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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
27th Bout ~Big up~
695/955

06 凶拳と天覇のアウトロー

 控え室に戻ったのちも、ユーリは元気そのものであった。

 やはり通常の試合後よりも、稽古でグラップリング・スパーに励んだのちを思わせる姿である。寝技をこよなく愛するユーリにとっては、至福の時間であったのだろうと思われた。


(ベリーニャ選手がMMAに進出してなかったら、ユーリさんも柔術家になってたのかな……それともあくまで、MMAファイターとして戦うベリーニャ選手に憧れたのかな)


 その答えは、ユーリの中にしか存在しない。そしてユーリ自身も、そんな思考を巡らせることなくMMAという競技にのめりこんでいるのだろうと思われた。


「とりあえず、スチットさんの準備してくれた医療スタッフは無駄足になっちまったな。ま、そんなもんは無駄になるに越したことはねえけどよ」


 立松も満足そうな笑顔で、そんな風に言っていた。

 そうして汗だくの肢体にウェアを纏ったユーリは、ゆるんだ笑顔でパイプ椅子に腰を落ち着ける。今日はシャワーを浴びる隙もないので、帰り際には大混雑することが確定していた。


 ふたつのエキシビションマッチを終えて、第八試合はサキの登場である。

 相手は、ベテランのトップファイターだ。ただしこの選手は、一月の大会で小柴選手に敗れている。アトム級の王者であるサキは、調整試合でもトップファイターを相手取るのが通例になっていた。


(まあ、あたしも最近はトップファイターばかり相手にしてるけど……絶対に負けられないってのは、精神的にしんどいよな)


 新興勢力の面々――愛音、犬飼京菜、大江山すみれ、小柴選手の四名は、ベテランのトップファイターをことごとく退けている。その頂点に立つサキは、ベテランのトップファイターに勝って当たり前と見なされているのだ。サキほど不敵な気性をしていなければ、プレッシャーで動きが鈍ってもおかしくないところであった。


 が、サキに限ってそのような心配は無用である。試合数を絞っているサキは今回も万全のコンディションで試合に臨み、いつも通りの流麗なステップワークで相手を翻弄し、燕返しを披露するまでもなく、三ヶ月蹴りの一発で試合を終わらせてみせたのだった。


 試合時間は一分足らずで、当然のように一発の攻撃もくらっていない。瓜子も今年になってそういう試合を何度か経験していたが、サキの優美さには及ぶべくもなかった。


「まったく、可愛げがないよねー! コッシーやイネ公がベルトをぶんどる日を楽しみにしてるよー!」


 灰原選手がそのように煽っても、両名は曖昧にうなずくばかりであったが――ただしどちらも、その瞳に熱情の炎をちらつかせていた。打倒サキに燃えられる立場を、瓜子はひそかに羨むばかりである。


 そして第九試合は、鬼沢選手とジジ選手の一戦であった。

 バンタム級に転向したジジ選手の、《アトミック・ガールズ》における二戦目だ。前回の高橋選手との一戦はスプリットの辛勝であったので、今回は鬼沢選手に期待がかけられていた。


 鬼沢選手は五月のトーナメントで小笠原選手に敗北し、七月大会では高橋選手に敗北している。負けが込んできた香田選手ともども、バンタム級では三番手という扱いだ。ただし、小笠原選手とも高橋選手ともほとんど互角の勝負を見せていたので、その実力は折り紙つきであった。


(手前ミソになっちゃうけど……プレスマン道場の出稽古に参加してる分、香田選手よりは成長も早いんじゃないかな)


 いっぽうジジ選手は、世界を股にかける文句なしのトップファイターである。以前は乱打戦一辺倒であったが、フライ級の末期からスタイルチェンジに取り組み、《アトミック・ガールズ》から離れていた期間で階級を上げると同時に新たなスタイルを確立させたようであった。


 身長は、一センチしか変わらない。鬼沢選手が百六十六センチで、ジジ選手が百六十五センチだ。鬼沢選手も日本人選手としては筋肉質で分厚い体格をしていたが、こうして並べてみるとジジ選手はさらに半回りも逞しかった。


 なおかつ、鬼沢選手は男のように厳つい顔立ちで、短い頭を金色に染めており、上腕と背中に和柄のタトゥーを入れている。ジジ選手は赤金まだらの髪を左側だけ長くのばし、剃り上げた右のこめかみにはトライバル、目もとには青い隈取、左頬には『Gigi』の四文字、背中には巨大な悪魔、両手両足には溶け崩れた天使やら踊る骸骨の群れやら蛇やムカデやらのタトゥーづくしで、地肌の色がほとんど見えないぐらいである。これほど迫力のある両選手の対峙というのは、なかなか他に類を見ないはずであった。


「さー、オニっちはどうかなー! なーんか、スパーしててもオニっちの強さってわかりにくいんだよねー!」


「ああ。鬼沢はラフファイトを得意にしてるけど、稽古では荒っぽさを抑えるからね。見た目と違って、ずいぶん冷静なんだろうと思うよ」


 そのように語る多賀崎選手は、かつて北米の合宿所でも鬼沢選手と稽古をともにした身であった。


「《アクセル・ファイト》との契約を狙ってるジジとしては、『アクセル・ロード』の一回戦で敗退した鬼沢には軽く勝っておきたいところだろうけど……ま、そう簡単にはいかないだろうね」


「うんうん! オニっちだったら、意地を見せてくれるさー!」


 そうして、試合が開始された。

 まず勢いよくコーナーを飛び出したのは、鬼沢選手である。インファイトを得意にするジジ選手に対して、まったく迷う素振りもなかった。


「お、いきなり行ったか。鬼沢だったら、じっくり試合を作っていくこともできるだろうにな」


 鬼沢選手は荒っぽいインファイターであるが、意外に冷静な面も持っており、相手によっては中間距離で的確な打撃戦を見せたりもする。決して猪突猛進だけが売りではないのだ。

 いっぽうジジ選手もかつてはその凶悪な拳で数々のKO勝利を積み上げてきた生粋のパンチャーで、乱打戦を一番の得意にしている。それがこの近年で、北米のファイターを思わせる堅実なボクシング&レスリングのスタイルを見せるようになってきたのだった。


(インファイトの乱打戦が一番の得意だけど、それだけが能じゃないっていう意味では、似た部分のある二人なんだな。いったいどういう展開になるんだろう)


 瓜子も大いなる興味を胸に、両者の戦いを見守ることにした。

 一気に距離を詰めた鬼沢選手は、思うさま左右の拳を振り回している。いかにも荒っぽい攻撃であるが、適度にボディにも散らしており、彼女らしい沈着さもうかがえる。ジジ選手もまずは防御に徹して、乱打戦に乗ろうとはしなかった。


 しかし、鬼沢選手はなかなか手を休めようとしない。あまり序盤から飛ばしてしまうとスタミナのロスが心配なところであったが、そこまで計算できているのか心配になるぐらいの荒々しさであった。

 その甲斐あって、ジジ選手も顔やボディに何発かくらっていたものの、彼女は見るからに頑丈だ。ひたすら防御を固めながら、鬼沢選手が力尽きるのを虎視眈々と狙っている気配が濃厚であった。


 三十秒ばかりも猛威をふるってから、鬼沢選手はようやく身を引こうとする。

 するとジジ選手は、満を持した様子でそれを追いかけようとしたが――その鼻っ面に、鬼沢選手の左ジャブがヒットした。あくまでジャブだが、深い当たりである。


「お、今のが一番いい当たり――」


 多賀崎選手がそのように言いかけたところで、さらなる攻撃が振るわれた。左ジャブに、右フックが連動されたのだ。

 鬼沢選手の右拳は相手のガードの外側を通過して、左こめかみに的中する。

 それでジジ選手がわずかによろめくと、鬼沢選手はついでのように左ローを叩きつけてから距離を取った。


「あれー? たたみかけないんだ? せっかく、いいのが二発も入ったのに!」


「あまり深入りすると、スタミナが心配だろ。鬼沢は、クレバーだからな」


 さきほどから、語っているのは灰原選手と多賀崎選手ばかりである。

 まあ、灰原選手がおしゃべりであるので、それは見慣れた光景であったのだが――瓜子は、サキと鞠山選手の沈黙が気にかかっていた。戦略に関してもっとも造詣の深い両名が、ずっと真剣な眼差しで試合に見入っているのである。それはどこか、難解なパズルにでも取り組んでいるような眼差しであった。


 そんな中、モニターでは試合の様相が一変している。いきなり乱打戦を仕掛けた鬼沢選手が、今度は距離を取り始めたのだ。

 ジジ選手がじりじり前進しても、いっさい手を出さずに逃げてしまう。スタミナの回復を考えているのだとしても、ずいぶん極端なやり口であった。


「うーん? オニっち、疲れちゃったのかなー?」


「どうだろうね。でも、序盤でポイントを取ったのは鬼沢なんだから、それを突き崩すのはジジの役割だろうさ」


 多賀崎選手の言う通り、このままラウンド終了したらポイントは鬼沢選手のものであるのだ。もちろん第一ラウンドはようやく一分が経過するところであるので、このまま終わるとは思えなかったが――しかし、ジジ選手の足取りは慎重で、鬼沢選手は逃げるいっぽうであった。


「ジジはジジで、スタミナを温存してるのかな。前回の試合も、フルラウンドの判定勝負だったしね」


「んー。でも、あたしだったらポイントを取られたまんま、のんびりしてられないかなー」


「そこはハンサム・ブロイの教育だろうね。どうやらジジは、堅実な勝ち方を覚えたみたいだからさ」


 しかしそのまま、試合はなかなか動かなかった。鬼沢選手も決してアウトスタイルが得意なわけではないので、逃げることはできてもそれ以上の攻防は難しかったのだ。そして、そんな鬼沢選手を相手に、ジジ選手も強引に攻めようとはしなかった。

 ついに会場からは、ブーイングをあげられてしまう。序盤の激しい展開との落差で、いっそう不満がつのってしまうのだろう。瓜子にしてみても、これは想定外の展開であった。


「……いつきは出稽古で、組み技や寝技を磨き抜いたんだわよ?」


 と――無言をつらぬいていた鞠山選手が、ふいにそんな言葉をもらした。

 それに「いんや」と答えたのは、サキである。瓜子は自然と、聞き耳を立ててしまった。


「こっちのコーチ連中にまんべんなくしごかれてただろーが、ことさら何かに偏ってた印象はねーな。組み技も寝技も、三十点のまんまだろ」


「ふむだわよ。その割には、組み技のフェイントがきいてるだわね。だからジジも、いっそう慎重になってるだわよ」


 瓜子には、そこまで細かい部分は見て取れない。しかし確かに、鬼沢選手はおかしなタイミングで足を止めたり、手をぴくりと動かしたり、相手の足もとに視線を飛ばしたりしているように思われた。


「こっちに顔を出すのは週に二、三回のことだから、天覇の道場で何か特別な稽古をつけた可能性はあるだろうが……ただ、組み技も寝技もザルのまんまだよ」


「そうだとしても、ジジには知るすべがないんだわよ。つまりは、ハッタリでジジの動きを牽制してるわけだわね。あのたどたどしい逃げっぷりも、相手の打ち気を誘ってるように見えなくもないんだわよ」


 インファイターの鬼沢選手がこうまで逃げに徹したら、何か裏があると勘ぐってもしかたないことだろう。しかし、奥の手もなしにただハッタリをきかせているだけだとしたら、ずいぶん大胆な作戦であった。


(でも……そんな作戦で、勝てるのかなぁ)


 ラウンドが中盤に差し掛かると、ジジ選手もいくぶんギアを上げて牽制の攻撃を増やし始めた。

 しかし鬼沢選手は適当に受け流して、相手にしようとしない。ただ、テイクダウンのフェイントは継続しているようであった。


 その後は大きな変化もないまま、第一ラウンドは終了する。

 会場にはブーイングが吹き荒れていたが、鬼沢選手もジジ選手もふてぶてしく口を吊り上げていた。


 まあとりあえず、初回のポイントは鬼沢選手のものだ。

 いくらかの攻撃をくらったジジ選手も、いくらかのスタミナを使った鬼沢選手も、後半のゆるやかな攻防ですっかり回復したことだろう。勝負は、これからであった。


 そうして第二ラウンドが始まると、鬼沢選手が再び突進した。

 鬼沢選手は、左右のフックとボディアッパーを叩きつける。それをすべてガードしたジジ選手が、今度こそはと乱打戦に応じようとすると――鬼沢選手は、またすたこらと距離を取ってしまった。


 その後は、また不毛な鬼ごっこである。客席にはブーイングが復活し、灰原選手も不満の声をあげた。


「なーんか、眠たくなってきちゃうなー! ジジだって乱打戦は得意なんだから、突進しちゃえばいいのに!」


「あいつはきっと数年がかりで、そういうスタイルを矯正したんだろう。しかも鬼沢はいかにもカウンター狙いの気配を出してるから、迂闊に突っ込めないのかな」


「でも、いくら何でもこのままじゃ――」


 と、灰原選手がそのように言いかけたとき、鬼沢選手がいきなりインファイトを仕掛けた。

 今度は左のショートフックに右のストレート、そして左ローから右フックだ。上下に左右、縦に横と、うまい具合に散らした攻撃である。

 ただジジ選手も十分に予期していたらしく、すべての攻撃を的確にガードする。

 そしてジジ選手が攻撃に転じようとすると、鬼沢選手はまた距離を取ってしまった。


「うわー! なーんか、すっごくぶきっちょなヒット&アウェイを見せつけられてる気分! ジジはどーして、対処できないんだろー?」


「うーん。それだけ鬼沢のプレッシャーがきいてるってことなのかな」


 すると、鞠山選手が「そうだわね」と考え深げなつぶやきをもらした。


「ジジの陣営は、いつきがそんなちまちました作戦を立ててくるとは想定してなかったはずだわよ。それで、対応が遅れてるんだろうだわね」


「ふーん? でも、それだけであんな縮こまっちゃうもんかなー?」


「それに加えて、ジジはスタイルチェンジしてから日が浅いんだわよ。ラフファイトを制御しようと稽古を積んだ結果、強引に仕掛ける気概や突進のタイミングをはかるセンスが減退する可能性は否めないだわね」


 そんな風に言ってから、鞠山選手はころんとした指先を三本立てた。


「さらに、第三の要素として……ジジは、とってもナイーブな人間なんだわよ。混乱状態に陥ると、いっそう動きは鈍るだろうだわね」


「えー? あいつのどこが、ナイーブだってのさ!」


 灰原選手はそんな風にわめいていたが、瓜子は以前に聞き及んだ逸話を思い出していた。かつてジジ選手は海外の試合でいくつかの反則負けを喫していたが、それはいずれも元来の繊細さを原因とする暴走の結果であるという話であったのだ。そして、そういう試合の後には自殺未遂の騒ぎを起こしていたという話が、何より印象に残されていた。


「だからあいつは、何も考えねー乱打戦が得意だったんだろーな。キレちまえば、考え込む余地もねーだろうからよ」


 と、サキはもともとのふてぶてしさを回復させて、肩をすくめた。


「フタを開けてみりゃー、つまんねー話だったな。鬼女の不細工な作戦に、ヘタレのタトゥー女が勝手に混乱してるだけかよ」


「その混乱を意図的に引き出したんなら、立派な作戦だわよ。それにいつきは、天覇とプレスマンの二本柱でジジ対策もばっちりなはずだわね」


 鞠山選手の言う通り、プレスマン道場にはユーリ、天覇館には魅々香選手と、かつてジジ選手に勝利した二人が居揃っているのだ。さらには、直近で対戦した高橋選手はどちらの現場でも稽古をともにできるのだから、いっそう対策ははかどったはずであった。


 モニターでは、不毛な鬼ごっこが続けられている。

 鬼沢選手が時おり挑発するように乱打を見せるが、相手に確たるダメージを与える前にまた距離を取ってしまう。そしてジジ選手も、あまり勢いの感じられない牽制の攻撃を振るうばかりであり――そんなていどの攻防であるのに、ジジ選手のほうがぐっしょりと汗をかいてしまっていた。


 精神的な疲労によって、ジジ選手のほうがスタミナを消耗してしまっているのだ。

 その顔には不敵な表情がたたえられていたが、鞠山選手の解説を聞いた後では虚勢を張っているようにしか見えなかった。


 そうして第二ラウンドは、終了してしまう。

 ポイントは――おそらく、鬼沢選手のものであろう。その攻撃はおおよそガードされていたが、ジジ選手の攻撃はまだ一発も相手の身に触れていないのだ。これでは、ポイントのつけようがなかった。


「さーて、こっからが本番だ。どんな結末になるか、楽しみなところだぜ」


「えー? このままオニっちが逃げきっておしまいじゃないのー?」


「ターコ。ハンサム野郎が、そんな真似を許すかよ。リミッターをかけてこのざまだったら、リミッターを外すしかねーだろ」


 そのハンサム野郎ことブロイ氏は、椅子に座ったジジ選手に対して激しく檄を飛ばしていた。普段は温厚な紳士であるが、その内側には熱い闘志が隠されているのだ。

 そんなブロイ氏を前に、ジジ選手はへらへらと笑っていたが――瓜子は何となく、ぞっとした。タトゥーだらけのジジ選手の顔に、追い詰められた獣のごとき迫力がよぎったように感じられたのだ。


 そうして迎えた、第三ラウンド――今度は、ジジ選手が突進した。

 鬼沢選手は足を止めて、それを迎え撃つ。そして、狙いすました右ストレートで、ジジ選手の顔面を撃ち抜いた。


 その一撃で、ジジ選手の細い鼻から血が噴き出す。

 しかしジジ選手は悪魔のような顔で笑いながら、左右の拳を振り回した。


 かつて『凶拳』という異名を取った、ジジ選手の乱打である。

 それは鬼沢選手が見せていた乱打とは比較にならないほどの、暴風雨めいた攻撃の嵐であった。


 鬼沢選手はガードを固めたが、おかまいなしで拳を叩きつけていく。その勢いに、鬼沢選手の逞しい身体が左右に揺らいだ。

 このいきなりの展開に、会場には歓声が爆発する。

 瓜子も拳を握り込みながら、身を乗り出すことになった。


 鬼沢選手は、まったく反撃できていない。

 しかし、決して下がろうとはしなかった。ここで下がっては、ジジ選手を勢いづけるだけなのである。それはユーリが対戦した頃から、コーチ陣が何度となく口にしていた言葉であった。


 鬼沢選手は下がるのではなく、むしろ相手に近づこうとしている。

 ジジ選手は半歩ずつ下がって同じ間合いをキープして、いつまでも拳を振るい続けた。


 レフェリーは、ストップのタイミングをはかるように両腕を開いている。

 鬼沢選手は前屈みの姿勢になって、今にも倒れてしまいそうだった。


 ジジ選手は咆哮をあげて、渾身の右アッパーを叩きつける。

 鬼沢選手はぐっと下顎を縮めていたため、口もとにその攻撃が突き刺さった。


 そして――鬼沢選手のごつい左腕が、旋回した。

 ジジ選手はまだ拳を引いていないので、右の側面ががら空きだ。そのスペースを猛然と通過して、鬼沢選手の左フックがジジ選手のこめかみを撃ち抜いた。


 ジジ選手は砕けそうになる膝を踏ん張り、自らも左フックを返す。

 それでまともに顔面を殴られながら、鬼沢選手も右フックを返した。


 あとはもう、地獄のような乱打戦である。

 おたがいが防御を捨てて、ひたすら相手を殴りつける。体格でまさるのはジジ選手であったが、これまでのスタミナの消耗と二発のクリーンヒットのダメージで、互角の展開になってしまっていた。


「これじゃー最後までもたねーな。先に音をあげるのは、どっちだ?」


 サキの言葉に応じるように、鬼沢選手がジジ選手に組みついた。

 しかし、ジジ選手は倒れない。あちらはレスリングも磨いているし、鬼沢選手は組み技が不得手であるのだ。勢いにまかせて押し倒すことができないと、その後に繋げる技術が足りていなかった。


 ジジ選手は鬼沢選手の後頭部を抱え込み、しばし呼吸を整えてから右膝を振り上げる。左脇腹に膝蹴りを叩き込まれた鬼沢選手は、いかにも苦しげな挙動でジジ選手を突き放した。


 たたらを踏んだジジ選手は、すぐさま距離を詰めようとする。

 その顔面に、鬼沢選手が真っ直ぐ右拳をのばした。


 カウンターで、右ストレートがヒットする。

 新たな鼻血がしぶき、ジジ選手をよろめかせた。


 そこで鬼沢選手は、再び組みつきを見せる。今度はジジ選手もこらえることができず、マットに押し倒されることになった。

 しかし鬼沢選手もジジ選手に覆いかぶさったまま、動くことができない。ダメージとスタミナの消耗が、尋常でないのだ。そしてそれは、下になったジジ選手も同じことであった。


 レフェリーは無情に、『ファイト!』とアクションをうながす。

 それがレフェリーの役目であったとしても、二人には死刑宣告の声に聞こえたことだろう。自分がその立場だったらと考えるだけで、瓜子はげんなりしてしまいそうであった。


 鬼沢選手は両方の目尻から血をしたたらせつつ、ジジ選手に深くのしかかろうとする。

 ジジ選手は死にかけた大蛇のようにのたうちながら、それから逃げようとした。

 鬼沢選手は身を起こすことも腕を振り上げることもできず、ただ前腕で相手の咽喉を圧迫しようとする。

 ジジ選手は泣き笑いのような形相で首をねじり、その圧迫から逃れようとした。

 血まみれでスタミナを切らした両名が、マットの上で弱々しくもつれあっているのだ。ユーリと浅香選手の攻防とは似ても似つかない、それは地獄絵図であった。


 そうして両者の動きが止まると、レフェリーは再び『ファイト!』と叱咤する。

 これで動けなければ、ブレイクとなってスタンドだ。寝ても立っても、待っているのは地獄である。


 それでもグラウンドで上を取っていれば優勢であるため、鬼沢選手は気力を振り絞って半身を起こし、右腕を振り上げようとする。

 すると――ジジ選手が思わぬ敏捷さで腰を切り、鬼沢選手の横合いに逃げた。

 鬼沢選手の拳はマットを打ち、ジジ選手は横から相手にのしかかる。鬼沢選手は力なく倒れ伏し、今度はジジ選手がその上に覆いかぶさった。


「お、こいつはやべーな。絶体絶命だ」


 試合時間は、まだ一分半ばかりも残されている。ここで形勢を逆転されるのは、致命的であった。

 それでも鬼沢選手は、執念でハーフガードのポジションを取る。ジジ選手も、取られた片足を引っこ抜く力は残されていなかった。


 ジジ選手はぜいぜいと息をつきながら、少しだけ半身を浮かせて、右肘を鬼沢選手の顔面に叩きつける。もはや重力だけを頼りにした、力ない挙動であった。

 ジジ選手が再び半身を起こそうとすると、鬼沢選手は両手で相手の頭を抱え込む。それだけで、ジジ選手は身動きが取れなくなってしまった。


 レフェリーが『ファイト!』とうながしても、両者は動けない。

 そうして一分ほどの時間を残して、ついにブレイクである。


 両者は血と汗をこぼしながら、よろよろと起き上がった。

 それで最初に動いたのは、ジジ選手だ。ジジ選手は両足をもつれさせながら前進して、右の拳を鬼沢選手の腹に叩きつけた。


 鬼沢選手は前屈みの姿勢になりながら後ずさり、フェンスにもたれかかる。

 それを追いかけたジジ選手は、左右の拳を鬼沢選手のボディに繰り出した。おそらく、もうそれ以上は腕が上がらないのだ。


 鬼沢選手はほとんど泣いているような形相で、ジジ選手を突き放した。

 するとジジ選手は、ぺたんと尻もちをついてしまう。しかし鬼沢選手はフェンスにもたれたまま、それを追いかける力もなかった。


 ジジ選手はマットに拳をついて、何とか立ち上がろうとする。

 それでようやくジジ選手が起き上がると同時に、試合終了のブザーが鳴らされた。


「うわー! 見てるこっちまで息が止まりそうだったよー! これ、どっちが勝ったんだろー?」


「そんなもん、考えるまでもねーだろうがよ」


 サキの言う通り、結果は歴然であった。

 29対28が三名で、鬼沢選手の判定勝利である。最終ラウンドがどれだけ濃密な内容であったとしても、最初の二ラウンドは鬼沢選手が取っていたのだった。


「……ものすごく、泥臭い試合だった」


 と――ずっと無言であったメイが、そんな言葉を瓜子に囁きかけてきた。


「二人とも、まだ未完成。どちらも、世界では通用しないと思う」


 それはあまりに冷酷な物言いであったため、瓜子はぎょっとしながらメイを振り返ることになった。

 しかし、メイの黒い瞳に浮かべられていたのは、とても穏やかな光である。


「でも、こういう試合を乗り越えられた人間だけが、世界を目指せると思う。最後まで試合をあきらめなかった二人は、立派だと思う」


「……もう。そういう台詞を、先に聞かせてくださいよ」


 瓜子は思わず、メイの頭を小突いてしまった。

 メイは心から驚いた様子で瓜子のほうに向きなおり、そしてはにかむように口もとをほころばせた。


 モニターからは、大きな声援と拍手が聞こえてくる。ブーイングを飛ばしていた人々も、二人の執念には感服せざるを得なかったのだろう。瓜子もまた、そんな二人に心からの拍手を届けることにした。

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