02 玄武館と柔術道場ジャグアル
かくして、《アトミック・ガールズ》の一月大会は開催された。
すべての下準備を終えたならば、まずは開会セレモニーである。大江山すみれ、小柴選手、犬飼京菜、高橋選手、鞠山選手、後藤田選手、灰原選手、鬼沢選手、小笠原選手――そんな馴染みの深い人々に囲まれながら、瓜子は入場の時間を待つことになった。
(あっちで少しでもつきあいがあったのは、香田選手と浅香選手ぐらいだもんな。ユーリさんは、山垣選手や亜藤選手とも交流はなかったんだろうし……つくづく、偏っちゃったなぁ)
プレマッチに出場する玄武館の新人選手も赤コーナー陣営であったため、急遽やってきたオリビア選手もけっきょくこちらの陣営であったのだ。これではユーリならずとも、残念がるのが当然なのだろうと思われた。
(でも……ユーリさんと出会った頃は他のジムや道場とおつきあいがなかったから、これが普通の話だったんだよな)
その時代はセコンド陣だけを頼りに、控え室で意気を上げていた。なおかつ、その時代はまだ立松と交流が浅く、柳原はいっそう疎遠で、愛音も入門していなかったため、ジョン、サキ、サイトーといった面々の印象ばかりが残されている。なおかつサキも最初の数ヶ月で理央が奇禍に見舞われ、その後はジョンの朗らかさとサイトーの豪快さに救われていたような印象であった。
(そもそも自分だって入門したてだったし、ユーリさんもジョン先生ぐらいしか打ち解けてなかったから、かなり少人数で結束を固めてたような感じだよな)
しかしその時代から、プレスマン道場の結束は固かったように記憶している。プライベートのつきあいがなくとも、一致団結して試合に臨んでいたのだ。それはまた、周囲の人々と馴れあっていなかったがために、アウェイで試合をしていたような心地であったのだ。もしかしたら、孤立することで身内の結束が固くなったという面もあったのかもしれなかった。
それに比べれば、今は数々の相手と交流を広げているし、道場内の結束もより固まっている。瓜子がユーリの立場であっても、そうそう気落ちすることはなかっただろう。そしてユーリもまた、ひとえに瓜子と別々の控え室であることを嘆いているだけであったのだった。
(きっとジョン先生やサキさんや邑崎さんが、めいっぱいフォローしてくれてるだろう。頑張ってくださいね、ユーリさん)
瓜子がそんな考えにふけっている間に、開会セレモニーが開始された。
一列に並んだ女子選手が、一名ずつ入場口をくぐっていく。そのたびに歓声がわきおこり、今日が試合の当日なのだという実感を深めてくれた。
そうして鬼沢選手に続いて、瓜子も花道に足を踏みだすと、本日も大変な熱気が五体に叩きつけられてくる。
公式試合としては、これが《アトミック・ガールズ》の卒業試合になるかもしれない――そんな思いが心をよぎったが、瓜子は背筋をのばしたまま花道を踏み越えてみせた。
そうして瓜子が定位置に到着したならば、次がユーリの出番である。この順番も、陣営が分けられなければありえない話であった。
もともと凄まじい熱量であった歓声と拍手が、多少ながらに勢いを増す。そのわずかな違いが瓜子とユーリの人気の差を示しており、瓜子はむしろ誇らしい心地であった。
まったくもって余談であるが、この一月に発表された格闘技マガジンの人気投票アンケートにおいて、ユーリは堂々と一位に返り咲いたのだ。去年の六月はユーリも療養中であったため、瓜子が一位、赤星弥生子が二位という結果であったわけであるが――ユーリの留守を預かっていた瓜子が、心置きなくその座をお返ししたような気分であったのだった。
そうしてユーリが入場した後は、最後に小笠原選手だ。
選手宣誓の役目を負うのも、メインイベントで赤コーナー陣営に立つ小笠原選手であった。
『今日はご来場ありがとうございます。念願かなって、アタシもようやくリベンジマッチに挑むことができます。ベルトを持ってるのはこっちだけど、世界規模で実績を作ったのはあっちのほうなんで、胸を借りるつもりで挑ませてもらいます。アトミック最強の女は誰なのか、みなさんも見届けてやってください』
小笠原選手は気負うことなく、そのように語っていた。
客席には、いっそうの歓声がわきかえっている。《カノン A.G》のせいで大きな回り道を余儀なくされたものの、小笠原選手はまぎれもなく《アトミック・ガールズ》を代表する最強選手のひとりであるのだ。化け物のように強いユーリでも、小笠原選手であればあるいは――という思いは、誰もが胸に抱いているはずであった。
(結果はどうなるかわからないけど、とにかくあたしは二人の試合を見守ろう)
そんな思いを新たにして、瓜子は花道を引き返すことになった。
やがて入場口の裏手に到着すると、そこにはオリビア選手を筆頭とする玄武館陣営のセコンドたちが待ち受けている。プレマッチの第一試合が、そちらの出番であったのだ。
「いよいよですね。オリビア選手、頑張ってください」
「あははー。頑張るのは、選手の役割ですけどねー」
それもそうだと思い直して、瓜子は今日の午後に初めて対面したオリビア選手の後輩選手を振り返った。
「頑張ってください。控え室で応援しています」
「押忍! ありがとうございます!」
玄武館の新人選手は、頬を火照らせながら挨拶を返してくれた。
まあ、新人選手といってもそれはMMAの話で、玄武館においては黒帯の立場となる。しかもバンタム級であるのだから、瓜子よりもふた回りは大きな体格だ。なおかつ、瓜子よりも二歳ほど年長者であるとのことであった。
二十代の半ばまで空手ひと筋に明け暮れて、黒帯まで獲得した選手が、満を持してMMAにチャレンジしようというのだ。その心意気には、瓜子も心から激励を送りたかった。
チーフセコンドとサブセコンドは、フィスト・ジムの関係者であるらしい。彼女はそちらで、MMAの稽古を積んできたのだろう。すでにオープンフィンガーグローブとニーパッドとレガースパッドを装着していた彼女はヘッドガードもかぶせられて、出陣の準備が整えられた。
そこまで見届けてから、瓜子も取り急ぎ控え室を目指す。あとは、あちらのモニターで彼女の勇姿を見守らなければならなかった。
(でも、相手は浅香選手だもんな。完全に、ストライカーとグラップラーの対戦になるわけだけど……どういう試合になるのかな)
瓜子が控え室を目指すと、そちらのドアの前ではドッグ・ジムの面々が同じ作業に励んでいる。プレマッチの第二試合は、そちらの出番であるのだ。ひょろりと背の高い新人選手の面倒を見ているのは、マー・シーダムに榊山蔵人というドッグ・ジムきっての心優しい両名であった。
「そちらもいよいよですね。どうか頑張ってください」
瓜子がそのように声をかけると、こちらの新人選手は「ありがとうございまぁす」とのんびり笑顔を返してきた。実はこちらの娘さんとは、十二月にドッグ・ジムまで出稽古におもむいた際にも顔をあわせていたのだ。彼女は瓜子と同い年で、これまではさまざまなキック団体のアマチュア大会に出場していたのだという話であった。
セコンド陣の両名にも挨拶をしてから控え室のドアをくぐると、すでに灰原選手や鬼沢選手がパイプ椅子に陣取ってモニターを取り囲んでいる。出番の近い選手は奥のほうでウォームアップに励んでいたものの、相変わらず和気あいあいとした雰囲気であった。
「いやー、プレマッチに興味をひかれるなんて、けっこーひさびさだよねー! こんなの、イネ公とかわんころ以来じゃない?」
「誰がわんころだよ」と、犬飼京菜は灰原選手の座っているパイプ椅子の背中を蹴っ飛ばす。実に荒っぽいコミュニケーションだが、灰原選手はけらけら笑っていた。
「あんたの後輩も応援してあげるから、そんなカリカリしないでよー! でもまずは、オリビアの後輩とマオっちの後輩だね!」
「うん。浅香の寝技はすごかったけど、立ち技はどんなレベルなんだか気になるね」
灰原選手のセコンドである多賀崎選手は、遠慮をして立ったままモニターを眺めている。瓜子は灰原選手がわざわざ確保してくれたパイプ椅子に腰を下ろすことになった。
モニターでは、すでに浅香選手が入場を始めている。セコンドとしてついているのは、ジャグアルの男性陣ばかりだ。どうやら兵藤アケミと雅の両名は、つきっきりで香田選手の面倒を見るようであった。
次は、先刻挨拶をしたばかりの玄武館の面々が入場する。オリビア選手はのんびりした面持ちであったが、新人選手のほうは浅香選手よりも気負った顔をしていた。
それなりの歓声の中、両選手はレフェリーのもとで向かい合う。プレマッチというのはアマチュア選手による前座であるが、浅香選手は前回の大会でユーリを相手に素晴らしいグラップリング・マッチを見せていたので、お客からも大きな期待をかけられているのだろう。瓜子自身、彼女には小さからぬ興味を抱いていた。
(なんせ、ユーリさんとあんなにスムーズに寝技の勝負ができる人間なんて、なかなかいなかったもんな。けっきょく浅香選手は一本も取れなかったけど、寝技の技術はかなりのレベルのはずだ)
なおかつ浅香選手は、身長百七十五センチの堂々たる体躯である。前回のウェイトは六十八キロで、それなりに肉も落としたのであろうが、逞しい印象に変わりはない。そもそもアマチュア選手が二ヶ月で七キロもウェイトを落とすというのは、あまり普通の話ではないはずであった。
(なんか、五キロ以上はリカバリーで戻してそうな感じだな。それでも新人選手だったら、身体に負担がかかりそうなところだけど……肌艶もいいし、コンディションもばっちりみたいだ)
浅香選手もそれなりに直情的な気質であるため、昂揚した顔をしている。しかしユーリと相対した際よりはよほど落ち着いているように見えたし、その逞しい身体からは自信がみなぎっているように感じられた。
いっぽう玄武館の新人選手は、気負いが迫力に変じている。その目は火のように燃えあがり、やはり新人離れしているようだ。さすがは玄武館の有段者であった。
「こいつもかなりいい体格をしてるよね。身長は、百七十ジャストか」
「うんうん! オニっちたちの、未来のライバルになるかもねー!」
「ふふん。イキのいい若手は大歓迎ばい」
並み居る先輩選手が見守る中、プレマッチの第一試合が開始された。
どちらも気合をみなぎらせつつ、まずは慎重に間合いを詰める。浅香選手は柔術、相手選手は空手の選手だが、どちらもすり足ではなくボクシング流のステップワークだ。どちらも真っ当な形で、MMAの稽古を積んできた証拠であった。
そして――いきなり右のミドルを繰り出したのは、浅香選手のほうであった。
相手選手はしっかりガードしたが、上体がわずかに揺らいでいる。玄武館の有段者をぐらつかせるぐらいの破壊力であったのだ。そして浅香選手は、遠い距離からの左ジャブに右ローから左ミドルというコンビネーションまで披露した。
「おー、立ち技もけっこういけるじゃん! 動きはちょっともっさりしてるけど、すっげー重そー!」
「うん。やっぱりフィジカルもかなりのもんだね。それに、フォームもしっかり固まってるよ」
四ッ谷ライオットの両名が言う通り、浅香選手の打撃技はかなりサマになっていた。アマチュア選手としては、及第点以上であろう。間合いの取り方も申し分ないし、実に外連味のないいい攻撃であった。
(しかも浅香選手は、グラップラーなんだもんな。これはちょっと、相手も焦るかもしれないぞ)
相手選手はすべての攻撃をブロックしていたが、なかなか反撃できずにいる。グラップラーと聞いていた浅香選手の猛攻に、いささかたじろいでいる様子だ。
しかし彼女も、玄武館の有段者だ。立ち技で後れを取ってなるものかと言わんばかりに、鋭い右ストレートと左ローのコンビネーションを見せたが――彼女が左足を上げると同時に、浅香選手は大きく踏み込んで組み技のプレッシャーをかけた。
それでテイクダウンを取られる事態には至らなかったが、相手選手は慌て気味に距離を取ろうとする。そこに再び、浅香選手の右ミドルが繰り出された。
(リズムは完全に、浅香選手のものだな)
浅香選手は柔術茶帯の腕であるため、組み技をまったく恐れていない。テイクダウンを取られても逆転できるという自信から、思うさま打撃技を振るっているのだ。
いっぽう相手は組み技を警戒して、腰が引けてしまった。もちろん彼女も前回の試合は研究しているのであろうから、浅香選手の寝技がどれだけ巧みであるかは思い知らされているのだ。あのユーリと優雅なダンスを踊るように寝技の攻防を繰り広げていた浅香選手であるので、そこを警戒しないわけにはいかなかったのだった。
波に乗った浅香選手は、いかにも重そうな攻撃を繰り出しながら、相手を追い詰めていく。
相手選手はフェンス際まで追い込まれると、決死の形相で右フックを返した。
それをスウェーでかわした浅香選手は、左のショートフックを射出する。それが、ヘッドガードを装着した相手のこめかみにクリーンヒットした。
玄武館はフルコンタクト空手の流派であり、素手で試合を行うルールであるため、首から上を殴ることは反則とされている。よって、足や胴体はきわめて頑丈であるが、頭への打撃にはそれほど慣れていないはずだ。ヘッドガードを装着していなければ、ダウンしていたかもしれなかった。
相手選手はフェンスに背中をぶつけつつ、その反動を利用して前進し、浅香選手の肩を突き飛ばす。
浅香選手は一歩だけ下がったが、すぐさま力強い足取りで前進した。
そこに、相手選手が右のボディフックを繰り出す。これまでで、もっとも力の乗った攻撃だ。おそらくは追い込まれたことで、玄武館で磨いてきた技が咄嗟に出たのだろうと思われた。
その重そうな拳に脇腹を叩かれた浅香選手は、さすがに身を折って後退する。自らも前進していたため、カウンターの威力が乗ってしまったのだ。柔術出身の彼女こそ、場所を問わずに殴られ慣れていないはずであった。
玄武館の選手はここぞとばかりに突進して、追撃の右フックを繰り出す。
しかし、首から上のパンチというのは、MMAの稽古で習得した技であるはずだ。それは先刻のボディフックほどの力感はなく、あえなく左腕でブロックされた。
ただ――その時点で、浅香選手はスイッチをしていた。
その変化が何を意味するのかと、瓜子は咄嗟に考える。しかし、玄武館の選手は変わらぬ勢いで右ミドルを繰り出した。浅香選手のダメージが深いと見て、一気に攻勢に出ようとしたのだ。
浅香選手は前進することで、その右ミドルの打点をずらした。
そうしてサウスポーのまま右手で相手の左膝裏をつかみ、左手で相手の右肩を押した。テイクダウンのテクニック、ニータップである。
まだ右足の浮いていた玄武館の選手は、呆気なく倒れ込んでしまう。
その上にのしかかった浅香選手は一瞬の停滞もなく相手の右腕を取り、両足ではさみこみ、横合いに倒れ込んだ。一瞬で腕ひしぎ十字固めが決まり、玄武館の選手は浅香選手の足をタップする。浅香選手はすぐさま技を解き、試合終了のブザーが鳴らされた。
『一ラウンド、三分六秒! 腕ひしぎ十字固めにより、浅香めぐみ選手の一本勝ちです!』
おおっと、控え室がどよめいた。
プレマッチでこのようなどよめきがあげられるのも、ずいぶんひさびさのことであっただろう。ニータップから腕ひしぎ十字固めまでの流れが、プロの試合でもなかなか見られないぐらいの電光石火であったのだ。少なくとも、瓜子などにはとうてい真似のできない芸当であった。
(そういえば、柔術とかの組み技競技では、利き腕を前に出すのが基本姿勢なんだっけ。それで浅香選手も追い込まれたから、とっさに得意な構えを取って組み技を仕掛けたってことなのかな)
何にせよ、浅香選手は素晴らしい試合を見せてくれた。
そしてそれは、相手選手が浅香選手の強さを引き出したという面もあったのだろうと思われた。
「なんか……いい試合だったね」
多賀崎選手がしみじみつぶやくと、ウォームアップに励んでいた鞠山選手が「ふふん」と鼻を鳴らした。
「おたがいに追い込まれたからこその、名勝負だっただわね。まあ、ここぞという攻撃以外はまだまだ甘々だわけど、アマチュアとしては合格点だわよ。アケミちゃんもオリビアも、いい後輩を持っただわね」
「いちいち上から目線だなー! でもまあオリビアの後輩は残念だったけど、ほんとにいい試合だったねー!」
それらの寸評に、瓜子も異存はなかった。確かにおたがいディフェンス面や試合の組み立てなどで甘い点は見受けられたが、それでも見る者の心を躍らせる魅力というものが打ち出されていたのだ。
ヘッドガードを外された浅香選手は、へろへろの笑顔で右腕を上げられている。そして、左腕では痛そうに脇腹を抱え込んでいた。それだけボディフックのダメージが深かったのだろう。
いっぽう玄武館の選手は毅然とした面持ちで、浅香選手に握手を求めている。サブミッションをくらった右腕にも、故障はないようだ。頭部のダメージも消えたようで、むしろ浅香選手よりも元気に見えるぐらいであった。
ユーリと同じバンタム級に、また有望な選手が二人も現れたのである。
瓜子は手を叩きながら、それを心から祝福することになった。




