02 前半戦
女子選手の一行は十五分ていどで退室し、残りの小一時間ばかりはメンバーと関係者のみで過ごすことになった。
そうして開演の時間が迫ってきたならば、いよいよ舞台袖に移動である。この時間、もっとも緊張しているのは大した仕事も持っていない瓜子に他ならなかった。
ただ瓜子は、ユーリの専属スタッフである。そしてユーリは体調を崩す可能性がゼロではなかったため、決して気を抜くことはできなかった。
もはや出番はなかろうと判じられている非常食のセットも、バッグの中にしっかり封入されている。ユーリはすでに四ヶ月ばかりも飢餓感に見舞われていないので、いい加減に取りやめてもよさそうなものであったが――これはもはや、瓜子自身が安心を得るためのお守りのようなものであった。
薄暗い舞台袖に到着したならば、ユーリはにこにこと笑いながら屈伸を始める。その豊満なる肢体からは、試合前と変わらない喜びと生命力があふれかえっていた。
やはり本日も、ユーリは元気いっぱいだ。試合直後に意識を失ってしまうことを除けば、ユーリの存在にいっさい陰りは見られなかった。
「じゃ、『トライ・アングル』としては仕事おさめだなぁ。最後の最後でヘマこかねえように、気合を入れていこうぜぇ」
漆原が気の抜けた声をあげると、『ベイビー・アピール』の三名はさらに脱力した声で「おー」と応じ、屈伸のさなかであったユーリはぴょこんと身を起こしつつ「はーい!」と応じる。
千駄ヶ谷は冷徹なる視線で、円城リマはのんびりとした面持ちで、そんなメンバーたちの姿を見守っている。円城リマは客席に下りずに、スタッフたちと同じ場所からステージを拝見したいと希望していた。
そしてさらに、円城リマは小脇に大きなスケッチブックを抱えている。『トライ・アングル』のステージを目にしたらどれほどの創作意欲に見舞われるかもわからないため、わざわざ持参したのだそうだ。それでは、客席に下りられるわけもなかった。
(本当にリマさんは、根っから芸術家なんだろうな)
瓜子がそんな思いを噛みしめたとき、スタッフのひとりがメンバーたちに向きなおった。
「それではSEを流しますので、各自入場をお願いします」
律儀な西岡桔平だけが「はい」と応じて、客席からは歓声があげられた。客席の照明が落とされて、ゆったりとしたピアノ曲のSEが流され始めたのだ。
これは関係者のみが知る事実であるが、こちらのピアノ曲は漆原の手によるものであった。今回から新たな演出として、こちらのSEが使用されることになったのだ。
その流麗なる演奏をしばし拝聴してから、おもむろに演奏陣がステージに乗り込んでいく。
客席からはさらなる歓声が巻き起こり、ユーリはあどけない笑顔で瓜子に向きなおってきた。
瓜子は無言のまま笑みを浮かべて、右の拳を差し出してみせる。
ユーリは幸せそうに目を細めながら、白い拳をぐりぐりと瓜子の拳に押しつけてきた。
やがて、ピアノの演奏が厚みを増す。
漆原が、録音された演奏にピアノの生演奏をかぶせたのだ。それに気づいた観客たちが、さらなる歓声を振り絞った。
さらに、陣内征生が弓の奏法で優美なチェロのごとき低音を、ダイが荒々しさを抑制したパーカッションの音色をかぶせる。
それに続くのは、山寺博人のセミアコギターと、空間系のエフェクターを踏んだリュウのエレキギターのサウンドだ。ドラムセットに陣取った西岡桔平もライドシンバルでひそやかにリズムを刻み、タツヤはトーンを絞ったベースの低音を鳴らし――その頃には、録音のピアノ演奏がフェードアウトしていた。
メンバー七名の演奏が、じわじわと音圧をあげていく。
それがひとつの頂点を迎えたとき、西岡桔平のフィルの合図で、いきなり爆音が鳴らされた。
リュウは歪んだギターサウンドで勇猛なるリフをかき鳴らし、山寺博人はセミアコギターのバッキングを重ねる。その間に演奏の音色をフェードアウトさせた他のメンバーは、二度目の合図で『Re:Boot』のイントロを開始した。
これまで以上の大歓声が、床や壁を震わせている。
そんな中、ユーリは最後に瓜子に笑いかけてから、ステージの中央に躍り出ていった。
一ヶ月ぶりの、『トライ・アングル』のステージである。
ただし先月は大阪公演であったため、東京公演は二ヶ月ぶりだ。夏の野外フェスまで加えれば、これが本年五度目のステージであったが――客席の人々は、この瞬間を待ち焦がれていたように歓声を張り上げていた。
それらの熱気を舞台袖から感じ取っただけで、瓜子は胸が詰まってしまう。
さらにユーリが力強い歌声をほとばしらせたならば、呆気なく涙がにじんでしまった。
これはもう、『トライ・アングル』の底力と言うしかないだろう。ユーリたち八名がその身の力を振り絞るだけで、瓜子は情動を揺さぶられてしまうのだった。
『Re:Boot』は決して涙腺を刺激するような歌詞ではないし、アップテンポの激しい曲調だ。しかしこれは山寺博人が復調したユーリの姿にインスピレーションを受けて作りあげた楽曲であったため、瓜子としてはどうしても当時の思いを想起させられてやまなかった。
ユーリはその身にあふれかえる生命力を、のきなみ歌に注ぎ込んでいる。
まるで試合中に見せる無軌道なコンビネーションの嵐のように、ユーリの姿は美しく、力強かった。なおかつユーリは試合ばかりでなく、ライブのほうも回数を重ねるごとに力感を増していたのだった。
『今日はご来場ありがとうございまぁす。最後まで楽しんでいってくださいねぇ』
『Re:Boot』の終了とともにユーリが呑気な声をあげると、また怒号のような歓声がそれに応えた。
そしてそれを弾き返すかのように、陣内征生がアップライトベースを乱打する。『ワンド・ペイジ』のカバー曲にして寺山博人とのデュエット曲である、『カルデラ』だ。一曲目が『Re:Boot』ならば、それに続くのはこの曲がもっとも相応しかった。
こちらもアップテンポの楽曲であるが、シャッフルのリズムであるためにまったく異なる疾走感が生まれている。そして漆原がピアノの演奏を重ねると、以前よりもいっそう華やかな印象になっていた。
漆原は歌もギターもデジタルで無機的な雰囲気であるが、ピアノの演奏だけは人間らしい生々しさに満ちている。それが『トライ・アングル』に、また新たな力を吹き込んだのである。瓜子は彼のギタープレイも決して嫌ってはいなかったが、ピアノのプレイのほうが圧倒的に好ましく思っていた。
さらにライブは、『ジェリーフィッシュ』、『砂の雨』、『ピース』と、山寺博人の手掛けた楽曲で進行されていく。今回はひさびさに、山寺博人の楽曲と漆原の楽曲を前半と後半に分けてお披露目することになったのだ。そうするとドラマーの交代も必要なくなるため、いっそうの統一感というものが生まれるのだった。
そしてその間、漆原はずっとピアノを弾き続けている。漆原はすべての楽曲でピアノのアレンジを考案し、納得のいったものだけステージで披露することになったのだ。もともと涙腺を刺激される『砂の雨』や『ピース』でまで漆原のピアノを重ねられると、瓜子はこれまで以上に涙をこぼすことになってしまった。
そしてそれは、ユーリのほうも同様である。ユーリの歌がそれだけ情感を増すからこそ、瓜子も涙を誘発されてしまうのだ。かえすがえすも、ユーリがリップ以外のメイクを取りやめたのは幸いな話であった。
そうして『ピース』を歌いきったユーリは深々と頭を下げて、舞台袖に戻ってくる。ずいぶん持ち曲の増えた『トライ・アングル』であるが、ユーリのソロ時代の曲をアレンジ違いで二度ずつお披露目するという方式を取りやめたため、けっきょくユーリには小休止の時間が与えられることになったのだ。ここからは、西岡桔平がドラムを継続したまま、『ワンド・ペイジ』が主体となった演奏による『ベイビー・アピール』の楽曲のカバーであった。
ユーリは涙ばかりでなく汗だくでもあったため、瓜子はスポーツタオルを手渡す。ユーリは幸せそうに涙をこぼしながら、純白の頭をタオルでわしゃわしゃとかき回した。
「それでは、着替えをお願いいたします」
千駄ヶ谷は変わらぬ冷徹さで、ユーリを楽屋にエスコートする。ユーリは全員おそろいのステージ衣装をこよなく愛していたが、ワンマンライブでは毎回お色直しを強いられているのだ。
楽屋に準備されていたのは、オーバーサイズのトップスとローライズのショートパンツ、そしてデッキシューズである。トップスはボディラインを隠すデザインであるが、丈が短いために腹部が剥き出しになる。ショートパンツはトップスの下でサスペンダーを着用し、本体のほうはボタンやファスナーもしめずにビキニのボトムを垣間見せている。全身凶器のユーリであるが、こちらは腰から下の色香を強調しまくった組み合わせであった。
「ふうん。ずいぶんスポーティーな格好だね」
こちらに追従していた円城リマが、笑いを含んだ声でそう言った。
「モッズスーツで固めたメンバーの中にそんな格好で飛び込んだら、普通は浮いちゃいそうだけど……ユーリさんなら、その心配もいらないんだろうね」
「はい。一対七という構図になってしまうことは否めませんが、どちらが見劣りすることもないかと思われます」
千駄ヶ谷の冷徹なる返答に、円城リマは「そうだね」とうなずいた。
「これでまた、今までとは違う魅力が爆発するんだろうね。スケッチブックの予備が必要だったかなぁ」
瓜子はステージに目と心を奪われていたので確認できていなかったが、円城リマはそんぶんに創作意欲を刺激されたようである。それが今後のアートデザインにどう関わってくるかは、瓜子の知るところではなかった。
「それでは、舞台袖に戻りましょう」
千駄ヶ谷の号令で、一行は早々に舞台袖へと舞い戻った。
ステージでは、山寺博人が『ベイビー・アピール』の楽曲を熱唱している。これぞ、ワンマンライブでしか味わえないお楽しみだ。もとより『ワンド・ペイジ』のフリークであった瓜子は、ユーリのステージと同じぐらい心拍数を上げることになってしまった。
(昔だったら、場つなぎでヒロさんに歌ってもらうなんて恐れ多いとか感じるところなんだろうけど……)
しかし今は、まったく異なる思いを抱えている。ユーリの代わりに歌を披露して観客たちを満足させることができるなんて、山寺博人はやっぱり凄い――というような心情であるのだ。
山寺博人は歌が本職であるのだから、そんな思いは不遜に過ぎるのだろう。しかしそれだけ、ユーリは規格外の魅力を爆発させているのだ。山寺博人や漆原ぐらいの魅力がなければ、ユーリの穴を埋めることは不可能なのだろうと思えてならなかった。
そうしてカバー曲の二曲目が終わりに近づいたならば、ついにダイが自分のドラムセットに移動する。ワンマンライブでは二台のドラムセットを準備しているため、そちらの移行もきわめてスムーズであった。
楽曲が終了すると、ダイがすかさずフィルを回して、西岡桔平が立ち上がる。そして、西岡桔平と漆原を除くメンバーで場つなぎのセッションが開始された。この隙に、西岡桔平はパーカッションのセットに移動して、漆原はエレキギターの準備をするのだ。山寺博人は、すっかりセミアコギターの演奏が主体になっていた。
そうして二人の準備が整ったならば、瓜子とハイタッチを交わしたユーリがステージに戻っていく。
大歓声の中、リュウがタッピングで『ピーチ☆ストーム』のイントロを披露した。
観客たちは、さらなる歓声を振り絞る。もはやユーリのソロ時代の楽曲は、ワンマンライブでしか耳にすることができないのだ。余所の人間が作りあげたそれらの楽曲は、いまや新鮮に聴こえるほどであった。
(本当に……信じられないぐらい、遠くまで来たもんだよなぁ)
そもそもソロのアイドルシンガーであったユーリは、コラボ企画として『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』と同じステージに立つことになったのだ。初ステージの『NEXT・ROCK FESTIVAL』では、『ベイビー・アピール』のステージで二曲、『ワンド・ペイジ』のステージでは一曲だけゲスト出演したに過ぎなかった。
その後、これを一度きりの企画で終わらせるのは惜しいと判じた人々の思惑で、ユーリはサードシングルの演奏を『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』にお願いすることに相成った。しかしその頃はまだ両バンドも融合しておらず、『ハッピー☆ウェーブ』を『ベイビー・アピール』に、『ホシノシタデ』を『ワンド・ペイジ』にお願いしていた。その後に行われた『Yu-Ri Try!』というイベントにおいても、両バンドはそれぞれ前半と後半に分かれてユーリのバックバンドをつとめあげており――その日のアンコールで、初めて八名全員の共演が実現したのだった。
それで確かな手応えをつかんだ各関係者は、ついに『トライ・アングル』の結成に踏み切った。
何より意欲的であったのは、メンバーたち本人だ。これは事務所の思惑ではなく、『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』の面々がユーリの歌に魅了された結果であったのだった。
それから間もなく、二年の歳月が過ぎようとしている。
『トライ・アングル』がその正体を隠したままデビューライブに臨んだのは、二年前の十二月――《カノン A.G》の騒動が終結してすぐの頃であったのだ。あと一週間ばかりも過ぎたならば、丸二年に到達するはずであった。
あの頃から、ユーリは驚異的なポテンシャルを発揮していた。
しかし今は、それ以上の力強さで数々の歌を歌いあげている。ただウェイトとともに声量が増しただけではなく、表現力や情感というものも明らかに増幅されているのだ。
これが副業であるなどとは、なかなか信じられないほどである。
少なくとも、今の瓜子にとってユーリに匹敵するぐらい魅力的な歌い手というのは――山寺博人ただひとりしか存在しなかったのだった。
(普通だったら……危険な格闘技は引退して、音楽活動に専念してほしいって思うところなのかな)
ユーリの歌声とステージングに心を奪われながら、瓜子は頭の片隅でそんな風に考えた。
昨年まではまだしも、現在のユーリは謎の不調を抱えている恐れがあるのだ。これまでは試合直後にごく短い時間、意識を失っているに過ぎなかったが、もしも本当に呼吸や脈まで止まっているならば――と、そのように考えるだけで、瓜子は痛いぐらいに心臓が騒いでしまうのだった。
しかし、ユーリがライブのステージでこれほど楽しそうな姿を見せることができているのは、本業の格闘技でも充実しているからに他ならない。もしもユーリが不本意な形で格闘技を引退することになってしまったら、こんなに幸せそうに笑えるわけがないのだ。
だから瓜子は、黙って見守っている。そして、ユーリがそのような不幸に見舞われないようにと、毎日心から祈っている。せめて、ベリーニャ選手との再戦がかなうまでは――と、瓜子はそんな思いで日々を過ごしているのだった。




