08 日星リベンジマッチ
光り輝くユーリがケージインすると、英語のアナウンスが開始された。
その間も、会場にはとてつもない歓声が渦を巻いている。《アクセル・ジャパン》のときよりも、その勢いは増しているのではないかと思われた。
『フロム・トーキョー・ジャパン! シンジュク・プレスマン・ドージョー……ユーリ・モモゾノ!』
そんなアナウンスとともにユーリがくるりとターンを切ると、モニターのスピーカーが割れそうなほどの歓声が響きわたった。
瓜子たちが見守る中、ユーリとエイミー選手はレフェリーのもとに進み出ていく。
そうして両者が向かい合うと――一年と二ヶ月前の姿が再現された。
しかし、あのときと大きく異なっている点がある。
ユーリの体格である。
『アクセル・ロード』に出場していた際、ユーリは五十八キロというウェイトであった。しかし現在は平常体重が六十五キロで、一キロだけ肉を落としつつ、ドライアウトで三キロ絞っている。前日計量では六十一キロ、リカバリーした現在は六十四キロという数値であった。
言うまでもなく、六キロの差は大きい。あの頃はフライ級の体格で『アクセル・ロード』に挑んでいたユーリが、現在は堂々たるバンタム級の肉体を完成させていたのだった。
ただしエイミー選手は、ユーリよりも分厚い体格をしている。
こちらはこちらで、『アクセル・ロード』の頃よりもさらに逞しくなったようである。『アクセル・ロード』の合宿所では極端な減量やリカバリーも難しくなるため、これが本来の姿であるのだろう。エイミー選手は、ユーリよりもさらに大きくリカバリーしているようであった。
「最低でも五キロ、下手をしたら七、八キロばかりはリカバリーしてそうだな。だけどまあ……『アクセル・ロード』のときより不利ってことはないだろう」
立松は、そんなつぶやきをこぼしていた。
『アクセル・ロード』におけるエイミー選手は、三キロていどのリカバリーをしているのではないかという見込みであったのだ。であれば、ユーリのウェイトが増した分、体重差は緩和されているはずであった。
しかしまた、ユーリは筋肉が筋肉に見えない特異体質である。本日も、バンタム級に相応しい肉感でありながら、そのシルエットは優美そのものであった。
ユーリは透明な眼差しで、エイミー選手は射るような眼光で、それぞれ相手の姿を見据えている。
そして、レフェリーがグローブタッチをうながすと――『アクセル・ロード』ではそれを無視したエイミー選手が、がっしりとユーリの手をつかみ取った。
エイミー選手はユーリへの雪辱に燃えているが、決して怒りや憎悪を抱いているわけではないのだ。
それを理解した瓜子は、また胸を震わせることになってしまった。
ユーリたちがフェンス際まで引き下がると、リングアナウンサーやカメラクルーがケージから退いていく。そうしてフェンスの扉に掛け金が掛けられると、レフェリーは『ファイト!』と宣言した。
大歓声の中、試合開始のホーンが鳴らされる。
ユーリはアップライト、エイミー選手はクラウチングのスタイルで、それぞれケージの中央に進み出た。
そして、おたがいの間合いに入る寸前――ユーリがおもいきり、右足を振り上げる。
絵に描いたように美しい、右のハイキックである。
間合いの外であったため、エイミー選手が足を止めただけで、ユーリの足は虚空を裂いていく。そして、エイミー選手が動くより早く、ユーリはスイッチをして左ミドルに繋げた。
ユーリがスイッチのために右足を踏み込んだため、エイミー選手は一歩だけ後ずさる。それでユーリの蹴り足は、再びを空を切った。
エイミー選手は闘志をみなぎらせつつ、前進ではなく後退する。
いきなり蹴り技を連発したユーリに、警戒心をかきたてられたのだろう。すでに彼女はユーリの規格外の破壊力を思い知らされているため、そのように反応するのが当然であった。
するとユーリは、さらなる蹴り技を繰り出していく。
いずれもミドルからハイの、優美にして豪快な蹴り技だ。その美しさと勇猛さに、さらなる歓声がわきたった。
これが、ジョンたちの考案した序盤の作戦である。
《アクセル・ジャパン》におけるパット選手との対戦では、いきなりの乱打戦に悩まされることになった。それを防ぐために、機先を制するという作戦であったのだ。
もちろんエイミー選手は、ユーリの無軌道なコンビネーションも体験済みである。以前に対戦した際には、的確にコンビネーションの隙をついて反撃してきたのだ。彼女はユーリに無関心であったが、コーチ役たるジョアン選手に指南された結果なのであろうと思われた。
それにユーリはそのときの試合で、大技の連発という戦法も見せている。エイミー選手の出足を止めるために、二ラウンド目の開始と同時にそういった手段を選んだのだ。その際にも、エイミー選手は的確な関節蹴りで対応していた。
それらの経験を踏まえて、ユーリは新たな戦法を構築した。この二ヶ月ほどで、蹴り技のみのコンビネーションというものを磨き抜いたのだ。
最低でも二発、最長では五発、ユーリは蹴り技を連動させている。これは初めてお披露目するコンビネーションであったので、エイミー選手が技の繋ぎ目を見定めるのに若干の時間が必要となるだろう。その間にリズムとペースをつかむというのが、ジョンの授けた基本戦略であった。
ユーリの蹴り技というのは、凶器そのものである。たとえ腕でブロックしても、腕にダメージをもらうことが必定であるのだ。そんな攻撃を乱発されたら、間合いの外で見守るしかなかった。
よって、エイミー選手は逸ることなく、間合いの外でステップを踏んでいる。
今は懸命に、コンビネーションのパターンやリズムを分析しているのだろう。そうしてユーリの暴風雨めいた動きに目が慣れれば、反撃のチャンスが生まれるはずであった。
ユーリが使用しているのは、左右のハイキックとミドルキック、そして右のバックスピンハイキックのみである。その五種の技だけで、かなう限りのコンビネーションを考案したのだ。その中には、二発の左ミドルに右のバックスピンハイキックという無茶なパターンも組み込まれており、ジョンたちの苦労があらわにされていた。
そうしておたがいに接触しないまま、刻々と時間は過ぎていく。
しかしそれで一分が経過しても、会場には歓声が吹き荒れたままであった。ユーリの暴風雨のごときコンビネーションが、人々の心をつかんでいるのだ。ユーリの蹴り技のコンビネーションというのは下手なダンスよりも優美であるため、観客たちもそうそう飽きないのだろうと思われた。
そしてユーリは新たな蹴りを放つたびに、勢いが増していく。
もともと温めていたエンジンが、さらに加熱し始めたのだ。それはまるで、白銀の光が渦を巻いているような風情であった。
そうしてついに二分が経過しようとしたとき、ついにエイミー選手が動いた。
すべてのパターンを把握することは難しいが、どこかにつけいる間隙を見出したのだろう。モーションの大きい蹴り技ばかりであるのだから、エイミー選手ほどの実力者であればそれも不思議はなかった。
エイミー選手が動いたのは、ユーリが右のハイキックを出した直後である。
次の技が何であれ、ハイキックの直後であれば体勢を整えるのに多少の時間を要する。瓜子でも、狙うとすれば右のハイキックかバックスピンハイキックの直後であった。
つまり――ユーリのセコンド陣も、そこまで見越している。
さらにセコンド陣は、エイミー選手が序盤から組みついてくることはないだろうと踏んでいた。ユーリの組み技と寝技の手ごわさは、エイミー選手も総身に叩き込まれているのだ。
そんなセコンド陣の思惑通り、エイミー選手は遠い間合いから関節蹴りを出してきた。
ユーリの左の軸足を狙った、的確な攻撃だ。
しかしユーリは右の蹴り足を戻すと同時に、左足を振り上げていた。
セコンド陣の、指示通りである。エイミー選手が自分から間合いを詰めてきたら、そう動くように言いつけられていたのだ。
エイミー選手の足裏をすりぬけて、ユーリの左足がふわりと浮かびあがる。
それがミドルの高さだと判じて、エイミー選手は腹を守った。
その右腕の内側に、ユーリの蹴り足がのびていく。それはコンビネーションに組み込んでいなかった、ユーリの得意技――ミドルと前蹴りの中間の軌道を駆け抜ける、三ヶ月蹴りに他ならなかった。
このカウンター技を悟らせないために、ユーリのコンビネーションには三ヶ月蹴りも前蹴りも組み込まれていなかったのだ。
結果――ユーリの中足は、エイミー選手のレバーにクリーンヒットした。
思わぬ攻撃をくらったエイミー選手は、マウスピースを落とす勢いで口を開く。
しかし、エイミー選手がその一撃で屈することはなかった。
エイミー選手はマウスピースを噛みしめると、決死の形相でユーリに組みついた。後ろに逃げればさらなる蹴り技で追撃されると判じたのかもしれなかった。
するとユーリはふわりと両腕を差し出して、エイミー選手の突進を受け止める。
そうして相手の両脇を差したユーリは、一瞬の停滞もなく身体をのけぞらせて、フロントスープレックスを炸裂させた。
エイミー選手は、右側頭部と右肩をマットに叩きつけられる。
サイドポジションを取ったユーリは、そのまま上四方に移行した。
エイミー選手は身をよじったが、ユーリの重心は崩れない。
ユーリはそのまま、エイミー選手の首をとらえようとした。上四方のポジションから狙える数少ない技のひとつ、ノースサウスチョークの仕掛けだ。
しかしエイミー選手は凄まじい勢いで腰を切り、何とかあらがおうとする。三ヶ月蹴りとフロントスープレックスのダメージを感じさせない、猛烈な抵抗である。
するとユーリはあっさりノースサウスチョークをあきらめて、相手の上体に深くのしかかった。首から腕に、狙いを変えたのだ。
そうしてユーリが、エイミー選手の右腕を捕らえようとしたとき――エイミー選手が、下から両手でユーリの左腕を捕らえた。
エイミー選手はユーリの左腕を引きながら、おもいきり腰を切る。そうして強引にサイドポジションまで戻すと、凄まじい爆発力でブリッジをして、ユーリごとひっくり返った。
今度はユーリがマットに背中をつけ、エイミー選手が上となったサイドポジションとなる。
そしてエイミー選手はユーリに覆いかぶさったまま、その脇腹に左の膝を乗り上げた。ニーオンザベリーの体勢である。
さらにエイミー選手は、その左足でユーリのくびれた腰にまたがろうと試みる。
しかしその頃には、ユーリの左腕がエイミー選手の股座に差し込まれており――ユーリにまたがろうと腰を浮かせたエイミー選手の動きに、自分の力を加算させた。
なおかつユーリは、右手でエイミー選手の左肩をつかんでいる。そこを支点にして、今度はユーリがブリッジをすると、エイミー選手は勢い余って前方に転がり、またユーリが上のポジションとなった。
先月の浅香選手とのエキシビションマッチを彷彿とさせる、目まぐるしい攻防である。
あの日と同じように、ユーリは相手の動きを利用するのが巧みであった。相手が動こうとするのと同じ方向に力を加えて、ポジションを返してしまうのだ。
そうして再び上となったユーリは、アームロックのプレッシャーをかけながらニーオンザベリーのお返しをした。
エイミー選手は懸命に腰を切りつつ、マウントポジションを取られまいと膝を立てる。
その瞬間、ユーリがちらりとエイミー選手の立てられた膝を見たような気がした。
それと同時に、エイミー選手は立てたばかりの膝をべったりとマットにつけた。
するとユーリは、しゅるりとエイミー選手の腰をまたぎ越えた。
今のは、もしかして――パット選手との試合を研究したエイミー選手が、足を取られまいとして足を寝かせたのだろうか。
ユーリもその効果を狙って、視線でフェイントをかけたのだろうか。
その真相は知れなかったが、ユーリがマウントポジションを奪取した事実に変わりはなかった。
エイミー選手の腰にまたがったユーリは、相手の右腕に手をかける。
それでエイミー選手が両手をロックすると、フック気味のパウンドを繰り出した。
おそらく、ジョンの指示であろう。大歓声の中でも、ジョンの声はよく通るのだ。
エイミー選手は腕をロックした不自由な体勢で、なんとか頭部をガードしようとする。
ユーリは左手だけでエイミー選手の右手首を握りつつ、再びパウンドを叩きつけ――そして、ちらりと背後をうかがった。
ブリッジをしようと膝を立てかけていたエイミー選手は、それでまた足を下ろしてしまう。やはり、足への関節技を警戒しているのだ。
そんな中、ユーリは三発目のパウンドを落とす。
その間も、ユーリの左手はぐいぐいとエイミー選手の手首を揺さぶっていた。
パウンドと、右腕と、下半身。エイミー選手は、三方向からプレッシャーをかけられているのだ。最終的に、ユーリは何を狙うのか――チームメイトたる瓜子にも、まったく予測は立てられなかった。
そしてユーリは、もっとも可能性の低そうな道を選んだ。
エイミー選手の右手首を解放し、両手でパウンドを振るい始めたのだ。
ユーリはいまだに、セコンドの指示がなければパウンドを打とうとしない。
であればこれも、セコンドの指示であるのだろう。
しかし、ユーリがこれほどパウンドを連発するというのは、常にないことであった。
エイミー選手の腰に乗ったユーリは、気負う様子もなく拳を振り下ろしている。
モニターに映し出されるその純白の顔は、菩薩像のように静謐であった。
しかし、ユーリの怪力で振るわれるパウンドである。その一撃が鼻にヒットすると、たちまち鼻血が滴り落ちた。
エイミー選手はついにロックを解除して、両腕で頭部をガードする。
そして再びブリッジのために、両膝を立てた。
とたんにユーリが身をひねって、後方に向きなおろうとする。
エイミー選手は、すかさず足をマットに寝かせた。
しかしそれも、フェイントであった。ユーリはすぐさま前方に向きなおり、勢いをつけた右拳をエイミー選手のこめかみに叩きつけた。
エイミー選手はガードを解除して、今度はユーリの上半身に抱きつこうとする。ユーリの強烈なパウンドから逃れるには、もはや密着するしかなかったのだ。
すると、驚くべきことが起きた。
エイミー選手が猛然と身を起こすのと同時に、ユーリが腰を浮かせて中腰の体勢になったのである。
思わぬ自由を得たエイミー選手は、そのままユーリの腰にしがみつくことになった。
するとユーリはエイミー選手の後頭部の側から腕を回し、その首を絡め取った。
そうして再び腰を落としつつ、エイミー選手の腰を両足ではさみこむ。一寸の乱れもなく、ギロチンチョークの形が完成された。
ユーリはエイミー選手の首を絞りながら、横合いに倒れ込む。
エイミー選手は両手でユーリの腕をつかみ、何とか拘束から逃れようとあがいたが――数秒と待たずして、その手がぱたりとマットに落ちた。
それと同時に、ユーリも技を解除する。
エイミー選手がブラックアウトしていることを確認したレフェリーは、その首を片腕で支えつつ逆側の腕を頭上で振った。
試合終了のホーンと大歓声が、同時に響きわたる。
しかし――瓜子は、息を詰めていた。
技を解除したユーリはそのまま大の字に寝転んで、まぶたを閉ざしてしまったのだ。
ユーリは、赤ん坊のように安らかな顔であった。
香田選手やパット選手との試合を終えたときと、同じ表情である。
レフェリーはエイミー選手の首を支えているため、ユーリに注意を向けていない。
すると――黒いポロシャツを纏った一団が、ユーリのもとに駆け寄った。
ひとりはユーリの口もとに手をかざしつつ、白い咽喉もとにも手をあてがう。もうひとりは、ユーリの手首をつかみ取っていた。
そうして瓜子が、歯を食いしばりながらそのさまを見守っていると――ユーリのまぶたが、ぱちりと開かれた。
ユーリが寝ぼけた面持ちで身を起こそうとすると、咽喉もとに手を当てていた人物がそれを押しとどめる。しかし、ユーリが目を覚ましたならば、もはや為すべきことは残されていないはずであった。
「……十八秒」と、メイが低い声でつぶやいた。
「ユーリ、ギロチンチョークを解除してから、目を覚ますまで、十八秒だった。これじゃあ、診察、間に合わないと思う」
「……そうだな。あとは、脈やら呼吸やらが止まってなかったことを祈るだけだ」
そんな風に言いながら、立松は瓜子の肩にぽんと手を置いた。
「だからそんな、泣きそうな顔をすんな。桃園さんだって、すっかり元気そうじゃねえか」
瓜子は「……押忍」と答えたが、モニターから目を離すことができなかった。
ようやく動くことを許されたユーリは、もじもじとしながら立ち上がる。そして、カメラがそちらに近づいていくと――ユーリはしょげたゴールデンリトリバーのような眼差しで、モニター越しに瓜子を見つめ返してきたのだった。




