04 帰り道
夕方から開始された新年会は、午後の十時ジャストで終了した。
他なる業種の集まりであれば二次会なども開催されるのやもしれないが、何せ身体を資本とするファイターの集団である。少なくとも本日の集まりには、暴飲暴食や過度のアルコール摂取や寝不足などを是とする人間はひとりとして存在しなかったのだった。
そうして瓜子たちの帰り道を送ってくれるのは、なんと赤星弥生子が運転するの赤星道場のワゴン車である。もっとも遠方に住まっている愛音は鞠山選手が引き受けてくれたため、比較的近場である瓜子とユーリとメイの三名は赤星弥生子が引き受けてくれたのだ。
鞠山選手は運転代行を頼んでいたが、赤星弥生子は酒をたしなまないため自らハンドルを握っている。そして、大江山すみれと二階堂ルミも愛音に便乗したので、こちらに同乗しているのはマリア選手と青田ナナであった。
「弥生子さんに運転をお願いするなんて、なんだか恐縮です。お世話ばかりかけてしまって、本当にすみません」
「いや。私も普段はなかなか運転する機会がないので、こういう機会にはなるべくハンドルを握るように心がけているんだよ」
「あはは! 女性は車の運転に必要な空間把握能力が低いなんて言われてますけど、弥生子さんだったらその心配はいらないですよねー!」
お酒の入ったマリア選手が普段以上に陽気であったため、このような顔ぶれでも気詰まりになることはなかった。
マリア選手は助手席に、プレスマン道場の陣営は中列に、青田ナナはひとりで後列に収まっている。青田ナナの姿がサキにかぶり、瓜子はひそかに微笑ましい気分であった。
「それにしても、あれだけの顔ぶれが集まるというのは壮観だね。試合の打ち上げでは見慣れた光景だが、完全なプライベートでもあれだけの人数の女子選手が集まるというのは……ひどく刺激的であるように思う」
「そうっすね。なんだかんだで話題も格闘技関連に流れがちですし、交流を深めるにも情報交換にもうってつけじゃないっすか?」
「そうだね。猪狩さんたちのおかげで、私たちもずいぶん見識が広がったように思うよ」
穏やかな声でそんな風に言ってから、赤星弥生子は「ところで」と口調をあらためた。
「桃園さんは、見るからに元気なようだけれど……やっぱり、試合直後の昏睡に関しては原因不明なんだね?」
「そうですねぇ。まわりのみなさんにご心配ばかりかけて、キョーシュクのイタリなのですぅ」
ユーリが身を縮めながら瓜子のほうをちらちらと見てきたので、瓜子はこっそり笑顔を返しておいた。
よどみなくハンドルを切りながら、赤星弥生子は「そうか」と息をつく。
「私はどうしても、ひとつの懸念を晴らせないのだが……もしかしたら、それは山科医院で処方された輸液の後遺症なのではないだろうか?」
「え? どうしてそんな風に思うんすか?」
「あれは山科院長が独自に開発した、未認可の輸液なのだろう? 頭の負傷が無関係だと判断されたのなら、そのように考えるのが妥当なのではないだろうか?」
赤星弥生子の声は、真剣そのものだ。
瓜子は胸中の不安をぐっとおさえつけながら、「いえ」と答えてみせた。
「ユーリさんは山科医院のお世話になる前から、あれこれ特異体質でしたし……あの輸液はあくまで栄養の塊だっていうお話でしたから、自分は無関係だと考えています」
「うん。何にせよ、医療の素人である私たちには判断がつかないけれどね。ただ、山科医院を紹介したのは、私の愚かな兄だから……どうしても、不安が残されてしまうんだ」
すると、ユーリが静かな声音で「いえ」と答えた。
「山科医院のお世話になってなかったら、たぶんユーリはお星さまになっていたと思います。だから、弥生子殿もどうかお気になさらないでください」
「いや、だけど――」
「いいのです。もし弥生子殿のお考えが当たっていたとしても、ユーリはこんなに幸せに過ごせているのですから。山科院長先生には、感謝の思いしかありません」
そのように語るユーリのかたわらで、瓜子はひそかに息を呑んでいた。ユーリがあの、雪の精霊のような透き通った表情と眼差しになっていたのだ。
退院以来、ユーリは時おりこういう表情を見せるようになった。そしてそれはユーリをいっそう美しく見せるのと同時に、この世の存在ではないかのような神秘性を生み出すのだった。
「……そうか。まあ、当て推量で何を語っても意味はないし……他の病院の関係者も桃園さんを診察しているというのなら、そちらの判断におまかせするしかないだろうね」
「はい。ご心配くださり、ありがとうございます」
ユーリがにこりと微笑むと、普段の無邪気さが蘇った。
それで瓜子も、ほっと息をつく。どのような表情をしていてもユーリの大切さに変わりはないが、瓜子は人間らしいユーリをもっとも好ましく思っているのだった。
「でも、ユーリさんたちがこんな時期にアトミックでタイトルマッチを行うなんて、びっくりしちゃいましたよー! 運営の人たちは、ずいぶん思い切りましたね!」
マリア選手が陽気な声をあげると、車内にはたちまちもともとの和やかさが舞い戻った。それに対して「ふん」と応じたのは、車に乗ってからずっと黙りこくっていた青田ナナである。
「どうせあの小笠原ってやつが、要請を呑まなきゃタイトルを返上するとか何とか脅しをかけたんだろうさ。ああいうにこにこしたやつが、一番油断ならないからね」
「あはは! 小笠原さんだったら、それぐらい言いそうですけど! でも、自分のためじゃなくて、アトミックやユーリさんのためになんでしょうね!」
「ふん。これから余所の団体に移ろうとしてるやつにベルトを渡すのが、団体のためになるのかね」
「いやいや! きっと小笠原さんは、死んでもユーリさんに勝つつもりなんですよー! わたしだったら、そう考えますもん!」
「うん。ナナは疑いなく、桃園さんが勝利すると考えているんだな。まあ、その気持ちはわからなくもないけれど」
「う、うるさいですよ!」と、青田ナナは声を張り上げる。彼女も酒が入っているため、普段よりも隙が生まれているのだろう。赤星弥生子がひそかに笑っているようなので、瓜子も微笑ましい気分だった。
「ただ……小笠原さんは、ファイターとしてもクレバーだ。彼女は彼女なりの勝算があって、桃園さんを挑戦者に指名したのだろう。どうか桃園さんも、心残りのないように挑んでもらいたい」
「もちろんですぅ。小笠原選手がお強いことは、最初からわきまえておりますのでぇ」
「いっぽう猪狩さんは、怪我のないように心がけるだけですね! どうかお気をつけください!」
「いやいや、山垣選手だって強敵っすよ。そういう発言はアトミックを見下してるように聞こえかねないので、お気をつけくださいね」
「わーっ! 猪狩さんを怒らせちゃいました! 弥生子さん、フォローしてくださーい!」
「猪狩さんは怒ってるんじゃなく、マリアの軽はずみな発言をたしなめているんだよ。まったく、どっちが年長者かわからないな」
そんな具合に、この道中でも話題が尽きることはなく、とても和やかに過ごすことができた。
やがて三鷹に到着したならば、瓜子のナビゲートでワゴン車はマンションの手前に横づけされる。赤星弥生子は最後にウィンドゥを下ろして、凛々しくも温かい笑顔を覗かせてくれた。
「それでは、楽しい時間をありがとう。猪狩さんと桃園さんはアトミックの試合を、メイさんは二月のシドニー大会を、それぞれ頑張ってもらいたい」
「はい。こちらこそ、ありがとうございました。帰り道もお気をつけください」
赤い流星のペイントが施されたワゴン車が、闇の向こうに消えていく。
それを見送ってから、瓜子はメイに向きなおった。
「メイさんは、ずっと静かでしたね。でも、会場では弥生子さんたちともおしゃべりしていたんでしょう?」
「うん。ヤヨイコ・アカボシ、世界で一番強い人間のひとりだから、注目している」
「あはは。一番強い人間のひとりって、ちょっと矛盾した表現っすね」
「うん。でも、それが事実だと思う。ユーリ、ベリーニャ・ジルベルトに負けたけど、ヤヨイコ・アカボシに勝った。ヤヨイコ・アカボシ、ベリーニャ・ジルベルトに勝ったけど、ユーリに負けた。この時点で、じゃんけんの構図になってると思う」
そう言って、メイは黒く光る目をユーリに向けた。
「それに……人間、昨日と今日で、強さが違う。今、ユーリとヤヨイコ・アカボシとベリーニャ・ジルベルトが戦ったら、どういう結果になるか……僕には、わからない。だから、この三人が一番強いんだと思う」
「そうっすね。それは自分も、同意します」
「うん。それに、ウリコはヤヨイコ・アカボシと引き分けたから、同じ実力。僕は、それを追いかける」
と、メイはふいに優しい眼差しを浮かべた。
新年会の会場ではほとんど言葉を交わすことができなかったので、瓜子はずいぶん温かな心地になってしまう。
「自分だって、メイさんを追いかけてるつもりっすよ。それじゃあユーリさんが眠そうだから、部屋に戻りましょうか」
「うみゅ。おいしいごはんをたらふくたべて、幸せいっぱいのユーリちゃんなのでぃす」
「あはは。タイトルマッチまで、もう三週間を切ってるんすからね。減量に失敗したら、それこそ大ごとっすよ」
車内の温かい空気を残したまま、三人はマンションに足を踏み入れた。
入り口のオートロックを解除したならば、無人のエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込み、五階のスイッチを押す。この二年と少しで、何度となく繰り返されてきた光景であった。
(ていうか、メイさんがお隣に引っ越してきてから、もう二年以上も経つのか。あれって、さきおととしの九月だったもんな)
メイは忌まわしき《カノン A.G》の第一回大会を終えてすぐ、瓜子のもとに乗り込んできて――そして、プレスマン道場に入門することになったのだ。それからほんの数日後には、もうこのマンションの住人になっていたのだった。
(たしか、もともと住んでた人たちにお金を払って、部屋を譲ってもらったんだっけ。あの頃は、なんて無茶な真似をする人なんだって思ってたけど……つきあってみたら、とことんいい人だったなぁ)
瓜子にそんな感慨を抱かれているとも知らず、メイは階数の表示を見上げている。長い前髪でほとんど隠されてしまっているものの、その顔がとても端整で魅力的な表情を浮かべることも、瓜子は知り尽くしていた。
やがてエレベーターが五階に到着したならば、静まりかえった通路を三人で歩く。手前の部屋である瓜子とユーリはドアの前で立ち止まり、メイが自分の部屋に到着するのを待った。
「それじゃあ、また明日。まだ仕事は入ってないし道場もお休みなんで、適当に連絡を入れますね」
メイは「うん」とうなずいて、自分の部屋に消えていった。
そちらのドアが閉められてから、瓜子もカードキーで開錠する。ユーリは玄関に踏み込むなり、「ふいー」と大きく息をついた。
「楽しいことに間違いはないのだけれども、やっぱり大人数のパーチーというのは疲れちゃいますわん。これはうり坊ちゃんの温もりで癒やしてもらわねばなりませんですにゃあ」
「あれあれ? 睡魔はどうしたんすか?」
「そのようなものは、うり坊ちゃんの温もりを求める思いの前では風前の灯火であるのでぃす」
ふざけたことを言いながら、ユーリはふにゃんと笑う。そしてその言葉とは裏腹に、瓜子の身に触れようとはしなかった。ユーリは瓜子に対する接触嫌悪症が解消されたことを心から喜びつつ、ここぞという場面の他ではむやみに触れないように心がけていたのだった。
(まあ、数日に一度はここぞという場面がやってくるんだけどさ)
瓜子はユーリとともに靴を脱ぎ、まずはそれぞれの寝室で冬の装いを解いた。
これから入浴なので、着替えは省略してリビング兼トレーニングルームに向かう。そして、ユーリとともにひとまずくつろごうと腰をおろしかけたとき――来客を告げるチャイムが鳴った。
「あれ? これって、玄関のチャイムっすね」
すでにオートロックの入り口を越えた人間が、玄関先のチャイムを鳴らしたのだ。だとすると、該当者はひとりしか存在しない。モニターで確認してみると、別れたばかりのメイが上着を着たまま立っている姿が映し出されていた。
(どうしたんだろう? 何か伝えそびれたことでもあったのかな)
あるいはメイもおしゃべりし足りなくて、就寝前のわずかな時間をご一緒しようという考えなのだろうか。
ともあれ、答えは本人にしかわからない。瓜子はドアホンで「いま行きます」と伝えてから、ユーリとともに玄関に向かった。
「お待たせしました。いったい、どう――」
と、瓜子はそこで口をつぐんだ。メイが、奇妙なものを携えていたのだ。
それは――小ぶりのキャリーカートであった。




