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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
26th Bout ~Turbulent autumn~
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04 契約

《アクセル・ファイト》と《ビギニング》の両陣営と会談をしてからの一週間は、実に慌ただしく過ぎ去ることになった。


 何せその一週間の間に、『トライ・アングル』の新曲たる『YU』がリリースされて、大阪公演を行うスケジュールであったのだ。それにまつわる雑事は《アクセル・ジャパン》の開催前に完了させていたものの、大阪に遠征するだけで慌ただしいことに変わりはなかった。


「ネットニュースも、《アクセル・ジャパン》と『トライ・アングル』のことで埋め尽くされてたもんねー! あの新曲、マジで最高だったしさー!」


 灰原選手などは、そのように評していたものであった。

 ともあれ、大阪公演を無事にやり終えたならば、ついに《アクセル・ファイト》との契約の期日である。篠江会長は北米に戻ってしまったため、立松だけを付き添いとしてハリス氏のもとに出向いてみると、実にビジネスライクな対応をされることに相成った。


「なるほど。ベツのプロモーションから、サンマンドルのファイトマネーをテイジされたのですか。それは、スバらしいオファーですね」


 新宿のグランドホテルの一室で、ハリス氏は悠揚せまらず微笑んでいた。


「きっとそれは、《ビギニング》なのでしょう。ミスター・スチットは、アジアのセンシュのカクトクにネッシンですからね。……ザンネンながら、ゲンジョウではこちらもそれイジョウのファイトマネーをテイジすることはデキません。ウリコ・イカリのコンゴのゴハッテンをおイノりしています」


「ああ。これもそちらさんが猪狩を《アクセル・ジャパン》に抜擢してくれたおかげだからな。猪狩に活躍の場を与えてくれて、感謝しているよ」


「とんでもありません。ワタシジシンもウリコ・イカリのファイトスタイルにはオオきなミリョクをカンじていますので、いずれまた《アクセル・ファイト》のブタイにタっていただけるヒをココロマちにしています」


 そう言って、ハリス氏は穏やかな笑顔をメイのほうに移動させた。


「そして、メイ・キャドバリーはケイヤクショにサインしていただけるのですね? ありがとうございます。アナタをカンゲイいたします、メイ・キャドバリー」


 そうしてメイは契約書にサインをして、二月のシドニー大会に出場することが決定された。

 その後は世間話に興じることもなく、会談は呆気なく終了する。瓜子が落ち着かない気分でエレベーターに乗り込むと、立松が笑いかけてきた。


「どうしたよ? あちらさんに恨み言をぶつけられるとでも思ってたのか?」


「はあ。相手方の期待に応えられなかったっていうのは事実ですし……やっぱりちょっと、気まずさみたいなものを感じちゃいます」


「何を言ってやがるんだよ。期待に応えられなかったのは、あちらさんも同じことだろ? だから、契約を交わさずにおさらばすることになった。ただそれだけのことさ」


 一階のボタンを押しながら、立松はそのように言いつのった。


「《アクセル・ファイト》がお前さんを手放したくないなら《ビギニング》以上のファイトマネーを提示するか、いっそ正式契約でも持ち出せば済む話なんだからな。現段階で、お前さんはそれほどの価値がないと見なされてるんだから、気まずさなんざ覚える必要はねえよ」


「うん。《アクセル・ファイト》は、ビジネスライク。ウリコ、《ビギニング》で結果を出せば、またオファーをもらえるはず。僕、その日を待ってる」


 そうして立松とメイになだめられながらロビーに下りると、ニット帽とサングラスとマスクで人相を隠したユーリが、ぴょこんとソファから立ち上がった。この後はスチット氏のもとに向かうため、ユーリはロビーで待機していたのだ。


 スチット氏が待ち受けていたのは、前回と同じ料亭である。料理を注文するでもなく、ただ会談の場所として部屋を貸してもらえるというのは、スチット氏がよほど強力なコネクションを携えているのだろうと思われた。


「猪狩選手もユーリ選手も、こちらのオファーを受けてくださるのですね。心より感謝いたします」


 その日はスチット氏も、二名のスタッフを同行させていた。瓜子とユーリは、この場で契約書にサインをする手はずになっていたのだ。


「では、お二人の出場に関しては十一月一日の午後六時に発表させていただきますので、それまでは契約書にある通りに他言をお控えください。あとはウェブサイトで公開する宣材画像についても、何卒よろしくお願いいたします」


「ああ。何も抜かりがないように、しっかり対処させていただくよ。……あらためて、こんな立派なオファーをありがとうな。あんたがたには、心から感謝しているよ」


「とんでもありません。すべては、《ビギニング》と格闘技業界の発展のためですので」


 そんな風に言ってから、スチット氏は力強く笑った。


「それにしても……《アクセル・ファイト》の運営陣は、けっきょく猪狩選手を引き留めることもなかったのですね。《ビギニング》にお迎えできる嬉しさとともに、悔しさを感じてしまいます」


「そうは言っても、無名の新人選手に一万ドル以上のファイトマネーを準備するほうが規格外なんじゃないのかね」


「猪狩選手にそれだけの価値が存在することは、すでに証明されているかと思われます。先日の《アクセル・ジャパン》と……そして、昨年大晦日の《JUFリターンズ》だけで、猪狩選手の並々ならぬ実力は証明されているのですから」


「おや。やっぱりあんたも、《JUFリターンズ》の試合をチェックしてたんだな」


「もちろんです。ただしあの試合は対戦相手の赤星選手もまた規格外であったため、我々もあの一戦だけでは猪狩選手の評価を固めることがかなわなかったのです」


 そう言って、スチット氏はいくぶんおどけた調子で微笑んだ。


「無事に契約が締結されましたので、こっそり打ち明けさせていただきますが……もしもユーリ選手に出場をお断りされた場合は、赤星選手にオファーをかける心づもりでした」


「弥生子ちゃんに? でも、いくら大金を積まれても、あの頑固者の娘さんは――」


「はい。ですからその場合は、日本大会の一試合のみという契約内容になっていたことでしょう。それでは今後に繋がりませんので、我々もユーリ選手との契約を切望していた次第です」


 スチット氏は、他団体に興味がないと公言している赤星弥生子のことまでしっかり調査していたのだ。

 その抜かりのなさに感心すると同時に、瓜子は誇らしい気持ちであった。赤星弥生子というのは、やはり世界のプロモーターが注目するほどの存在なのである。


(まあ、地力で言ったら弥生子さんが日本最強なんだろうから、それが当然の話だけどさ)


 そのように考えながら、瓜子は新たな使命感を心に宿すことになった。瓜子は赤星弥生子と引き分けた身であるのだから、瓜子が活躍すればするほどに赤星弥生子の評価も上がるはずなのである。《レッド・キング》に殉じると決心した赤星弥生子のために、瓜子ができるのはそれぐらいのことしかなかった。


「ともあれ、お二人をお迎えすることができて何よりです。ミンユー・ワンもエイミー・アマドも強敵であることに変わりはありませんが、お二人であれば間違いなく互角以上の勝負ができることでしょう。決して油断せず、最高の結果を目指していただきたく思います」


 スチット氏の激励に、瓜子とユーリはそれぞれ頭を下げる。

 いっぽう立松は、スチット氏の笑顔をまじまじと見つめていた。


「スチットさん。あんたは……本当に、この二人にたいそう目をかけてくれてるんだな」


「もちろんです。ファイターとしての実力と人間としての魅力を兼ね備えたお二人は、アジアの星でありましょう。それがいつか世界の星として輝く日を、わたしは心待ちにしています」


 立松は「ふむ」と、下顎を撫でさすった。


「こいつは、この前から思ってたことなんだが……あんたは最終的に、こいつらが《アクセル・ファイト》で活躍することを期待してるのかい?」


「ええ。もちろんお二人が《ビギニング》の王者として君臨してくださるのでしたら、それもひとつの理想でありますが……アジアの選手が《アクセル・ファイト》で王座をつかむというのも、わたしにとっては大きな夢のひとつですので」


 きっとそういう懐の深さが、瓜子の心を引きつけるのだろう。

 そんなスチット氏が代表を務める《ビギニング》で活動できるというのは、心からありがたい限りであった。


「でもこれで、いよいよ《アトミック・ガールズ》での活動は難しくなってきちゃいますね。たとえ国内の試合は許されてても、先に契約した《ビギニング》の試合を優先しないといけないわけですから」


 スチット氏との会談を終えたのち、瓜子がそのような感慨をこぼすと、ユーリは「うにゃあ」とニット帽に包まれた頭を抱え込んだ。


「ユーリにとって唯一の心苦しさは、そこなのです。一年もおやすみしていたユーリを温かく迎え入れてくれたのは、《アトミック・ガールズ》なのに……これでは恩知らずの守銭奴と罵られても返す言葉がないのではないでしょうか?」


「まともなファイトマネーも支払えない《アトミック・ガールズ》に、そんな文句をつける資格はないだろうよ。《フィスト》や《NEXT》だって、主要の選手にはもっとファイトマネーをはずむもんなんだからな」


 そんな風に言ってから、立松は理解を示すように笑顔を見せた。


「まあ、お前さんがたはアトミックの所属選手とめいっぱい懇意にしてるから、そういう思いもつのるんだろうけどな。だが、お前さんがたはそういう選手たちのために身を張って、でかい道を切り開こうとしてるようなもんなんだ。心苦しく思う必要なんざ、これっぽっちもありゃしねえよ」


「……そうっすよね。自分たちが結果を出したら、他のみなさんだって後に続けるんでしょうから。アトミックの看板を背負って、一緒に頑張りましょうよ」


 瓜子がそのように言葉をかけると、ユーリは「うん」と子供のようにうなずいた。そして、サングラスの上側から上目づかいで立松の顔色をうかがう。


「それで、あにょう……可能であれば、エキシビションでも《アトミック・ガールズ》に出場したいところなのですけれども……立松コーチにもお許しをいただけるでしょうか……?」


「そいつは、体調次第だな。まあ、十一月大会に関しては心配もなさそうだけどよ」


 立松が苦笑まじりに答えると、ユーリは星のように瞳をきらめかせた。ユーリも瓜子も《アトミック・ガールズ》の十一月大会は、《アクセル・ジャパン》で深いダメージを負わなければエキシビションマッチで出場したいという旨を伝えていたのだ。


 なおかつユーリは、試合直後に意識を失ってしまうことから《アクセル・ファイト》で試合ができなくなってしまった旨を、すでにパラス=アテナに伝えている。しかしパラス=アテナの代表である駒形氏も、精密検査で異常が発見されなかったのなら是非出場してもらいたいと懇願していたのだった。


(確かにまあ……《アクセル・ファイト》ぐらい慎重になるのも、わからなくはないんだけどさ)


 ユーリは意識を失うだけでなく、呼吸や脈まで止まっていたという証言が取れている。それが事実であるかどうかは判然としないものの、もしも本当のことであったなら――瓜子とて、胸が痛くなるぐらい心配であった。


 しかし、普段のユーリは元気いっぱいであるし、精密検査でも異常は発見されていない。異常が見られないということは、治療のすべも存在しないということであるのだ。


 ユーリは何か、現代医学では解明できない不調を抱えているのかもしれない。

 あるいは、試合の楽しさで感極まって、寝入っているだけなのかもしれない。

 そんな曖昧な状況で、ユーリに格闘技をあきらめろなどと言うことは、瓜子には決してできなかったのだった。


(スチットさんは、試合の日に特別に医療スタッフを準備してくれるって言ってたし……きっと何も、おかしなことにはならないはずだ)


 瓜子としては、そんな思いにすがるしかなかった。

 そしてユーリ自身は何を心配するでもなく、試合をできる喜びにひたっているのだった。


「さて。それじゃあ俺は、道場だ。お前さんがたは、撮影の仕事だったっけか?」


「押忍。音楽関係だけじゃなく、またモデル関係の仕事もぽつぽつ入り始めちゃったんすよ。このまま自分だけでもフェードアウトできたら最高だったんすけど……」


「あんまり、親御さんを心配させないようにな」


 そんな会話を最後に、瓜子たちは立松と別れてタクシーに乗り込むことになった。

 そうして後部座席に落ち着くと、マスクを外したユーリが瓜子のもとに唇を近づけてくる。


「普通はモデルのお仕事よりも、格闘技の試合のほうが心配はつのるだろうにねぇ。立松コーチは、そんなにうり坊ちゃんの珠のお肌が満天下にさらされることを気に病んでらっしゃるのかしらん?」


「そんなもん、自分だってめいっぱい気に病んでるっすよ。このまま道場に逃げ込みたい気分です」


「にゃはは。うり坊ちゃんと立松コーチは、ほんとに親子みたいだねぇ」


 そんな風に囁いてから、ユーリはさらに言葉を重ねた。


「そんなうり坊ちゃんと立松コーチには、ユーリも感謝の気持ちでいっぱいなのです。……ユーリが試合をすることを止めないでくれて、どうもありがとうね?」


「……どうしたんすか、いきなり? そんなの、当たり前の話じゃないっすか」


「うん。だけど、うり坊ちゃんはときどきすごく心配そうなお顔をしてるから……本当は、ユーリにもう試合をしてほしくないって気持ちも残されているのでしょう?」


 瓜子は思わずユーリの顔を見返したが、大きなサングラスが目もとを隠してしまっている。

 瓜子が手をのばして、そのサングラスをずらすと――ユーリは、とても透き通った眼差しで瓜子の顔を見つめていた。


「……自分はいつも通り、おたがいの立場を入れ替えて考えただけっすよ。自分がユーリさんと同じ立場だったら、絶対に格闘技をあきらめたくないって考えるでしょうから……それなら、ユーリさんを応援するしかありません」


「うん。心配する気持ちを押し殺して応援してくれるうり坊ちゃんの優しさが、ユーリのお胸を満たしてくれるのです」


「そんな大きなお胸を満たせるだなんて、誇らしい限りっすね」


「いやーん。セクハラは禁止なのですぅ」


 ユーリは、あどけなく微笑んだ。

 だから瓜子も、力ずくで笑ってみせる。瓜子はどれだけの不安を抱えていても、この笑顔を守り抜こうと決意していたのだった。

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