ACT.4 Branch point 01 オファー
《アクセル・ジャパン》の翌日――十月の第四月曜日である。
ユーリは瓜子とジョンおよび《アクセル・ファイト》の運営スタッフに付き添われて、大学病院で精密検査を受けることになった。
しかしそちらでも、何らかの異常が見つかることはなかった。血液検査やら何やらの結果は数日待たなければならなかったが、もっとも懸念されていた脳の状態については即時に問題なしと判じられたのである。
「桃園さんはおよそ一年前に頭蓋骨の陥没骨折で手術されたそうですが、そちらの予後も良好のようです。少なくとも、脳へのダメージはいっさい見られません」
担当の医師はそのように語っており、瓜子はまた安堵の息をつくことになった。
しかし《アクセル・ファイト》の運営スタッフは、むしろ異常が発見されなかったことをいぶかしむように眉をひそめていた。
「ではとりあえず、血液検査などの結果を待ちましょう。そしてその間に、心療内科の受診もお願いできますでしょうか?」
それは、篠江会長も懸念していた事項であった。身体のほうに異常がないのであれば、心因性の症状なのではないか――という判断だ。
しかし、そちらの受診でも異常が発見されることはなかった。
さらにユーリは《アクセル・ファイト》運営陣の思惑とは関係なく、山科医院でも定期健診を受けて、そちらでも問題なしという診断を下されることになった。さらに二日後には大学病院で行った血液検査等の結果も出て、完全無欠に健康体であることが立証されたのである。
瓜子としては、神に感謝したい気持ちでいっぱいであった。
長きの入院生活を経て復帰したユーリがさらなる不調に見舞われるなど、瓜子にとっては悪夢そのものであったのだ。ユーリ本人はずっとのほほんとしていたが、瓜子は心底から安堵の息をつくことになったのだった。
だが――話は、それで終わらなかった。
ユーリの人生に、また大きな壁が立ちはだかることになったのだ。
その事実が明らかにされたのは、血液検査などの結果が出た十月の第四水曜日のことであった。
◇
十月の第四水曜日――プレスマン道場の一行は、昼から新宿のグランドホテルを目指すことになった。
卯月選手たちが滞在している、都内でも有数の高級ホテルである。チーム・プレスマンおよび篠江会長と早見選手は、明日北米に出立する予定になっていた。
「よう、桃園さん。まごうことなき健康体であることが証明されて、何よりだったな」
顔をあわせるなり、篠江会長は不敵な笑みを届けてきた。
それと相対するのは、ユーリと瓜子とメイ、そして立松の四名である。プレスマン道場の一行は、《アクセル・ファイト》のブッキングマネージャーたるハリス氏の要請で出向いてきた身であった。
「あちらさんは、手ぐすね引いて待ちかまえてるよ。どんなオファーがもらえるのか、楽しみなところだな」
ハリス氏はブッキングマネージャーであるため、今回も試合のオファーにまつわる案件で招集されたのだ。電話ですまさず対面を要求してきたということは、かなり本腰を入れたオファーであるはずであった。
「それにしても、本当に三人いっぺんに出向くつもりなのか? いくらチームメイトでも、こういう話は別個に行うもんだぞ?」
「どうせ自分たちに隠し事はないから、時間を節約したいんだそうですよ。まあ、俺としてもありがたい限りですね」
そのように答える立松は、小さからぬ緊張と昂揚をあらわにしている。いきなり正式契約の話を持ち出されることはなかろうが、今度は海外の地方大会に出場依頼されるのではないかと、立松たちはそのように判じていたのだった。
いっぽう、今日の朝方までユーリの診断結果にやきもきしていた瓜子は、まだ頭を切り替えられていない。今は試合のことよりも、ユーリの健康状態に問題がなかったことで頭や胸がいっぱいであったのだ。
ただし、《アクセル・ファイト》の運営陣も今日まで動きを見せなかったということは、ユーリの診断結果を踏まえた上で何らかのオファーをかけようとしているはずであった。
(トップランカーを下したユーリさんは、すぐさま正式契約を持ち出されてもおかしくないんだからな)
そんな風に考えると、瓜子の心臓はおかしな具合に跳ね回ってしまう。
しかしやっぱりユーリ当人は、ずっとのほほんとした面持ちであった。三度にわたる精密検査も、ユーリは文句のひとつをつけることもなく粛然と取り組んでいたのだ。それは、まな板の鯉と称するのに相応しい従順さであったのだった。
(まあ、周りがあれだけ心配してたから、ユーリさんも文句をつける気になれなかったんだろうな。ユーリさんも、それだけチームメイトを大切に思ってるってことだ)
そんな思いを噛みしめながら、瓜子は頼もしきチームメイトとともにエレベーターに乗り込んだ。
向かう先は、ハリス氏が予約を取った部屋である。今回のオファーに卯月選手やレム・プレスマンは無関係であるが、プレスマン道場のトップたる篠江会長もこちらに滞在していたため、会談の場所に選ばれたのだ。試合のオファーのためだけにこんな高級ホテルの一室を借りるとは、さすが世界の《アクセル・ファイト》であった。
「オウ、みなさん、おマちしていました。どうぞ、こちらに」
指定された部屋に出向くと、笑顔のハリス氏が待ち受けていた。
もう一名、若いスタッフも無表情に一礼してくる。試合の当日とその翌日、精密検査に立ちあってくれたスタッフだ。篠江会長を先頭にして、瓜子たちはその豪華な一室へと足を踏み入れた。
「コンカイの《アクセル・ジャパン》は、カコサイコウのモりアがりでした。これも、みなさんがスバらしいシアイをミせてくれたおかげです。《アクセル・ファイト》のスタッフをダイヒョウして、おレイをイわせていただきます」
立派なテーブルの席に着席すると、ハリス氏はまずそのように口火を切った。
「それらのケッカをフまえて、アラたなオファーのおハナシをさせていただきたいのですが……ワタシよりもこちらのスタッフのほうがニホンゴがトクイですので、ここからはカレにセツメイしていただきます」
「あんたも、立派なもんだと思うがな。まあとにかく、じっくり話を聞かせていただこうか」
「承知しました。……本当に、三人ご一緒でかまわないのですね?」
スタッフの問いかけに、篠江会長は「ああ」と肩をすくめる。
「型破りなのは承知してるが、本人たちの希望でね。どんな内容でも文句は言わせないし、守秘義務もきっちり守らせるから、説明をお願いするよ」
「承知しました。ではまず、メイ・キャドバリー選手に対してのオファーから始めさせていただきます。……メイ・キャドバリー選手には、来年二月に開催されるシドニー大会への出場を要請いたします」
来年二月――四ヶ月も先の話であるが、《アクセル・ファイト》は早めにマッチメイクを決定する方針であるのだ。
なおかつシドニーというのは、メイの故郷である。実際の故郷は、都市から離れた村落であるという話であったが――養父に引き取られてから北米に移り住むまでの数年間は、シドニーで過ごしていたはずだ。ずっと感情を押し殺していたメイは、一瞬だけ鋭く眼光を閃かせていた。
「対戦相手は、二名の候補から選ぶ予定です。どちらも現地のプロモーションで活躍している選手となりますね。実績は、先日対戦されたアン・ヒョリ選手に劣るものではないでしょう。詳細は、こちらをどうぞ」
スタッフは二枚の書類を準備しており、メイと篠江会長が一枚ずつ受け取った。
「ふん。ファイトマネーは据え置きだが、今回は勝利者ボーナスが設定されてるのか。それなら、倍額も同然だな」
書類にざっと目を通してから、篠江会長はメイに向きなおった。
「返事の締切は一週間後だそうだから、何も即断する必要はない。とりあえず、その内容を頭に叩き込んでおいてくれ」
メイは鋭い視線で書類の内容を検分しつつ、無言でうなずいた。
「まあ、さすがにまだギャラ交渉できる身分ではないだろうからな。受けるかお断りするかの二択だろう。来週までには、心を決めていただくよ」
「はい。それでは次に、ウリコ・イカリ選手ですが……こちらは来年一月に開催が予定されている、グラスゴーの大会です」
「グラスゴー……イギリスか」
新たな書類が、篠江会長と瓜子に差し出される。篠江会長はメイの書類を立松に渡してから、それを受け取った。
「条件は、メイさんとそう変わらねえな。相手は、アイルランドの選手か」
「はい。こちらも、グヴェンドリン・タン選手に劣る実績ではないかと思われます」
であれば、強敵であることに間違いはない。
まだ頭の切り替わっていなかった瓜子の胸にも、ふつふつと新たな熱が宿り始めた。
「一ヶ月ずれでグラスゴーとシドニーってのは、なかなかの手間だが……こんな立派なオファーに文句をつけることはできねえな。俺もしっかりフォローするから、周りのことは気にせずに考えろよ、猪狩」
「押忍。ありがとうございます」
そうしてついに、ユーリの番である。
だが――スタッフの手もとに、もはや書類は残されていなかった。
「……で? 桃園さんにも用事があるから、わざわざ呼びつけたんだよな?」
「はい。ユーリ・モモゾノ選手に対するオファーは……当面の間、差し控える方針です」
瓜子は思わず書類から顔をあげて、スタッフとハリス氏の姿を見比べてしまった。
すると立松が、瓜子の鼻先に手の平をかざしてくる。瓜子がそちらに向きなおると、立松は怖い顔で眉をひそめていた。
「お前さんは一選手に過ぎないんだから、余計な口をはさむなよ? そのために、俺と会長が出張ってるんだからな」
「押忍。よろしくお願いします」
しかしこうなっては、瓜子も書類を眺めてはいられない。瓜子は固く口を引き結びつつ、次の言葉を待つことにした。
「それじゃあ、聞かせていただこうか。当面の間ってのは、いつまでのことなんだい?」
「それは、ユーリ・モモゾノ選手の健康状態に問題はないと確信できるまでとなります」
スタッフはよどみのない口調で、そのように答えた。
ハリス氏も、至極穏やかな面持ちだ。
篠江会長はスツールに座りなおしつつ、「ふん」と鼻を鳴らした。
「血液検査なんかの結果に関しては、朝の内に伝えたはずだな。それでも、不安が消えないってことかい?」
「はい。我々は、レフェリーの証言を重視しています。試合直後に呼吸と脈が止まるというのは、決して見過ごせる事態ではないはずです」
「それが本当のことなら、俺も同感だよ。ただ、精密検査の結果はオールグリーンだった。これ以上、何をどうしたら桃園さんの健康状態を証明できるのかね」
「それは……やはり、今後の試合後の様子を検分するしかないのではないでしょうか?」
「ふふん。だけど、その尻を持つ気はないってことだな。まあ、桃園さんの身に何かあったら、《アクセル・ファイト》の一大事ってわけか」
「はい。試合中や試合直後に、もしもユーリ・モモゾノ選手が帰らぬ人となってしまっては……《アクセル・ファイト》の今後の運営にも大きな支障が出てしまうことでしょう」
「ずいぶん不吉なことを言ってくれるじゃねえか。まあ、明け透けに語ってくれるのはありがたい限りだがね」
篠江会長は、考え深げな面持ちで腕を組んだ。
「それにまあ、桃園さんは《アクセル・ファイト》の試合で頭蓋骨を割られた身だ。その後遺症はいっさい見られないって診断だが……これで桃園さんの身に何かあったら、どうしたって《アクセル・ファイト》のほうに矛先が向くだろう。あんたがたとしては、慎重に慎重を重ねる必要があるってわけだ」
「はい。まさしく、仰る通りです」
若いスタッフもハリス氏も、あくまで沈着な面持ちであった。
申し訳なさそうな素振りも、ユーリに迷惑をかけられたという素振りもない。ただ淡々と、業務について語っている様子である。それがある意味、《アクセル・ファイト》の公正さの証であるのかもしれなかった。
「それでもあんたがたは、《アクセル・ジャパン》で桃園さんをファイト・オブ・ザ・ナイトに認定してくれた。今後オファーをかけられないなら、桃園さんを盛り立てたって一銭の得にもならねえのにな」
「はい。ファイト・オブ・ザ・ナイトはその日にもっとも印象的な試合を行った両選手に贈られる賞ですので、試合後の状態を加味する必要はないものと判断されました」
「ご立派だね。やっぱりあんたがたは、尊敬に値するプロモーターだと思うよ。俺も早見も、《アクセル・ファイト》で活動させてもらってることを、心から光栄に思ってる」
そんな風に言ってから、篠江会長はユーリのほうを振り返った。
「その上で、こっちもあれこれ考えなきゃいかんわけだが……まず、桃園さん本人はどう思ってるんだい?」
「はい。ユーリはココロから納得しましたですぅ」
ユーリの声は、落ち着き払っていた。
それで瓜子が、勢いよくユーリのほうに向きなおると――ユーリは、透き通った微笑みをたたえていた。
「納得したかい。さしあたって、《アクセル・ファイト》に未練はないってこったな?」
「はい。もちろん残念ではありますけれど……ユーリは文句を言える身分ではありませんので」
「そんなことはねえと思うぞ。何か不満があるんなら、全部ぶちまけちまえよ」
「いえ。不満はありません」
ユーリの白い面には、いかなる負の感情も浮かべられていなかった。
そして――この日の《アクセル・ファイト》運営陣との会談は、それで終了してしまったのだった。




