ACT.2 A Live Concert 01 出番前
《アトミック・ガールズ》十一月大会の一週間後――十一月の最終日曜日である。
その日は、『トライ・アングル』のワンマンライブの当日であった。
『トライ・アングル』にとっては、三ヶ月連続のシングルリリース&ワンマンライブという一大プロジェクトの、締めくくりとなる公演である。この三日前にはついに三枚目のシングルもリリースされて、動画サイトで公開されたミュージックビデオともども大好評であった。
「いやー、この三ヶ月はあれこれ立て込んでたけど、終わってみればあっという間だったな!」
「まだ終わっちゃいねーだろ! 今日のライブが、メインイベントなんだからよ!」
リハーサルを終えたのちに控え室に寄り集まると、さっそくタツヤとダイが賑やかな会話を繰り広げた。
本日の会場は、お台場の『ツェペリ東京』なるコンサートホールである。『トライ・アングル』にとってはデビューライブでも使用させていただいた、思い出の地だ。しかし、八名のメンバーたちはそんな感傷にひたることもなく、和気あいあいとした空気を織り成していた。
ただ一名だけ、仏頂面でそっぽを向いている人間がいる。
それはもちろんメンバー内でもっとも気難しい人柄である山寺博人に他ならなかったが、本日はその仏頂面に磨きがかけられていた。ソファにだらしなく座り込んだその骨張った身体からは、どす黒い負のオーラがたちのぼっているかのようである。
「なんかヒロくんは、ずいぶん不機嫌そうだねぇ。何か面白くないことでもあったのかなぁ」
と、山寺博人の不機嫌の元凶たる人物が、ふわふわと微笑みながらそんな言葉を口にした。彼の秘密の伴侶である、円城リマである。今回のプロジェクトでさまざまなアートデザインに関わった彼女が、本日は関係者枠で入場して楽屋にやってきたのだった。
「こいつが不機嫌なのはいつものことだから、リマさんが気にすることはねえよ!」
「そうそう! そうやって女の気を引こうとするのがこいつの手口だから、リマさんも気をつけてな!」
事情を知らないダイたちがそのようにはやしたてると、山寺博人はいっそう負のオーラを撒き散らし、円城リマは楽しそうに目を細めた。
「そうなのぉ? ヒロくんってストイックなイメージだったのに、何だか幻滅しちゃうなぁ。もしかして、瓜子さんもそうやってヒロくんの毒牙にかけられたとかぁ?」
「ど、毒牙になんてかけられてないっすよ。ダイさんたちも、そういう冗談は控えたほうがいいと思います」
「冗談じゃねーし! 実際、瓜子ちゃんはさんざんちょっかいをかけられてただろ!」
「本当だぜ! 瓜子ちゃんも、こいつにばっかり甘い顔するなよな!」
「……ほんとにもう、勘弁してください」
瓜子は深々と息をつき、円城リマはくすくすと咽喉で笑う。そして、断片的に事情をわきまえているユーリは、ご主人を案ずるゴールデンリトリバーのように心配そうな顔をしていた。
「それではそろそろ、着替えを開始いたしましょう」
おそらくは山寺博人に対する配慮として、千駄ヶ谷がそのように宣言した。
瓜子はほっと息をつきつつ、ユーリとともに腰を上げる。すると、円城リマも一緒に通路まで出てきたので、千駄ヶ谷が低く掣肘の声をあげた。
「円城さん。不必要に山寺氏を挑発するのは、お控えくださるようお願いいたします」
「ええ? 挑発なんて、してないけどなぁ。ヒロくんとは古いつきあいなんだから、よそよそしくするほうが不自然でしょう?」
彼女は昔日から『ワンド・ペイジ』のアートデザインを手掛けており、それで山寺博人と結ばれるに至ったのである。それ以降にも何度かグッズ製作に関わっていたため、公的にも『ワンド・ペイジ』のメンバーとは旧知の間柄であるのだった。
しかし、山寺博人と円城リマの婚姻関係を知っているのは、西岡桔平と陣内征生、瓜子とユーリ、そして千駄ヶ谷の五名のみである。あとはもちろん『ワンド・ペイジ』のマネージャーなども事情はわきまえていようが、円城リマの奔放な振る舞いに歯止めをかけるのは誰にとっても難しかったのだった。
「過度によそよそしくする必要はありませんが、会話の内容には留意する必要がありましょう。貴女の存在が山寺氏のストレスとなって演奏に支障が出てしまうようでは、当方としても看過できないのです」
「ああ、それは心配いらないかなぁ。たぶんみなさんも知ってると思うけど、ヒロくんは逆境のほうがパワーを発揮できるタイプだからさぁ」
円城リマは、千駄ヶ谷の絶対零度の迫力に恐れ入らない数少ない人間である。その目には、子供のように無邪気な光が灯されていた。
「まあ、それは他のメンバーさんたちも同じことだよねぇ。それがきっと、『トライ・アングル』の強みなんだろうなぁ。それでいて、絶好調でも凄いステージを見せることができるんだから、本当に大したもんだよぉ」
さしもの千駄ヶ谷もそれ以上は反論することができないまま、ユーリ専用の楽屋に到着してしまった。そちらにはメイク係と衣装係が控えているため、込み入った会話もできないのだ。
「お待たせいたしました。少々早いですが、着替えとヘアメイクをお願いいたします」
「はい! それでは、こちらにどうぞ!」
本年の活動では初めて出番が巡ってきたため、メイク係と衣装係も気合の入った顔をしていた。
そうしてユーリがパーティションの裏に身を隠し、まずは黒単色のビキニに着替えると、両名の口から感嘆の吐息がこぼされる。
「ユーリさんは……本当に見違えましたよね。もともとセクシーの権化だったのに、まるで別人みたいです」
「本当です。あれでまだ上限じゃなかったのかって、怖くなっちゃうぐらいですよ」
二人が陶然としてしまうのもしかたないぐらい、ユーリの肢体は眩いばかりの輝きを放っていた。どこまでも完璧なシルエットに、雪のごとき白い肌で、現実世界の存在とは思えないほどの優美さと色香が完成されているのだ。そんなユーリの肢体を検分した円城リマも、満足そうに目を細めていた。
「ユーリさんはただ立ってるだけで、創作意欲を刺激してくれるなぁ。これで瓜子さんも一緒に脱いでくれたら、完璧なんだけど」
「いえ。今日はあくまで、会場スタッフですので」
瓜子が断固として固辞すると、円城リマは楽しそうに「うふふ」と笑った。
そうしてユーリの白い裸身は、白いモッズスーツと黒いドレスシャツに隠されていく。しかしそれらの衣装もユーリのプロポーションを際立たせるためのオーダー品であるため、また別種の美しさと色香が生まれるだけのことであった。
「……でもやっぱり、メイクの出番はないですよねぇ」
と、メイク係のほうが切なげに溜息をつく。ユーリは『ジャパンロックフェスティバル』以降、ほとんどノーメイクでライブに臨むようになったのだ。ナチュラルメイクさえ必要ないぐらい、ユーリの美貌は完成されていたのだった。
それでもメイク係の女性は気を取り直した様子で、ヘアメイクに取り掛かる。自然なウェーブだけで十分に美しいユーリの純白の髪にブラシを入れて、さらなる高みを目指すのだ。そして肝心のメイクのほうは、やっぱり前髪のひとふさに合わせたピンクのリップのみに留められた。
大きな姿見と向かい合ったユーリは、満足そうに「にゅふふ」と笑う。首から上は関係なく、メンバーとおそろいのステージ衣装にご満悦であるのだろう。もうこれまでのステージやミュージックビデオの撮影で何度となく袖を通しているのに、ユーリはいまだ喜びの思いが減じていないのだった。
そうして演奏陣の楽屋に舞い戻ると、そちらも着替えを完了させている。無事におそろいの姿となったユーリは、「わあい」とはしゃいだ声をあげた。
「いよいよ楽しいステージが目前に迫っているのだという実感がわいてまいりましたぁ。みなさん、今日もよろしくお願いいたしますぅ」
「こちらこそな。ちょいと早いけど、今年の活動の締めくくりだ」
リュウの何気ない言葉に、ユーリはたちまち「うにゃあ」とセットしたての頭を抱えてしまう。
「ユーリのせいで、大晦日のイベントには出られなくなってしまったのですよねぇ。その節は、本当にご迷惑をおかけしまして……」
「なに言ってんだよ。ユーリちゃんの本業は格闘技なんだから、そっちを優先するのは当たり前だろ」
「そうそう! しかも、瓜子ちゃんと一緒に《ビギニング》だもんな! そんなオファー、断れるわけねえじゃん!」
「ほんとほんと。会場だって、アリーナだしよ。《アクセル・ジャパン》に負けないぐらいのビッグイベントだろ。俺たちも、またテレビでじっくり観戦させていただくよ」
ユーリが《アクセル・ファイト》から三行半をつきつけられた一件は、懇意にしている女子選手の面々にしか打ち明けていない。しかし、《ビギニング》のほうがいい条件でオファーをくれたのだと説明すると、格闘技業界に精通しているリュウやタツヤなどもあっさり納得してくれたのだった。
「桃園さんの健康状態に不安があるなんて話は、マスコミに嗅ぎつけられると厄介だからな。外の連中には、高額のファイトマネーにつられたとでも思わせておくほうが無難だろう」
立松はそのように語っていたし、瓜子にも異存はなかった。世間には、まだまだユーリの足を引っ張ってやろうと暗い情念を燃やしている人間が存在するようなのである。そんな連中を喜ばせるような話を吹聴する必要は、どこにも存在しないはずであった。
「ユーリちゃんの試合が地上波で放映されるのは、これが初めてなんだもんな。こりゃあ去年の瓜子ちゃんと同じぐらいの大騒ぎになるだろうぜ」
「本当にな! ていうか、今まで放映されなかったのが不思議なぐらいだろ! テレビ局の連中も、見る目がねえよな!」
「テレビ局ってより、イベントの運営陣だろ。でもユーリちゃんだって、昔からオファーはかけられてたんだよな?」
「はいぃ。古い話ですけれど、ベル様やメイちゃまが出場した年の《JUFリターンズ》で、オファーをいただいていたのですよねぇ」
そんな風に答えながら、ユーリは懐かしそうに目を細めた。
「でもユーリはアトミックの試合でお手々を怪我してしまったので、お断りするしかなかったのですぅ。完全無欠に自業自得でありますねぇ」
「ああ、小笠原さんとの、例の一戦かぁ。あれで俺は、ユーリちゃんに興味を持てなくなっちまったんだよなぁ」
「むにゃー! その節は、本当にご不快なものをお見せしてしまいまして……」
「はは! 俺に謝る必要はねえだろ! それ以降のユーリちゃんは、すげえ快進撃だしよ!」
メンバーたちの温かい言葉に包まれて、ユーリはへどもどしつつも幸福そうだった。
そんなユーリを見ているだけで、瓜子も幸福な心地であったのだが――そうすると、円城リマが笑いを含んだ囁き声を瓜子の耳に忍ばせてきた。
「瓜子ちゃんは、本当にユーリさんひと筋なんだねぇ。これはヒロくんが割り込む隙もないわけだぁ」
「あ、あのですね。リマさんは、根本的な部分で誤解があるみたいですけど――」
「何も誤解はしてないつもりだよぉ。ユーリさんがいなかったら、やっぱりわたしたちは離婚するしかなかったんじゃないかなぁ」
円城リマはあどけない微笑みをたたえたまま、瓜子の心をぞんぶんにかき乱してくれた。
そこに、新たな一団が到着する。円城リマと同じように、招待枠で入場した女子選手の一行である。愛音、メイ、灰原選手、多賀崎選手、鞠山選手、小柴選手、高橋選手、武中選手――それに今回は安全な二階席が存在する会場であるため、サキと理央も招待している。オリビア選手はシドニーに帰省中であるので不参加となってしまったが、それでも十分に賑やかな顔ぶれであった。
「みんな、おつかれー! 今日もタダで入れてもらっちゃって、ホントにありがとねー!」
「おー、来た来た! そっちも、お疲れさん!」
先々月のライブではステージの後に合流していたが、今回は事前に挨拶をしたいという申し出を受けていたのだ。メンバーの大多数は、それを笑顔で受け入れてくれた。
「でも本当に、毎回お世話になってしまって心苦しい限りなのです。愛音としては自力でチケットを購入して、こちらの熱意をお伝えしたかったところなのですが……今回も、それはかなわなかったのです」
「いいっていいって! そもそも愛音ちゃんは、関係者そのものなんだからさ!」
「そうそう! チケットが取れないぐらい人気者になっちまった、俺たちの責任さ!」
ダイのおどけた物言いに、あちこちから笑い声があげられる。
今回は三千名を収容できる会場であったのに、けっきょく女子選手の一行は誰ひとりとしてチケットを購入することができなかったのだ。それだけ『トライ・アングル』の人気も急上昇中であるということであった。
「皆々様のご温情に、心から感謝してるだわよ。これはその感謝の気持ちなんだわよ」
鞠山選手と小柴選手と武中選手の三名が、それぞれ手にさげていた紙袋を差し出してくる。そのひとつの銘柄に見覚えがあった瓜子は、まだ仏頂面をさらしている山寺博人のほうに向きなおった。
「ほらほら、ヒロさん。巣鴨庵の塩大福ですよ。甘いものを食べて、ご機嫌をなおしてください」
「えー? ヒロくんはご機嫌ななめなのー? ま、ヒロくんがご機嫌な姿なんて、見た覚えもないけどさ!」
灰原選手はけらけらと笑い、山寺博人は「ふん」とそっぽを向いてしまう。
すると今度は、千駄ヶ谷が瓜子に囁きかけてきた。
「猪狩さん。そのまま山寺氏へのフォローをお願いいたします」
「え?」と目を丸くする瓜子の脇を通りすぎて、千駄ヶ谷は鞠山選手たちから三種の紙袋を受け取った。そして、巣鴨庵の紙袋を瓜子に手渡してくる。
(……そういうことか)
やはり千駄ヶ谷も、山寺博人のメンタルを案じているのだろう。面識のない人間が増えると円城リマは隅っこに引っ込んでしまうため、確かに今が好機であるのかもしれなかった。
瓜子は塩大福の詰まった紙袋を掲げて、『ワンド・ペイジ』のメンバーが寄り集まったソファを目指す。そちらではすでに陣内征生がお茶の準備をしており、西岡桔平が申し訳なさそうな微笑みをたたえていた。
「本番までまだ一時間ぐらいはありますからね。どうぞ栄養を補給してください」
そんな言葉を述べながら、瓜子は塩大福の包装を解いた。これは、甘いものを好まない山寺博人が唯一好物とする品であるのだ。瓜子がそれを知ったのはもう一年以上も前の話であるが、もちろんそんな重要な話を忘れたりはしなかった。
「はい、どうぞ」
瓜子が小分けにされた包みのひとつを差し出すと、山寺博人は長い前髪の向こうから横目でこちらをにらみつけたようだった。
そのまま数秒ほど経過してから、いきなり骨張った指先が塩大福を強奪していく。そのタイミングで、紙コップに注がれた温かいお茶が山寺博人の前に置かれた。
「この前の新曲がステージでお披露目されるのは、これが初めてですもんね。お客さんたちも、期待して待ってますよ」
瓜子が立ったままそのように告げると、山寺博人の口が小さく動いた。
瓜子が「え?」と身を屈めると、ごくひそめられた声がかろうじて聞こえてくる。
「……お前ら、また海外の団体のイベントに出るんだろ? 時間調節は、大丈夫なのかよ?」
その唐突な問いかけに、瓜子はきょとんと目を丸くした。
「あ、はい。今回はシンガポールの団体のイベントで、あちらでも生中継されるらしいっすけど……日本とシンガポールって、一時間の時差しかないそうです。だから、興行の開始はほとんど変わらないんすよね」
「へえ」と気のない声をあげながら、山寺博人は塩大福をかじり取った。
「……お前ら、先週試合をしたばっかりなんだろ。怪我とかは大丈夫なのかよ?」
「え? あ、はい。自分もユーリさんもエキシビションだったんで、無傷です。……って、一昨日の通しリハでも、千駄ヶ谷さんから説明がありませんでしたっけ?」
「……あの人は、お前のことまで説明しないだろ。お前がステージに上がるわけじゃないんだからよ」
「ああ、そういえばそうでしたっけ。どうもご心配くださり、ありがとうございます」
「……誰が心配なんざしてるんだよ」
山寺博人はぶっきらぼうに言い捨てて、ふた口目をかじり取る。
だったらどうして、わざわざ瓜子に怪我がないかを確認したのか――などと問い詰めるのは、きっと野暮なことなのだろう。彼は彼なりに、瓜子の身を案じてくれているのだった。
(本当に、不器用な人だよなぁ。……まあ、あたしの言えたことじゃないけど)
瓜子は山寺博人のご機嫌をうかがうために出向いてきたのに、自分のほうが励まされたような心地であった。
ただ心なし、負のオーラも軽減されたようである。塩大福ばかりでなく、瓜子の存在が少しでも彼の心を安らがせているのなら、光栄の限りであるのだが――しかし真相は、彼の中にしか存在しなかった。
そうして『トライ・アングル』の面々はいっそう賑やかな時間を過ごしながら、今年最後の大一番を迎えることに相成ったのだった。




