05 ユーリのエキシビションマッチ
「うり坊ちゃん、お疲れさまー! 今日も凶悪でかわゆいハイキックが炸裂しちゃったね!」
瓜子が花道を引き返すと、入場口の裏手ではめろめろの笑顔のユーリが待ちかまえていた。
「どうせ短いあんよがかわゆかったとか言うんでしょう? 大きなお世話っすよ」
瓜子は温かい気持ちを苦笑で隠しつつ、グローブを外した拳をユーリに差し出してみせる。
瓜子はタッチのつもりであったのだが、ユーリはその拳を両手で包み込んできた。
「ユーリも、頑張るね。なるべくおねんねしないように気をつけるから、見守っててね?」
「はい。ユーリさんなら、きっと大丈夫っすよ」
瓜子は何の根拠もなく、そんな言葉を返すしかなかった。
そうして今度は、ユーリが花道に消えていく。その勇姿を見届けるために、瓜子は小走りで控え室に向かった。
「お疲れさん。大晦日の儲け話をドブに捨てねーで済んだみてーだなー」
その行き道で、次の出番であるサキの陣営と出くわす。
そして珍しくもサキが左手を上げてきたので、瓜子は通りすぎざまにハイタッチを交わすことになった。
「サキさんも頑張ってください! モニターで見守ってます!」
「へいへい。とっとと引っ込みやがれ」
きっとサキは、瓜子が一刻も早く控え室に戻れるように取り計らってくれたのだろう。その優しさを噛みしめながら、瓜子は控え室に踏み入った。
「うり坊、お疲れー! また百秒以内の秒殺だったねー!」
「何発かガード越しにもらったけど、まあノーダメージだよな。本当に大したもんだよ」
「今回も、エキシビションとは思えない迫力でしたね! 最後の攻防は、見とれちゃいました!」
「あの縦蹴りはお見事でしたねー。ワタシも見習いたいですー」
「猪狩さんは、やっぱりすごいです! わたしも猪狩さんを目標に、頑張ります!」
「ふふん。世界に挑むのに相応しい実力を見せつけただわね。その調子で、大晦日もせいぜい踏ん張るんだわよ」
ウォームアップに集中する天覇館の面々が無言でも、この騒がしさであった。
瓜子が慌ただしく頭を下げていると、にやにや笑った灰原選手が腕を引っ張ってパイプ椅子に座らせてくれる。
「ま、今はピンク頭の試合が気になってしかたないんでしょー? だったら、好きなだけ見守ってやりゃいいさ!」
「押忍。ありがとうございます」
サイトーの手でバンテージをほどかれながら、瓜子はモニターを注視した。
ケージでは、すでに両選手の紹介がされている。ユーリの白き優美な姿に、会場は大変な騒ぎであった。
そして選手紹介ののち、両者はケージの中央で向かい合う。
こちらは浅香選手のウェイトに合わせた六十八キロのキャッチウェイトであったため、三キロほど軽いユーリがいくぶん細く見えた。ただそれでも、くびれた腰以外の肉感はまったく負けていない。巨大なバストを差し引いても、胴体の厚みもほぼ互角であった。
「普通だったら、大一番にはさまれたエキシビションで三キロ差の相手とキャッチウェイトってのは危ない橋だけど……桃園に限っては、心配もいらないかな」
「そりゃーそうっしょ! こいつ、パウンド無しだったら男が相手でも引かないからねー!」
そんな言葉が飛び交う中、ユーリと浅香選手はがっしりと握手する。浅香選手は相変わらずユーリに対する親愛の念をあらわにしていたが――ただ、その大柄な身体からあふれかえる気合のほどは、ちょっと尋常ではなかった。
(なんか……見るからに手ごわそうだよな)
浅香選手は身長が百七十五センチもあるため、このウェイトでも鈍重な感じがしない。いかにもバランスのいい、均整の取れた体格であったのだ。足運びの軽やかさが、余計にそういう印象を強めるのかもしれなかった。
ただし今回はグラップリング・マッチであるため、瓜子も安心して見ていられる。パウンドやヒールホールドは禁止されているため、ユーリであれば負傷するリスクは限りなく低いはずであった。
試合時間は三分二ラウンドで、どちらかがタップを奪った場合はスタンドの状態から仕切りなおしとなる。負傷などのアクシデントが生じない限り、時間いっぱいまで試合が続けられるのだ。以前の鞠山選手とのグラップリング・マッチでは、五分二ラウンドに設定されていたが――今回は浅香選手の実力が未知数で、地味な展開になりかねなかったので、試合時間も考慮されたのだろうと思われた。
「柔術のキャリアで言うと、この浅香も香田と互角ってことだよね。ウェイトもちょうど同じぐらいだから、ずっと切磋琢磨してきたのかな」
「こいつとマオっちじゃ身長差がすごいから、おんなじウェイトって印象もないけどねー! ま、ピンク頭だったら心配いらないっしょ!」
控え室も、きわめて和やかなムードである。
ただし、エプロンサイドに見慣れない一団を発見した瓜子は、思わず背筋をのばすことになった。黒い無地のポロシャツを着込んで、首からバックステージパスを垂らしたその面々は、《ビギニング》のプロモーターたるスチット氏が用意した医療スタッフの一団であったのだ。
今日は試合そのものよりも、試合の後に注意を払わなければならないのである。
瓜子もまた、和んでいた気持ちを引き締めなおして、ユーリの姿を見守ることにした。
そんな中、いよいよ試合が開始される。
打撃技が使えないため、ユーリも浅香選手もすり足の前進だ。そして、中間距離に達するなり、浅香選手が鋭い踏み込みとともに両足タックルを見せた。
かなりの長身である浅香選手がおもいきり頭を下げて、ユーリの白い両足をからめ取る。その鋭い攻撃に、さっそく歓声があげられた。
まあ、不同視のせいで距離をつかむのが難儀であるユーリが先手を取られてしまうというのは、いつものことだ。
だが――その後の展開に、瓜子は息を呑むことになった。体格でまさる浅香選手はポジションキープなどまるで念頭になく、次から次へとポジションを入れ替えていったのである。
両足タックルからサイドポジションを取ったのち、すぐさまユーリの脇腹に右膝をあててニーオンザベリーの姿勢になる。ユーリが腰を切ってそこから回避すると、ユーリの頭の側に回って上四方だ。
そうして上四方の体勢からチョークを狙い、それを防がれると逆側のサイドに回り込む。そしてその過程でユーリの右腕をつかみ、アームロックのプレッシャーをかけた。
するとユーリはつかまれた右腕を支点にしてぎゅりんっと腰を切り、相手の左足を両足ではさみこもうとした。
すると浅香選手は初めて体重でユーリを圧迫しつつ、また頭方向に回避する。そして先刻よりも深くかぶさり、そのポジションでアームロックを狙い始めた。
浅香選手は無差別級と言っていい体格であるのに、ユーリや鞠山選手に負けないぐらいくるくると動いている。その動作がまた、きわめてなめらかで力強かった。
ユーリはブリッジで返そうとするが、浅香選手の身体は動かない。
そして、浅香選手がユーリの右腕を背中の側にひねりあげようとすると――ユーリの肉感的な両足が振り上げられて、浅香選手の頭部をはさみこんだ。
そうしてユーリが腰をひねると、頭をはさまれた浅香選手も引っ張られる。それで揺らいだ重心の隙間から、ユーリがするりと上半身を逃がした。
すると、浅香選手はユーリの右腕を解放し、マットを蹴ってユーリの身を跳び越えた。ユーリの右手側から、左手側に移動した格好だ。その勢いで拘束がゆるんだらしく、ユーリの両足から頭がすっぽ抜けた。
あらためて、浅香選手はユーリの上にのしかかろうとする。
その股座に、ユーリの左手が入り込んでいた。
さらにユーリは腰を跳ね上げて、浅香選手の移動に勢いをつけ加える。移動の力を利用された浅香選手は、ユーリとともにひっくり返り――上下のポジションが入れ替わった。
そしてそのときには、もうユーリの足が浅香選手の腰をまたぎ越している。
浅香選手の足方向を向いた、裏マウントのポジションだ。これは先月、パット選手を仕留めたときと同じポジションであった。
股座に差し込んでいた左腕は、すでに膝裏までのばされている。
すると浅香選手は自ら膝を曲げてユーリの左腕をはさみこみ、背後からユーリの背中にしがみついた。長身と、柔軟性のなせる技である。
しかしユーリは一秒と静止することなく、すぐさま身をねじって右手側に倒れ込む。そうして相手の膝裏から左腕を引っこ抜くと、腰に回された相手の手首をとらえてクラッチをもぎ離し、相手の裏側に回り込もうとした。
それと同時に、ユーリの左かかとが相手の左脇に引っ掛けられている。それで両者はまた一緒にひっくり返り、今度はユーリが下になってしまったが――ユーリは相手の右足をはねのけて横合いに滑り出ると、大蛇のようにぬるりとのたうって、相手の背中にへばりついた。
浅香選手は勢いをつけて、さらに身を返す。
しかしユーリの両足がその腰に回されていたため、浅香選手が上になってもバックポジションを取られたままであった。
浅香選手はチョークだけは取られまいと首を守りつつ、半身を起こす。ユーリもそれを追いかけたため、おんぶの状態で座り込む姿勢になった。
浅香選手はぜいぜいと息をつきながら、固く首を守っている。
すると――ユーリは相手の背中にのしかかりながら両腕をのばし、マットに膝を立てていた浅香選手の右足をつかみ取った。
浅香選手はぎょっとした様子で、ユーリを押し潰すべく背後に倒れ込む。
しかしユーリの両腕は、すでに浅香選手の右膝裏を捕獲していた。そして、倒れ込む過程でその右足がのばされて――相手の上半身ごしに膝靭帯をのばすという、きわめて変則的な膝十時固めが完成された。
そのままユーリが怪力を振り絞っていたら、浅香選手の膝靭帯もただでは済まなかっただろう。
しかしそのような事態に至る前にユーリは技を解除し、その後でレフェリーが両者の身をタップした。大きな負傷につながりかねない仕掛けであったため、技が極まる前から見込み一本と認められたのだ。
大歓声の中、ユーリはぴょこんと起き上がる。
瓜子は深々と息をつき、控え室の面々は感嘆の声をあげていた。
「なんだよ、今のー! あんな技、初めて見たんだけど!」
「あれはもう、とっさの判断で極められる関節を狙ったってことだろうね。それより驚いたのは、そこまでの過程だよ」
「はい! 途中から、こっちの理解が追いつきませんでした! ユーリさんはもちろん、浅香さんもすごいですね!」
「さすが雅ちゃんの教育が行き届いてるだわね。あの身体であそこまで動けるのは、大したもんだわよ」
瓜子もむしろ、浅香選手の技量に感服させられていた。彼女の技量が高いレベルに達しているからこそ、ユーリもそれに呼応しているのだ。ここまでの一分間は、卯月選手や鞠山選手とのグラップリング・スパーを思わせる流麗さであった。
(もちろん卯月選手や鞠山選手だったら、こんな簡単に一本は取られないけど……ユーリさんを相手にここまで動ける選手なんて、これまで他にいなかったもんな)
いちはやくマットに立ったユーリは、まるで楽しい遊び相手を見出したゴールデンリトリバーのように目を輝かせながら身を揺すっている。ユーリがこのような姿を見せるのは、それこそ鞠山選手とのグラップリング・マッチ以来であった。
そして、身を起こした浅香選手も、それは同様である。こちらはこちらで憧れのユーリの強さを体感して、感極まっている様子であった。
そんな調子で、残りの時間も瞬く間に過ぎ去っていった。
二頭の大型犬がじゃれあっているかのように、上になったり下になったりの大騒ぎであったのだ。最後に一本を取るのは常にユーリであったが、やはり瓜子は浅香選手の技量に感服せずにはいられなかった。
客席も、歓声の坩堝である。
寝技の応酬というのは経験者でないと理解できない部分が多いし、この試合に関しては瓜子でも把握しきれない高度な攻防が交わされている。しかし、両者の織り成す流麗かつ力強い動作だけで、人の心をつかむには十分なのであろうと思われた。
そうして三分ニラウンドの勝負は、あっという間に終了する。
一分に一回の割合でユーリがタップを奪い、文句のない圧勝である。ただしエキシビションであるため、勝敗はつけられない。汗だくの顔で笑うユーリにも、最後には力尽きて立ち上がれなくなってしまった浅香選手にも、惜しみない歓声と拍手が届けられた。
そして、ユーリは――試合が終わっても意識を失うことなく、自分の足でマットに立っていた。その笑顔も無邪気そのもので、浅香選手に手を貸して立ち上がらせる所作も、力感に満ちみちていた。
ユーリの不調が消え去ったのか、エキシビションであったために発露されなかっただけであるのかは、なんとも判別がつかなかったが――とりあえず、瓜子も安堵の息をつくしかなかった。
(やっぱり白黒つくのは、大晦日か……頑張りましょうね、ユーリさん)
そんな思いを胸に秘めながら、瓜子もモニターに拍手を送ることにした。
ユーリは満腹になったゴールデンリトリバーのように、いつまでも無邪気な笑顔をさらしていた。




