03 選択
そうしてスチット氏との会談を終えたプレスマン道場の一行は、新宿のグランドホテルに舞い戻ることになった。
今度は道場の人間だけで、入念に話し合うことになったのだ。篠江会長が滞在しているのはスイートならぬデラックスのシングルであったが、高級感にあふれかえっていることに変わりはなかった。
「こんな展開になるとは、想定外も甚だしいぜ。だけどまあ……卯月の言ってたことに間違いはなかったわけだな」
そちらの部屋に腰を落ち着けるなり、立松がそんな感慨をこぼした。
卯月選手の言葉というのは――ユーリが選手として復帰したならば、あちこちのプロモーターが動き出すに違いないという発言についてであろう。そちらに先を越されないように、《アクセル・ファイト》の運営陣はユーリに代役出場を持ちかけてきたのだろうという見込みであったのだ。
「で、《アクセル・ファイト》が早々に動いたからには、他のプロモーターも巣穴に戻っただろうがな。さっきのスチットさんだけは、執念深く喰らいついてきたわけだ」
「ああ。それも資金力のなせる技だな。《アクセル・ファイト》より高額のファイトマネーを出せる団体なんて、そうそうないだろうからよ」
篠江会長の言葉に、立松は小首を傾げた。
「でも、去年の『アクセル・ロード』のオファーを断ったのは王者の二人だけで、他の連中はのきなみ出場してたよな。つまり、あの連中はそれほどのファイトマネーをいただいてなかったってことだ。自国の人間を差し置いて猪狩たちに目をかけるってのは、ちっとばっかり胡散臭くないですかね?」
「いや。《ビギニング》は今年に入ってから、いっそう羽振りがよくなったんだよ。なんでも、シンガポール政府の投資公社から莫大な支援をされたらしい。それだけ見込みのある企業だって認定されたわけだな」
そう言って、篠江会長はにやりと笑った。
「そうでなくても、スチットさんに胡散臭さなんて皆無だっただろうよ。あんなお人を疑えるほど、お前さんは立派な人間なのか?」
「俺は大事な門下生のために、泥をかぶってるだけですよ。心情的には、すっかり《ビギニング》に傾いちまってますからね」
そう言って、立松は瓜子たちに向きなおってきた。
「しかしまあ、最後に決めるのは本人だ。桃園さんなんかは、深く悩む必要はないだろうけどな」
「はぁい。もう試合はできないかもと思ったところにこんな話をいただいて、ユーリのココロはしっちゃかめっちゃかですぅ」
ユーリは眉を下げながら、ふにゃふにゃ笑っていた。
しかしそれでも、ユーリに明るい笑顔が戻ったのだ。それだけでも、瓜子はスチット氏に絶大なる感謝を捧げたいところであった。
「で、悩ましいのは、お前さんだ。まさか、《アクセル・ファイト》と《ビギニング》を天秤にかけることになるとはな。俺は呆れて、言葉も出ねえよ」
「はあ……自分は、どうしたらいいんすかね?」
「なんだ、珍しく弱気じゃねえか。さすがのお前さんも、面食らったか」
「そりゃあそうっすよ。《ビギニング》なんて、自分の頭にはまったくなかった存在なんですから」
言うまでもなく、瓜子はまったく心が定まっていなかった。
心情的に、《ビギニング》に――というか、スチット氏に魅力を感じているのは、立松と同様である。ビジネスライクな《アクセル・ファイト》の運営陣に対して、スチット氏には確かな熱情を感じたのだ。
「だけどな、《アクセル・ファイト》のアダム代表だって、スチットさんに負けないぐらい暑苦しい男だぞ。どっちにせよ、MMAに対する情熱が原動力だってことに変わりはないんだからな」
しかつめらしい面持ちで、篠江会長がそのように言いたてた。
「ただ、《アクセル・ファイト》はあれだけ馬鹿でかい組織だから、アダム代表は選手のひとりひとりにまで手厚くケアすることはできない。それに……愛国心だとか何だとかって話になると、スチットさんのほうが身近に感じられるだろう。アダム代表も人種差別とは無縁なお人柄だが、どうしたって一番に考えるのは北米の選手のことだろうからな」
「ああ。スチットさんは、アジアの格闘技業界を盛り上げようって踏ん張ってる。で、日本もアジアの一部なわけだから、その範疇にあるってこった。全世界の格闘技業界を盛り上げようとしてるアダム代表よりは、規模が小さいぶん端々にまで目が届くってこったな」
立松も、篠江会長と同じような面持ちで言葉を重ねた。
「それとおんなじ論法で、《ビギニング》のほうが日本人選手を手厚く迎えられるってわけだよ。《アクセル・ファイト》にとってのお前さんは有望な若手選手のひとりに過ぎないが、《ビギニング》にとっては……アジアで一番も夢じゃないってレベルの有望株なんだろうからな」
「そうだな。だからまあ、どっちの道を選ぶかは本人次第だ。《ビギニング》でトップを目指すもよし、そいつを手土産に《アクセル・ファイト》に乗り込むもよし――それに、《ビギニング》をすっとばして《アクセル・ファイト》で頂点を目指すってのも、もちろん間違った選択じゃないぞ」
そう言って、篠江会長はぐっと身を乗り出した。
「ファイトマネーに関しては、スチットさんの言う通りだろう。《ビギニング》を経由したほうが――あるいは《ビギニング》で活動し続けたほうが、でかい財産を築けるかもしれない。ただそれでも、世界の最高峰は《アクセル・ファイト》だ。世界で一番強い人間を目指すなら、《アクセル・ファイト》で勝負するしかないんだよ」
「ああ。それに、選手の寿命ってのは限られてる。今のお前さんは絶好調だから、その状態で《アクセル・ファイト》に乗り込んだほうがいい結果を出せるかもしれない。しかし、未来のことなんざ誰にもわからないから、けっきょく本人が決断するしかないんだよ」
そのように言われると、瓜子はいっそう困惑してしまう。
すると――会談の場でも移動中でもずっと無言をつらぬいていたメイが、いきなり発言した。
「僕は、《ビギニング》、経由するべきだと思う」
瓜子は愕然として、メイのほうを振り返った。
立松も、「ほう」と意外そうな声をあげる。
「でもメイさんは、猪狩と一緒に《アクセル・ファイト》に殴り込みをかけることが、人生の目標だったんだろう?」
「うん。だけど、《ビギニング》、大きな経験を詰めると思う。そうしたら、ウリコ、もっと強くなると思う」
そう言って、メイは黒い瞳に恐ろしいほどの熱情をたぎらせた。
「僕の夢、一番強いウリコと戦うことだから……正しい道、選んでほしいと思う」
「ふうん? だけど、選手の質が高いのも、《アクセル・ファイト》のほうだろう? このまま《アクセル・ファイト》の地方大会で実績を積んだほうが、近道なんじゃないのかね」
「僕、そうは思わない。現時点でも、《ビギニング》のほうが、質の高い対戦相手を準備してるから」
「現時点でって……もしかしてメイさんは、《アクセル・ファイト》が提示したアイルランドの選手を知ってるのかい?」
「うん。試合、観たことないけど、僕の知ってる北米の選手に負けてた。戦績だけでは、判断できない部分はあるけど……総合的な評価で、グヴェンドリン・タンと互角か、やや下回るぐらいだと思う」
「なるほど。ミンユー・ワンって選手は今年の頭にグヴェンドリン選手を下してるわけだから、それならアイルランドの選手より強敵だと言えるのかもな」
立松は考え深げな面持ちで、ごつい下顎をかいた。
「だけど、強い相手とやりあったら、そのぶん選手生命が縮む危険もあるんだぞ? 《アクセル・ファイト》に行き着く前に絶頂期を過ぎちまったら、台無しなわけだからな」
「ウリコは、もっと強くなる。僕は、一番強いウリコと戦いたい」
メイはそのように言ってから、ふいに眼光をやわらげた。
「それに……選手にとっては、メンタルも重要。そっちの意味でも、ウリコは《ビギニング》に参戦するべきだと思う」
「ああ、《ビギニング》のほうがやりがいを持てるって話かい?」
「それもあるけど、ユーリのこと。……ユーリと離ればなれになったら、ウリコ、心を削られると思う」
瓜子は思わず息を呑み、ユーリは「うにゃあ」とおかしな声をあげた。
「それはもちろん、うり坊ちゃんと同じ場所で試合をできたら、ユーリはボーガイのコーフクでありますけれども……でもでも、そんなことでうり坊ちゃんのお邪魔をしてしまっては……」
「ユーリじゃなく、ウリコ自身の心境。ユーリを置いて《アクセル・ファイト》に参戦するより、ユーリと一緒に参戦したほうが、ウリコは強くなれるはず」
「ああ、なるほど。桃園さんが《ビギニング》で活躍したら……というか、試合をしてもおかしなことにはならないと証明できれば、また《アクセル・ファイト》と契約する目も出てくるわけか」
そう言って、立松は自分の頭を引っかき回した。
「メイさんに言われて気づいたけど、俺は桃園さんのほうもちっとばっかり心配だよ。猪狩が桃園さんを置いてイギリスなんざに遠征しちまったら、桃園さんがぶっ倒れちまうんじゃないかってな」
「うにゃあ。それこそ、ユーリが死力を尽くして耐え忍ぶのですぅ。ユーリなんかがうり坊ちゃんの足枷になってしまったら、申し訳なさの極致ですので……」
「いや。ファイターだって、人間なんだ。すべてを捨てて格闘技に打ち込むなんてのは響きのいい言葉に聞こえるが、人間関係を二の次にするやつなんざ、俺は信用できないね」
立松は頭をかくのをやめて、ふてぶてしく笑った。
ただその目は、とても優しげな光をたたえている。
「それに、ファイターとしての観点から考えても、自分にとってベストの環境を整えるべきなんだよ。そこまで踏まえて、猪狩は自分の進む道を決めるべきだろうな」
「そう……ですよね……でも……それを言ったら、自分の気持ちは最初っから決まっちゃってるんですけど……」
瓜子がもじもじしながらそのように答えると、立松は得たりとばかりに苦笑した。
「つまりは、お前さんも《ビギニング》でやる気まんまんってことか」
「やる気まんまんっていうか……できることなら、自分はユーリさんと同じ場所で活動していきたいと思ってましたから……」
そんな瓜子の気持ちに歯止めをかけていたのは、メイの存在である。ユーリと一緒にいたいなどという理由で《アクセル・ファイト》を二の次にしてしまったら、メイが悲嘆に暮れてしまうのではないか――と、瓜子はそんな不安を抱いていたのだった。
しかしメイは、まるで先回りをするように瓜子の不安を打ち砕いてくれた。
きっとメイは、瓜子の心情などお見通しであったのだ。そんな風に考えながらメイのほうを振り返ると、そちらには澄みわたった眼差しが待ち受けていた。
「僕、ウリコたちと一緒にいることで、強くなれた。ウリコ、ユーリと一緒にいることで、もっと強くなると思う。だから、ユーリと一緒に《ビギニング》で頑張ってほしい」
「……メイさんは、本当にそれでいいんすね?」
「僕の気持ち、さっき語った。僕、一番の目的は、ベストの状態で、一番強くなった瓜子と戦うこと。僕、《アクセル・ファイト》の王者になって、ウリコのこと、待ってる」
瓜子は胸が詰まってしまい、思わず涙をにじませてしまった。
すると、篠江会長がしみじみと息をつく。
「お前さんは立派だな、メイさんよ。……とにかく猪狩も頭を冷やして、じっくり考えておけ。返事の期限は一週間後なんだから、ここで即断する必要はない」
「押忍。ありがとうございます。しっかり考えて、納得のいく答えを出します」
瓜子がそのように答えたとき、ポケットの中の携帯端末がバイブ機能でメールの受信を伝えてきた。
確認してみると、相手は灰原選手である。文面は、『用事は終わったー? こっちはもうすぐ到着だよー!』であった。
「あ、すみません。もう約束の時間みたいっすね」
「なんだ、もうそんな時間か。やいやい騒いでる間に、半日が終わっちまったな」
本日は午後からこちらのレストランのひとつを貸し切って、《アクセル・ジャパン》の打ち上げを行う予定であったのだ。本来は当日の夜に行う予定であったが、ユーリが精密検査を受ける都合から先延ばしにされて、どうせならばチーム・プレスマンの送別会も合同で行おうと決せられた次第であった。
「まあ何にせよ、こんな立派なオファーをもらえたのは試合で結果を出したおかげなんだからな。悩むのは明日からにして、今日は好きなだけ羽目を外せよ」
立松は優しい眼差しで、そんな風に言ってくれた。
ユーリのほうを振り返ると、そちらはまだふにゃふにゃ笑っている。
瓜子自身、まったく気持ちは定まっていなかったが――しかし立松の言う通り、スチット氏の提案は四日前の試合があってのことであったのだ。ユーリがその身の力でもって運命を切り開いたのだと考えれば、瓜子も心を安らがせることができた。
そしてそれは、瓜子自身も同じことだ。もしも瓜子がグヴェンドリン選手に敗北していたならば、《アクセル・ファイト》からも《ビギニング》からもオファーをもらうことはできず――ユーリをひとりで《ビギニング》に送り出す結果になっていたわけであった。
(……頑張った甲斐がありましたね、ユーリさん)
瓜子がそんな思いを込めて笑いかけると、ユーリはゆるんだ笑顔のまま透き通るような眼差しを見せた。
そうして瓜子たちは四日間ものブランクを経て、ようやく《アクセル・ジャパン》における勝利を心から噛みしめることがかなったのだった。




