04 キック・マッチ
充実したプレマッチが終了したならば、ついに本選の開幕である。
その先陣を切るのは、アトム級の精鋭たちだ。第一試合は大江山すみれ、第二試合は小柴選手、第三試合は犬飼京菜と、全員がベテランのトップファイターとの一戦であった。
アトム級における新鋭と古豪の対戦というのは、昨年の頭ぐらいからすっかり定例化している。そしてこの一年ほどで、ほとんどひと巡りした感があった。そして現在のところ、ベテランファイターが勝利をあげたことは一度としてなく――本日も、その記録が上乗せされてしまったわけであった。
大江山すみれは、一ラウンド二分十七秒でKO勝利。序盤はオーソドックスなMMAのスタイルで取り組みつつ、ふいに古武術スタイルに切り替えて、カウンターの前蹴りの一発で相手を眠らせることになった。
小柴選手は、二ラウンド三分四十二秒でパウンドアウトのTKO勝利。的確な打撃技でダメージを重ね、ダウンを取ったのちにパウンドの乱打という、危なげのない試合運びであった。
犬飼京菜は、一ラウンド五十七秒でKO勝利。序盤から大技を連発し、相手の目が慣れる前に古式ムエタイの側転蹴りにより、秒殺の失神KOを奪取した。
今回は欠場である愛音も含めて、アトム級の新鋭はベテランのトップファイターに全勝を収めている。残されている組み合わせはもう数少ないし、この波を止められそうな気配は微塵もない。アトム級においては、無情なほどのすみやかさで世代交代が完了してしまいそうな気配が濃厚であった。
そんな三試合に続くのは、高橋選手のキックルールによる一戦である。
高橋選手は初のキックルール、相手は《トップ・ワン》のランカーだ。これはなかなかに予想外のマッチメイクであったため、控え室でも客席でもそれなり以上に期待が寄せられているように感じられた。
そもそも高橋選手にこのような試合が打診されたのは、やはりバンタム級の人材不足が原因であったらしい。高橋選手はこの一年足らずで、ユーリを除くバンタム級の精鋭と戦い尽くしてしまったのだ。その結果は、香田選手と鬼沢選手に勝利して、小笠原選手とジジ選手に敗北するという内容であった。
戦績は二勝二敗のタイであるが、鬼沢選手と香田選手に勝利しているのだから、小笠原選手に次ぐ実力であることに疑いはない。パラス=アテナとしても大事に扱いたいところであろうが、調整試合を組もうにも、バンタム級にはトップファイターしか存在しないのである。なおかつ、もっとも古い対戦である香田選手もまだ八ヶ月しか経っていないため、リベンジマッチを組むには時期尚早の感が否めなかった。
そこで持ち出されたのが、キックルールの試合である。
これが上手くいくようであれば、今後も他の選手に応用できるかもしれない。層の薄いバンタム級の勢いを止めないように、できるだけ試合を組みたいという思いのあらわれなのではないかと思われた。
まあ、運営陣のそういった苦心はともかくとして、瓜子もこの一戦を楽しみしていた。最初から天覇館でMMAファイターとしてのキャリアをスタートさせた高橋選手がどこまでキックルールに対応できるのか、関心を引かれたのだ。
昨年末には灰原選手も《レッド・キング》でキックルールに挑んでいたものだが、やはりMMAとキックではずいぶん勝手が異なってくる。より自由度の高いMMAのほうがキックの内容を包括しているように思われがちであるが、そうは問屋が卸さないのだった。
もちろん組み技や寝技の心配をせずに済むのなら、ストライカーにとってはありがたいことだろう。
しかし、話はそうまで単純ではない。組み技が禁止されているということは間合いの取り方が異なってくるものであるし、攻撃の質も変わってくるのだ。
たとえば、ローキックである。
MMAではテイクダウンを警戒して、ローキックを全力で打ち込む機会も少ない。受ける側も同様に、かかとを小さく浮かせて最低限の衝撃を逃がすのが定石である。攻撃する側も防御する側も、とにかくバランスを崩さないことを念頭に置かなければならないのだ。
いっぽうキックの試合では、遠慮なくローを蹴る。それをかかとを浮かせるていどのチェックでしのいでいたら、すぐに足を壊されてしまうだろう。組み技を警戒する必要はないのだから、打つほうは全力で打ち、受けるほうはしっかり足を上げてダメージを軽減させる。それがキックの定石であった。
また、ボクシンググローブは体積が大きいため、オープンフィンガーグローブよりも防御に適している。MMAでは当てられるパンチも、キックルールでは防がれる可能性が高いのだ。
そして、グローブが大きくて重いゆえに、パンチスピードは落ちるし拳の硬さはやわらげられる。瓜子もまたそれらの理由から、キックよりもMMAのほうがパンチを効果的に使えるようになった立場となる。斯様にして、キックとMMAではさまざまな部分で勝手が異なるものであるのだった。
「それに、天覇ん立ち技ん基本は空手やけんね。東京本部はそん名残が強かし、いっそうキックとは勝手が違うはずばい」
パイプ椅子から腰を上げてウォームアップを開始した鬼沢選手は、そんな風に言っていた。いちおう彼女は柏支部の所属であるが、東京本部とプレスマン道場を行ったり来たりして出稽古ざんまいであるのだ。そして、その両方で高橋選手と顔をあわせているわけであった。
そうして大勢の人間が興味深く見守る中、いよいよキック・マッチが開始される。
高橋選手はこの近年で獲得した沈着なる表情とたたずまいで、力強く前進した。高橋選手もまた、基本の足運びはMMA流のステップワークだ。
背丈も手足の長さも、おおよそは同程度である。
そうしておたがいの射程距離が近づくと、まずは相手が右のローキックを繰り出してきた。
高橋選手はしっかりと足を上げて、それをカットする。
とりあえず、基本のキック対策はできているようである。それに高橋選手も、身体はかなり頑丈なほうであるのだった。
(ただ……高橋選手って、よくも悪くもクセがないんだよな)
身体の頑丈さは香田選手のほうが、技の勢いは鬼沢選手のほうがまさっている。それに、バンタム級としてはかなり小柄で、茶帯の柔術家でありながら豪快な打撃技を有する香田選手や、荒っぽいラフファイターでありながら時としてクレバーな一面を見せる鬼沢選手は、かなり個性派であるのだ。さらに、ユーリなどは言うまでもないし、小笠原選手には日本人離れした長身に磨き抜かれた空手の技という強い個性が備わっているし――個性派の多いバンタム級では、高橋選手がひときわ王道の優等生のように感じられてしまうのだった。
しかしまた、正統派というのは決して恥ずべき点ではない。
彼女が手本とする来栖舞もまた、王道を突き進む正統派のMMAファイターであったのだ。そして来栖舞は個性派たる小笠原選手や兵藤アケミを相手取りながら、『女帝』の名を欲しいままにしていたのだった。
そんな来栖舞の直系の後輩であり、しかも同じ無差別級であった高橋選手は、先輩格の魅々香選手よりも来栖舞の後継者になりえるのではないかと期待をかけられていた。しかし、来栖舞の引退後には小笠原選手やオルガ選手やデビューしたての香田選手に後れを取ることになり――ウェイトを絞ってバンタム級に転向することで、ようやく新たな一歩を踏み出した身であった。
そんな高橋選手であるので、この試合にも妥協することなく集中していた。プレスマン道場においても、ジョンやサイトーからキックの技術を叩き込まれていたのだ。
その成果を発揮するべく、高橋選手は前進した。
相手選手は足を使って、距離を取ろうとする。彼女はもともと、足技を得意にするアウトファイターであったのだ。そうまで大きく動くのではなく、相手の間合いを外しながら的確にカウンターを返すタイプであるとのことであった。
そんな相手の思惑を踏みにじるべく、高橋選手は前進する。
牽制のローやジャブも、しっかりガードできていた。ディフェンス面もオフェンス面も、強い個性がない代わりに堅実な高橋選手であるのだ。
しかしまた、ケージはリングより広いし、四隅が存在しないため、足を使う選手にはうってつけである。相手選手はこれが初めてのケージであるはずであったが、実にのびのびと高橋選手の前進を受け流していた。
高橋選手は、まだ一発の攻撃も出していない。そして、キックルールでは三分三ラウンドであるため、あっという間に一ラウンド目の終わりが近づいてきてしまった。
「うんうん! 三分三ラウンドって、あっという間に終わっちゃうんだよねー! ミッチーも、ばんばん手を出さないと!」
つい先月にそれを体感した灰原選手が、もどかしそうに声をあげる。
そのとき、高橋選手が初めて攻撃の手を出した。豪快な、右のミドルである。
ようやく相手に追いついて、自分の間合いに入ることができたのだ。それでもまだ間合いが遠いことを示すように、もっとも射程距離の長いミドルキックが繰り出されたわけであった。
相手選手は、危なげなくそれをブロックする。
ただし、その上体はずいぶん揺れていた。それだけの勢いが込められた攻撃であったのだ。
高橋選手はさらに踏み込んで、左右のフックを繰り出す。
それらは空を切ったが、最後に出された右ストレートが相手の腕に届いた。こちらもブロックはされたものの、体重の乗った重い攻撃である。
そしてそこで、第一ラウンドが終了した。
どちらもダメージらしいダメージはないし、スタミナもそこまで消耗していないかに思われたが――落ち着いた表情をしている高橋選手に対して、相手選手はけっこうな汗をかいていた。
「キックの試合ってもっとクリンチとかが多い印象なんだけど、どうなんだろう?」
多賀崎選手の問いかけに、瓜子は「そうっすね」と応じた。
「相手が強引に突っ込んできたら、無理に遠ざかるよりクリンチに持ち込むほうが楽ですからね。この試合では高橋選手がそんなに強引じゃないから、クリンチの機会がなかったんだと思います」
「そうだよね。MMAだと組み技を警戒しないといけないから、キックよりも慎重になるはずだ。その経験が、いい効果を生んだのかな」
「いい効果?」と首をひねったのは、灰原選手だ。多賀崎選手はモニターを見つめたまま、「うん」とうなずいた。
「クリンチの機会は一回もなかったし、ロープ代わりのフェンスに詰まることもなかったでしょ? だから相手は三分間、ずっと足を使い続けてたわけだけど……キックの試合では、そういう経験が少なかったのかなと思ってさ」
「あー、それであんな汗だくになってるってこと? ま、ミッチーは顔もおっかないから、あんなガンガン前に出られたらプレッシャーになるかもねー!」
「顔のおっかなさなら、あたしも負けてないけどね」
「マコっちゃんは男前だから、だいじょーぶ!」
そうして話がそれかけたところで、インターバルは終了した。
来栖舞や師範代から指示を受けた高橋選手は、沈着かつ力強い面持ちでファイティングポーズを取る。相手選手も気合の入った顔であったが、汗はまったく引いていなかった。
かくして、注目の第二ラウンドが開始されたが――明らかに、一ラウンド目とは様相が違っていた。高橋選手の勢いが増し、相手選手の勢いが減じたのだ。
きっと高橋選手は、二ラウンド目からギアを上げる作戦であったのだろう。瓜子にとっても馴染みのある力強さで、無理に気負っている気配は皆無であった。
いっぽう相手選手は多少ながらスタミナが削れているところで高橋選手の勢いが増したものだから、いくぶん焦ってしまったようである。その焦燥が、せわしない足取りにあらわれていた。
高橋選手は容赦なく追いすがり、左ジャブを連発する。ジョンがジャブを重視する方針であるため、プレスマン道場に通う人間はジャブが巧みになる傾向にあった。
おたがいに大きなボクシンググローブをはめているため、その左ジャブはすべて防がれてしまう。しかし完全に、攻守が逆転していた。そして、ジャブが届くということは、さらに強い攻撃を当てられるぐらい間合いが詰まっているということであった。
そこで相手が、ついに高橋選手につかみかかった。
初回では一回も機会がなかった、クリンチだ。
しかし高橋選手は相手の首裏に手を回し、首相撲でコントロールしたのち、強烈な左膝蹴りをレバーに叩き込んだ。高橋選手も古き時代から、ジョンによって首相撲の技術を教え込まれていたのだ。テイクダウンが許されないキックルールであれば、その技術をさらに惜しみなく披露できるのだった。
思わぬ反撃をくらった相手選手は、力なく膝をついてしまう。
レフェリーが厳粛なる面持ちでカウントを取ると、相手選手はカウントセブンでようよう立ち上がった。
こうなると、流れは完全に高橋選手のものである。
ただし高橋選手は、以前よりも試合で気負うことがなくなった。それで勝利を焦ることもなく、また着実に距離を詰めていき――今度は、左ボディフックからの右フックでダウンを奪うことになった。相手は痛んだボディを守ることに意識を取られて、右フックをクリーンヒットされたのである。
それでも《トップ・ワン》のランカーたる相手選手は、懸命に立ち上がったが――もはや、この苦境をくつがえす力は残されていない。高橋選手が遠慮なくラッシュを仕掛けると、最後はフェンス際まで追い込まれ、スタンディングダウンを宣告されると同時にスリーダウンで敗北することに相成った。
「KOじゃなくって、スリーダウンだったかー! でもまー立派なもんだよね!」
「あんたはひと回りも下の未成年からひとつのダウンも取れなかったでしょうよ。……って、鞠山さんがいたら皮肉のひとつでも言われそうだね」
「言ってるじゃん! マコっちゃんのいじわるー!」
鞠山選手は次の出番であるため、すでに控え室から姿を消していたのだ。瓜子は多賀崎選手の茶目っ気に内心で笑いながら、モニターの高橋選手に拍手を送ることになった。
高橋選手は相変わらずの落ち着いた面持ちで、レフェリーに腕を上げられている。派手なところはなかったが、堅実に、地力で相手を追い込んだ。高橋選手らしい、風格の漂う勝ちっぷりであった。
なおかつこれは高橋選手にとって、半年ぶりの勝利であったのだ。どれだけ沈着な顔をしていても、その目の輝きに喜びの思いがあふれかえっている。それで瓜子もいっそう温かな心地で手を打ち鳴らすことがかなったのだった。




