07 豪腕のオールラウンダーと褐色の荒鷲
「どげんね……完全勝利やったやろ……?」
セコンド陣に両肩を支えられた鬼沢選手は、控え室に戻ってくるなりそんな風に言いたてた。
ひとしきり拍手をあびせてから、灰原選手が「あはは!」と笑う。
「どこが完全勝利なのさー! めっちゃギリギリの勝負だったじゃん! でも、あんたの根性はすごいと思うよー!」
「ふふん……おかげで、クタクタばい……」
鬼沢選手は両方の目尻が切れていたし、顔中に青紫色の痣ができていた。それに、にやりと笑った口もとから、前歯が一本欠損している。マウスピースをつけているにも関わらず、ジジ選手の猛攻で前歯がへし折れてしまったのだ。
しかしそれでも、彼女は勝利した。高橋選手でも勝てなかったジジ選手に勝利したのだから、これは大きな番狂わせであるはずであった。
「それにしても、殴られすぎだ。このまま病院に行ったほうがいいんじゃないか?」
セコンドの男性がそのように呼びかけると、鬼沢選手は「いんや……」と首を振った。
「最後ん試合ば見届けんで、病院になんか行ってられんばい……天覇ん三連勝がかかっとーっちゃけんね……」
モニターでは、すでに魅々香選手の入場が始められている。ケージでそれを待ちかまえているのは、マリア選手だ。
最終試合のメインイベント、フライ級のタイトルマッチである。
(これはもう、どっちも応援しないとな)
瓜子にとって、魅々香選手とマリア選手は同程度の親密度である。どちらもプレスマン道場の出稽古で迎えたことはなく、合宿稽古でのみ手合わせの経験がある。ゴールデンウイークでも合宿稽古をともにしている分、過ごした時間の長さは魅々香選手のほうが長いのかもしれないが、マリア選手は社交的な人柄であるため短時間でも親睦を深めることができた。
それに瓜子は、どちらの人柄も好ましく思っている。その強面からは想像もつかないほど内気で繊細な魅々香選手も、いつもにこにこと笑っているマリア選手も、とても魅力的な人柄であるのだ。所属道場に関しては、赤星道場のほうにより強い思い入れを抱いていたものの、さりとて天覇館も大事な朋友であることに変わりはなかった。
(どっちが勝っても、恨みっこなしだ。それが、勝負の世界だからな)
そんな風に考えながら、瓜子はふっとユーリのほうを振り返った。鬼沢選手とジジ選手の試合が始まってから、ユーリの甘ったるい声をほとんど聞いていなかったのだ。
「ユーリさん、ずいぶん静かにしてますけど、体調は大丈夫っすか?」
「うん……ここだけの話、ほどよい睡魔とおなかのぺこぺこ感で、ぐんにゃり夢見心地であるのです」
眠そうな目つきでぼんやり微笑みながら、ユーリはそんな風に答えた。
何か異常な状態に陥っている様子はない。自分の試合でカロリーを消費して、なおかつ寝技の攻防に乏しい試合が続いたため、集中が切れてしまったのだろう。思わず頭を撫でてあげたくなるぐらい、ユーリは安らかな顔をしていた。
「いっそシャワーでも浴びてきちゃったらどうっすか? これはタイトルマッチだから、試合開始まで少しゆとりがありますしね」
「いえいえ……これでシャワーまで浴びてしまったら、いっそうねむねむになってしまいそうなので……お二人の勇姿を見届けるのです」
それは何だか、頑張って夜ふかしをしている子供のような愛くるしさであった。
思いも寄らない形で温かい心持ちを授かった瓜子は、モニターに向きなおる。両者の入場が完了すると、コミッショナーのタイトルマッチ宣言から国歌清聴へと進行された。
魅々香選手は張り詰めた面持ちで深くうつむき、マリア選手は澄みわたった面持ちで力強く頭をもたげている。魅々香選手にとっては初めての防衛戦、マリア選手にとっては初めてのタイトルマッチであるのだ。それぞれ、胸には期するものがあるはずであった。
過去の対戦成績は、魅々香選手が勝ち越していることだろう。瓜子もあまりはっきり記憶していなかったが、かつてこの階級において、魅々香選手は日本人選手のナンバーツー、マリア選手はナンバースリーという扱いであったのだ。
しかし、瓜子が《アトミック・ガールズ》でデビューして以来、両者の対戦は実現していない。その間に、この階級の勢力図は大きく塗り替えられていたのだった。
(それに、昔のマリア選手は《アトミック・ガールズ》で本気を出してないんじゃないかって疑いをかけられてたもんな。実際のところ、地力はどっちが上なんだろう)
ここ最近の戦績で言うと、魅々香選手は沙羅選手と多賀崎選手に、マリア選手はオリビア選手と沖選手に勝利している。その時点で、これがこの階級のナンバーワン決定戦に相応しい内容であることが証明されていた。『アクセル・ロード』で不本意な結果に終わった両名は、長期欠場を乗り越えてそれだけの戦績を築いてみせたのだ。
あえて言うならば、より確かな結果を残しているのは魅々香選手のほうだろう。いくぶん低迷中であったオリビア選手や沖選手に比べて、沙羅選手と多賀崎選手は文句なしの強さであったのだ。まあ、沙羅選手は本業であるプロレスのほうが忙しく、MMAの試合数はめっきり少なくなってしまっていたものの、今のところはユーリと魅々香選手とベリーニャ選手の他に敗北したことはなかったのだった。
(でも、それより重要なのは、やっぱりおたがいの相性だからな。二人ともオールラウンダーだけど、どっちも個性派だし……どんな風に噛み合うのか、まったく想像がつかないや)
そうして国歌清聴を終えたならば、いよいよ試合の開始も目前である。
期待にあふれた大歓声の中、リングアナウンサーが朗々と声を響かせた。
『第十試合、メインイベント、フライ級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします! 青コーナー。百六十五センチ。五十五・九キログラム。赤星道場所属……マリア!』
マリア選手は明るい笑顔で、両腕を振り上げた。
赤と青のハーフトップおよびショートスパッツに包まれた黄褐色の肢体からは、野生の動物めいた生命力がほとばしっている。黒い瞳も星のようにきらめき、真っ直ぐな熱意をほとばしらせていた。
『赤コーナー。百六十五センチ。五十五・九キログラム。天覇館東京本部所属、フライ級第七代王者……魅々香!』
魅々香選手は爬虫類のように迫力のある面相で、うっそりと一礼した。
髪も眉もなく、目が落ちくぼんでいて、頬はげっそりこけている、《アトミック・ガールズ》でも屈指の強面である。ただその内側にどれだけやわらかい気性がひそんでいるかは、瓜子もよくよく思い知らされていた。
外見からして対極的な両名は、レフェリーのもとで向かい合う。
背丈もウェイトもまったく同一であるのに、シルエットはまったく異なっている。マリア選手はぱんと張り詰めた肉感で、下半身などはウェイトアップする前のユーリに匹敵するぐらいのサイズ感であろう。この頑強なる足腰が、躍動感に満ちたステップワークと強烈な蹴りを生み出すのだ。
いっぽう魅々香選手はごつごつとした筋肉質で、ちょっと不自然なぐらいに肩幅が広く、腕が長い。背中の広さと厚みなどは男子選手さながらだ。明らかに、リーチでまさるのは魅々香選手、コンパスでまさるのはマリア選手であった。
「二人ともオールラウンダーだけど、御堂はインファイターのパンチャーで、マリアはアウトファイターのキッカーだからな。何から何まで、正反対の二人だよ」
「うんうん! ここはやっぱりマコっちゃんがリベンジを果たすまで、ミミーに王座を守ってほしいかなー!」
多賀崎選手と灰原選手がそのように語る中、魅々香選手とマリア選手は力強く握手を交わした。
そうしてついに、決戦のゴングならぬブザーが鳴らされる。
すると――アウトファイターであるマリア選手が、いきなりの突進を見せた。
そうして遠い間合いから、のびやかな左ミドルを射出する。魅々香選手は逞しい右腕でガードしたが、思わず上体を揺るがせるほどの威力であった。
すかさずバックステップを踏んだマリア選手は、距離を詰めようとする魅々香選手の腹部に前蹴りを叩き込む。そしてさらに、間髪を入れずに右のミドルまで繰り出した。
「いきなりの接触なのに、距離の設定が抜群だな。あれじゃあ、御堂の拳も届かないよ」
「うんうん! マリアはいきなり、かっとばしてるねー! ステップワークは使わないのかなー!」
灰原選手はそのように語っていたが、マリア選手はしっかりステップを踏んでいた。ただし相手から遠ざかることなく、中間距離をキープして、射程の長い蹴りの攻撃ばかりを繰り出しているのだ。それが弾幕となって、魅々香選手は近づくことも拳を振るうことも封じられているのだった。
それでも魅々香選手が果敢に踏み込もうとすると、今度は関節蹴りが飛ばされる。ミドルや前蹴りほど姿勢を崩さずに相手を牽制できるので、距離を保つにはうってつけの攻撃だ。そして、いきいきと躍動するマリア選手に対して、魅々香選手はすっかり固くなってしまっていた。
「ふん。マリアもなかなかの動きだわけど、これで終わる美香ちゃんじゃないだわよ」
鞠山選手がそんなつぶやきをもらすと、魅々香選手は前進ではなく後ろに下がった。
マリア選手がそれを追いかけようとすると、たちまち足を踏み出して、豪快な右フックを旋回させる。マリア選手はカモシカのごときバックステップで、何とかそれを回避した。
マリア選手は軽くステップを踏んでリズムを作りつつ、また蹴りの間合いに踏み込もうとする。
すると魅々香選手は、すぐさま後退して距離を作った。
そうしてマリア選手が近づこうとすると、また前進しながらの右フックだ。それは、熟練の漁師が何とか大物を釣り上げようと釣り竿を上下させる姿を連想させた。
(すごい高レベルの、間合いの取り合いだ)
なおかつ、両者がどれだけ相手の動きや間合いを研究し尽くしてきたかも、この数十秒であらわにされていた。赤星道場や天覇館の面々も、それだけの意気込みで二人を鍛え抜いたのだろう。これこそ、タイトルマッチに相応しい様相であった。
中間距離のキープが難しいと見て取ると、マリア選手はお馴染みのステップワークでアウトスタイルに移行する。
すると魅々香選手は深いクラウチングの姿勢で、それを追いかけた。大勢の人間が予想していた展開が、ようやく開始されたのだ。
だが――そのさまも、瓜子の予想と少しずつずれている。マリア選手のステップワークはこれまで以上の躍動感であったし、それに詰め寄ろうとする魅々香選手の迫力もこれまで以上であった。
復帰以降は連勝を重ねている両者であるが、そこで満足することなく、基本の動きもさらに磨きをかけてきたのだ。比較的若年であるマリア選手はもちろん、すでにベテランの域である魅々香選手にもまだこれほどののびしろが残されていたのだった。
マリア選手はステップを踏みながら前蹴りや関節蹴りを繰り出して、なんとか魅々香選手の動きを止めようと試みる。
しかし魅々香選手は的確なディフェンスと頑丈な肉体の二段構えで、その攻撃を跳ね返している。そして、アッパーやタックルのフェイントで、マリア選手の組みつきを牽制することも忘れなかった。
この展開こそ、おたがいの陣営は研究し尽くしたことだろう。
そこで新たな動きを見せたのは――マリア選手であった。マリア選手は大股のステップに小刻みなステップを織り交ぜつつ、さらに、いきなり数歩ばかりも駆け出して強引に距離を取るという手法まで見せ始めた。
「なんだこりゃ。これじゃあますます、リズムをつかみにくくなるね」
「うんうん! そのままどばーって駆け出したら、あのお面女みたいだけどねー!」
灰原選手がそのように言いたてると、モニターを見守っていた何名かが身じろぎした。そのひとりであった鞠山選手が「ふん」と鼻を鳴らす。
「案外、そこから着想を得たのかもしれないだわね。マリアも、なかなかのタマだわよ」
灰原選手が言うお面女とは、もちろん宇留間千花のことであろう。マリア選手は彼女との対戦で鎖骨を折り、長期欠場に追いやられたのだ。
何の前触れもなしにいきなり駆け出すというのは、確かに宇留間千花らしいやり口である。ただしマリア選手はそのままフェンス際まで逃げたりはせず、数歩ばかりでステップワークを再開させ、適切な距離から牽制の攻撃を放っていた。
マリア選手はただでさえ歩幅の異なるステップで相手を幻惑するのに、そこにこうまで変則的な動きまで混ぜられるというのは厄介なものであろう。両者の間合いはどんどん開いていき、魅々香選手は牽制の拳を放つことすら難しい状況に追いやられてしまった。
すると――魅々香選手が、再び下がった。
そして何故だか、長い左腕をだらりと垂らしてしまう。前手の防御を解いてしまうというのは、前蹴りやミドルを狙っているマリア選手に対して、あまりに危険な行いであった。
しかし、そうであるがために、マリア選手も警戒したのだろう。マリア選手は大きく距離を空けつつ、ひたすら関節蹴りに終始した。
魅々香選手はそれこそ釣り糸のように左腕をゆらゆら揺らしつつ、マリア選手の関節蹴りを回避する。おたがいの手数が減ったため、奇妙な小康状態が生まれてしまった。
こういうとき、先に展開を動かそうとするのはマリア選手である。
それでもマリア選手は慎重に、遠い間合いから左ミドルを繰り出そうとした。
しかし、マリア選手が蹴りのモーションを見せると同時に、魅々香選手の垂れ下がっていた左拳がふわりと浮かびあがり――マリア選手の鼻っ柱を、ぱしんと叩いた。
まだ魅々香選手の拳が届く距離ではないはずなのに、何故だか拳がヒットしたのだ。
マリア選手は、面食らった様子でバックステップを踏む。
魅々香選手はそれを追いかけて、再び左拳を振り上げた。
その拳が、今度はガードの隙間をくぐって下顎を打つ。前手の攻撃であるし、アッパーほどの威力は見込めないが、それでも魅々香選手の豪腕だ。マリア選手は、いよいよ大慌てで逃げ惑うことになった。
「……まさかの、フリッカージャブかよ」
サキが不機嫌そうに言い捨てると、灰原選手が「おー!」と手を打った。
「なーんか見たことあると思ったら、サキが得意なアレかー! ポーズが全然違うから、気づかなかったよー!」
「ふふん。美香ちゃんは正面を向きながら、フリッカーを出すタイミングで半身になってるだわね。逞しい肩幅の分まで加算されて、驚くべき射程の長さになってるだわよ」
魅々香選手をこよなく可愛がっている鞠山選手は、自慢そうにそう言っていた。
垂らした前手から繰り出すフリッカージャブというのは、サキのようなアウトファイターが好んで使う武器だ。アウトファイターならぬ魅々香選手には、ずいぶん不似合いであるように思えたが――しかし鞠山選手の言う通り、攻撃の瞬間に肩を前方に突き出すため、通常のジャブよりもさらに射程がのびているようであった。
(それに、人体の構造上、腕は下からのばしたほうがよくのびるって話だったっけ)
そういった要素がいくつも重ねられて、マリア選手の距離感を突き崩したのだろう。当たると考えていなかった攻撃を当てられると、人間は混乱するものなのである。
マリア選手は牽制の攻撃を返すこともできず、ただ逃げ回っている。迂闊に手を出せばカウンターでフリッカージャブをくらうという意識が生じてしまったのだ。そうして牽制の攻撃がなくなると、魅々香選手は強引に踏み込むことがかなうという。格闘技の持つ詰め将棋めいた要素が、ここに体現されることになった。
しかしマリア選手も、そこで終わるような選手ではない。
ひとつ大きく頭を振ったマリア選手は困惑の表情を消して、あらぬ方向に駆け出した。
そして、魅々香選手がしっかり正対するよりも早く、今度は跳ねるようなステップで接近する。インサイドを取られたので、魅々香選手もフリッカージャブを繰り出すことはできず――ぎりぎりのタイミングで魅々香選手が正対すると、両者はケージの中央でがっぷり組み合うことになった。
組み合いは、どちらも得意な領分である。
ただし、魅々香選手のルーツは天覇館仕込みの柔道技、マリア選手はキャッチ・レスリングだ。そんな部分まで、似たところのない両者であった。
組み手争いは、マリア選手のほうがやや優勢である。
しかし、魅々香選手の長い腕は組み技にも有利であったし、そこに柔道の足技まで加わると、互角の勝負だ。テイクダウンを狙う魅々香選手とスープレックスを狙うマリア選手で、熾烈な攻防が繰り広げられた。
すると――今にも船をこぎ出しそうであったユーリが、ぐぐっと前のめりになる。
壁レスリングを覚えて以来、ユーリはスタンド状態の組み合いにも寝技に似た楽しさを抱くことになったのだ。その眠たげな目には、期待の光が宿されていた。
そこで魅々香選手の長い腕をかいくぐったマリア選手が、ついに双差しの体勢となる。
フロントスープレックスを狙える、危険なポジションだ。足の短い魅々香選手は重心も低かったが、マリア選手はそれを帳消しにできるぐらいの技術とフィジカルを有しているはずであった。
魅々香選手は腰を落としつつ、何とか差し手を返そうとする。
それをはねのけながら、マリア選手は右に左に揺さぶった。魅々香選手が少しでも重心を崩したら、もうスープレックスの餌食である。
(もうここまで来たら、投げられた後の対処を考えたほうが――)
瓜子がそのように考えたとき、ついに魅々香選手の両足がマットから引っこ抜かれた。
マリア選手はその身に備わったバネをフル活用して、ぐんと身体をのけぞらせる。そして、自分の頭を打たないように右方向にねじりつつ、魅々香選手の頭をマットに叩きつけようとした。
大歓声の中、両者はマットに倒れ込む。
だが――先にがばりと身を起こしたのは、魅々香選手のほうであった。
一瞬遅れてマリア選手も身を起こそうとするが、もう遅い。魅々香選手はマリア選手の上に覆いかぶさり、あっという間にマウントポジションを奪取した。
魅々香選手の逞しい両腕が鉤状に曲げられて、恐るべきパウンドの嵐を振らせる。
マリア選手は両腕で頭をガードしたが、そんなものでは防ぎきれない破壊力だ。レフェリーは、早くも緊迫した面持ちでマットに膝をついていた。
そして、そのままパウンドアウトを狙うかと思われた魅々香選手が、いきなりマリア選手の右腕をひっつかんだ。
そのままマリア選手の腰から胸もとへと移動して、マリア選手の右腕を両手で抱え込む。腕ひしぎ十字固めを狙うアクションだ。
マリア選手は手の先をクラッチさせながら腰を跳ね上げて、何とか魅々香選手を振るい落とそうとする。
すると魅々香選手は、マリア選手の腕が作った輪の中に、右足をねじ入れた。腕ひしぎ十字固めを仕掛ける前に、三角締めに移行したのだ。まるでユーリを連想させるような、迅速なる決断であった。
寝技に関してはポジションキープを第一に考える魅々香選手であるので、マリア選手もこれは想定外であったのだろう。完全に、後手を踏んでしまっている。
そして、マリア選手が混乱から立ち直るいとまも与えず、魅々香選手はマリア選手の首裏で両足をロックさせ、右腕をつかんだまま横合いに倒れ込んだ。
マリア選手はすかさず下半身を起こしたが、もう魅々香選手の両足は深くクラッチを組んでいる。
それでもマリア選手は全身の筋肉を躍動させて、なんとか拘束を振りほどこうと試みたが――魅々香選手の両足はほどけるどころか、ますます深く食い入っていった。
マリア選手は、がくりと膝をつき――力尽きた様子で、魅々香選手の足をタップした。
技を解除した魅々香選手は大の字でマットに寝そべり、そこに大歓声が降り注ぐ。
『一ラウンド、四分二十五秒! 三角締めにより、魅々香選手の勝利です!』
控え室も、歓声と拍手に包まれた。
ずっと静かに朋友の戦いを見守っていた天覇館の面々が、もっとも大きく拍手を打ち鳴らしている。前園選手などは、うっすら涙を浮かべているようであった。
「最後のサブミッションは、お見事だったね。御堂らしからぬ、強引な仕掛けだったけどさ」
「だからこそ、マリアの隙を突けたんだわよ。その前のスープレックスの崩しからして、見事だっただわね」
「あー、それそれ! どーしてぶん投げたマリアのほうが、ダメージをくらってたの?」
「投げの途中で、タコ女が右足を引っ掛けてただろーがよ? ついでに肘を顔面に押し当てて、マットでプレスしてやがったな。メキシコ女ぐらい頑丈じゃなかったら、あの時点でKOされてても不思議はねーや」
「御堂さんは、そこまでマリアさんの攻撃を研究し尽くしてたんですね! 心から尊敬します!」
そんな言葉を聞きながら、瓜子も心から感服していた。
魅々香選手ばかりでなく、マリア選手の動きや戦略も素晴らしかった。試合は一ラウンドで終了したが、二人の実力差は本当に僅差であったのだろう。ほんのわずかな差で生じた間隙に、魅々香選手がぐいぐいと攻撃の手を進めていった印象であった。
「すごい試合でしたね。ユーリさんも、大満足なんじゃないですか?」
「うん。組み技も寝技も素晴らしかったのです。ユーリもまた、お二人と対戦してみたいにゃあ」
にこにこの笑顔でそんな風に言ってから、ユーリはにわかにふくよかな唇をとがらせた。
「でもでも赤星道場の陣営が負けてしまって、うり坊ちゃんも内心がっかりなのでしょうねぇ。心中お察しするですぅ」
「そんな的外れのお察しで、すねないでくださいよ」
「すねてないですぅ」と本日二度目の台詞を吐きながら、ユーリは瓜子の手の甲にのの字を書いてきた。
それで、瓜子も理解する。ユーリはすねているのではなく、昂揚したついでで甘えているだけであるのだ。口をとがらせながら、その瞳には幸せそうな光が宿されていた。
かくして、魅々香選手は初の防衛戦に勝利して――前回の興行で三連敗を喫した天覇館の陣営が三連勝を収めると同時に、本日の興行は終了を迎えたのだった。




