03 下準備
その後は粛々と、試合前の諸々が進行されていった。
やはり《ビギニング》においても、そういった下準備に大きな差はない。ルールミーティングを終えた後は舞台のマットの確認にメディカルチェック、そしてバンテージのチェックである。
《ビギニング》の代表たるスチット氏は、そのメディカルチェックの際に姿を現した。ユーリがチェックを受けている間、ずっとその姿を見守っていたのだ。そうしてユーリが問題なくパスすると、あらためてこちらに笑いかけてきたのだった。
「本日は、お二人の活躍を期待しています。お二人の力を、日本とシンガポールの全土に見せつけてください」
スチット氏は相変わらず、柔和な笑顔に熱情と誠実さがあふれかえっていた。
その後は控え室に戻って着替えをすまし、バンテージの装着である。
スチット氏の許可を得て、瓜子とユーリは《アトミック・ガールズ》の試合衣装を準備していた。わざわざ新しい試合衣装をあつらえるのも面倒であったし、瓜子としては《アトミック・ガールズ》の看板を背負っているという意識が高かったのだ。ユーリの内心は確認していなかったが、瓜子と大きな差はないのだろうと思われた。
(さすがに専属契約って話になったら、新しい試合衣装を準備するべきなんだろうけど……それまでは、この格好で頑張らせてもらおう)
そうしてバンテージのチェックも完了したならば、あとはひたすら待機である。
瓜子とユーリはテレビで生中継されるメインカードのほうに組み込まれていたため、どう転がっても出番は七時以降だ。今は簡単に栄養を補給しつつ軽く身体を温める他に、なすべきことも残されていなかった。
「でも、今日の大会は《ビギニング》と《パルテノン》の対抗戦なんすよね。それなのに、外様の自分たちがメインカードってのは、ちょっと恐縮しちゃいます」
「また客寄せパンダが何か言ってやがるぜ。おめーらの試合を放映しなかったら、テレビ局は苦情の嵐だろーよ」
サキが瓜子の頭を小突くと、立松が苦笑まじりにフォローしてくれた。
「そいつは言いすぎかもしれねえが、しかしまあ世間的な知名度で言ったらお前さんがたがツートップだろうからな。気が引けるってんなら、テレビ放映に相応しい試合を見せつけるしかないだろうさ」
それはもちろん、瓜子もそのつもりである。テレビの前で見守ってくれている朋友たちのためにも――そして、見も知らぬ大勢の人たちのためにも、瓜子たちは恥ずかしくない試合を見せなければならなかった。
そうして迎えた、午後の四時。早くも、プレリミナルカードが開始された。
《ビギニング》には開会セレモニーが存在したが、そちらもメインとプレリミナルで分けられている。メインカードに出場する五組と、プレリミナルカードに出場する六組で、別個に開会セレモニーが行われるわけであった。
ウォームアップは休憩にして、瓜子とユーリも控え室のモニターでプレリミナルカードの開会セレモニーを拝見する。
本日は、すべての試合が日本陣営とシンガポール陣営の対抗戦だ。しかも、同じ階級がひとつもかぶっていないという徹底ぶりであった。
プレリミナルカードの試合は、男子バンタム級、男子ストロー級、女子フライ級、男子フェザー級、女子アトム級、男子ミドル級という順番で進行される。ウェイトの重さと試合の順番に法則性が感じられないので、そこは選手の格や試合の注目度などで決定されているのだろう。男子バンタム級などはアジア圏においてボリュームゾーンであるはずだから、興行を盛り上げる一番槍に任命されたのではないかと思われた。
(本来、格闘技の花形は重量級なんだろうけど……アジア人は、体格が追いつかないもんな)
それを証明するかのように、《ビギニング》陣営の男子ミドル級はオランダ出身の選手であった。それに、メインカードに出場するヘビー級の男子選手は、《ビギニング》陣営がロシア、《パルテノン》陣営がウズベキスタンの出身なのである。日本やシンガポールの興行でも、そういった階級でトップにのぼつめるのは外国人選手が主流であったのだった。
「以前はアトミックでも、ジジ選手が五十六以下級の絶対王者でしたもんね。なんだか、懐かしく感じられますけど」
「ああ。最近のアトミックは、外国人選手を招聘する資金力もないからな。いっぽう《ビギニング》は資金力が豊富なぶん、外国人選手が猛威をふるってるってわけだ」
立松の言う通り、《ビギニング》陣営は軽量級でもぽつぽつと海外の選手が入り混じっていた。どうも最近は、《アクセル・ファイト》からも《ビギニング》のほうに強豪選手が流出しているようであるのだ。
「《アクセル・ファイト》では重量級に負けないぐらい、中量級ももてはやされてるがな。その反面、軽量級の人気がいまひとつなんだ。そうすると、試合数やファイトマネーにも影響が出るから、《ビギニング》に鞍替えしようって選手も後を絶たないわけだな」
呆れたことに、《ビギニング》の男子フライ級王者は《アクセル・ファイト》の元王者であったのだという。そんなレベルの選手まで、《アクセル・ファイト》より《ビギニング》のほうが好待遇であるということであった。
「女子選手に関しては《アクセル・ファイト》でもなかなかの人気だから、《ビギニング》に流出って事態には至ってないようだがな」
立松のそんな言葉に「ふむむ」と声をあげたのは、愛音であった。
「その人気というのは、どうやって判別しているのです? アンケートでも実施してるのです?」
「いやいや。北米なんかはペイパービューの放映が主流だから、その売り上げで選手や階級の人気具合はおおよそ把握できるんだろう。あとは、賭博で動く金の額をリサーチすれば、もっと細かい部分まで可視化できるんだろうな」
「ふむふむ! 《アクセル・ジャパン》におけるユーリ様の試合には、かなりのお金が賭けられていたという話がネットニュースに掲載されていたのです!」
「なに? そんな話まで、ネットニュースになる時代なのか?」
「愛音が目にしたのは、北米のネットニュースなのです! 翻訳アプリを駆使して、愛音は北米におけるユーリ様の人気をリサーチしていたのです!」
「そいつは、大した執念だ。……本当だったら《アクセル・ファイト》も、桃園さんは咽喉から手が出るぐらい欲しい人材なんだろうな」
立松がしみじみと息をつくと、愛音は横目で瓜子を見やってきた。
「……ちなみに猪狩センパイも、ユーリ様の一歩後ろていどの人気であられたようなのです」
「あ、そうなんすか? わざわざ自分のことまで、ありがとうございます」
「それは、ユーリ様のリサーチをする過程でたまたま目に入っただけであるのです! 猪狩センパイにお礼を言われる筋合いはないのです!」
「うるせーなー。セコンド風情が選手様に盾突くんじゃねーよ」
「お前さんが、それを言うかね」
と、本日もプレスマン陣営の控え室は和やかきわまりなかった。
そこでひときわ和やかに声をあげたのは、ジョンである。
「そういえば、いちおうキョウのオッズもチェックしてるんだよねー。ウリコとユーリは、キョウミあるかなー?」
「オッズっすか。……参考ていどに、教えていただけますか?」
「ウン。ウリコは1.47、ミンユー・ワンは3.50。ユーリは1.29、エイミー・アマドは3.90だってよー」
つまり、多くの人々が瓜子とユーリの勝利に賭けているということだ。
まあ、ユーリなどは《アクセル・ファイト》のトップランカーたるピット選手を下した身であるのだ。しかもエイミー選手は昨年の『アクセル・ロード』でユーリに敗北しているため、その後にどれだけの活躍を見せていても、ユーリのほうが格上であるという評価に落ち着くのだろう。
いっぽう瓜子は《ビギニング》の初代王者に対して、この結果だ。瓜子としては喜ばしいというよりも、いっそう身の引き締まる思いであった。
「ちなみにこれは、ショウハイだけのオッズだねー。カクトウギのシアイでは、イッポンやKOでショウブがつくか、ハンテイショウブになるかっていうフウにワけてカけるコトもできるんだよー」
「それで何か、違いが出るんすか?」
「ウン。ウリコがイッポンかKOでカつオッズは1.11、ユーリは1.13だってさー」
「ふふん。それじゃあよっぽどの金を賭けねえと、大した稼ぎにならねえな。それだけお前さんたちがKOや一本で勝つことを期待してる人間が多いってことだ」
シンガポールで開かれている賭場で、その結果なのである。立松は、誰よりも満足そうな面持ちになっていた。
そんな中、モニターでは粛々と開会セレモニーが進められている。
当然のことながら、アナウンスの内容はすべて英語だ。シンガポールには四つの公用語が存在するとのことであったが、もっとも無難そうな英語が使用されているのだろう。勝利者インタビューなどの必要な場面では通訳がつけられることが、事前に周知されていた。
そんな中、二名の女子選手も入場を果たす。
巾木選手は気合の入った面持ち、横嶋選手はにこやかな笑顔であった。
「……こちらのお二人って、どれぐらいの実力なんすかね」
瓜子がそんなつぶやきをもらすと、サキが「ははん」と反応した。
「《パルテノン》の試合なんざ観たことはねーけど、ま、アトミックのトップファイターに劣る腕ではねーだろーよ。どっちも海外の試合を経験済みだしなー」
「あ、そうなんすか。さすがサキさんは情報通っすね」
「うるせーよ。……特にこの、うすら笑い女はクセモノだ。今のところ、勝った試合はのきなみ一本勝ちらしーしな」
「ほうほう! このお人は、グラップラーなのでありますわね」
とたんにユーリが瞳を輝かせると、サキは「はん」と鼻を鳴らした。
「二十キロも差があったら、対戦の機会はねーだろーがよ。おめーは目の前の試合に集中しやがれ、脱色肉牛女」
「アトム級とバンタム級に二十キロも差はないし、ユーリはお牛さんではありませんぞよ! ……だけどそれなら、サキたんではなく雅殿との一戦を拝見したかったものだねぇ」
「ふん。毒蛇女じゃ、荷が重いだろ。そっちは、十歳差だろーしな」
では、この横嶋選手は雅をも上回る力量なのだろうか。
サキはその雅を下して《アトミック・ガールズ》の王座に輝いたのだから、その言葉には何よりの重みが感じられた。
「ちなみに、今回の対抗戦はおたがいの団体の王者かそれに匹敵するトップファイターが選抜されたって話だがな、日本の女連中はどっちも《パルテノン》の王者だ。こいつは三月大会の前哨戦って話なんだから、こんなところで負けてられねーって心境だろーなー」
「なるほど。もしこのお二人が負けちゃったら、サキさんや魅々香選手に出番が回ってくる……なんてことは、ないっすかね?」
「ねーだろ。ここで負けても、対戦相手の格とファイトマネーを下げられるだけなんじゃねーのか? まあ仮に、次の大会を負傷欠場することになっても……次にお呼びがかかるのは、《フィスト》の王者あたりだろーな」
「あ、それなら、フライ級は多賀崎選手っすね」
「ふん。こっちの薩摩女も、そう簡単にくたばりそうにねーけどな」
確かにモニター上の巾木選手は、誰よりも気合をあらわにしていた。
それに、朋友のチャンスを求めて巾木選手たちの敗北や負傷を願うというのは、あまりに不義理な話であろう。瓜子は大いに反省して、巾木選手と横嶋選手の健闘を祈ることにした。
「ちなみに、《パルテノン》の女子ストロー級王者は長期欠場中で、女子バンタム級はそもそも設定されてないらしいな。やっぱり日本では、女子バンタム級の層が薄いってことだ」
と、柳原がそのように補足してくれた。
バンタム級の層の薄さは、《アトミック・ガールズ》でも示されている。というか、こちらは《カノン A.G》の騒乱が勃発するまで、やはりバンタム級というものが存在しなかったのだ。日本人女性にそうまで体格のいい人間は多くないし、そういう人間はもっとメジャーなスポーツに流れてしまうのだろうと思われた。
しかし現在の《アトミック・ガールズ》には、小笠原選手、高橋選手、香田選手、鬼沢選手が存在する。これにユーリを加えれば大層な顔ぶれであるし、さらには浅香選手という有望な新人選手も出番を控えているのだった。
(それで、《フィスト》の王者は青田さんだし……本当なら、弥生子さんだってバンタム級のウェイトだ。層が薄くったって、すごい顔ぶれさ)
その代表として、ユーリは本日出場するのである。ユーリであれば、日本人選手の底力というものをこれ以上もなく見せつけてくれるはずであった。
(それであたしは、アトミックと《フィスト》の二冠王だ。《パルテノン》の王者が欠場中だっていうんなら、あたしが日本の看板を背負ってやるさ)
瓜子が本日対戦するミンユー・ワン選手は、《ビギニング》の初代王者である。現役の二冠王が元王者に敗れてしまったら、やはり面目は立たないだろう。
もちろん、そんな肩書きだけが重要なわけではない。本来的には、国を分けて考える必要すらないはずであるのだ。どんな肩書きを持っていようと、どんな国の生まれであろうと、強い者が勝つ――それが、MMAを含むすべての競技の真実であるはずであった。
しかしまた、選手の肩書きや出身国というものは、試合や興行を盛り上げるための重要なスパイスであるのだ。
どんなスパイスでも、もとの素材が不出来であれば台無しであろう。瓜子もまた、過剰なスパイスに負けてしまわないように死力を振り絞る所存であった。




