07 開陳
四分四十三秒、右ハイキックにより猪狩瓜子のKO勝利――それが、アナウンスの内容であったようであった。
それを教えてくれたのは、勝利者インタビューを受け持ったリングアナウンサーと通訳の男性である。集中力の限界突破を迎えていた時間が短かったためか、瓜子も前回よりは体力が残存していたが、それでも両膝は震えており、立松に支えられなければ真っ直ぐ立つことも難しかった。
『試合巧者のミンユー・ワンに序盤は苦しめられていたようですが、また一ラウンドKO勝利を収めることになりましたね! 今のお気持ちは、如何ですか?』
『押忍……なんとか大役を果たせたようで、ほっとしています』
それが、瓜子の本音であった。本日もダメージは軽微であったものの、ぎりぎりの瀬戸際まで追い込まれたのは事実であり――だからこそ、あの不可思議な感覚に見舞われたわけであった。
(それに、ベテラン選手の怖さも知れた。やっぱりあたしなんて、まだまだこれからなんだ)
貴重な試合経験をさせてくれたスチット氏にも、感謝の思いはつのるばかりである。
そうして瓜子は満ち足りた気持ちでケージを下りて、花道を凱旋することができた。
入場口をくぐっても、そこにはスタッフの姿しかない。メイに肩を借りた瓜子は、無人の廊下を踏み越えて――その末に、ユーリの笑顔に出迎えられることになった。
「うり坊ちゃん、おっめでとう! 今日はぺかぺか輝いてる時間が短めだったけど、そのぶん輝きが凝縮していたのです!」
よくわからないことを言いながら、ユーリはひしと瓜子に抱きついてきた。同門の人間しかいないために遠慮を忘れているのであろうが、ユーリの向こう側では愛音が眉を吊り上げていた。
「どうもありがとうございます……でも、ぺかぺか輝くって、なんのお話っすか?」
「うり坊ちゃんは試合の後半になると、ぺかぺか輝くことが多いでせう? まあ、今年に入ってからは《アクセル・ジャパン》の試合が初めてであったようですけれども! ユーリはあのまばゆき輝きにめろめろであるのです!」
それはもしかしたら、集中力の限界突破ともいうべきあの不可思議な現象のことを指しているのだろうか。後から映像を見返してみても、確かにあの状態にある瓜子というのはなかなか尋常でない動きを見せているのだった。
(まあ、なんでもいいか)
瓜子はユーリの温もりを思うさま味わってから、重い右腕を上げてやわらかな背中をタップした。
「次は、ユーリさんの番っすよ。ユーリさんの強さを、日本全国のお茶の間に見せつけてあげてください」
「うん!」と最後に瓜子のあばらを軋ませてから、ユーリはようやく身を離した。
そうして「てへへ」と照れながら、周囲の人々を見回していく。
「ついついエキサイトしてしまって、お恥ずかしい限りであるのです。どうかお目こぼしをいただきたいのです」
「お前さんがたの甘ったるい空気には、慣れっこだよ。しかし猪狩はクールダウンで、桃園さんはウォームアップだ。最後まで、気を抜くなよ?」
立松は苦笑を浮かべつつ、瓜子をパイプ椅子に座らせて、首筋に氷嚢をあててきた。
「とはいえ、今回もダメージは少なかったな。今日ぐらいは長期戦にもつれこむんじゃないかと考えていたんだが……お前さんは、立派なもんだよ」
「本当ですね。見ようによっては、前回よりも楽に勝てたように見えましたよ」
柳原はそんな風に言っていたが、瓜子はひとつも楽ではなかった。ミンユー選手は、瓜子に馴染みのない強さを持っていたのだ。最後の攻撃をしのがれていたら、どんな結果が待っていたかもわからなかった。
「まあそれは、あくまで相性の問題だろう。今日の選手はディフェンシブなタイプだったから、前回の相手ほどの攻撃力を持ってなかったってことだ。何にせよ、三月大会では今日以上の相手が準備されるんだろうから、覚悟しておけ」
「押忍……ご指導、お願いします」
そんなやりとりを交わしている間に、次なる試合に出場する選手たちが入場を完了させていた。
男子フライ級の一戦である。瓜子の手足をマッサージしながら、メイがぎらりと目を光らせた。
「この選手、すごく強い。《アクセル・ファイト》のレベル、物語ってると思う」
男子フライ級の《ビギニング》勢は、《アクセル・ファイト》の元王者であるのだ。
多賀崎選手やマリア選手などと同じ階級なだけあって、男性としては小柄な体格である。身長などは百六十センチそこそこで、いかにも俊敏そうであった。
そうして、いざ試合が始まってみると――俊敏どころの話ではない。そちらの選手はまるで猿のような身軽さで、縦横無尽にステップを踏んでいた。
やはり同じウェイトでも、女子と男子では筋肉量が違っているのだ。あのマリア選手でさえ比較にならないぐらい、彼のステップワークは躍動感にあふれかえっており、一秒として同じ場に留まることもなかった。
それと相対する日本人選手は、完全に翻弄されてしまっている。
攻撃はすべてかわされて、相手の攻撃はすべてヒットする。いかにもスピード重視の軽い攻撃であったが、受ける側も同じウェイトであるので、数をもらえばダメージが溜まっていくはずであった。
そんな一方的な展開のまま、第一ラウンドが残り一分になると――相手選手が弾丸のような勢いで両足タックルを仕掛けた。
日本人選手は一メートルばかりも吹き飛ばされたのち、マットに倒れ込む。とたんに相手選手は速射砲のようにパウンドを乱打して、レフェリーがすぐさまストップをかけた。
相手選手は弾かれたような勢いで身を起こし、全速力でケージを一周してから、ひらりとフェンスの上に飛び乗る。あれだけ動き回っていたのに、疲労の気配さえ感じられなかった。
「……日本人選手、力が足りていなかったから、王者の実力、発揮しきれなかった」
「いやいや、十分に凄かったと思いますけど……」
「ううん。この選手、レスラーだから、寝技の攻防が本領」
では、本領を発揮させるまでもなく完全勝利を収めたということである。
瓜子としては、溜息をこらえられなかった。
(だけどまあ、《アクセル・ファイト》の元王者ってことは、ベリーニャ選手やジョアン選手と同レベルってことだもんな。物凄いのが、当たり前なのか)
そして、メイが目指しているのはこの領域なのである。
男子と女子では比較できない部分もあるのであろうが――何にせよ、これが世界最高峰の実力であるのだった。
(でも、メイさんだったらこういう選手と並び立てるさ。それで……あたしも、それを追いかけるんだ)
そんな思いを噛みしめながら、瓜子は虚脱感に包まれた身体をパイプ椅子から持ち上げた。次はいよいよ、ユーリの出番なのである。
ウォームアップを完了させたユーリは、散歩の時間を待っているゴールデンリトリバーのように身を揺すっている。
そして瓜子の視線に気づくと、跳ねるような足取りで近づいてきた。
「いよいよ、出陣っすね。ユーリさんの勝利を信じてますよ」
「うん! そして、試合後の睡魔にもあらがってみせるのです!」
瓜子が右手を差し出すと、ユーリは両手でそれを包み込み、胸もとに押し抱いた。
幸せそうに細められたまぶたからは、透明な輝きがこぼされている。大一番を目の前にして、ユーリは輝くような美しさであった。
「地力では、まったく負けてないからな。この二ヶ月の稽古の成果を見せつけてやれ」
「パット選手に勝てた桃園さんなら、何も怯む理由はないぞ。セコンドの声をよく聞いて、いつも通りにな」
「ユーリ、勝利、祈ってる」
立松と柳原とメイの激励に、ユーリは「はい」と微笑んだ。
そこで、控え室のドアがノックされる。
「それでは、入場の準備をお願いします」
ユーリはそちらにも「はい」と応じてから、あらためて瓜子のほうに拳を差し出してきた。
瓜子は精一杯の思いを込めて、自分の拳をそこに押し当てる。ユーリの接触嫌悪症を知る他の面々は、手を触れぬまま力強い眼差しで見守っていた。
ユーリは最後に透き通った微笑を残して、ドアの向こうに消えていく。
ジョンとサキと愛音がそれに続き、ドアが閉められるのを待ってから、瓜子はパイプ椅子に腰を下ろす。すると、立松が溜息まじりにつぶやいた。
「試合の後も、無事に済むことを祈ろう。今日も医療スタッフがスタンバイしてるからな」
瓜子は「押忍」と答えながら、モニターを注視した。
セコンド陣の三名も、それぞれパイプ椅子に着席する。モニターには、照明の落とされたケージの舞台だけが映されていた。
やがてリングアナウンサーの登場とともにスポットが照らされると、ざわついていた客席に歓声が巻き起こる。
その中で、壮年のリングアナウンサーは英語のアナウンスを朗々と響かせた。
まずは青コーナー陣営、エイミー選手の入場だ。
色とりどりのスポットとスモークをかきわけて、エイミー選手が花道に姿を現した。
本日も、エイミー選手は気迫をみなぎらせている。
マレーの血が入っている彼女は彫りの深い顔立ちで、かつて『アクセル・ロード』に出場した八名の中でももっとも雄々しい雰囲気であった。
そして『アクセル・ロード』でユーリに敗れた彼女は本国に戻ったのち、長年のライバルであったイーハン選手を打ち負かしたという。そうして今度はユーリに雪辱を晴らすことに、情念を燃やしているという話であったのだった。
(つくづくこの選手は、特定の相手を倒すことに燃えるタイプなんだな)
彼女は『アクセル・ロード』においても、イーハン選手の存在しか眼中になかったようであるのだ。
しかし、コーチ役がジョアン選手であったためか、ユーリ対策にも隙はなかった。ユーリはさんざん苦しめられたのち、試合終了の寸前で勝利をもぎ取ってみせたのである。
そんなエイミー選手が、今度は自らの意志でユーリを倒そうと奮起しているのならば、いっそうの強敵に成り果てていることだろう。
知らず内、瓜子は痛いぐらいに拳を握り込んでしまっていた。
そうしてエイミー選手がケージインしたならば、次はユーリの出番である。
『Re:Boot』のイントロとともにユーリが姿を現すと、これまで以上の歓声が爆発した。
瓜子は思わず、胸を詰まらせてしまう。
ついに――ユーリの姿が、地上波のテレビ放映で日本全国に届けられたのだ。
もちろんユーリは古きの時代から深夜のバラエティー番組などに出演していたし、昨年には『トライ・アングル』としてもスタジオライブをお披露目している。しかし、ファイターとして試合が地上波で放映されるのは、これが初めての事態であったのだった。
ユーリの人気を考えれば、遅きに失したぐらいであろう。去年の大晦日には瓜子が、三年前の大晦日には沙羅選手が、それぞれ《JUFリターンズ》の試合を放映されているのだ。そのどちらも、ユーリは負傷をして欠場中であったのだった。
(それで二年前は《カノン A.G》のせいで、女子選手が敬遠されてたんだっけ)
つくづくユーリは、《JUFリターンズ》にご縁がなかったのだろう。瓜子と出会う前には夏の大会でグラップリング・マッチを行っていたが、そちらは地上波で放映されない小規模な興行であったのだ。
もちろん瓜子は地上波の放映にこだわっているわけではなかったが――このたびは、大きな感慨と無縁ではいられなかった。
今この瞬間にユーリの姿が全国のテレビに映し出されているのかと思うと、胸が高鳴ってしまう。さらに、ユーリの試合が開始されたならば、日本中のあちこちで大変な反響が巻き起こるはずであった。
まずはグラビアアイドルとして、次にはシンガーとして名を売ったユーリが、ついにファイターとしてその勇姿をさらけだすのである。
ユーリがいつも通りの笑顔で、『Re:Boot』の歌詞を口ずさみながら闊歩している姿を見ているだけで、瓜子は涙をこぼしてしまいそうなほどであった。
(ユーリさんがどれだけ強いか、日本中の人間に……それに、世界中の人間にも見せつけてあげてください。そうしたら、いつか……絶対、ベリーニャ選手とも対戦できるはずですよ)
そんな思いを噛みしめながら、瓜子はユーリの笑顔を見守った。
色とりどりのスポットに照らし出される純白のユーリは、まるで光の精霊のようだった。




