ACT.2 《アトミック・ガールズ》一月大会 01 入場
涙で終わった四周年記念日の、二日後――一月の第三日曜日である。
その日は、《アトミック・ガールズ》一月大会の当日であった。
今大会の目玉は、もちろんダブルタイトルマッチである。
メインイベントはユーリと小笠原選手によるバンタム級のタイトルマッチ、セミファイナルは瓜子と山垣選手によるストロー級のタイトルマッチであったのだ。
ユーリは挑戦者として小笠原選手のタイトルに挑む側、瓜子は王者として山垣選手の挑戦を受ける側となる。
それでこのたびは、瓜子とユーリにとって初めての試練が課されることになった。今回ばかりは、両名の控え室を分けさせてほしいと打診されたのである。
普段はフレキシブルに対応している運営陣であるが、さすがにタイトルマッチにおいては王者を赤コーナー、挑戦者を青コーナーに配置する必要が生じるわけであった。
「同じ会場にいながらにして、控え室を分けられてしまうなんて……ユーリは、身を引き裂かれるような思いであるのです」
本日の会場たる『ミュゼ有明』に向かう車中にて、しょんぼりとしたユーリがそんなつぶやきをもらすと、同じワゴン車に揺られていた灰原選手や多賀崎選手が励ましたり茶化したりしてくれた。
「あんた、いつまでおんなじことをぐちぐち言ってるのさー! 文句があるなら、試合なんてやめちゃいなよ! ま、そしたらトッキーがあんたを闇討ちすることになるだろうけどねー!」
「やめろって。桃園にとっては、一大事なんだからさ。……猪狩だって、それは一緒だろ? 普段ならともかく、今は試合後の様子も心配してるんだもんな」
「押忍。でも、けっきょくモニターで見守るだけだって状況に変わりはありませんからね。別々の控え室でも、ユーリさんのことをめいっぱい応援してますよ」
瓜子がこっそりユーリの白い手を握りしめると、ユーリは頑是ない幼子のように「うん……」とうなずいた。
二日前、涙に暮れる瓜子を慰めてくれた姿とは、まるきり別人のようである。しかしまた、それこそが一筋縄ではいかないユーリらしさなのであろうと思われた。
やがて会場の駐車場に到着しても、ユーリはまだ耳を垂らしたゴールデンリトリバーのような風情である。
荷下ろしをするセコンド陣を横目に、瓜子はユーリに笑いかけた。
「もうすぐいったんお別れですけど、すぐにルールミーティングですからね。荷物を置いたらすぐ試合場に向かうんで、そこで落ちあいましょう」
ユーリは「うん……」とうなずいてから、にわかにぷるぷると頭を振った。
「シドーフカクゴで情けない限りなのです! 試合が始まれば元気いっぱいのはずなので、どうかうり坊ちゃんも心配なさらず自分の試合に集中していただきたいのです!」
「ええ。そこに関しては心配してませんよ。おたがい、頑張りましょうね」
ユーリは懸命に強がる子供のような面持ちで、「うん」とうなずいた。
かくして、控え室に移動である。瓜子はひたすらユーリを励ます立場であったものの、やはり会場の入り口ですぐさまお別れというのは、落ち着かない心地であった。
(よりによって、今日は青コーナー陣営に馴染みの薄い人たちが固まっちゃってるな。……ジョン先生たちのフォローにおまかせするしかないか)
本日の青コーナー陣営で多少なりとも馴染みが深いのは、柔術道場ジャグアルぐらいのものである。本日は香田選手ばかりでなく、期待の新人たる浅香選手もプレマッチに出場するのだ。しかしユーリもそこまでジャグアルの面々とご縁が深いわけではないし、あちらには特別コーチとして雅も付随するのであろうから、プラス面とマイナス面が相殺されそうなところであった。
そして赤コーナー陣営には、赤星道場、ドッグ・ジム、四ッ谷ライオット、天覇館、天覇ZERO、武魂会と、馴染み深い関係者がずらりと居揃っている。瓜子たちが懇意にしているジムや道場には実力者が多いので、どうしても赤コーナー陣営に偏りがちであった。
ただ今回は、なかなか興味深い試合が数多く組まれている。
まず、アマチュア選手によるプレマッチであるが、MMAの公式試合に初挑戦となる浅香選手と相対するのは、フルコン空手の雄たる玄武館の門下生であった。ひさびさに、玄武館からMMAにチャレンジしようという新鋭が現れたのだ。オリビア選手はちょっと長めの里帰りのさなかであるため不在であったものの、遠きシドニーで後輩の勇躍を願っているはずであった。
そしてプレマッチのもう片方では、なんとドッグ・ジムの新人門下生が出場する。入門してからはほんの数ヶ月であるが、もともとキックのアマチュア選手として活躍していた人物であるのだ。しかも、その対戦相手がジルベルト柔術道場の所属であるというオマケつきであった。
「ジルベルトの連中がMMAにチャレンジするのは珍しくもないだわけど、たいていは馴染みの深い《フィスト》で実績を積んでるだわね。やっぱり、うり坊とピンク頭の活躍が新しい波を引き寄せたんだわよ」
いつだったか、鞠山選手はそのように評していたものであった。
ちなみにその道場は、ジルベルト柔術の調布支部となる。以前にベリーニャ選手が来日したとき、世話をしていた道場だ。三年前の大阪大会に遠征した折、その門下生のひとりがユーリを逆恨みしておかしなトラブルを持ち込んできたのも、今や懐かしい思い出であった。
それから本選のほうは、すっかり定番になってきたアトム級の新鋭とベテランファイターによるサバイマルマッチである。今回ベテランファイターを相手取るのは、犬飼京菜、大江山すみれ、小柴選手の三名であった。愛音が弾かれてしまったのは、瓜子とユーリがそれぞれタイトルマッチでセコンドの手が足りないためとなる。
そしてその次は、キックルールとグラップリングルールの公式試合だ。エキシビションマッチではなく、キックと柔術のコミッショナーから正式に認可をもらい、公式試合が執り行われるのだった。
そちらのキック・マッチに出場するのが高橋選手で、グラップリング・マッチに出場するのが鞠山選手となる。鞠山選手はしょっちゅうグラップリングの大会に出場しているし、《アトミック・ガールズ》において公式のグラップリング・マッチが行われるのも初めてのことではなかったが、公式のキック・マッチというのはこれが初の試みであった。
この試みに協力してくれたのは、キック団体の《トップ・ワン》である。これまでにも瓜子や小笠原選手のために選手を斡旋してくれていた団体であるが、それをきっかけにして《アトミック・ガールズ》と友好的な協力関係を結ぶことがかなったようであった。
よって、高橋選手の対戦相手も《トップ・ワン》で活動する選手となる。層の薄いバンタム級のランキング五位という選手であったが、ランカーはランカーだ。キックルールに初挑戦となる高橋選手にとっては、十分な難敵であるはずであった。
いっぽう鞠山選手と対戦するのは、これまたジルベルト柔術道場調布支部の選手である。こちらは何と黒帯の選手で、数々の大会で優秀な成績を収めているのだという。黒帯の実力を持ちながら茶帯の身に留まっている鞠山選手の、真価が問われる一戦であった。
そして後半の五試合では、ダブルタイトルマッチの他にも興味深い試合が組まれている。後藤田選手と亜藤選手によるストロー級の黄金世代同士による一戦と、バンタム級のトップファイターである鬼沢選手と香田選手の一戦――あとは一段下がって、灰原選手と中堅選手の調整試合だ。黄金世代をすべてなぎ倒しつつ、瓜子と鞠山選手に敗北してしまった灰原選手は、ちょっと対戦相手の選出に苦労をしている様子がうかがえた。
まあ何にせよ、今回の興行もすべての試合にトップファイターが絡んでいる。新鋭とベテランファイターによるサバイマルマッチに、他なる競技の公式試合、トップファイター同士のしのぎあいに、二つのタイトルマッチ――灰原選手の調整試合が、唯一の箸休めと感じられるような内容であった。
「とはいえ、余裕をかましてるのはあんたのほうだけで、相手は大物食いをしてやろうって気合にあふれかえってるだろうけどさ」
そんな風に評していたのは、多賀崎選手だ。確かに、中堅選手の立場になってみれば、箸休めどころの騒ぎではないのだろう。いっぽう灰原選手も余裕をかます気配など一切なく、四ヶ月ぶりの公式試合に意欲を燃えさからせていたのだった。
「うり坊と魔法老女にリベンジするまで、ぜーったい負けられないからねー! ほんであたしも、いつかシンガポールのプロモーターをぎゃふんと言わせてやるんだー!」
「ふふん。猪狩たちが《ビギニング》に鞍替えしたもんだから、あんたもすっかりそっちに目がいったみたいだね」
「だって、《アクセル・ファイト》より《ビギニング》のほうが手厚くもてなしてくれるってんでしょー? あたしだって、自分を高く評価してくれるところで試合をしたいもん!」
灰原選手はけらけらと笑いながら、そんな風に言っていた。
そうして瓜子がユーリのために大急ぎで荷物を片付けていると、大江山すみれのセコンドとして参上していた赤星弥生子が近づいてきた。
「猪狩さん、お疲れ様。……元気そうなので、安心したよ」
それはもちろん、メイが日本を離れた件について語っているのだろう。
瓜子は心を偽ることなく、笑顔で「押忍」と答えてみせた。
「自分は、元気です。弥生子さんにまでご心配をかけてしまって、どうみすみません」
「いや。私も猪狩さんの強さを信じていたよ。ただ……電話やメールだけでは、確認しきれない部分もあったからね」
そう言って、赤星弥生子も優しく微笑んでくれた。
「だけど、これですっかり安心することができた。どうか今日のタイトルマッチも頑張ってほしい。……それでは、また」
控え室もけっこうな人混みになっていたためか、赤星弥生子は早々に試合場へと向かっていった。
それを追いかけるべく瓜子が支度を整えていると、今度は鞠山選手がにまにまと笑いながら接近してくる。
「いよいよ卒業試合だわね。ラフファイター対策は、ばっちりなんだわよ?」
「やだなぁ。まだこれがアトミックで最後の試合になると決まったわけじゃないっすよ。五月大会も、エキシビションだったら出場できる見込みなんですからね」
「エキシビションは、あくまでエキシビションだわよ。これが卒業試合にならないってことは、《ビギニング》との正式契約を勝ち取れないと同義なんだわから、あまり腑抜けた発言をするんじゃないだわよ」
そんな言葉を聞かされると、瓜子の脳裏にメイの面影がよぎった。
瓜子は《ビギニング》で終わることなく、メイを追いかけなければならないのだ。であれば、それまで常に最高の結果を目指さなければならなかった。
(とにかく、目の前の試合に勝つ。あたしにできるのは、それだけだ)
瓜子がそんな思いを噛みしめていると、今度は小笠原選手が近づいてきた。
「こんな日に猪狩と同じ控え室ってのは、なんだか奇妙な気分だね。まあ、恨みっこなしってことで、ひとつお願いするよ」
「押忍、もちろんです。お二人にとって大切な試合を、自分もしっかり見届けさせていただきます」
「ありがとう」と微笑む小笠原選手は、いつも通りの穏やかさであった。
これだけ親しくしている相手がユーリと対戦するというのは、実にひさびさのことである。しかし瓜子などは、灰原選手に鞠山選手、オリビア選手にマリア選手――そしてついには赤星弥生子と、さまざまな相手と対戦してきた身であるのだ。
相手のことをどれだけ敬愛していようとも、試合を行うことに支障はない。ユーリや小笠原選手がそこでつまずくことなどは、絶対にありえないはずであった。
「じゃ、行くか。あんまり待たせると、桃園さんのメンタルに関わってきそうだからよ」
立松の号令で、試合場に移動する。本日、瓜子のセコンドを務めてくれるのは、立松、柳原、蝉川日和の三名だ。蝉川日和がセコンドを受け持ってくれるのは、ちょっとひさしぶりの話であり――それがすなわち、メイの不在というものを物語っていた。
しかし瓜子は気落ちすることなく、背筋をのばして試合場を目指す。そうしてユーリの姿を探し求めると、そのすぐそばに本日いないはずの人物がたたずんでいた。
「あれ? オリビア選手、シドニーから戻ってたんすか?」
「はーい。同門の選手が出場すると聞いて、予定を早めちゃいましたー。それで、セコンドの雑用係を引き受けることになったんですよー」
そのように語るオリビア選手は、その長身がわずかに斜めに傾いていた。彼女は一週間ほど前に行われたシドニーにおける玄武館の大会で優勝を果たしながら、左足を痛めたという話であったのだ。全治二週間の打撲傷にすぎないという話であったが、片足重心でないと立っているのがしんどいぐらいの痛みが残されているようであった。
「本当は、足がしっかり治ってから来ようと思ってたんですけどねー。こんなに長く帰国したのはひさびさだったので、みなさんに会えないのが寂しくなっちゃったんですよー」
そんな風に言ってから、オリビア選手はいくぶん切なげに微笑んだ。
「メイに会えないままお別れになっちゃったのも、すごく寂しいですー。でも、ウリコが元気そうで安心しましたー」
「はい。自分は大丈夫です。オリビア選手は自分よりメイさんと長いつきあいだったんだから、そりゃあ寂しいっすよね」
「はーい。でも、メイを変えてくれたのはウリコですからねー。ウリコのほうが、ワタシの百倍はつらいと思いますよー」
そう言って、オリビア選手は寂しさを振り切るように明るく笑った。
「とにかく二月にはまた帰国して、メイの試合を見届けてきますねー。ワタシのいない間にいなくなっちゃったお返しは、そのときのお楽しみですー」
「あはは。あんまりメイさんをいじめないであげてくださいね」
オリビア選手の優しい表情と言葉に呼応するように、瓜子も笑うことができた。
そしてユーリも口をはさむことなく、優しい眼差しで瓜子たちのことを見守ってくれている。瓜子たちを気づかう思いで、自分の物寂しさを忘れてしまったかのようだ。そんなユーリの優しさもまた、瓜子の胸を深く満たしてくれた。




