04 瓜子のエキシビションマッチ
前半の五試合が終了したならば、十五分間のインターバルをはさんで、いよいよ瓜子の出番である。
インターバル明けの特権で、次の出番であるユーリの陣営も瓜子たちと一緒に入場口の裏手に向かう。瓜子はそこで、道場の関係者水入らずの激励を受けることになった。
「うり坊ちゃん、頑張ってね! 扉の隙間から、ずーっと見守ってるから!」
「ま、今日はエキシビションだし身体も十分に温まってるから、許してやろう。とにかくそっちも、怪我だけは気をつけるんだぞ」
「ご武運をお祈りしているのです」
瓜子はひとりずつ拳をタッチさせて、「押忍」と答えてみせた。
ユーリは無邪気に、きらきらと瞳を輝かせている。その姿を目に焼きつけてから、瓜子は入場口の扉をくぐった。
今日も客席は、大歓声だ。
先月の《アクセル・ジャパン》とは比較にならない人数だが、もちろん物足りなく感じるようなことはない。むしろ会場が小さいほうが、熱気や歓声を身近に感じられるぐらいであった。
ほどよい昂揚を胸に、瓜子はケージインする。
今日の対戦相手も存分に気迫をみなぎらせて、瓜子の心を研ぎ澄ましてくれた。
今回も、キック界の一大勢力たる《トップ・ワン》から派遣された有力選手である。
前回の相手がランキング三位で、今回は二位だ。前回の相手は瓜子に一発の攻撃を当てることもできないままKO負けを喫したので、今回の相手はいっそう気合をみなぎらせているはずだった。
ルールは前回と同じく、一般的なキックの試合とほとんど変わらない。時間切れの場合は引き分けとなるが、KO決着はありえるルールであった。
ただし今回は瓜子の都合でマッチメイクの決定が遅れたため、五十五キロ制限のキャッチウェイトとなる。瓜子が《アクセル・ジャパン》の試合を終えるまで確約できなかったので、減量をお願いすることもできなかったのだ。ただし、瓜子のほうも二ヶ月連続で減量に臨むというのは負担が大きかったので、どちらが不利という話にはならないはずであった。
ともあれ、瓜子はナチュラルウェイトの、五十四キロ前後だ。
相手は五十五キロジャストであるが、平常体重はもっと重いのかもしれない。背丈は百五十五センチであるので、かなり固太りした肉厚の体型であった。
前回の相手は長身で足癖の悪いサウスポーのアウトファイターであったが、今回は正反対と言っていいタイプの選手であった。頑丈な肉体で相手の攻撃を受け止めて、前に前にと突進する、勇猛果敢なブルファイターであったのだ。
こういうタイプと相対するのは、瓜子もちょっとひさびさのことである。よって瓜子は最大限に用心していたし、それが集中に磨きをかけてくれた。
ルール確認を終えたならばグローブタッチを交わしてフェンス際まで引き下がり、レフェリーの「ファイト!」という宣言とともに、試合開始のブザーが鳴らされる。
前評判の通りに、相手は頭から突っ込んできた。
関節蹴りは反則となるので、瓜子はアウトサイドに回って相手の突進を受け流そうとする。
しかし相手も小回りがきくので、すぐさま対応してきた。
鋭い左ジャブが、瓜子の鼻先に飛ばされてくる。
それをパーリングで防ぎ、瓜子も左ジャブをお返しした。
相手は右腕でブロックしつつ、さらにぐいぐいと前進してくる。最近の瓜子は長身の選手を相手取ることが多かったので、こうまで間近に迫られるというのはひさびさのことであった。
しかしそれは、試合に限ってのことだ。
稽古では、自分と同じサイズであるメイとさんざんスパーを重ねているのである。その突進力と回転力を思えば、何も臆するところはない。相手の攻撃や踏み込みは鋭いが、メイほどではなかった。
ただし、選手にはそれぞれの個性というものが存在する。
思わぬタイミングで右アッパーを繰り出された瓜子は、ひやりとしながらスウェーで回避することになった。
するとそこに、レバーブローが繰り出されてくる。
それも右腕でブロックすることができたが――やはりこの選手も、メイとは異なるリズムやコンビネーションを備え持っていた。
おかげで瓜子は、ぐんぐん心が研ぎ澄まされていく。
相手の気迫、相手の強さが、瓜子を高みに引き上げてくれるのだ。赤星弥生子との対戦以来、瓜子はその事実を目で見るように実感できるようになっていた。
相手の攻撃はコンパクトで、間隙を突くのもなかなか難しい。
ただその代わりに、防御は固くない。頑丈さを誇る彼女は、攻撃こそ最大の防御という格言のもとに、攻撃の手腕を磨き抜いてきたのだろうと思われた。
相手の猛攻を回避しつつ、瓜子はひたすら神経を集中する。
そして、相手がこれまでよりもやや大振りなモーションで右フックを繰り出そうとしたとき、ついにひと筋の光明が見えた。
瓜子は頭を沈めつつ、左足を踏み込んで、そのまま左の追い突きを射出する。
相手の右腕の内側を通って、瓜子の左拳が相手の顔面に突き刺さった。
四オンスのオープンフィンガーグローブであれば、ダウンを取れたかもしれないぐらいの、深い当たりだ。
しかし、八オンスのボクシンググローブで拳の硬さがやわらげられて、威力は半減しているだろう。それを拳の感触で知覚した瓜子は、返しの右フックを繰り出した。
相手は決死の形相で、上半身をのけぞらせた。追い突きのダメージがそれなり以上であったため、さすがにこれは回避しようと考えたのだろう。
ただし、下半身はその場に残したまま、スウェーバックでかわそうとしている。この後は、まだインファイトを継続しようという心づもりであるのだ。
(だったら――)
瓜子は右フックを振り抜き、そしてそのまま横に旋回した。
右の後ろ足でマットを蹴り、左の前足を軸にスピンする。普段とは逆回転の、バックハンドブローだ。これならば、相手の意表を突けるはずであった。
左腕をおもいきりのばすと、裏拳に硬い感触が弾け散る。
首尾よく、相手のこめかみを撃ち抜くことができた。
しかし、相手は頑丈であり、瓜子の拳は威力が半減となっている。
結果、相手は大きく上体を泳がせただけで、ダウンを奪うまでには至らなかった。
だが、瓜子もそこまで想定している。
よって、旋回を終えたところで、さらに右足を振り上げていた。
相手はとっさに、左腕で頭部をガードしようとする。
素晴らしい反応速度である。
しかし瓜子が繰り出したのはただのハイキックではなく、軌道の異なるブラジリアンキックであった。足の短い瓜子でも、三センチの身長差なら当てられると判じたのだ。
瓜子の右足は、相手のガードの上にまで到達する。
瓜子はおもいきり腰をひねり、股関節を内旋させて、ななめ上方から相手の首に右脛を叩き込んだ。
金属バットと称される、瓜子の硬い脛である。
相手は瓜子の蹴り足に潰されるようにして両膝をつき、そのまま正面に倒れ込んだ。
瓜子がバックステップで衝突を回避すると、レフェリーはすぐさま試合終了を宣告する。
相手選手はマットに突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
『一ラウンド、一分十九秒! 右ハイキックにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』
大歓声が、爆発した。
瓜子は頭上を仰ぎ見て、大きく息をつく。
前回のエキシビションマッチは中途半端な当たりで試合が終わってしまったが、今回はハイキックをクリーンヒットさせることができた。狙った通りのハイキックでKO勝利を達成できるというのは、瓜子に得も言われぬ満足感を与えてくれた。
ただし、身体はまったく疲れていない。ちょっとしたスパーに取り組んだような、ほどよい達成感である。その奥に、もっともっと動きたいという筋肉の声が聞こえてくるかのようであった。
(これはやっぱり……先月の試合の印象が、まだ尾を引いてるのかな)
《アクセル・ジャパン》におけるグヴェンドリン選手との対戦では、ひさびさに集中力の限界突破ともいうべき状況まで追い込まれることになった。瓜子はあの状況に至ると呼吸ができなくなってしまうため、極度の酸欠状態に陥り、試合後どころか翌日までどっぷりと疲弊してしまうのだ。
今回はあくまでエキシビションマッチであるし、来月にも大一番を控えているのだから、まったく疲れなかったことに不平を申し述べることはできなかったが――ただどうしても、日本と世界の差というものをまざまざと感じてしまう。今日の対戦相手だって本気で瓜子を倒そうとしていたし、それだけの気合をみなぎらせていたのだ。しかし、瓜子にダメージを与えることもままならず、一分十九秒でマットに沈んでしまったのだった。
(きっとグヴェンドリン選手は格闘技一本で食べてるんだろうから、基本の練習量が違ってるんだろう。でも……それより大きいのは、やっぱりもともとのフィジカルなのかな)
瓜子がどれだけの攻撃をくらわせても、グヴェンドリン選手はなかなか倒れようとしなかった。彼女は気迫も凄かったが、それも頑丈な肉体に支えられてのことであったのだ。今日の対戦相手だって、最後のハイキックに耐えられる頑丈さを備え持っていたならば、瓜子にさらなる脅威を与えたのだろうから――やはり、根本の部分で異なっているのは、技術ではなくフィジカルなのではないかと思えてならなかった。
(だからやっぱり日本人選手は、フィジカルの差を埋められるぐらいの技術を身につけないといけないんだ)
瓜子がそんな想念を噛みしめていると、リングアナウンサーが笑顔でひょこひょこと近づいてきた。うっかり物思いに耽ってしまったが、今は試合の直後であったのだ。瓜子は半ばリングアナウンサーから逃げるような格好で、まずは対戦相手のもとに馳せ参じた。
「大丈夫ですか? 今日はありがとうございました」
セコンドの手で抱え起こされた対戦相手は、焦点の定まらない目つきで瓜子を見返してくる。
そして、にわかに正気を取り戻すと――化け物を見るような目で瓜子を見て、後ずさろうとした。
その挙動に、瓜子のほうこそ驚かされてしまう。
しかし瓜子はすぐさま心を整えて、グローブに包まれた相手の手を握りしめてみせた。
(あたしは、化け物なんかじゃないですよ。あなたの強さが、あたしの力を引き出してくれたんです)
そんな思いを込めて、瓜子はぎゅっと手に力を込める。
すると、瓜子の顔を恐ろしげに見返していた対戦相手が、弱々しく口もとをほころばせた。
瓜子はほっと息をつきながら、「ありがとうございました」と繰り返して相手の手を解放する。
すると、うずうずしながら待ちかまえていたリングアナウンサーが満面の笑みで近づいてきた。
『猪狩選手! 今日も素晴らしいファイトでした! 今年に入って八試合連続一ラウンドKO勝利というのは、驚くべき記録ではないでしょうか!?』
『押忍。ありがとうございます。でも、その内の三試合はエキシビションですので……慢心せず、稽古に励みたいと思います』
『来月の大晦日は、なんと《ビギニング》の日本大会に出場されるそうですね! 《アクセル・ジャパン》に続いてビッグイベントに抜擢された、今の心境をお聞かせください!』
『押忍。同じ話の繰り返しになっちゃうかもしれませんけど……自分はどんな舞台でも、《アトミック・ガールズ》の代表として頑張るつもりです。よかったら、応援よろしくお願いします』
瓜子が深く頭を垂れると、温かい歓声と拍手が応えてくれた。
そうすると、あちこちに気が散っていた瓜子の心がまた深く満たされていく。そして、自分自身の言葉が瓜子を鼓舞してくれた。
(《ビギニング》では、グヴェンドリン選手より強いミンユー選手とやりあうんだ。《アトミック・ガールズ》の代表として……日本人選手の代表として、意地を見せてやるぞ)
そんな思いを胸に、瓜子は深く一礼してみせた。
すると、まるで瓜子の言葉が届いたかのように、いっそう温かい拍手が会場中を埋め尽くしたのだった。




