ACT.3 Big innings in Japan 01 道程
瓜子の二十二回目の誕生日が無事に終わりを迎えると、その年の十二月はいっそう慌ただしく過ぎ去っていった。
その期間に注力するべきは、もちろん大晦日に控える《ビギニング》日本大会に向けての稽古である。
それ以外に付け加えるべきは、副業のほうであるが――年明けに発売される『トライ・アングル』のファーストアルバムのレコーディングおよびジャケット撮影はすでに終了しているので、あとに残されているのは特典用の細々とした撮影とミュージックビデオの撮影ぐらいのものであった。
音楽活動と関係のないモデル活動に関しては、ずいぶん規模が縮小されている。それもひとえに、ユーリの体調を気遣ってのことだ。まあ、普段のユーリは元気いっぱいであるのだが、すべての指針を定める千駄ヶ谷としても、全力でメディア活動に取り組むターンは終了したという認識であるのだろう。それと連動して撮影地獄の苦労が軽減される瓜子としても、ありがたい限りであった。
あとは取り立てて、変わるところもない。空いている時間はおおよそ稽古に注ぎ込み、日曜日にはドッグ・ジムにおける出稽古も再開させた。ドッグ・ジムにも強力な選手とコーチ陣が居揃っているので、瓜子たちにとっては有意義な限りであった。
そうしてひさかたぶりにドッグ・ジムを訪れてみると、そこには新たな変化が生じていた。ここ数ヶ月で、ちらほら門下生が増えたようであるのだ。
犬飼京菜と沙羅選手の活躍が、ついに実を結んだということなのだろう。犬飼京菜は相変わらず仏頂面で内心を隠していたが、彼女の一番の目的はドッグ・ジムの再興であったのだから、その心中は察して余りあった。
それ以外に、特筆するべきは――赤星道場の動静であろうか。
そちらでも、小さからぬ案件がいくつか持ち上がっていた。
まず、《アクセル・ジャパン》を見事なTKO勝利で飾ったレオポン選手である。レオポン選手は、瓜子が辞退したグラスゴーの大会に出場することになったのだった。
(あたしがあのオファーを受けてたら、赤星のみなさんと一緒にイギリスまで出向いてたわけか)
そのように考えるといくぶん複雑な心境であるが、もちろん負の感情をかきたてられることはない。瓜子はユーリとともに《ビギニング》の試合に出場できるのだから、それ以上の喜びは他に存在しなかった。
そして二点目は、二階堂ルミである。本年も《G・フォース》のアマチュア選手権に出場していた彼女は全国大会で優勝を果たし、見事にプロ昇格の切符を勝ち取ってみせたのだった。
彼女はもともとアマチュア志向であったが、蝉川日和に触発されてこのような結果に至ったのだ。瓜子が身を引いてしまったキック業界を蝉川日和とともに盛り上げてもらえれば、何よりの話であった。
さらに、青田ナナは《フィスト》の十二月大会で女子バンタム級の防衛戦を行い、見事に勝利した。格闘技チャンネルでの放映はまだ先の話であるが、非の打ちどころのない一本勝ちであったとのことである。それもまた、瓜子にとっては喜ばしい限りであった。
ちなみに同じ興行では、沖選手とラウラ選手の対戦も実現していた。いつか誰かが言っていた通り、《フィスト》の元王者対決という見出しでマッチメイクされたようであるのだ。
それに勝利したのは、沖選手である。
ラウラ選手はまた事前に動画サイトでさんざん沖選手をこきおろしていたようであるが、沖選手の堅実なファイトスタイルを突き崩すことがかなわず、判定負けを喫したらしい。彼女にも、いっそうの奮起をうながしたいところであった。
そして十二月の中旬には、《レッド・キング》の興行が行われた。
本年三度目で、そして年内最後の興行だ。日取りは土曜日で、瓜子たちもスケジュールは空いていたので、稽古の合間に観戦に出向くことになった。
会場は、瓜子が初めて足を踏み入れる五百名規模の施設であった。今回はレオポン選手や青田ナナも出場できず、前大会から二ヶ月しか空いていないため、ひかえめな会場を選んだのだそうだ。しかし嬉しい計算違いで、チケットは瞬く間に完売したとのことであった。
そちらで赤星弥生子が対戦したのは、マリア選手である。
赤星弥生子も目ぼしい対戦相手を見つくろうことができず、同門のマリア選手を相手取ることになったのだ。まあ、年に一度はマリア選手や青田ナナを相手取るのが通例であるとのことであったが、本年は開催数が少なめであったので、可能であれば名のある男子選手を招聘したかったのだろうと思われた。
その結果は、当然のように赤星弥生子の勝利であったが――しかし会場は、大いに盛り上がっていた。
まず第一に、赤星弥生子は最初から古武術スタイルを披露していた。これまでの対戦ではまずオーソドックスなMMAのスタイルで開始して、多少なりともピンチに陥るようであれば古武術スタイルに切り替えるという戦法であったのだが、もはやマリア選手を相手に出し惜しみすることはできないと判じたのだろう。それは何より、赤星弥生子がマリア選手の成長を認めた証拠であるはずであった。
しかし、それだけの理由で客席が盛り上がったわけではない。
いきなり古武術スタイルを持ち出されて、マリア選手はきらきらと瞳を輝かせながらも慎重に試合を進めていたのだが――一ラウンド目の終わりが近づいたタイミングで果敢に接近し、古武術スタイルのカウンターをかいくぐると、得意技の左ミドルを命中させたあげく、フロントスープレックスまで繋げてみせたのである。その瞬間には、瓜子もつい腰を浮かせてしまったほどであった。
しかし赤星弥生子はスープレックスの衝撃を巧みに逃がしたようで、すぐさま下から反撃した。決まり手は、なんと三角締めであったのだ。つまり赤星弥生子は古武術スタイルを打ち破られた上で、真っ当なるMMAのサブミッションで勝負を決めたわけであった。
大怪獣タイムは封印したまま終わったので、やはり赤星弥生子とマリア選手の間にはまだまだ大きな実力差があるのだろう。
しかし瓜子は、赤星弥生子が地道に鍛え抜いてきた寝技の技術で勝利したことがとても嬉しかったし――打ち上げの場では、赤星弥生子自身もとても嬉しそうな顔をしていた。それで瓜子はうっかり涙をこぼしてしまい、またユーリにすねられることになったわけであった。
あとは余談であるが、そちらの大会には灰原選手も飛び入りで出場していた。
十二月の頭に行われた壮行会および誕生会の場において、二階堂ルミが「全国大会でもノーダメージだったから、うちも《レッド・キング》に出たかったなー! でも、さすがに今からじゃ対戦相手が見つからないんですよねー!」とぼやいているのを聞きつけて、灰原選手が名乗りをあげたのである。あくまでキャッチウェイトのエキシビションマッチであったが、灰原選手は人生で初のキックルールに挑んだわけであった。
来年からプロ選手として活動していくことになった二階堂ルミと、キック初挑戦の灰原選手である。年齢は十歳近くも離れているし、キャリアの差もそれ相応であったが――これが、なかなかの激戦であった。まったく質の異なるアウトファイターで、そしておたがいにかなりの破壊力を有している両名は、試合終了のゴングが鳴るまで延々と熾烈な打撃戦を展開することになったのだった。
まあ、やはりこれは最後まで耐えた二階堂ルミを褒めるべきであるのだろう。灰原選手の重い攻撃を一発でもクリーンヒットされていたら、KO決着はまぬがれられないところであるのだ。いかにキックルールとはいえ、《アトミック・ガールズ》のトップファイターたる灰原選手と互角の勝負を演じたというのは賞賛に値するはずであった。
「キックも、けっこー面白いかもなー! アトミックで試合を組んでもらえないときは、またチャレンジしてみよっかなー!」
打ち上げの場で、灰原選手は楽しそうに笑いながらそんな風に言っていた。
赤星道場にまつわる話は、以上である。
あとは――《アトミック・ガールズ》一月大会における瓜子とユーリの処遇も、ひとまずは決定した。
もしも大晦日の試合で深刻なダメージを負わなければ、ユーリは小笠原選手と、瓜子は山垣選手と、それぞれタイトルマッチを行うことが内定されたのである。
世間に公表されるのは大晦日を過ぎてからのこととなるが、いちおう内々ではそのように決定された。駒形代表も悩みに悩んだ末、小笠原選手の提案を受け入れた様子であった。
『わたしも心して、それらの試合を見守らせていただきます』
電話にて、駒形代表はそのように語っていた。
やはり駒形代表も、これを瓜子とユーリの卒業試合と認識したのだろう。瓜子たちは《ビギニング》から三月大会と六月大会のオファーを受けているため、《アトミック・ガールズ》の三月大会と五月大会はエキシビションぐらいでしか参戦できないという見込みであったのだ。
しかし瓜子は感傷的な気分を排して、目の前の試合に取り組む所存であった。
そもそも瓜子とユーリが《ビギニング》で三連敗でもしてしまったら、その後の契約もへったくれもないのだ。瓜子たちがどのような道を進むかは、すべて試合の結果にかかっているのだった。
もちろん瓜子は、《アトミック・ガールズ》から離脱したいと考えているわけではない。むしろ、いつまでも《アトミック・ガールズ》に出場し続けたいと考えているぐらいである。
しかしそれは、格闘技一本で生きていく道をあきらめるというのと同義であった。《アトミック・ガールズ》や《フィスト》の試合だけで食べていくことは、現状では不可能であるのだ。少なくとも、女子選手でそれだけのファイトマネーをいただいている人間は、瓜子の周囲に存在しなかった。
もともと瓜子は、それでいいと考えていた。格闘技一本で食べていくことなど夢のまた夢という覚悟で、瓜子は稽古に邁進していたのである。
しかし瓜子は、世界の情勢を知ってしまった。
世界には、格闘技一本に打ち込んで大きな栄光と豊かな生活を獲得した女子選手も少なくはなかったのだ。一試合で百万ドル以上も稼ぐというアメリア選手などは例外としても、《アクセル・ファイト》と正式契約を結んだ選手ならば年収十万ドルが約束されているわけであった。
それでも瓜子は、金のために頑張っているわけではないという自負を持っている。
しかし――決して現状に満足しているわけではなかった。MMAはこんなに楽しいのに、どうして他のスポーツのように大きく取り扱われないのか。どうしてプロ選手でありながら、副業で生計を立てなければならないのか。そんな思いは、いつも腹の底にゆらゆらと漂っていたのである。
これまでは、そんな思いを振り切って頑張るしかなかった。また、稽古と試合に没頭するだけで、十分に幸せであったのだ。MMAに転向して、ユーリと確かな絆を結んでからは、いっそうそんな思いがつのっていた。
だが――瓜子は、世界を知ってしまった。
世界には強い選手があふれかえっており、それらを相手取ることができれば、格闘技一本で食べていくことも可能なのである。より強い相手を求めることで生計を立てられるというのなら、それがもっとも正しくて、なおかつ幸福な人生なのだろうと思えてならなかった。
そして、自分が力を尽くすことで、他の選手たちにも希望の道を残せるかもしれない。
また、格闘技一本で食べていくことがかなうのであれば、競技人口にだって大きく関わってくるはずだ。どのようなスポーツでも、スター選手が業界を盛り上げるという一点に変わりはないはずであった。
そんな道をあきらめたくないと、瓜子は思っている。
だから、《アクセル・ジャパン》や《ビギニング》からのオファーを承諾する決断を下したのだ。瓜子は楽しい《アトミック・ガールズ》を卒業してでも、より正しく満ち足りた人生を目指し、数多くの仲間たちにも同じ道を進んでもらいたいと願ったのだった。
あとはやっぱり、人間が持っている上昇志向というものも関わっているのだろう。
《アクセル・ジャパン》で対戦したグヴェンドリン選手は、強かった。選手の力量を比較するのは難しいが、瓜子が彼女よりも確実に強いと感じた対戦相手は――メイと赤星弥生子ぐらいしか思いつかなかった。そして、そんなグヴェンドリン選手でさえ、《アクセル・ファイト》との正式契約を目指す有望な若手選手に過ぎなかったのだった。
きっと世界のトップランカーというのは、化け物のように強いのだろう。
もしかしたら、メイや赤星弥生子を上回る猛者だってひそんでいるのかもしれない。
そんな風に考えると、瓜子は血がわきたってしまうのである。
自分の力は、どこまで通用するのか。国内では《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の二冠王になることができた瓜子が、世界ではどれぐらい通用するのか――瓜子の内には、そんな思いが静かに燃えさかっていたのだった。
そんな心持ちで参戦する、《ビギニング》の日本大会である。
相手は、グヴェンドリン選手よりも格上であるという、ミンユー・ワン選手だ。
それを倒すことができれば、三月大会ではさらなる強豪をぶつけられることだろう。それを目指して、瓜子は稽古に邁進しているのだった。
「いっぽうユーリさんは、エイミー選手と二度目の対戦ですもんね。それはそれで危険な面もあるでしょうから、どうかお気をつけてください」
「にゃっはっは。ユーリはいつも通り、死力を尽くすだけですわん」
ユーリのほうはどれだけ試合の期日が迫っても、のほほんとしているばかりであった。
まあ、それこそがユーリの強みであるのだろう。エイミー選手はユーリへのリベンジに燃えているという話であったので、まったくもって油断できない相手であったが――ユーリであれば、エイミー選手の想定を上回る強さを炸裂させてくれるはずであった。
そうして瓜子たちは、めいっぱいの力で十二月を駆け抜けて――ついに、試合の当日たる大晦日を迎えることに相成ったのだった。




