成させるべく、死力を尽くしているのかもしれなかった。
(むしろこれは、弥生子さんよりも……サキさんのスタイルに近いんじゃないか?)
瓜子はそのように考えたが、モニター上の小笠原選手にサキの姿を重ねることは難しかった。近年のサキは優美な舞のごときステップワークを駆使しているが、今の小笠原選手はどっしりと根を据えた大樹のような風格であるのだ。自らも小さくすり足で動いているものの、あくまでユーリの動きを注視しながら、一発ずつ慎重に最善の攻撃を選び取っている様子であった。
ユーリはアップライトからクラウチングの構えになり、頭を振りながら前進しようとする。
その足や腹に、小笠原選手の蹴りが飛ばされた。メインとなるのは、右ローと右の前蹴りだ。ただし、ユーリががむしゃらに詰め寄ろうとした際には、ついに初めての拳が飛ばされた。鋭い、刺すような左ジャブで、その攻撃にもユーリの足を止められるだけの威力が備わっていた。
ユーリは焦る様子もなく、また菩薩像のように静謐な表情になっている。
それと相対する小笠原選手もまた、柔和な面持ちだ。ただ、いつしかその長身はしとどに汗に濡れていた。
「桃園さんにダメージを与えると同時に、小笠原選手さんは大きくスタミナを削っている。でもきっと、それも覚悟の上だろう」
何度目かの右ローが、ユーリの左足に突き刺さった。
そのふくらはぎは、すでに赤を通り越して青紫色になっている。そして、三発目の前蹴りをクリーンヒットされた際には、腹も同じ色合いに内出血した。
セコンドから指示を飛ばされたのか、ユーリはやおら無軌道なコンビネーションを炸裂させる。間合いを無視した、暴風雨のごとき攻撃だ。
しかし、小笠原選手はすぐさま距離を取って、その猛攻を受け流す。そしてユーリが最後に両足タックルのモーションを見せると、その顔面に前蹴りを繰り出した。
ユーリはぎりぎりのタイミングで首をねじったが、右肩を蹴られたために前進を止められて、両足タックルは不発に終わる。
やはりまだ、無軌道なコンビネーションが通じる状態ではないのだ。名うてのストライカーで、卓越したリーチを有しており、ユーリの試合を研究し尽くしている小笠原選手は、これまで対戦したどの選手よりも的確に対処できていた。
ユーリが厳重に頭を守りながら突進しようとすると、その前進はまた前蹴りで止められる。
アップライトの姿勢に戻して、大股のステップで近づこうとすると、右ローが炸裂して倒れ込むことになった。
ユーリやセコンド陣がどれだけ頭をひねろうとも、まったく近づかせてもらえない。そしてそのたびに、ユーリは小さからぬダメージを負っていた。
腹の真ん中と左のふくらはぎは青紫色に染まり、左の上腕も赤く腫れている。その他にも、一発でも攻撃をくらった箇所は白い肌が変色していた。顔だけは無傷であるが、痛々しい限りである。
ただし、小笠原選手の発汗量も尋常ではなかった。首の右側で結った髪は毛先まで濡れており、顔にも手足にも滝のような汗がしたたっている。それだけの集中力でもって、小笠原選手はユーリという怪物の動きを止めているのだ。それは何だか、槍一本で巨大なゾウか何かを仕留めようとしている姿を連想させてやまなかった。
ユーリはすでに満身創痍だが、小笠原選手も危ういぐらいにスタミナを使っている。
そうして大きな動きはないまま、初回のラウンドは終わりを迎えたのだった。




