02 誕生会と壮行会(下)
その後もパーティーは、賑々しく進行されていった。
瓜子とユーリのもとには、さまざまな人々が代わるがわるやってきて、温かい言葉を投げかけてくれる。瓜子としては半分がた忘年会のつもりであったのだが、参席者のおおよそは《ビギニング》への出場を重く受け止めているようであった。
「そらあ一回こっきりの出場やったら、祝う甲斐もないけどな。半年間の長期契約やったら、専属契約を勝ち取ったようなもんやろ」
ちょっとひさびさの対面となる沙羅選手は、不敵に笑いながらそんな風に言っていた。
「ほんで《ビギニング》いうたらアジアで最大の団体やし、下手な北米のプロモーションよりよっぽど上等やろ。ファイトマネーかて、がっぽがっぽなんやろしな」
「ええまあ、守秘義務があるんで正確な数字は言えないんすけど……分不相応な額だとは思います」
「そらあ志が低いやろ。そんなん、国内のプロモーションがけちくさいだけや。《JUF》の全盛期は、億の金が動いてたいう噂やのにな」
そう言って、沙羅選手はしなやかなラインを描く肩をすくめた。
「ウチはすっかり本業のほうが充実してもうて、MMAのほうは指針が定まらんのや。白ブタはんと魅々香はんにはリベンジせなあかんけど、プランも何も真っ白やしな」
「いまや沙羅選手は、プロレスのほうの王者なんですもんね。そっちが順調なら何よりっすけど……やっぱり沙羅選手がアトミックに出場してくれないのは、さびしいっすよ」
「ははん。自分は《ビギニング》に乗り換えるくせに、なに言うとんねん」
沙羅選手はにやにや笑いながら、瓜子の頭を小突いてきた。
するとユーリもすぐさま逆側の頭を小突き、「にゅふふ」と笑う。そんなやりとりを眺めながら、犬飼京菜はひとりで仏頂面であった。
「あんたたちが尻尾を巻いて逃げ出すなら、アトミックの看板はあたしがいただくよ。プレスマンから全部のベルトが消えるのも、時間の問題だね」
「要約すると、アトミックはお嬢にまかせて世界に羽ばたけいうこっちゃね」
「だ、誰もそんなこと言ってないでしょ!」
犬飼京菜は顔を赤くして、沙羅選手の背中をばしばしと引っぱたく。この一年でますます交流が深まったようで、何よりの話であった。
その次にやってきたのは、鞠山選手と小柴選手のコンビである。鞠山選手は灰原選手に負けないぐらい華やかなパーティードレスのようなワンピース姿で、ずんぐりとした肩にはフェイクファーのショールを掛けており、ちんまりとした指には瀟洒なカクテルグラスを掲げて、ハリウッドスターさながらのゴージャスさであった。
「試合まで四週間ジャストだわけど、稽古のほうは順調なんだわよ?」
「あ、はい。今回も、対戦相手の試合映像が手に入らなかったんすけど……データはそれなりに収集できたんで、何とか対策を練ってるところです」
「ふん。うり坊の対戦する《ビギニング》の初代王者は、ずいぶんディフェンシブなスタイルらしいだわね。あんたの突貫ラッシュがどれだけ通用するか、楽しみなところだわよ」
そんな風に言ってから、鞠山選手は眠たげカエルを思わせる目をユーリのほうに向けた。
「いっぽうエイミー・アマドは、めきめき実力をのばしてるようだわね。『アクセル・ロード』と同じ調子で相手にしてたら、痛い目を見るだわよ?」
「はぁい。その頃から、エイミー選手はお強かったですからねぇ。でもでも今回はセコンドのみなさんとご一緒できるので、ユーリは心強い限りですぅ」
ユーリののんびりした笑顔に、鞠山選手はまた「ふん」と鼻を鳴らす。
いっぽう小柴選手は、ずっと子供のように頬を火照らせていた。
「でもお二人は、本当にすごいです! もし《ビギニング》と専属契約になっちゃったら、寂しい限りですけれど……でも、アトミックはわたしたちが盛り上げますから! どうか頑張ってください!」
「ありがとうございます。アトミックの代表として恥ずかしくない試合を見せられるように、頑張ります」
そうしてしばらくそちらの両名と語らっていると、ほど近い場所で天覇館の面々と輪を作っていた小笠原選手も近づいてきた。
「二人とも、お疲れさん。ちょっと桃園に話があるんだけど、いいかな?」
「はにゃ? もしや……お説教タイムでありましょうか?」
ユーリがしょげた大型犬のように身をすくませると、小笠原選手は笑いながら「違う違う」と手を振った。
「なんでアタシがアンタにお説教しないといけないのさ。そんなんじゃなくって、折り入ってお願いがあるんだよね」
「はあ……お願いでありましゅか?」
小笠原選手は「うん」とうなずきながら、鞠山選手と小柴選手の姿を見比べた。
鞠山選手は傲然と腕を組みながら、その場に足を踏まえる。
「わたいを邪魔者あつかいするんだわよ? ちょっと見ない間に、ずいぶんつれなくなったもんだわね」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……花さんは、桃園を威圧しそうだからなぁ」
「そりゃあこのピンク頭が道理をわきまえてなかったら、わたいはいくらでも威圧するだわよ」
「でもアタシは、桃園本人の意思で動いてほしいんだよね。悪いけど、口出ししないで見守ってもらえる?」
「それは、内容によるだわね」
小笠原選手は苦笑を浮かべつつ、ユーリに向きなおった。
「花さんの良識を信じて、話を始めさせていただくよ。……いやいや、お説教じゃないんだから、そんな固くならないでよ」
「はあ……ですが、大恩ある小笠原選手のご要望に応えられなかったら、ユーリも申し訳ない限りでありますし……」
ユーリのそんな返答に、小笠原選手はいくぶん表情をあらためた。
「アンタは昔に比べるとずいぶん人間がましくなったけど、アタシに対してはちょっと腰が引けてる部分があるよね。よかったら、その理由を聞かせてもらえる?」
「あうう……それはもちろん、小笠原選手にはどれだけお詫びしても追いつかない負い目がございますので……」
「負い目って?」
「ですから、その……せっかくの試合の場で、目の前の小笠原選手をないがしろにしてしまった一件が……」
と、ユーリは極限まで小さくなってしまう。
すると小笠原選手は、嬉しそうに口もとをほころばせた。
「やっぱり、そういうことだったんだね。そんなのもう三年も前の話なのに、義理堅いこった」
「あうう……それはユーリにとって、ぬぐいがたい人生の汚点ですので……まあ、ユーリの人生などはくまなく汚点まみれなのですけれども……」
そうしてユーリが縮こまれば縮こまるほど、瓜子にも罪悪感がのしかかってきてしまった。三年前の、無差別級王座決定トーナメントにおいて――ユーリは瓜子との関係が破綻してしまったため、小笠原選手との試合に集中することができなくなってしまったのだ。
格闘技に対して絶大なる偏愛を抱くユーリが試合を楽しめなかったのは、人生で三回しか存在しない。小笠原選手との試合と、秋代拓海との試合――そして、宇留間千花との試合である。
秋代拓海に対しては、ベリーニャ選手に対する悪辣な反則行為で心を乱されてしまった。
宇留間千花に対しては、この存在をMMAの世界にのさばらせてはいけないという危機感に見舞われた結果だ。
しかし、小笠原選手に対しては――一点の曇りもなく、自らのプライベートにおける出来事が原因である。それでユーリは、小笠原選手に対してこれほどの申し訳なさを抱え込むことになったわけであった。
「うん。それならさ、その汚点ってやつを綺麗に洗い流してもらえないかな?」
小笠原選手が穏やかな笑顔でそのように言いつのると、ユーリは「はにゃ?」と小首を傾げた。
「それは、つまり……もしかすると……」
「うんうん。もしかすると?」
「……小笠原選手の鉄拳制裁で、すべてを水に流してくださるのでしょうか?」
「違うよ、馬鹿」
小笠原選手は苦笑して、鞠山選手は地団駄を踏んだ。
「ああもう腹立たしいだわね! こんな低能には、鉄拳制裁が必要だわよ!」
「まあまあ、落ち着いて。……そうじゃなくって、アタシと試合をしてほしいんだよ」
「小笠原選手と、試合?」
ユーリはきょとんと、目を見開く。
小笠原選手は穏やかな笑顔の中に、ほのかに力感をよぎらせた。
「そう。次の一月大会で、アンタをタイトルマッチのチャレンジャーに指名させてもらいたいんだよ。何とか、受けてもらえないかな?」
ユーリはきょとんとしたまま、何も返事をできずにいる。
その代わりに、瓜子が慌てることになった。
「ちょ、ちょっと待ってください。試合だけならまだしも、タイトルマッチっていうのは……《ビギニング》との今後の契約については、小笠原選手にもご説明しましたよね?」
「うん。来年の六月からは、専属契約の可能性が濃厚だって話なんでしょ? それなら、これが最後のチャンスかと思ってさ」
「で、でも……そんな状態でタイトルマッチっていうのは……」
瓜子がそのように言いかけると、鞠山選手がぽんと頭を小突いてきた。
「トキちゃんが、なんの考えもなしにそんな話を持ちだすわけがないんだわよ。あんたもわたわたしてないで、黙って話を聞くだわよ」
「ありがとね、花さん。……アタシが考えてるのは、ひとつだけだよ。チャンピオンってのは、一番強い人間がなるべきだと思うのさ」
小笠原選手はユーリの顔を見つめながら、そのように言いつのった。
「このままいったら、アンタはアトミックのタイトル戦線に関わらないまま世界に羽ばたくことになる。もちろんアンタはアトミックの初代バンタム級王者だけど、その頃はアタシのほうが欠場中だったからね。アンタが世界に羽ばたく前に、アタシとの決着をつけていってほしいんだよ。じゃないと……アタシだって、胸を張って王者を名乗る気になれないからさ」
「いえいえ! 小笠原選手は、それはお見事なチャンピオン様でありますので……」
「アンタは本心でそう言ってくれてるんだろうけど、アタシ自身が納得いってないのさ。もちろんアタシもアンタを追いかけて世界を目指すつもりだけど、その前にアトミックで決着をつけたいんだ。アタシにとって、アトミックってのはそれぐらい大切な場所だし……アンタにとっても、それは変わらないだろうからさ」
そう言って、小笠原選手はにこりと笑った。
「もちろん《ビギニング》との契約期間中にタイトルマッチを行うなんてのは、ちょっとばっかり非常識なんだろうけどさ。でも、これが最後のチャンスでしょ? 三月はおたがいの大会がもろかぶりだし、五月はそっちの六月大会に備えて試合を控えるべきだろうからさ。大晦日の試合ででかいダメージを負わなければ、一月にアタシとやりあっても《ビギニング》の三月大会には影響も出ないと思うんだよね」
「で、でも、もしもそれで桃園さんが王者になっちゃったら……一度も防衛戦を行わないままタイトル返上ってことにもなりかねないですよね?」
小柴選手がこらえかねたように口をはさむと、小笠原選手は悪戯小僧のような表情で肩をすくめた。
「おやおや、アタシの勝利を信じてくれないのかい? 薄情な後輩を持ったもんだよ」
「け、決してそういうわけではないのですけれど!」
「冗談だよ。いまや誰だって、桃園のほうが優勢だと思うだろうからね。……だからこそ、決着をつけてほしいのさ」
あくまで穏やかな表情で、ただ眼差しには強い光をたたえながら、小笠原選手はそう言った。
「桃園ぬきで決めた今のベルトは、どうしたって軽いんだよ。だからアタシは、そのベルトに本来の重みを取り戻したいと思ってる。バンタム級の初代王者と二代目王者による、本物のタイトルマッチさ。……どうか、受けてもらえないもんかな?」
すると――ずっとおどおどしていたユーリが、「はい」とうなずいた。
その白い面には、透き通った微笑がたたえられている。その透明な眼差しは、真正面から小笠原選手の笑顔を見つめていた。
「わかりました。小笠原選手が、そうまで言ってくださるのでしたら……小笠原選手の王座に挑戦させていただきます」
小笠原選手は「ありがとう」と子供のように微笑んだ。
すると、鞠山選手は「ふん!」と盛大に鼻を鳴らす。
「わたいの調教は必要なかったみたいだわね。なんなら、わたいも便乗したいところだわけど……残念ながら、今のわたいじゃバリューが足りないだわね」
「そう? 猪狩とのタイトルマッチは去年の九月あたりでしょ? リベンジをするには、頃合いじゃない?」
「ふん。わたいはうり坊に連敗してるから、三戦目を行うには時期尚早なんだわよ。それよりも、うり坊は……詩織と決着をつけるべきだわね」
「詩織? ……ああ、山垣さんか」
「そうだわよ。香奈枝が階級を上げた今、うり坊が唯一対戦してないトップファイターが詩織なんだわよ。うり坊が世界に羽ばたくつもりなら、アトミックのトップファイターを総なめにするべきだわね」
そんな言葉を聞かされると、瓜子は胸が詰まってしまった。
「鞠山選手の仰ることは、もっともなんでしょうけど……本当にアトミックを卒業させられるみたいで、切なくなっちゃいますよ」
「何を感傷的になってるんだわよ。あんたたちはアトミックの力を世界に示すための、言わば人柱なんだわよ」
鞠山選手はにんまりと微笑みながら、丸っこい拳で瓜子の肩を小突いてきた。
「舞ちゃんもアケミちゃんも雅ちゃんも……それ以外にも何人もの選手が、世界に届かず散っていったんだわよ。残されたわたいたちはめいっぱい花を咲かせてから、華々しく散るんだわよ。あんたたちが、その先頭に立ってるんだわよ」
「うん。アタシたちだって全力で追いかけるから、何も寂しい思いはさせないさ」
瓜子は涙をこらえながら、「押忍」と答えてみせた。
そこに、流麗なるピアノの音色が響きわたる。たちまちあげられた歓声にびっくりして振り返ると、二階のスペースの片隅に設置されていたピアノに漆原の姿があった。
「わー、もうそんな時間かー! ピンク頭、あんたも出番だよ!」
飲みかけのグラスを掲げた灰原選手が、笑顔でこちらに駆け寄ってくる。
その背後では、さらに驚くべき光景が繰り広げられていた。『トライ・アングル』の他なるメンバーたちが、壁際に置かれていたパーティションの裏からギターケースやミニアンプなどを引っ張り出していたのだ。
「は、灰原選手。まさか、ここで『トライ・アングル』のみなさんに演奏させるおつもりっすか?」
「うん! もともとこのお店は、ピアノの演奏がオッケーだったからねー! 早い時間ならバンドの演奏もオッケーだって言ってもらえたんだー!」
灰原選手は満面の笑みで、瓜子の肩を抱いてきた。
「ま、一階のお客もタダで『トライ・アングル』の演奏を聴けるんだから、文句なんて言わないっしょ! これがあたしたちからの、プレゼント第一弾だから! 心して聴いてよねー!」
瓜子の現在の精神状態で『トライ・アングル』の演奏を耳にしたならば、落涙は必死である。
しかしもちろん、瓜子がこんなサプライズに文句をつけるいわれはどこにも存在しなかった。
「わあい。ここでお歌を歌えるなんて、ユーリにとってもとびきりのプレゼントなのですぅ」
そんな風に言ってから、ユーリはふにゃんと瓜子に笑いかけてきた。
「でもでもうり坊ちゃんは、本日二重の主役でありますからねぇ。そんなうり坊ちゃんのために、心を込めて歌わせていただくのですぅ」
「やめてくださいよ。お歌を聴く前から泣いちゃいそうじゃないっすか」
ユーリは「にゃはは」と無邪気な笑い声を残して、メンバーたちのもとに駆け寄っていった。
かくしてその場には、『トライ・アングル』の歌と演奏が音も高らかに響きわたり――瓜子はこれまでで最高に幸福な心地で、誕生日の一夜を過ごすことに相成ったのだった。




