05 誓いの夜
瓜子は小首を傾げながら、玄関先でメイと相対することになった。
隣のユーリも、きょとんと目を丸くしている。別れたばかりのメイがすぐさまこちらにやってきて、しかもキャリーカートを携えているためである。
「それ、どうしたんすか? もしかして……こっちにお泊りしたいとか?」
瓜子がそのように尋ねると、メイは「ううん」と首を横に振った。
赤みがかった金髪の隙間から、小さな顔が覗いている。その顔は、とても穏やかな表情を浮かべていた。
「僕、これから空港に向かう。別れの挨拶に来た」
「く、空港? いったい何のお話っすか?」
「僕、フロリダのシノエ・カイチョーと合流する」
瓜子は、心から驚かされてしまった。
「や、やっぱり意味がわかんないっすよ。フロリダの、篠江会長と? それって、シドニーの試合と関係してるんすか? でも、試合は二月の話ですし――」
「うん。二月の試合で、シノエ・カイチョーにセコンドをお願いする。だから、フロリダで合流する。試合まで二ヶ月を切ってるから、決して早くない」
「そ、そうだとしても、話が急すぎますよ。篠江会長に、話は通ってるんすか? それに、立松コーチやジョン先生だって――」
「シノエ・カイチョーには、了承をもらってる。タテマツ・コーチとジョン・コーチには、明日連絡する。二人、ウリコたちに隠し事はできないから」
「な、なんで自分たちにそんな話を隠さないといけないんすか? さっぱり意味がわかんないっすよ!」
瓜子はひとりで取り乱していたが、メイは穏やかな表情のままだ。
そしてユーリも何かを悟ったような面持ちで、メイの姿をじっと見つめていた。
「僕、新しいチームを作った。シノエ・カイチョーと、リューク・プレスマンと、ビビアナ・アルバ。シノエ・カイチョー、タカト・ハヤミの世話があるから、メインのコーチはリューク・プレスマンになる」
「リュ、リュークさんとビビアナさんっすか? でも、あのお二人はプレスマン道場じゃなくって、チーム・プレスマンの所属っすよ?」
「うん。だから、ウヅキ・アカボシとレム・プレスマンにも承諾をもらった。チーム・プレスマン、人手が余ってるから、問題なかった。準専属の契約で、僕が二人に顧問料を支払う」
「それじゃあ……シドニー大会が終わったら、リュークさんたちはまた日本に来るんすか?」
メイは再び、「ううん」と首を横に振った。
「拠点、フロリダ。あの二人、レム・プレスマンのもと、離れられないから、それが条件だった。……僕も、そのほうが都合がよかった」
「つ、都合がいいって、どういう意味っすか? それじゃあ、メイさんは――」
「うん。これからは、フロリダを拠点にして《アクセル・ファイト》との契約を目指す。北米、トレーニングの環境が整ってるし、《アクセル・ファイト》の空気、肌で感じられるから、それが一番近道だと思う」
瓜子は、膝から崩れてしまいそうだった。
もしもメイがこんなに穏やかな表情をしていなければ、我を失ってつかみかかっていたところだろう。何もかもが、寝耳に水の話であった。
「どうして……どうしてそんな話になったんすか? メイさんは……日本が嫌になっちゃったんすか?」
「ううん。プレスマン道場、素晴らしい道場。タテマツ・コーチとジョン・コーチ、素晴らしいコーチだし、出稽古の女子選手も充実している。それに……ウリコとユーリがいてくれたから、僕、強くなれた」
「それじゃあ、どうして……」
「僕、ユーリ、ウリコ、これから海外が主戦場になる。それじゃあ、プレスマン道場の人手が足りない。現状でも、二月のシドニー大会と三月のシンガポール大会、両立、難しいと思う」
「だ、だからって、メイさんが出ていく必要は――!」
「ううん。それ、理由のひとつ。もうひとつの理由、もっと大事。……僕、ウリコに勝つために追いかけてる。だから、そろそろ離れるべきだと思う。同じ場所で同じコーチから同じ指導を受けている選手同士が、プロの公式大会で試合を組まれることは、ほとんどないから……僕、ウリコと試合をするために、日本を離れる」
メイの言葉が、ゆっくりと静かに瓜子の内側にしみいってくる。
きっとメイは、もうずっと前からそんな覚悟を固めていたのだ。おそらくは、《アクセル・ジャパン》のオファーを受けてから――世界の舞台で瓜子と試合をする道が開けた、その瞬間から。
しかし瓜子は、何の覚悟も固まっていない。
つい一昨日には《ビギニング》でセコンドを受け持ってもらい、昨日の元日は三人一緒で過ごし――今日も昼まではともに過ごして、それから新年会に出向いたのだ。そして新年会の会場においては、どうせ明日も会えるのだからとメイを二の次にしてしまったのだった。
「そんなの……そんなの、ひどいっすよ。そんな大事な話を、どうしてひとりで決めちゃうんすか?」
そんな言葉を告げるなり、瓜子の目からどうしようもなく涙がふきこぼれてしまった。
メイは「うん」と、眉を下げる。しかしその目は、優しい輝きをたたえたままであった。
「ウリコ、苦しむと思ったから……僕なんかのために苦しんでくれるって思ったから、言えなかった。ウリコ、そんなに苦しめたら……僕、決断、できなくなるから」
「だからって、こんなぎりぎりまで隠しておくことないじゃないっすか! だったら自分は、もっとメイさんと一緒にいたかったっすよ!」
「うん」と、メイは小さくうなずく。
すると、透明のしずくが通路の床にこぼれ落ちた。メイもまた、いつしか涙を流していたのだ。
「でも、ウリコ、パーティー、楽しんでほしかったから……言えなかった。それに、ウリコのそばにいたら、僕、涙をこぼしそうだったから……今日、そばにいられなかった」
「そんなの、勝手っすよ!」
瓜子はついに我を失って、メイにつかみかかってしまった。
自分と同じ背丈をしたメイの身を、力まかせに抱きすくめる。すると、温かい手の先が瓜子の背中に回されてきた。
「ごめんなさい。……僕、ウリコのおかげで、人間としての心、取り戻すことができた。格闘技、楽しいと思うこと、できた。ウリコ、僕のこと、救ってくれた」
「そんなの……メイさんだって、さんざん自分のことを助けてくれたじゃないっすか……ユーリさんがいない間だって……自分なんかのために……」
「うん。ウリコの力になれて、嬉しかった。ウリコと出会えて、嬉しかった。ウリコが僕に、幸福な人生を与えてくれた」
瓜子の背中に回されたメイの手も、ぎゅっと力を込めてきた。
「僕、これまで、ウリコのそばにいることで、強くなれた。これからは……ウリコに会いたいと思う気持ちが、僕を強くしてくれると思う。だから、僕、日本を出る。でも、新宿プレスマン道場の門下生のままだから……これからも、ウリコたちをチームメイトと思ってもいい?」
「そんなの……」
と、それ以上は言葉にならなかった。
瓜子の頭の中には、これまで目にしてきたメイの姿が走馬灯のようにぐるぐると浮かんでは消えていく。
メイの姿を初めて目にしたのは、三年前の大晦日だ。《JUFリターンズ》で試合をするはずであったベリーニャ選手が負傷欠場となり、メイは野獣のような形相で怒り狂っていたのだった。
その次は、《アトミック・ガールズ》の会場である。同郷のオリビア選手に付き添われたメイは、石の仮面のような無表情でただ黒い瞳をぎらぎらと燃やしていた。
それからじきに、瓜子はメイと連戦することになり――その強さを思い知ることになった。そして、メイの強さがあの集中力の限界突破ともいうべき不可思議な領域に瓜子をいざなってくれたのだった。
その後、メイはこのマンションにまでやってきた。雨の夜、傘もささずにびしょ濡れの姿で、瓜子の帰りを待っていたのだ。そうして、瓜子とともに北米に渡りたい、自分のチームメイトになってほしいと、涙ながらに語っていたのだった。
その夜はメイをマンションに泊めて、翌朝には赤ん坊のように安らかな寝顔を見届けることになった。
そしてその日の内に、メイは養父から許しをもらって、プレスマン道場に入門したのだ。
さらに数日後にはこのマンションの住人となり、ユーリや佐伯やリンとともにカラオケに繰り出す事態に至った。
その後は、チームメイトとして過ごす日々である。
毎日のように道場で顔をあわせて、何度となくスパーリングを行った。どうしてこんな相手に連勝することができたのかと不思議に思えるほど、メイは強かった。そして、家族のために大成しなければならない彼女は誰よりも貪欲であり、それが瓜子にまたとない刺激を与えてくれたのだった。
また、稽古場の外でもさんざん交流を深めている。世間の人々のように外で遊ぶ機会は少なかったが、試合の打ち上げは毎回ともにしていたし、時には女子選手の集いで遊んだりパーティーを開く機会もあった。今日の新年会だって、そのひとつであるのだ。
合宿稽古も、ともに取り組んでいる。夏の盛りに開かれる赤星道場の合宿稽古では、メイも水着姿をさらしていた。瓜子のようにじたばたすることもなく、彼女は黒い肢体に純白のビキニを纏って、海の遊びに興じていたのだった。
それに、苗場の『ジャパンロックフェスティバル』も二年連続で同行している。ゴンドラで高所に恐怖を覚えたメイは、子供のように震えながら瓜子の腰にしがみついていた。
基本的には無表情だが、時には笑ったり、すねた顔をしたり、安らかな寝顔を見せたり――試合のさなかには野獣のごとき気迫を見せ、瓜子が弱っているときには優しい顔で添い寝をしてくれた。ユーリが宇留間千花との一戦であのような事態になってしまったとき、もっとも身近な場所で瓜子を支えてくれたのはメイであった。
メイはたびたび、瓜子の影のようだと評されていた。なまじ体格が似通っているものだから、そんな印象になっていたのだろう。それに、かつてのメイはぴったりと瓜子のそばについて、なかなか離れようとしなかったのだ。
それがこの近年では、ひとりで身軽に動くようになっていた。
それは、おそらく――ようやく退院できたユーリと瓜子のことを気づかってくれた結果であったのだ。
それぐらい、メイは優しい人間なのである。
だから瓜子は、メイのことが大好きだった。出会ってから三年足らずの間柄でも、メイはもはや家族のような安らぎと温もりを瓜子に与えてくれていたのだった。
「……僕、《アクセル・ファイト》でウリコを待ってる」
最後にメイは、そんな言葉を瓜子の耳もとで囁いた。
それがまた、瓜子に新たな涙を流させる。
メイもまた、これほど強い気持ちで瓜子を慕ってくれているのに――それでも、初志を貫徹しようとしているのだ。
《アクセル・ファイト》で、瓜子とタイトルマッチを行う。
世界で一番強いのはどちらなのか、それを《アクセル・ファイト》の舞台で証明したい――それこそが、メイの悲願であったのだった。
であれば瓜子も、メイの気持ちに応えなければならない。
そうでなければ、メイの隣に立つ資格はないのだ。そして瓜子もまた、メイがこれほどに格闘技に心血を注いでいるからこそ、尊敬し、共感し、魅了されることになったのだった。
「……絶対に、メイさんに追いついてみせます。ベルトを持って、待っててください」
瓜子が涙声で伝えると、メイは嬉しそうに「うん」と言った。
そうして瓜子は、涙が枯れるまで泣き続け――メイと長きの別れを告げることに相成ったのだった。




