03 ドッグ・ジムとジルベルト柔術道場
プレマッチの二試合目は、ドッグ・ジムとジルベルト柔術道場の新人選手による一戦である。
こちらの両選手も、これがMMAのデビュー戦であるらしい。かたやキック出身、かたや柔術出身で、またもやストライカーとグラップラーの対決だ。階級は、魅々香選手が王者であるフライ級であった。
「さー、今度はマコっちゃんの未来のライバルが登場するかなー?」
「ここ最近、新人選手の有望株はアトム級に偏ってるからね。できればこっちも、賑やかしてほしいもんだよ」
四ッ谷ライオットの両名がそのように語る中、選手入場が開始される。その間に玄武館の陣営が戻ってきたので、あちこちからねぎらいの言葉が投げかけられることになった。
「すごくいい試合だったんで、控え室も盛り上がってましたよ。これからも頑張ってください」
瓜子がそんな言葉を届けると、玄武館の新人選手は気落ちした様子もなく「押忍」と応じてくれた。
「やっぱりMMAは、奥が深いです。オリビア先輩に追いつけるように、精進します」
「うんうん。同じバンタム級だけど、頑張ろうねー」
オリビア選手もまた、後輩門下生の健闘に満足そうな面持ちであった。
そうして瓜子がパイプ椅子に着席すると、小さな人影がその横に立つ。それは、本選の第三試合に出場する犬飼京菜であった。
「いよいよ新人さんのデビュー戦っすね。自分も、応援させていただきます」
「……ふん。さすがにジルベルトの連中を応援する筋合いはないだろうからね」
そんな風に語りながら、犬飼京菜はめらめらと燃える目でモニターをにらみつけている。
犬飼京菜は選手であると同時に、ドッグ・ジムの会長であるのだ。新人門下生のデビュー戦ともなれば意気込まないわけはなかったし――そもそも彼女は、身内に対して強い思い入れを抱くタイプであるはずであった。
犬飼京菜のセコンドである大和源五郎とダニー・リーは、落ち着いた眼差しでモニターを見やっている。本日はまた沙羅選手がプロレスの巡業であったため、セコンド陣も少数精鋭であるのだ。こちらの試合が終了したのち、マー・シーダムも犬飼京菜のセコンドに戻るのだという話であった。
ドッグ・ジムとジルベルト柔術の新人選手が、レフェリーのもとで向かい合う。
身長は、前者が百六十五センチ、後者が百六十一センチとなる。どちらもそれほどリカバリーはしていないようで、とりわけドッグ・ジムの選手はひょろりとしていた。
「あたし、ジルベルトの日本人選手って初めて見るんだよねー! なんか、他の道場と違いがあったりするのかなー?」
「ジルベルト柔術だってブラジリアン柔術の一派なんだから、大きな違いはないんじゃないのかね。ただ、どの道場よりもMMAに力を入れてるんだろうと思うよ」
そもそも近代MMAというのはジルベルト柔術を基盤にして完成されたのだから、それが当然の話であるのだろう。ジルベルト柔術の門下生は出稽古におもむく必要もなく、同じ道場でMMAの技術を体得できるのだろうと思われた。
「ま、誰も彼もがベリーニャや男前の兄貴みたいに強いわけないもんねー! きっとあんたの後輩が勝ってくれるよ!」
「うるさいな。後輩じゃなくて、あたしのジムの門下生だよ」
犬飼京菜がぶっきらぼうに答えたとき、試合開始のブザーが鳴らされた。
すると、ドッグ・ジムの選手がいきなり突進する。そして豪快な飛び蹴りを見せたものだから、客席は大いにわきたった。
相手選手はさほど驚いた様子もなく、大きなステップでそれを回避する。マットに着地したドッグ・ジムの選手はすぐさまそちらに向きなおったが、相手選手は仕切り直しを求めるように距離を取っていた。
「あはは! 何あれー! あんた、子分にまで自分の真似をさせてるのー?」
「あんなお粗末な飛び蹴りと一緒にしないでよ。……ったく、馬鹿はするなって言っておいたのに……」
犬飼京菜がもしゃもしゃの頭を引っかき回すと、大和源五郎が苦笑まじりの声でなだめた。
「まあ、失敗した後の用心も忘れてなかったから、勘弁してやれや。本番は、ここからだ」
ドッグ・ジムの選手はさらなる大技を繰り出すこともなく、ごく尋常なステップワークで相手に近づいていった。
相手選手は最初から、同じようにステップを踏んでいる。彼女もまた、すり足ではなく通常のステップワークであった。
「……最近の選手は、柔術でも空手でもすり足を使ったりしないんすかね?」
瓜子が誰にともなく問いかけると、なんとダニー・リーが答えてくれた。
「すり足にはすり足の利点があるのだろうが、やはりMMAにおける最適解はボクシング流のステップワークだろう。若い選手ほど、洗練された技術を体得する機会に恵まれるということだ」
「そうっすか。自分なんかはキック出身なんで、ステップワークを使うのが当たり前でしたけど……みんながみんな同じスタイルになっちゃうのは、なんか寂しいもんっすね」
瓜子がそのように答えると、ダニー・リーはざんばら髪の隙間で切れ長の目を細めた。きわめて鋭い眼差しだが、どこか微笑んでいるように見えなくもない。
「俺たちのジムでは、正統なステップワークばかりを教えているわけではない。君なら、それを理解しているはずだ」
ダニー・リーに「君」などと呼ばれるのは、面映ゆいばかりである。しかしそれも親愛のあらわれであるように感じられるので、瓜子にとっては喜ばしい話であった。
ともあれ、試合のほうであるが――今のところは、小康状態が保たれている。おたがいに遠い距離で牽制の攻撃を放ちつつ、ジルベルト柔術の選手が時おり組み技のフェイントをかけているぐらいだ。アマチュア選手のプレマッチは荒っぽいかお行儀がいいかのどちらかに偏る傾向にあるが、今回は後者であるようであった。
(やっぱりキックの経験があっても、相手が柔術出身だとテイクダウンを警戒して出足が鈍っちゃうもんな)
ただし、ドッグ・ジムの選手のほうが五センチばかりも上背でまさっているので、今のところは危なげなく相手を牽制できているようだ。その代わりに試合が沈静化したため、第一試合で育まれた客席の熱気もすっかりしぼんでしまったようであった。
「ま、プレマッチって、だいたいこんな感じだよねー」
灰原選手がそんな風に言ったとき、パシンッと鋭い音が響いた。ドッグ・ジムの選手のローキックが、相手選手の左足をとらえたのだ。
モニター越しに打撃音が聞こえるというのは、かなり深く入った証拠である。それを示すように、相手選手はいくぶんダメージを負った様子で後退していた。
(今の……ダニーさん直伝のスイッチだったな)
ダニー・リーが先刻述べていた通り、ドッグ・ジムでは独特のスイッチを織り交ぜたステップワークが教示されている。前後の足の重心を入れ替えて、スイッチと同時に蹴りを放つというのが主眼だ。今の攻撃も、スイッチで左足を引くのと同時に重心を移して、右のインローを放ったように見て取れた。おまけに、狙った部位はふくらはぎの下部、カーフである。
逃げる相手を追いかけて、ドッグ・ジムの選手は再び右足を振り上げた。今度は左足を踏み込んでオーソドックスに戻りつつ、右の前蹴りを放ったのだ。相手は咄嗟に腹を守ったが、その右腕に深く足裏がめりこんでいた。
すると――今度は相手が、異なる動きを見せた。
両手を胸に高さまで下げて、これまで以上に軽やかにステップを踏み始めたのだ。その軽妙なる足運びには、瓜子もいささか見覚えがあった。
「ふふん。ベリーニャを思い出させるステップワークだわね。まあ、ベリーニャほどの洗練は望むべくもないだわけど、テンポチェンジにはうってつけなんだわよ」
鞠山選手が言う通り、それはほんの少しだけベリーニャ選手を彷彿とさせる動きであったのだ。
ベリーニャ選手は縦横無尽にステップを踏んで牽制の攻撃を振るいつつ、ここぞというタイミングでテイクダウンを仕掛けるのが本領であるのだ。ジルベルト柔術の新人選手も、それを見習うように大きく舞台を回り始めた。
「なんだ、アマチュア離れした足運びだね。あたしなんかより、よっぽど軽やかだ」
「でも、マコっちゃんみたいな迫力はないかなー! あたしほど優雅でもないしね!」
「優雅が聞いて呆れるだわよ。まあ、アマチュアとしては上等なレベルだわけど……これをどこまで続けられるかだわね」
鞠山選手の言う通り、これだけ大きく動けばスタミナの消費も甚大であろう。鞠山選手や灰原選手、多賀崎選手やマリア選手などは、過酷なトレーニングの果てに大きく動くアウトスタイルを習得したのだ。同じアウトファイターでも愛音などはこうまで動き回らないし、それはスタミナの消費を抑えるという意味もあるはずであった。
それを迎え撃つドッグ・ジムの選手は慌てる素振りもなく、無理に追いかけようともせず、ただ相手に正対して次なるアクションを待っている。その姿に、大和源五郎が「ふふん」と鼻を鳴らした。
「あいつだって、さんざんお嬢にしごかれてるんだからな。あのていどの動きで怯むことはないだろうぜ」
そういえば、犬飼京菜も尋常ならざるステップワークを駆使するアウトファイターであったのだ。しかも彼女は常に大技を振るい続けるという、規格外の存在であったのだった。
ジルベルト柔術の選手のステップワークは大したものだが、攻撃の手に結びついていない。牽制の攻撃も間合いが遠すぎるし、これではテイクダウンのフェイントもきかないだろう。それに、カーフキックでダメージを負っているならば、足への負担も考慮しなければならないはずであった。
ただ、どこか不気味な雰囲気も漂っている。間合いの外で大きく動きつつ、いきなりテイクダウンを仕掛けてくるのではないかという気配が感じられるのだ。モニター越しの瓜子でさえそのように感じるのだから、試合場で向かい合っている人間は甚大なプレッシャーを受けているのではないかと思われた。
しかし、ドッグ・ジムの選手は悠然としているように見える。神経が太いのか、警戒心が足りないのか――ひたすら、自然体だ。彼女を深く知らない瓜子は、頼もしいと思うべきか心配するべきか判断がつかなかった。
気づけば、試合時間は三分を過ぎている。
いまだ、しっかりと当たった攻撃は序盤のカーフキックのみだ。しかし、客席から不満げな喚声があげられても、両者の動きに変わりはなかった。
「これ……ジルベルトのほうが、追い込まれてないか?」
多賀崎選手が、そんなつぶやきをもらした。
ジルベルト柔術の選手は変わらぬ軽妙さでステップを踏んでいるが、その身がしとどに汗で濡れていたのだ。いかに大きく動いているとはいえ、ちょっと普通でない発汗量であった。
「こっちだって、棒立ちで待ってるわけじゃねえからな。プレッシャーが効いてきたんだろうぜ」
大和源五郎が、満足げな声で応じる。
ドッグ・ジムの選手はひたすら正対するばかりで、何らアクションを見せていないように見受けられるが――ただ何となく、正対する際に踏むステップのリズムが独特である。それに注意を向けてみると、こちらはこちらでいつ蹴りが射出されるかもわからない気配が濃厚であった。
(だから、相手も迂闊に近づけないのか。アマチュアとは思えないようなプレッシャーのかけあいだな)
すると、ドッグ・ジムの選手がついに自ら前進した。
試合時間は、ちょうど四分に達している。それでセコンドから、指示が飛ばされたのかもしれない。迷いのない、力強い足取りであった。
相手はどこか虚を突かれた様子で、足をもつらせる。
それで、判断力が鈍ってしまったのか――彼女は何のフェイントもなく、いきなり両足タックルを仕掛けようとした。
その顔面に、鋭く曲げられた右膝が叩きつけられる。
ヘッドガードを装着していても、顔の真ん中は無防備だ。そこを撃ち抜かれたジルベルト柔術の選手は、力なく突っ伏すことになった。
ドッグ・ジムの選手は横合いに回り込んで、蹴りのモーションを見せる。倒れた相手の胴体を蹴ろうとしたのだろう。レフェリーがすかさず間に入って、両手を頭上で交差させた。
いきなりの結末に、客席からは惑乱気味の歓声があげられる。
しかしジルベルト柔術の選手はうずくまったままであるので、レフェリーの判断は正しかったのだろう。それだけ的確に、カウンターの膝蹴りがクリーンヒットしたということであった。
「ふふん。さっきの試合に比べたら、ずいぶん地味な内容だっただわね。ただし、クオリティは五分だわよ」
「また上から目線だなー! ま、いちおうKO決着だし、ほめてあげてもいいんじゃない?」
灰原選手が笑顔を向けると、犬飼京菜は「ふんっ」とそっぽを向き、そのまま控え室の奥に向かってしまった。
瓜子は何となく、静かに感慨を噛みしめている。確かに浅香選手たちの第一試合が剛の試合であったならば、今の試合は柔なのだろう。ただ、素人目にはわかりにくい高度な攻防が繰り広げられており、両選手の実力をうかがい知るのに不足はなかった。
(もちろん、まだまだ甘い部分は多いんだろうけど……デビュー戦でこんな試合をできるのは大したもんだよな)
瓜子は何となく、将来のトップファイターの誕生に立ちあったような感覚である。
これが《アトミック・ガールズ》の卒業試合ではないかと囁かれる瓜子にとって、それは感慨と無縁ではいられない心地であったのだった。




