06 Leopon
試合に勝利したならば、勝利者インタビューである。
しかし、極度の酸欠状態に陥っている瓜子は、立松に横から支えられた情けない姿でその時間を過ごすことになった。
なおかつ、咽喉も肺も焼けつくように痛く、ろくに声も出せなかったため、何を問われてもまともに返事することができない。インタビュアーたる白人男性のリングアナウンサーも、それを通訳する日本人の男性も、少なからず呆れている様子であった。
『それだけ、グヴェンドリン選手との試合がしんどかったってことだよ! 猪狩は試合でめいっぱい語ってみせたんだから、それで勘弁してくれや!』
ついに見かねた立松がそのようにがなりたてると、客席には歓声と笑い声が響きわたった。
それで潮時と悟ったのか、リングアナウンサーは大きなジェスチャーとともにインタビューを締めくくる。それでようやく、瓜子は退場することができた。
そうして花道を引き返す間も、凄まじいばかりの歓声と拍手が追いかけてくる。
瓜子は今すぐ寝入ってしまいたいほど絶大なる疲労と虚脱感の内にあったが、それでも大きな喜びと充足を得ることができた。
「瓜子ちゃん、お疲れさん! 初回で仕留めるとは、さすがだな!」
入場口の扉をくぐると、次の出番であるレオポン選手が笑顔でハイタッチを求めてくる。
しかし瓜子は、腕を上げることすらままならなかった。
「猪狩さんは、疲労の極みにあるようだ。どうかゆっくり休んでもらいたい」
赤星弥生子は、とても優しい眼差しでそう言ってくれた。
瓜子はかすれた声で、「ありがとうございます……」と答えてみせる。
「レオポン選手も、すみません……どうか、頑張ってください……」
「無理して喋ることはねえよ! 俺もKOで決めてみせるから、控え室で見守ってくれよな!」
レオポン選手は振り上げていた右腕をおろし、その手でぽんと瓜子の肩を叩いてくる。瓜子は「はい……」と、汗だくの顔で何とか笑ってみせた。
そうして控え室に戻ると、今度はプレスマン道場の面々が瓜子を取り囲んでくる。しかし、立松が厳粛なる面持ちでストップをかけた。
「猪狩はひさびさにバテちまったみてえだ。お祝いは、桃園さんと一緒ってことにしようや」
「うんうん。すごい試合でしたものねぇ。後半は、ユーリも涙が止まらなかったですぅ」
そのように語るユーリは雪の妖精のごとき透明な笑顔であったが、その目もとは確かにいくぶん赤くなっていた。
瓜子は温かな幸福感にひたりながら、もういっぺん笑ってみせる。
「ユーリさんも……頑張ってください……ユーリさんなら、絶対に勝てますから……」
「うん。おねんねしながらでも、見守ってね?」
ユーリはグローブに包まれた手で、瓜子の手をぎゅっとつかんできた。
瓜子は気力を振り絞って、その手を握り返してみせる。
「じゃ、出陣すっか。おめーは大人しくしてろよ、瓜」
「ユーリにはボクたちがついてるから、シンパイせずにゆっくりヤスんでねー」
「そうなのです。愛音たちを、信頼してほしいのです」
「もちろん、信頼してますよ……どうかユーリさんを、よろしくお願いします……」
ユーリは最後にひときわ透明な微笑を残して、控え室を出ていった。
サキとジョンと愛音もそれに続き、瓜子はマットに横たえられる。そしてすぐさま、頭や手足に氷嚢を押し当てられた。
「この角度なら、モニターも見えるだろ。とにかく、しっかり身を休めろよ? なんなら、寝ちまってもかまわねえからな」
瓜子は「押忍……」と応じたが、もちろんユーリの試合を見届けるまで睡魔に身をゆだねるつもりはなかった。
モニターでは、すでにレオポン選手の入場が始められている。瓜子が全身にアイシングとマッサージを施されながらそのさまを見守っていると、枕もとにメイが膝を折った。
「ウリコ、凄い試合だった。やっぱり僕の目標はウリコだと、再確認した」
「あはは……おかげさまで、この体たらくっすけどね……」
「うん。相手も、強かった。僕が対戦したアン・ヒョリよりも、強かった」
「でも、メイさんのほうが強いっすけどね……メイさんを一ラウンドで倒すなんて、天地がひっくり返っても不可能でしょうから……」
メイは「うん」とうなずきつつ、瓜子の顔から視線を離さない。その黒い瞳には、とても澄みわたった輝きがたたえられていた。
そうして瓜子がモニターに視線を戻すと、ちょうどレオポン選手の『ハルキ・ツジ』という本名がコールされるところであった。なんと、異名は『レオポン』がそのまま採用されたようだ。ヒョウとライオンの混血を意味するその言葉は、どうやら北米でも通用するようであった。
そののちに、レオポン選手は意気揚々とケージの中央に進み出る。相手はカナダの選手であるため、やはり体格差が尋常でなかった。
「レオポンくんは、フライからバンタムに階級を上げた身だからな。それでもしっかり身体を作りあげたもんだと思うが……骨格の違いだけは、どうしようもねえや」
瓜子の右腕をもみほぐしながら、立松はそのようにつぶやいた。
しかし、モニター上のレオポン選手は不敵に微笑んでいる。その目には、グヴェンドリン選手に負けないぐらいの熾烈な炎が宿されていた。
そうして、試合が開始され――レオポン選手は、序盤から激しい打撃戦を展開させた。
相手はレスラーであるために、打撃技の技術はレオポン選手のほうがまさっているようだ。それに、レオポン選手は敏捷であり、決して相手に組みつきを許さなかった。
しかし相手は持ち前の頑丈さで、レオポン選手の打撃技を跳ね返している。
どれだけ攻撃をくらっても、まるでダメージを受けている気配もない。男子選手の試合では、外国人選手の頑丈さがいっそう顕著に見えるようであった。
レオポン選手は的確に攻撃をヒットさせているが、相手がまったく怯まないために、なかなかペースをつかみきれない。
これでは、レオポン選手のスタミナが尽きてしまうのではないか――と、瓜子がそんな不安にとらわれかけたとき、相手選手がこれまで以上の勢いでレオポン選手につかみかかろうとした。
十分に様子見はできたので、今度は自分のターンだとばかりの、迫力ある前進である。
そんな相手選手に向かって、レオポン選手は右腕を振り上げた。
どうということもない右フックに見えたが、しかし距離が詰まりすぎている。それを弾き返されたら、ついに組み技に持ち込まれてしまうだろう。
だが――レオポン選手の右腕は、軌道の途中で変化した。
拳は虚空を旋回し、鋭角に曲げられた肘が相手の顔面にヒットする。フックを打つには間合いが詰まりすぎていたが、肘打ちを出すには理想の間合いであった。
その一撃で、相手の顔面から血が飛沫く。
しかし相手選手は意に介した様子もなく、レオポン選手につかみかかった。
体格とパワーの差で、レオポン選手はたちまちフェンスまで押し込まれてしまう。
だが――その頃には、すでに両者の身が血みどろであった。肘打ちをくらった相手の眉間から、滝のように鮮血があふれかえっていたのだ。
レフェリーが『タイム!』と宣告して、両者の間に割って入る。
そして、リングドクターが招集されて、相手選手の顔面がタオルでぬぐわれると――眉間から鼻の上部まで、十センチぐらいの傷痕がぱっくりと口を開いていた。
そして、タオルでぬぐった顔に新たな鮮血がしたたり落ちる。リングドクターは首を横に振り、レフェリーは頭上で両腕を交差させた。出血に寛容な《アクセル・ファイト》でもドクターストップをかけざるを得ないほどの、深手であったのだ。
レオポン選手は血まみれの姿でケージ内を一周し、軽やかな挙動でフェンスの上にまたがった。
メイと異なり、満面の笑みである。そして客席には、あらためて歓声が響きわたっていた。
「うまくやったな。ムエタイばりの肘打ちじゃねえか。……ま、青田の野郎は昔っから肘打ちが得意だったしな」
満足そうに笑いながら、立松はそう言った。
「青田自身は、MMAでその技術を活かしきれなかったわけだが……コーチの立場から、それを活かす技術を確立させたってところかな」
「ええ、見事なものですね。師範の弥生子さんはあんなにエキセントリックなのに、赤星道場の門下生は基本の技術がとてもしっかりしているように感じられます」
リューク氏がそのように評すると、立松は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「弥生子ちゃんだって、基礎はしっかりしてるんだよ。そいつに裏打ちされてるからこそ、素っ頓狂なファイトスタイルもあれだけサマになるんだろうさ」
「はい。つくづく赤星家の面々は、誰もが恐るべき力を持っていますね。ついにその門下生たる選手が世界に実力を示すことができて、とても喜ばしく思います」
立松たちが語らう中、モニターでは勝利者インタビューが開始される。レオポン選手は、そちらでも元気を爆発させていた。
その背後には、《アクセル・ファイト》の公式ウェアを纏った赤星弥生子たちの姿も見える。この遠いアングルでは赤星弥生子もただ凛々しい表情をしているようにしか見えないが、きっとその切れ長の目にはやわらかい光が灯されているのだろう。それを想像しただけで、瓜子は胸が詰まってしまいそうだった。
ともあれ――これでメインカードは、赤コーナー陣営の四連勝。しかも全員が、初回のKOかTKO勝利である。
しかし、そんな話にとらわれる必要はない。ユーリはユーリのペースで勝利を目指さなければならなかった。
「さあ、いよいよ桃園さんの出番だな。……おいおい、お前さんはゆっくりしてろって」
「押忍……でも、寝そべったままじゃ落ち着かないんすよ……」
瓜子はみしみしと軋む身体で、無理やり上半身を起こした。
すると、空いたスペースにメイが移動して、瓜子の背中をそっと支えてくれる。
「体重、かけていい。僕、元気だから」
「ありがとうございます……」と、メイの温かい身体にぐったりともたれかかりながら、瓜子はモニターに向きなおった。
勝利者インタビューを終えたレオポン選手は、意気揚々と花道を引き返していく。それに追従する赤星弥生子たちの気持ちを思うと、やっぱり瓜子も胸が温かくなってやまなかったが――しかしどうしても、瓜子の心は次の試合に引き寄せられてしまった。
会場にも、新たな熱気が宿されたように感じられる。
そんな中、まずは対戦相手のパット・アップルビー選手が入場し――それから『Re:boot』のインストゥルメンタル・バージョンが響きわたると、大歓声が爆発した。
花道に、ユーリの白く輝く姿が現れる。
ユーリは軽やかにステップを踏み、両手をひらひらと振りながら、四方の客席に輝くような笑みを投げかけた。
そのふくよかなピンクの唇が、ずっと小さく動いている。
きっと『Re:boot』の歌を口ずさんでいるのだろう。ユーリの肢体からは、ライブステージさながらの生命力と躍動感があふれかえっていた。
「よし。桃園さんは、普段通りだな」
立松は、ほっとした様子でそんなつぶやきをもらした。
瓜子も、同じ気持ちである。ユーリが退院して、ようやく三ヶ月――瓜子たちは、まだまだ手放しで安心できる心情ではなかったのだった。
花道を踏み越えたユーリがウェアを脱ぎ捨てると、さらなる歓声が響きわたる。
三キロばかりもリカバリーしたユーリは、昨日の公開計量の際よりもさらに肉感的な肢体となって、色香とフェロモンを匂いたたせていた。
ボディチェックを完了させたユーリは、跳ねるような足取りでケージに上がる。
歓声は、高まるいっぽうである。リングアナウンサーも、本腰を入れてアナウンスの声を響かせているようであった。
流れるような英語でもって、まずはパット選手が紹介される。彼女の異名は、『ピット・ブル』だ。ピットとパットで掛けているのかもしれないが、彼女はその異名に相応しい容姿と荒々しいファイトスタイルを有していた。
そしてユーリの異名は、今回も『ストーム』だ。
そんなユーリに捧げられる歓声のほうこそが、嵐そのものであった。
大歓声の中、ユーリとパット選手はレフェリーのもとで向かい合う。
身長に、大きな差はない。
背中の厚みや太腿の太さなども、ほとんど同程度であろう。
ただしパット選手は男子選手さながらの筋肉質で、ユーリは丸みをおびた曲線美だ。そして腰だけがぎゅっとくびれているために、驚くほど優美に見えてならなかった。
パット選手は、『ピット・ブル』の異名に相応しい形相である。
それを見返すユーミの顔は、ひたすら穏やかだ。純白の髪と肌に、ピンクの前髪だけがくっきりとしたアクセントになっており――白い睫毛にはさまれたやや垂れ気味の目などは、眠たげに見えるほど安らかであった。
それを見守る瓜子の胸は、どうしようもないほど高鳴ってしまっている。
ついに、ユーリの勇姿が世界中にさらされるのだ。チームメイトと引き離されて、体重がどんどん減っていき、ダメージを重ねながら宇留間選手という難敵を迎えることになったユーリではなく、頼もしいチームメイトに囲まれて、万全の態勢で試合に臨むユーリの姿が――である。
(ユーリさんなら、絶対に勝てます……ユーリさんの実力は、ベリーニャ選手にも届くんだってことを……世界中に、証明してください)
満身にのしかかってくる虚脱感に耐えながら、瓜子はそのように考えた。
そして――ついに、試合開始のブザーが鳴らされたのだった。




