03 活況
赤星道場とドッグ・ジムの面々が別なる交流を求めて立ち去っていくと、今度は天覇館の一行が近づいてきた。
来栖舞に魅々香選手、高橋選手に鞠山選手も居揃っている。ただ、さきほどまで一緒にいたメイの姿はなかった。
「あれ? メイさんもご一緒じゃありませんでしたか?」
「メイメイだったら、トキちゃんやあかりと語らってただわよ。メイメイがうり坊から離れて単独行動とは、珍しいだわね。……さては、痴話喧嘩でも勃発したんだわよ?」
「いえいえ。今日も昨日も楽しくトレーニングやディスカッションに明け暮れましたよ。一昨日なんかは、セコンドでもお世話になりましたしね」
「ああ。一昨日の試合も、大したものだったね」
と、来栖舞が静かな面持ちで加わってきた。
「猪狩くんも桃園くんも、素晴らしい試合内容だった。猪狩くんは相性の悪い相手でもすぐに対応して、豪快に勝利をもぎ取っていたし……桃園くんは、貫禄勝ちだったね」
「いえいえ、とんでもないですぅ。すべてはセコンドのみなさまのおかげですのでぇ」
「でも、まさかノーダメージの完勝とはね。あれは、予想できない結果だったよ」
高橋選手はにこやかな面持ちで、そう言った。今日だけで、何度となく同じような会話が交わされている。それだけユーリは、大したことをやってのけたということなのだろう。
「あんたは十月にも《アクセル・ファイト》のトップランカーを下してるし、まぎれもなく世界級の実力ってことだ。小笠原さんとのタイトルマッチがどんな決着になるのか、じっくり拝見させていただくよ」
「いえいえぇ。ユーリはもう、誠心誠意お相手をつとめるだけですので……」
「本音を言ったら、あたしもそこに割り込みたかったよ。こうなったらもう、オリビアや鬼沢や香田と一緒にあんたを追いかけるしかないね」
「うん。きっとこれからは、《アトミック・ガールズ》にも世界への道が開けるだろう。……朱鷺子や山垣くんが次の大会で瞬殺などされてしまったら、その限りではないがね」
来栖舞は、静かな風格に満ちた眼差しで瓜子とユーリを見比べてきた。
「しかし、朱鷺子はもちろん山垣くんだって、意地を見せてくれることだろう。君たちも決して慢心せず、全力で立ち向かってほしい」
「もちろんです。山垣選手は大先輩なんですから、こっちが挑戦者のつもりで挑ませていただくつもりです」
「ユーリも、以下同文なのですぅ。小笠原選手のお強さは、身にしみておりますのでぇ」
「うん。君たちに限って、慢心はありえなかったな。不適切な言葉を使ってしまって、お詫びする」
と、来栖舞も穏やかに微笑んでくれた。
すると、カクテルグラスを傾けていた鞠山選手も「ふふん」と反応する。本日は運転代行をお願いするそうで、彼女もアルコールをたしなんでいた。
「トキちゃんは出稽古や合宿稽古でピンク頭のクセを知り尽くしてるし、詩織はうり坊がこれまで対戦した経験がないぐらいのラフファイターなんだわよ。その恐ろしさは、サキも承知してるだわね」
「うるせーなー。頭突き合戦なら、こいつの圧勝だろ。なんせ、規格外の石頭なんだからよ」
まだそばのテーブルで酒と料理を楽しんでいたサキが、すかさず反応する。そちらを振り返りながら、鞠山選手は眠たげな目を愉快そうに細めた。
「頭突き合戦なら、そりゃあうり坊の圧勝だわよ。でも、顔面に頭突きをくらったらどんな怪我を負うかもわからないんだわよ。それで出足が鈍ったら、試合もどう転ぶかわからないだわね」
「はあ……でも、山垣選手も故意に頭突きを狙ってるわけじゃないっすよね?」
「だから、いっそう厄介なんだわよ。試合続行が不可能なぐらいの深手にならない限りは、イエローカードで試合が続行されるんだわよ。それで調子を崩して負けることになっても、負けは負けなんだわよ」
「で、でも……猪狩さんは、一色選手の悪質な反則行為にも怯みませんでした。たとえ頭突きをもらっても……怯んだりはしないんじゃないかと……」
「おやおや。美香ちゃんも、うり坊に首ったけなんだわよ?」
「そ、そういうわけではないですけれど……わたしは、猪狩さんのことも桃園さんのこともファイターとして尊敬していますし……」
ユーリと同じぐらい可愛らしい声で、魅々香選手はそんな風に言ってくれた。
鞠山選手はにんまり笑いながら、サキのほうに向きなおる。
「まあ、詩織に関してはわたいが口出しするまでもないだわね。痛い目を見たあんたが、しっかり世話を焼くんだわよ」
「だから、うるせーってんだよ。てめーはてめーの余生だけ心配しやがれ、老いぼれカエル女」
酒が入っているためか、サキもいつも以上の口の悪さだ。しかし鞠山選手は何らこたえた様子もなく、にまにまと笑っていた。
そうして天覇館の面々も立ち去っていくと、ユーリはしみじみと息をつく。
「そういえば、サキたんは山垣選手の頭突きでどばどば大出血してたんだよねぇ。あれは、痛々しかったのです」
「ほー。ニワトリ並の記憶力しか持ち合わせてねー肉牛にしては、ずいぶん古くせー話を覚えてるじゃねーか」
「うん。あれはうり坊ちゃんと初めて出会った、記念すべき日だったからねぇ」
と、ユーリはふいに透き通った微笑をこぼした。
その笑顔に心を満たされつつ、瓜子は「はい」とうなずいてみせる。
「本当に懐かしいっすよね。自分も初めてお会いしたサキさんが血まみれで、パニくっちゃいましたよ」
「あー。それでアコガレだの何だの小っ恥ずかしい台詞を吐き散らしたわけかー」
「やだなぁ。それをバラしたのは、千駄ヶ谷さんっすよ。初対面で、そんな恥ずかしいこと言えるわけないじゃないっすか」
はからずも、山垣選手の存在が四年前の懐かしい記憶を蘇らせてくれた。あと三週間たらずで、あの懐かしい出会いの日から丸四年が経過するのである。
年が変わると曜日がずれるので、出会いの記念日は《アトミック・ガールズ》一月大会の二日前である金曜日だ。その日には、またユーリと何らかのお祝いをすることになるはずであった。
「うり坊ちゃーん! それに、ユーリさんもー! パーティー、楽しんでますかー?」
と、賑やかな一団によって追憶のひとときが破られた。
愛音、蝉川日和、大江山すみれ、二階堂ルミの未成年カルテットである。元気に声をあげていたのは、真冬でもおへそと太腿を露出している小麦色の娘さんであった。
「さっき、弥生子さんとおしゃべりしてましたよねー? うちも突撃したかったけど、お邪魔になったら悪いんで遠慮してましたー! 弥生子さん、うり坊ちゃんに会えるのを楽しみにしてましたからねー!」
「だから、そういうデリカシーのない発言は控えたほうがいいッスよ」
相変わらず、蝉川日和は二階堂ルミに対して素っ気ない。しかしいつでもそんな相手に手を握られているさまが、微笑ましくなくもなかった。
(本当に、個性的な世代だよなぁ)
この四人は、誰もが同い年なのである。すでに誕生日を迎えていれば、十九歳の世代だ。出会った当時は高校二年生であった愛音も、次の春で大学二年生に進級するわけであった。
(あ、そうしたら、犬飼さんは今年が成人式なのか。……まあ、あたしと一緒で関心なさそうだけど)
瓜子がそんな益体もない想念を思い浮かべていると、愛音がせわしない足取りでユーリの身に寄り添った。
「愛音はついつい羽をのばしてしまったのです。ユーリ様は、なんのご不自由もありませんでしたか? ドリンクをお持ちしましょうか?」
「大丈夫だよぉ。ムラサキちゃんも、お正月ぐらいは羽をのばさないとねぇ」
愛音に対してもずいぶん気さくになったユーリが無垢なる笑顔を返すと、愛音は感涙せんばかりの面持ちになっていた。
そしてこちらには、いくぶん顔を赤くした蝉川日和が近づいてくる。
「あたしは二階堂さんに引きずり回されっぱなしだったッスよ。猪狩さんも、何も困ったことはなかったッスか?」
「ええ。色んな人とおしゃべりを楽しんでたっすよ。蝉川さんも自分のことなんて気にしないで、新年会を楽しんでください」
すると、二階堂ルミが「ふーん!」と大きな声をあげた。
「今さらだけど、やっぱひよりちゃんとあいねちゃんは先輩たちにメロメロなんだねー! うちの道場じゃ見かけない光景だから、なんか新鮮だなー!」
「だ、だから、うるさいッスよ。二階堂さんは、先輩がたに対する敬意が足りないんじゃないッスか?」
「だってうちは、誰かに憧れて入門したわけじゃないしねー! すみれちゃんが大好きだったから、遊びに行ってただけだもん!」
「そういう発言も、できれば控えてほしいところですね」
大江山すみれは、内心の知れない微笑で二階堂ルミをたしなめる。
彼女たちは同世代だが、瓜子やユーリと出会った時期はバラバラだ。まずは三年前の一月に愛音がプレスマン道場に入門し、その翌月に《G・フォース》の試合会場で大江山すみれに巡りあい――蝉川日和と二階堂ルミは、一昨年のユーリが北米していた時期となる。まずは蝉川日和が入門し、試合会場で二階堂ルミと出会ったという構図は、少し愛音たちと似ていた。
(で、邑崎さんはユーリさんに、蝉川さんはあたしなんかに憧れて入門したって話なんだもんな。だから余計に、印象がかぶるわけか)
そして、大江山すみれは愛音にとってのライバルであり、二階堂ルミもこれからプロデビューして蝉川日和を追いかけることになる。そんな四名が輪を作って騒いでいるのだから、なかなか奇妙な話であった。
「それにしても、うり坊ちゃんとユーリさんはすごいですよねー! 正月早々、ネットニュースなんかは二人の話題でもちきりでしたもん!」
と、二階堂ルミがおもむろにそのようなことを言い出した。やはり試合から二日しか経っていないため、どうしてもそちらの話題を脇には置いておけないようだ。
「あの日の試合は、視聴率もすごかったみたいだし! テレビとかから取材の申し込みとかないんですかー?」
「はあ。格闘技の専門誌やCSのスポーツチャンネルとかからはあったみたいっすけど……それ以外は、サッパリっすね」
「やっぱ格闘技って、扱いが低いんですねー! この前の試合は、野球選手がメジャーリーグで活躍するぐらいの話だと思うんだけどなー!」
「メジャーリーグにたとえるなら、やっぱり《アクセル・ファイト》でしょうね。まあ、そちらで日本人選手が活躍しても、やっぱり一般メディアで取り上げられることはありませんけれど」
大江山すみれがそのように答えると、二階堂ルミは屈託なく「あはは!」と笑った。
「弥生子さんのお兄さんなんかも、日本じゃマイナーだもんねー! まあ、お兄さんがテレビとかにばんばか出てたら、道場の人たちはカリカリしちゃうだろうけど!」
「卯月さんは《JUF》の全盛期に活躍していたから、日本のファイターとしては指折りでメジャーな存在であるはずですよ。当時は毎月のように試合が地上波で放映されてたんですから、みんな存分にカリカリしてましたしね」
「ふーん! その頃は格闘技なんて興味なかったから、さっぱりだなー!」
当時は瓜子だって小学生であったのだから、それよりも若年である二階堂ルミでは記憶にも残されていないのだろう。当事者であった大江山すみれや犬飼京菜はともかくとして、愛音や蝉川日和でもそれは同様であるはずであった。
(あたしなんかは、まだ格闘技ブームの余韻に引っ張られた世代だけど……邑崎さんたちは、そんなムーブメントとは関係なしに格闘技を始めたっていうことだよな)
それがつまり、ブームが去った後に文化として定着した証であるのだろう。テレビなどの表舞台から消え去った後も、MMAを筆頭とする格闘技のジムや道場が日本中に誕生して、市井の人々が格闘技を始めるための環境が整えられたのだった。
そして今、《JUFリターンズ》ばかりでなく《ビギニング》までもが地上波で放映されるようになった。たとえ年に一度のお祭り騒ぎであったとしても、ほんの数年前まではこのような事態もありえなかったのだ。MMAという競技が、再び表舞台に出られるかどうか――今が時代の転換期であるのかもしれなかった。
(まあ、そんな大それたことを考えるのは、やっぱり分不相応としか思えないけど……自分の頑張りが少しでも反映されたら、こんな光栄な話はないよな)
瓜子がつらつらとそんな思いを浮かべていると、また二階堂ルミがこちらに向きなおってきた。
「そういえば、もうすぐハルキさんもイギリスに行っちゃうんですよねー! うり坊ちゃんも、聞いてました?」
「え? ああ、はい。《アクセル・ファイト》のグラスゴー大会っすよね。試合は一月中旬のはずっすけど、もう現地に向かうんすか」
「そーなんですよ! あっちで二週間も過ごすんです! 羨ましいですよねー!」
「九時間の時差を調整しながら、言葉も通じない場所で毎日稽古に明け暮れるんですよ。それがそんなに羨ましいですか?」
そのように答えたのは、もちろん大江山すみれである。
二階堂ルミは同じ元気を保ったまま、「羨ましいよー!」と言い返した。
「うち、海外旅行とかしたことないもん! いいよなー! うちも海外の試合にお呼ばれしないかなー!」
「それがどれだけ大変なことか、まったくわかってないみたいですね。本気でキックに取り組むつもりなら、タイに招待されるように頑張ってください」
「おー、タイも悪くないねー! トゥクトゥクにも乗ってみたいしさー!」
「だから、観光じゃないんですよ。まあそれより、ルミさんはプロ選手としてのデビュー戦に集中するべきでしょうね」
「もー! いちいちトゲがあるなー! やっぱ、お父さんがイギリスに行っちゃうのが寂しいんでしょー?」
そんな風に言ってから、二階堂ルミは瓜子に笑いかけてきた。
「あ、ハルキさんのセコンドとして、すみれちゃんのお父さんもイギリスに行っちゃうんですよー! それですみれちゃんは、ゴキゲンななめなんです! うり坊ちゃんが慰めてあげてくれませんかー?」
「ルミさん」と大江山すみれが内心の読めない笑顔で近づこうとすると、二階堂ルミは「ひゃー!」と騒ぎながら瓜子の身を盾にした。
「なんか、ゲキリンにふれちゃったみたい! うり坊ちゃん、助けてくださーい!」
「そういうときは、素直に謝ればいいんすよ。年の始めから、喧嘩なんてしないでくださいね」
瓜子はそのようにたしなめたが、内心では娘さんたちの騒がしさを楽しんでいた。
数年後には、きっと彼女たちが道場や業界の看板を背負うことになるのだ。愛音も大江山すみれも、蝉川日和も二階堂ルミも――今は離れた場所でパーティーを楽しんでいる犬飼京菜も、それだけの力を持った存在であるはずであった。
(そのためにも、今はあたしたちが頑張るべきなんだろうな)
たとえ若手選手の気分が抜けなくとも、日本の女子格闘技界の最前線に立っているのは瓜子とユーリに他ならないのだ。そのような話とは関わりなく、瓜子は格闘技を楽しんでいるだけであるのだが――そんな個人の楽しさと大義を重ねられるというのは、何より幸福な話であるはずであった。




