07 Storm
レフェリーが『ファイト!』と宣言し、ユーリとパット選手はケージの中央に進み出た。
その瞬間――ずっと和やかであったユーリの顔が、静謐な表情に覆われる。
いかなる感情からも解放されたかのような、菩薩像のごとき透明な表情――先月の試合で見せたのと、まったく同じ表情である。
そんなユーリのもとに、パット選手が猛然と躍りかかった。
ユーリにカウンターを出すいとまも与えず、左右のフックを乱打する。ユーリはすかさず亀のようにディフェンスを固めたが、パット選手はかまわず拳を振り回した。
その勢いに圧されて、さしものユーリもあっという間にフェンス際まで追い込まれてしまう。
それで客席には、悲鳴のような喚声が巻き起こったが――瓜子は胸の奥からせりあがってくる不安の思いを、ぐっと呑みくだしてみせた。ユーリは『アクセル・ロード』の試合でも、このような姿を見せていたのだ。
言うまでもなく、ユーリが苦手とするのは乱打戦である。片目を閉ざしているために距離感をつかみにくく、ひとつひとつの動きが馬鹿丁寧で、立ち技においては臨機応変に動くこともできないユーリは、やみくもに乱打戦を仕掛けられるとまったく対応できなくなってしまうのだ。
そこでユーリが選んだのは、防御を固めるという道であった。亀のように縮こまってダメージを最小限に留めて、相手が手を止めたら反撃するという、オランダのキックで見られる戦法をジョンから直伝されていたのである。
レフェリーは、真剣な眼差しで両者の挙動を見守っている。
相手の攻撃の一発ごとに、ユーリは頼りなく身を揺らしてしまっているが――レフェリーは、ガードの隙間からユーリの表情を確認しているはずだ。ユーリの目が死んでいなければ、このような序盤からそうそうレフェリーストップをかけられる恐れはないはずであった。
ユーリに二十発近いパンチを叩き込んだパット選手は、満を持したように首裏へと両手をかける。最後に膝蹴りをくらわせて、甚大なるダメージを与えようという算段であるのだろう。
そんなパット選手の指先がユーリの首筋に触れた瞬間――ユーリが、ふわりと足を踏み出した。
ガードを解いた両腕が、するりとパット選手の両脇にのばされる。
空気も乱さない、なめらかな動きである。その動きがあまりに優美であったため、瓜子は思わず息を呑んでしまった。
するとパット選手は電流に触れたかのように、ユーリの身を突き放して後方に跳びすさる。
抱擁をかわされたユーリは、何事もなかったかのようにクラウチングの姿勢でファイティングポーズを構えなおし――ユーリが窮地から脱したことで、客席には歓声が爆発した。
ユーリの白い腕は、すでにあちこちが赤くなってしまっている。
それに、どれだけガードを固めていても、頭に何発かくらってしまっていることだろう。ボクシンググローブよりも小さなオープンフィンガーグローブでは、防御に徹してもすべての攻撃を防ぐことはできないのだ。
ただ、ユーリはダメージを負った様子もなく、しなやかなファイティングポーズを見せている。その優美な姿に、客席からは『ユーリ!』のコールがわきかえっていた。
「やっぱり……ユーリは、雰囲気、変わったと思う」
瓜子の背中を支えてくれているメイが、そんなつぶやきをもらした。
それはもう、チームメイトにとって周知の事実である。稽古中のユーリは以前よりもパワフルになって実力が底上げされたのみであるが、試合中のユーリというのは――何か不可解な静謐さを纏っているのである。
ただし、パット選手のもとを目指すユーリのステップは、相変わらずぴょこぴょことしていて、静謐さの欠片もない。
ユーリの雰囲気が変わるのは、さきほどのように組み技へと移行する際だ。それでユーリは空気も乱さないなめらかさで香田選手の首を取り、フロントチョークで仕留めてみせたのだった。
息を整えるために距離を取ったパット選手は、どこかうろんげな様子でユーリの接近を見守っている。
そして、ユーリが間合いに踏み込もうとすると、すかさず関節蹴りを繰り出した。
十分に対策を磨いてきたユーリは、膝を曲げてその蹴りを跳ね返す。じっくりと見て、単発の攻撃に反応することは、ユーリも決して苦手ではないのだ。それはもう三年以上も前から積み重ねてきた、ユーリの努力の結果であった。
「いいぞ。場を落ち着かせたほうが、こっちのフィールドに持ち込みやすいからな」
瓜子のかたわらで膝を折っていた立松が、そんな風につぶやいた。
すると――パット選手が、再びラッシュをかける。やはりあちらは、乱打戦こそがもっとも勝利に近いと判じているのだ。
ユーリは一発だけ前足の鋭いローを返したが、パット選手はそれを無視して再び殴りかかってきた。
先刻と同じように、ユーリはすぐさまフェンスに押し込まれてしまう。ユーリはユーリで、無理にこらえようという気がまったくないようであった。
同じ悪夢が繰り返されて、客席にはまた悲嘆の叫びが吹き荒れる。
そしてこちらでも、柳原が「よくないな」という緊迫した声をこぼした。
「これを繰り返されたらダメージが溜まって、どんどん不利になっていくぞ。あっちは自分のペースで好き勝手に動いてるから、スタミナのロスも最小に抑えられるだろうしな」
「ジョンたちだって、そんなことは百も承知だろうよ。ただ……この騒ぎで、声が届くかどうかだな」
立松の声も、いくぶん焦燥をおびている。
しかし瓜子は唇を噛みしめながら、ひたすらユーリの力を信じた。ユーリを乱打戦で仕留めようと考えた選手など、これまでにいくらでも存在したのだ。そんな単純な作戦で沈むほど、ユーリは可愛げのあるモンスターではないはずであった。
ただ、パット選手のラッシュというのは恐ろしい勢いである。
ジジ選手やオルガ選手――あるいはシンガポールのエイミー選手やイーハン選手よりも、凶暴な力があふれかえっているように見えてしまう。頑健なる肉体と確かなボクシングテクニックに支えられた、暴風雨のごとき乱打であるのだ。もっとも近いと思えるのは、二年前の『アクセル・ジャパン』で青田ナナを下したアメリア選手の姿であった。
ユーリの上体は、さきほどよりもいっそう頼りなげに揺らいでしまっている。
それを見守るレフェリーの眼差しも、真剣さを増していた。ここまで一方的な展開になると、レフェリーストップの可能性も高まってしまうのだ。
しかし今回は、さきほどと異なる展開で締めくくられた。
最後にユーリの左こめかみを殴りつけたパット選手が、ユーリのくびれた腰に両腕を回し、フェンスから引き剥がして、マットに薙ぎ倒してみせたのだ。
ユーリはすかさず両足を開いてグラウンド戦に備えたが、パット選手は肩を上下させながら引き下がっていく。
そして、首を掻き切るジェスチャーでもって、マットに倒れ伏したユーリを嘲った。組み技でも決して後れを取ったりはしないと、おのれの力を誇示しているかのようだ。
「ふん。並の選手なら、これでメンタルまで削られてたかもな。桃園さんがそんな繊細な人間じゃなくて、幸いだったぜ」
「ええ。グラウンド戦に移行できないことは、残念がってるでしょうけどね」
パット選手の挑発に応じるように、立松と柳原がそんな言葉を交わした。
いっぽうユーリは、何事もなかったかのように身を起こす。ただその両腕は、ところどころが青紫色に変色してしまっていた。
試合時間は、すでに二分に達している。
逆に言えば、まだ二分しか経っていないわけだが――ユーリは着実にダメージを重ねられて、このままでは2ポイントを奪われる恐れもあった。
しかしユーリはゆったりとファイティングポーズを取ると、またぴょこぴょことしたステップで相手に近づいていく。
カメラが遠いので、表情まではわからなかったが――やはり、静謐な表情のままなのだろうか。だとしたら、パット選手はどんな思いでユーリと向かい合っているのだろう。少なくとも、瓜子はあんな不可解な表情をした相手と試合の場で向かい合いたいとは、これっぽっちも思わなかった。
(どんなにダメージを負ってもへこたれないユーリさんは、対戦相手にとっても怖いはずだ。それで精神的に揺さぶりをかけられれば……)
瓜子がそのように考えたとき、パット選手が三たび突進しようとした。
ただし、さすがに出足が鈍っている。まだスタミナにゆとりがあったとしても、そろそろ温存を考える頃合いであろう。第一ラウンドはまだ半分以上も残されているし、このまま終わっても圧倒的に優位であるのだ。
ただ――そのわずかばかりの出足の鈍さが、ユーリに反撃の機会を与えた。
今度は前足のローではなく、後ろ足のミドルハイが繰り出されたのだ。
ユーリの肉感的な右足が、優美な軌跡を描いてパット選手の左肩にヒットする。
それでも頑丈なパット選手は揺らぎもしなかったが、その鼻先に左ジャブが飛ばされたため、前進はストップせざるを得なかった。ユーリは相手の動きに関係なく、コンビネーションを披露したのだ。パット選手が足を止めたのに、何もない空間に右のボディフックまで振ったのが、その証左であった。
ユーリの攻撃の手が止まるのを待ってから、パット選手はあらためて足を踏み出そうとする。
しかしそれよりも早く、ユーリのほうが足を踏み出していた。ユーリはコンビネーションの最後に、両足タックルも付け加えていたのだ。
パット選手も一瞬遅れて前進したために、ユーリは頭を下げきる前に衝突する。その結果、ケージの真ん中でがっぷり組み合うことになった。
真正面からの組み合いであれば、ユーリのフィールドだ。それで熾烈な差し手あらそいが繰り広げられるかと思われたが――パット選手はすぐさまユーリの身を突き放して、後方に逃げた。
「ちっ、逃げられたか。まあ、あちらさんもレスリングはやりこんでるだろうしな」
「ええ。ちょっと組んだだけでも、桃園さんの組み力は伝わるでしょうしね。スタミナの消費がおっかなかったんでしょう」
ユーリが攻勢に出たことで、立松たちの声にも熱が込められる。
そんな中、ユーリが再びコンビネーションを見せた。今回は二発の左ジャブから右ストレート、スイッチをしてからの左ミドル、そしてタックルのフェイントだ。
そのフェイントまで見切ってから、パット選手は関節蹴りを繰り出した。
ユーリはまた膝を上げて、それを跳ね返す。そしてそのまま左足を踏み込み、三巡目のコンビネーションに取り掛かった。
相手の動きや間合いを無視した、無軌道なコンビネーションである。
これはもう海外の選手にまで知れ渡ってしまっているため、パット選手も危なげなく回避していたが――ただ、会場のほうはわきたっていた。ユーリの優美かつ力強いコンビネーションは、パット選手の乱打に負けないぐらい暴風雨じみているのだ。そしてその挙動の美しさが、見る人間の胸を躍らせてやまないのだった。
「こうやって好きに動くことで、桃園さんもペースをつかめるからな。ただ見守ってるだけなら、せっかくの優位性も水の泡だぞ」
立松の声も、いよいよ熱をおびていく。
そしてユーリもまた、動くたびに勢いを増していった。
ユーリのコンビネーションが終了したならば、パット選手が接近しようと試みる。
するとユーリもがっちり頭部を守りながら、前進した。なんでもいいから組み合いの間合いに入ろうというアクションだ。たちまちパット選手はアウトサイドに逃げて関節蹴りを繰り出したが、ユーリはぴょんっと飛び跳ねてそれを回避した。
試合時間は、残り一分半である。
パット選手は、不屈の闘志で突進しようとした。
するとユーリは、いきなり旋回して右足を振り上げる。豪快で、心が打ち震えるほどの優美さをもあわせ持った、バックスピンハイキックだ。
しかし、そんないきなりの大技をくらうほど、パット選手は甘い選手ではない。パット選手は上体を屈めて蹴り足を回避すると、無防備に一回転したユーリの腰に組みついて、マットに押し倒した。
すると――ユーリの真っ白な両足が、しゅるりとパット選手の胴体にからみつく。
すぐさま起き上がろうとしたパット選手は、それでマットに拘束されることになった。
「桃園さんの対応が速い。もしかして……派手な大技で、テイクダウンを誘ったのか?」
立松はそのようにつぶやいたが、真相はわからない。何にせよ、残り一分強でグラウンド戦となったのだ。ポジションもフルガードであるし、ユーリにとっては決して悪い形ではなかった。
「しかし相手はポジションキープに長けているし、そもそもグラウンド戦につきあう気もないだろうからな。さっさと立とうとする相手を寝技で仕留めるのは、さすがに厳しいだろう」
立松の言う通り、パット選手は動こうとしなかった。下手に動けば体勢をひっくり返される恐れも生じるのだ。このままずっと止まっていればレフェリーにブレイクをかけられるか、時間切れを待つだけのことであった。
そうしてパット選手が、パウンドも打たずに静止していると――ユーリが下から、パット選手の顔面を殴りつけた。
あのユーリが、グラウンドの状態で、ダメージも見込めないパンチを繰り出したのだ。背中をマットにつけて肩も回せないその状態では、手打ちのパンチしか出せないのだった。
そんな子供だましの攻撃をくらったパット選手は、ピット・ブルの形相で右のパウンドをお返しした。
こちらは勢いのある拳が、ユーリの左頬を殴りつける。
すると――魔法のように、ユーリの身が半回転した。パット選手の胴体にからみついていたはずの両足がいつの間にかほどかれており、横合いに腰を切ったユーリが、左足でパット選手の首を刈ったのだ。
さらに、ユーリの両手は左頬を殴りつけたパット選手の右腕をとらえている。
ユーリの両足が、パット選手の右腕をはさみこんだ。そのまま右腕をのばせば、腕ひしぎ十字固めの完成である。
パット選手は猛然と上体を起こし、右腕を引っこ抜こうとした。
するとユーリはすぐさま左足をマットへと振り下ろし、その勢いで上体を起こした。
その頃には、ユーリの右かかとがパット選手の左膝裏に引っ掛けられている。
自ら上体を起こそうとしていたパット選手は、ユーリの起き上がろうとする力に勢いを加算され――そして、左膝裏を固定されていることで、後方に倒れ込んだ。
パット選手の背中がマットにつき、ユーリがその上にのしかかる。
しかもこれは、マウントポジションである。パット選手の腰の上に、ユーリがまたがる格好であった。
パット選手は、凄まじい勢いで腰を跳ね上げる。
しかしユーリはわずかに腰を浮かせて、その衝撃を呑み込んだ。
そして、パット選手の顔面に一発のパウンドを叩き込む。おそらくジョンが、そのような指示を飛ばしたのだろう。
パット選手が顔面をガードすると、ユーリは両手でその右手首をひっつかんだ。アームロック、あるいは腕ひしぎ十字固めのプレッシャーである。
パット選手は、すかさず両手をクラッチした。
すると、ユーリが左のこめかみに一発のパウンドを叩きつけた。
パット選手はクラッチを保持したまま、なんとか顔面を守ろうとする。
すると――ユーリはパット選手の腰の上で、くるりと半回転した。パット選手の意識が頭部のガードに向いたところで、下半身に狙いを変えたのだ。
マットに足をついて膝を立てていたパット選手の右足を、ユーリは両腕で抱え込む。
そうはさせじと、パット選手が上体を起こしてユーリの背中に覆いかぶさろうとすると――ユーリはパット選手の右足を抱えたままマットを蹴って、前方転回した。
自ら上体を起こしたパット選手はまたユーリの動きに巻き込まれて、ともに前方に転がってしまう。
ユーリは背中から、パット選手は顔面からマットに落ちることになった。
ユーリの両足は、パット選手の腰をはさみこんでいる。
そしてユーリはパット選手の右足首に両腕をからめて、右膝を折りたたんだ。
そうしてユーリが愛おしい相手を抱きすくめるように、パット選手の右足をぎゅっと抱きすくめると――パット選手の右足首はあらぬ方向に折れ曲がり、右膝は極限まで折りたたまれ、ついでに股関節が限界まで引きのばされた。
いったいどの部位に痛みが走り抜けたのか――パット選手は悲鳴を上げて、両方の手の平でマットを乱打した。
レフェリーの手が肩に触れるより早く、ユーリは技を解除して、そのまま大の字に寝転んだ。
試合終了のホーンが鳴らされて、大歓声が爆発する。
控え室でも、立松たちが歓喜の声をあげていた。
そして――瓜子はどうしようもなく、涙をこぼしてしまっていた。
ユーリが初回のラウンドで、パット選手から一本勝ちを奪取してみせたのだ。《アクセル・ファイト》のランキング二位で、実質的に世界で三番目に強いと見なされている相手から、である。なおかつ、現王者のベリーニャ選手や元王者のアメリア選手も、パット選手を仕留めるのに二ラウンド以上かかっていたのだから――これでユーリの実力は世界級であると、確かに証明されたはずであった。
(……おめでとうございます、ユーリさん)
瓜子は涙をぬぐいながら、モニターのユーリに笑いかけた。
だが――マットに寝転んだユーリは、また赤ん坊のように安らかな顔で寝入ってしまっているようであった。




