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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
26th Bout ~Turbulent autumn~
681/955

05 Gatling gun

 大歓声の中、レフェリーの「ファイト!」という声を聞きながら、瓜子はケージの中央に進み出た。

 対戦相手のグヴェンドリン選手も、力強いステップで瓜子に近づいてくる。ストライカーの瓜子に対して、臆する気持ちはまったくないようだ。


 そうしてケージの中央で相対しても、相手の前進は止まらない。

 瓜子は間合いを外すためにバックステップを踏もうとしたが、それよりも早く相手が大きく踏み込んできた。


 グヴェンドリン選手は最後の一歩でアウトサイドに踏み込み、鋭い右フックを振ってくる。

 瓜子の集中が研ぎ澄まされていなければ、少なくとも腕には触れられていたことだろう。しかし相手の気迫に呼応していた瓜子は、スウェーしながらバックステップを踏むことで回避することができた。


 しかし、相手の前進は止まらない。

 まるで先刻のメイのような、力強い前進だ。


 真っ直ぐ下がれば、すぐさまフェンスに詰められてしまうだろう。そのように考えた瓜子は、アウトサイドに回って角度を外そうとした。

 だが、相手はフックを振りながら追いかけてくる。それも辛うじてかわすことはできたが、危険な間合いから脱することはできなかった。


 相手は、短期決戦を狙っているのか――

 いや、おそらくは、これが相手の平常のペースであるのだ。グヴェンドリン選手の顔は鋭く張り詰めていたものの、気負いの気配すら感じられなかった。


(あたしのほうが小回りはきくはずなのに、体格差で詰められてるな)


 相手のほうが十センチも大きいので、これだけ間合いを詰められてもまだ瓜子の拳の届く距離ではない。かといって、オールラウンダーと称されている相手にいきなりミドルやハイを狙うのは危険であるはずだった。


 ずっと危険な間合いが保たれているため、瓜子の心はますます研ぎ澄まされていく。

 そこで瓜子は、本番でほとんど使ったことのない技を選択した。真正面から膝を狙った、関節蹴りである。


 しかし相手も十分に予期していたらしく、インサイドに飛び跳ねることで関節蹴りを回避した。

 そしてそのアクションに、右ストレートを連動させる。これまではフックばかりであったが、彼女はきちんと真っ直ぐのパンチも武器として備えていたのだ。


 フックよりも軌道の短いストレートは、これまで以上の鋭さで瓜子の顔面にのびてくる。

 関節蹴りを出したばかりであった瓜子はステップで逃げることもできず、ダッキングでそれを回避した。


 すると今度は、左の膝蹴りが繰り出されてくる。

 瓜子は身をねじって、それを回避した。


 すべて、紙一重の攻防である。

 相手の攻撃の鋭さが、瓜子の背筋を粟立たせて――そしてまた、心を鋭く研ぎ澄ましてくれた。


 すでに瓜子の心は、限界近くまで集中を余儀なくされている。

 今年に入ってからの、数々の試合――《フィスト》で対戦したスウェーデンの選手や、灰原選手とのタイトルマッチ、後藤田選手との一戦、亜藤選手との一戦でも、瓜子は序盤からこれぐらいの集中を強いられることになったのだ。


 ただ、これだけ心が研ぎ澄まされても、瓜子はまだ一発の攻撃も出せずにいる。

 相手の鋭い攻撃とステップワークが、瓜子の反撃を封じているのだ。下手に手を出せば、瓜子はさらなる窮地に追い込まれていたはずであった。


(この選手の攻撃は、灰原選手に負けないぐらい鋭くて勢いがあるのに……その奥に、別のおっかない気配を感じる。これは、亜藤選手や後藤田選手に近い気配……たぶん、組み技に対する絶対の自信だ)


 オールラウンダーである彼女は、灰原選手に匹敵する打撃技の技術と、亜藤選手に匹敵する組み技の技術と、後藤田選手に匹敵する寝技の技術を持っているのかもしれない。

 そんな風に考えると、瓜子の心は得も言われぬ情動に満たされた。


(それが世界の壁だっていうんなら……全力で突き破るだけだ)


 セコンドの声は、大歓声にかき消されてしまっている。

 であれば、自分の頭で次の手を考案するしかない。

 そのように決断した瓜子は、相手の腹を狙って右の前蹴りを繰り出した。


 瓜子としては、狙いすました攻撃であったが――相手はインサイドに踏み込むことで、またその攻撃をかわしてしまった。

 しかし瓜子も今回は、かわされる前提で動いている。相手が強気にインサイドに移動することも、先刻の関節蹴りで予測できていた。


 右の蹴り足をそのまま踏み込んだ瓜子は、間近に迫った相手の顔面に左フックを射出する。

 ほとんど同時に、相手は右ストレートを繰り出していた。


 瓜子は拳を振るいつつ上体を傾けたが、これはかわしきれない。

 ただしこのタイミングであれば、相手にも瓜子の拳をかわすすべはなかった。


 相手の右拳は瓜子の左頬に、瓜子の左拳は相手の右頬にヒットする。

 おたがいに、クリーンヒットに近い当たりである。

 瓜子が試合中にこれほど強烈な攻撃をくらうのは――大晦日の、赤星弥生子との対戦以来であった。


 意識を飛ばされるほどではないものの、相応のダメージが瓜子の脳内に駆け巡っていく。

 そのダメージに耐えながら、瓜子は右の拳を突き上げた。

 相手の腹を狙った、ボディフックである。

 しかしその頃には、相手も左のショートフックを射出していた。


 おたがいに同じサイドの攻撃を出しているため、腕で防御することはできない。

 結果、瓜子の右拳は相手の腹に突き刺さり、相手の左拳は瓜子の右こめかみに突き刺さった。


 立て続けに頭部を殴られて、瓜子の意識がわずかに揺らぐ。

 相打ちでは、駄目なのだ。瓜子がどれだけ硬い拳を持っていても、同じだけの攻撃をくらっていたら体格差で押し潰されてしまうはずであった。


(もちろん、相手の攻撃をくらうつもりはなかったけど……それだけ、相手の攻撃が鋭いんだ)


 相手は、インファイトを恐れていない。その迷いのなさが、攻撃の勢いに繋がっていた。

 瓜子の硬い拳を二発くらって、少しは迷いが生じるだろうか?

 瓜子の拳には、確かな感触が残されていたが――それと同時に、瓜子は相手の気迫を物理的な感触で知覚していた。二発殴っても揺るがない相手の体幹の力強さが、それを伝えてきたのだ。


 かつて《フィスト》で対戦したカン・ハウン選手やスウェーデンの選手も、瓜子の拳をくらうと少しばかりは怯む気配を見せた。

 しかし、グヴェンドリン選手はまったく怯んでいない。彼女はこれまでの外国人選手よりもいっそう頑丈であるのか、あるいは《アクセル・ジャパン》という大舞台でアドレナリンの分泌量が尋常でないのか――もしかしたら、その両方なのかもしれなかった。


(これじゃあ、試合のペースは握れない。相手の攻撃はなるべく受け流して、自分の攻撃だけを当てるんだ)


 瓜子はそのように考えたが、それができるなら最初からやっている。グヴェンドリン選手は瓜子の想定を超えて、反撃の手を出しているのだった。


(もっと動け。機動力で、体格差を跳ね返すんだ)


 瓜子は、相手のインサイドにもぐり込もうとした。

 すると、すぐさま膝蹴りが飛ばされてくる。組み技の攻防を厭わない相手は、至近距離でも遠慮なく膝を振り上げてきた。

 瓜子は前進することで、膝蹴りの打点をずらす。

 そしてそのまま、相手の右膝を抱え込もうとした。


 相手は得たりと、瓜子の首に腕を回そうとする。

 先月の試合で、ユーリが香田選手を下した技――組みつきに対するカウンターの、フロントチョークだ。


 瓜子は即座に右足の捕獲を断念し、相手の腹に肩をぶち当てて、突き放した。

 そしてそのまま足を踏み出し、右のボディフックに繋げる。

 それは、左腕でガードされた。

 瓜子は上体を起こしながら、左アッパーに連動させる。

 それもまた、スウェーバックでかわされた。


 やはりグヴェンドリン選手は、反応速度も一流だ。

 ただ――瓜子の仕掛けで組み技にも気が向いたためか、反撃の拳までは飛ばされてこなかった。

 その間隙とも言えないほどの小さな穴をついて、瓜子は拳を連射する。


 右足を踏み込みながらスイッチをして、追い突きの右ストレート。さらにレバーブローを狙ってから、今度は右ジャブだ。

 それらのコンビネーションは、すべて腕でブロックされてしまう。

 しかしやっぱり、反撃はしてこない。相手はディフェンスに集中することで、瓜子の攻撃をしのいでみせたのだ。


 ここで場を落ち着かせたら、また一からすべて組み立てることになる。

 瓜子は妥協せず、全力でたたみかけることにした。


 まずは距離を取ろうとする相手の左足に、右のアウトローを叩きつける。

 前に出した利き足による、カーフキックだ。相手はすかさずかかとを浮かせたが、骨と骨がぶつかる感触が確かに伝えられてきた。


 そして瓜子は左足を踏み込みながら、追い突きの左ストレートを射出した。

 右の追い突きを披露したばかりであるが、左右が変わればタイミングや軌道も異なってくる。相手もそれほど機敏に対応することはできず、また腕でブロックするのがやっとであった。


 そして瓜子は、右のボディフックを連動させている。

 つい先刻のレバーブローはガードされてしまったが、この攻撃はヒットした。ついに瓜子の機動力が、相手のガードをこじあけたのだ。


 しかしこの一発で、相手の動きが止まることはないだろう。

 右腕を引きながら、瓜子は左フックを射出した。

 この攻撃はガードされてしまったが、それでまったくかまわない。瓜子の本命は、この次に繰り出す右のカーフキックであった。


 先刻は前足であったが、今はスイッチをして奥足になっている。瓜子は相手の足をへし折る気概で、渾身のカーフキックを叩きつけた。

 そしてそのまま、蹴り足でマットを踏む。

 今度は奥の左拳で、レバーブローを叩き込んだ。


 これも、クリーンヒットである。

 右のボディ、右のカーフキック、そして左のレバーブローと、三発の攻撃をクリーンヒットさせることができた。

 最後の狙いは、返しの右フックだ。

 首から下に意識を散らして、この攻撃で最大限のダメージを与えるつもりであった。


 だが――危険な予感が、瓜子の左頬をちりちりと焼いてきた。

 相手もまた、右フックを繰り出していたのだ。

 三発のクリーンヒットにも怯むことなく――カーフにレバーというこらえようもない箇所にダメージを負いながら、相手も果敢に手を出してきたのだった。


 これは、かわしようのないタイミングだ。

 しかも瓜子はすでに右フックのモーションに入っていたため、逆側に首を振って衝撃を逃がすこともできなかった。


 であれば、下顎を引いて衝撃に耐えるしかない。

 なおかつ、自分の攻撃もヒットさせて――さらに、その後まで考えるのだ。


(考える……こんな一瞬の間で?)


 そんな疑念が、頭をかすめたとき――瓜子の見ている世界が、いきなり変容した。

 目の前にいるグヴェンドリン選手の姿が、いっそう鮮明に網膜へと焼きつけられる。相手の全体像を把握しつつ、その目の輝きや顔に浮かんだ汗や腕に盛り上がった筋肉のうねりまでもが、マクロ撮影のように克明になるような――相手の存在そのものに、すべてのピントが合ったような感覚であった。


 耳を聾する大歓声は、どこか遠くにかすんでいく。

 まるでこの世に、瓜子とグヴェンドリン選手だけが取り残されたような心地だ。


 これは、集中力の限界突破とでも称するべき、あの現象であった。

 どれだけの攻撃を叩き込んでもまったく揺るがないグヴェンドリン選手の強靭さが、瓜子をこの境地にいざなってくれたのだ。


 瓜子がこの領域に足を踏み入れるのは、ほとんど十ヶ月ぶり――赤星弥生子との対戦以来である。

 以前の瓜子は毎試合のように、こんな不可思議な感覚にとらわれていたのか、と――瓜子は、慄然とするほどであった。


(……だけどとにかく、考えるんだ)


 相手の右拳は、すでに瓜子の左頬に触れようとしている。

 瓜子はマウスピースを噛みしめて、可能な限り下顎を引き、そして自分も右拳を振り抜いた。


 そして、その先を考える。

 相手は右フックを出したので、右半身はがら空きだ。

 そして今は、レバーブローのおかげで腹に意識が向いていることだろう。

 であれば、顔面を狙った左フックか――


(いや、違う)


 現在の瓜子はサウスポーの姿勢であるため、左の攻撃は重い代わりに射程距離が長くなる。グヴェンドリン選手の反応速度であれば、顔と腹のどちらを狙っても防御される公算が高かった。


(だったら……)


 瓜子は、右フックを振り抜いた。

 それと同時に、相手の右フックも瓜子の左頬にヒットする。

 おたがいにクリーンヒットであるが、相手は奥の手からの攻撃であるため、ダメージはこちらのほうが深い。それでも何とか、意識を飛ばされることはなかった。


 瓜子は右拳を引きながら、左のインローを射出する。

 射程距離の長さは、パンチもローも変わらない。ただ相手は、先刻のカーフキックでそれなりのダメージを負っているはずであった。


 カーフキックのダメージというのは、気合でどうにかできるものではない。痛みは我慢できたとしても、最終的には足が痺れて動かなくなってしまうのだ。

 よって、グヴェンドリン選手はカーフキックのディフェンスを最優先にするはずだ。そして、それが可能なだけの反応速度を持ち合わせているはずであった。


(ディフェンスを捨てたら捨てたで、ダメージを負って次の反応が遅れる。だからこれが、ベストの選択のはずだ)


 そこまで見越して、瓜子は次の攻撃まで組み立てていた。

 カーフキックを繰り出した左足はそのまま踏み込んで、右のボディストレートに繋げる。腹の真ん中を狙う攻撃であれば、防御はいっそう難しくなるはずであった。


 果たして――グヴェンドリン選手は完全に左足を浮かせて、カーフキックの衝撃を逃がした。

 片足の体勢となったために、反撃の手は出せない。

 そこに、瓜子はボディストレートを繰り出した。


 グヴェンドリン選手はすかさず左腕を下ろしたが、守っているのは脇腹である。それを内側に寄せてボディストレートを防ぐことは、できなかった。

 瓜子の右拳が、真正面からグヴェンドリン選手の腹を撃ち抜く。

 タイヤのゴムを思わせる、硬くて弾力のある質感だ。とっさに腹筋を締めたのであろうが、それでも相応のダメージを与えられたはずであった。


 瓜子は右拳を引きながら、左のショートフックに繋げる。

 だが――再び、瓜子の左頬がちりちりと疼いた。

 グヴェンドリン選手が、再び右フックを振るってきたのだ。


 いったい、なんという頑丈さであろうか。

 この頑丈さこそが、外国人選手ならではの脅威であった。

 頑丈さで知られる亜藤選手でも、これだけ攻撃をたたみかけられたら動きが鈍ることだろう。

 赤星弥生子でも、それは同じことだ。ただ彼女の場合、これだけのダメージをくらう頃にはそれ以上のダメージを瓜子に与えているはずであった。


 何にせよ、これほど頑丈な人間は日本人選手に見当たらない。

 瓜子に思いつくのは、メイやオリビア選手や、ハワイのラニ・アカカ選手――いずれも外国人選手ばかりであった。


 なおかつ、同じぐらい頑丈であったカン・ハウン選手やスウェーデンの選手などは、ダメージではなく痛みや精神的な動揺で動きが鈍っていた。

 しかしこのグヴェンドリン選手には、そういう気配も見られない。その双眸に宿されるのは、決して屈してなるものかという闘志の炎ばかりであった。


(これが……《アクセル・ファイト》に選ばれた選手なんだ)


 ならばきっと、ユーリたちが『アクセル・ロード』の舞台で対戦したシンガポール陣営の選手たちも、これだけの気迫と頑丈さと技量を兼ね備えていたのだろう。階級は異なれど、グヴェンドリン選手も彼女たちと同じ団体で活躍してきた選手であったし、実績のほどでも申し分ないからこそ、この《アクセル・ジャパン》に抜擢されたはずであるのだ。


 そんなシンガポールの強豪たちを、ユーリを筆頭とする六名の日本人選手が打ち倒してみせたのだ。

 であれば、瓜子も屈するわけにはいかない。

 そのように考えると、瓜子の胸に新たな熱が宿された。


 その熱を力にかえて、瓜子は為すべきことを為す。

 今回は同じサイドの攻撃であるため、逆方向に首を振って右フックの衝撃を逃がすのだ。そしてその勢いをも加算して、瓜子は左フックを振り抜いてみせた。


 相手の右拳が瓜子の左頬を打ち、瓜子の左拳が相手の右頬を打つ。

 瓜子は前手によるショートフックであるが、相手は瓜子やメイのように首を振ることもできず、まともにくらっている。であれば、ダメージが深いのはあちらのほうであった。


(メイさんだったら、自分と一緒に首を振ってただろう。グヴェンドリン選手の反応速度は凄いけど、メイさんのほうが上をいってるってことだ)


 そんな想念を脳裏によぎらせながら、瓜子は右のボディフックを繰り出した。

 相手が腹を守るか、防御を捨てて反撃してくるかで、その後の対応は変わってくる。ともすれば、瓜子の肉体は勝手に動いてしまいそうだったが、瓜子は全力で思考を追いつかせる所存であった。


 そうしてグヴェンドリン選手が選んだのは――反撃である。

 左フックをくらってなお、グヴェンドリン選手の闘志は揺るぎもしていなかった。

 しかもグヴェンドリン選手はパンチを出すのではなく、両腕で瓜子につかみかかろうとしていた。打撃の交換は分が悪いと見て、組み技に移行しようというのだ。呆れるばかりの冷静な判断であった。


(本当に、どこまでタフな選手なんだろう)


 瓜子は内心で感服しながら、とにかくボディフックを打ち込んだ。

 それにはかまわず、グヴェンドリン選手は瓜子の首裏を抱え込もうとする。

 瓜子が頭を沈めてその腕を回避すると、たちまち膝蹴りを飛ばされてきた。

 瓜子は先刻と同じように、前進することで打点をずらす。そして今回はそのままショルダータックルをくらわしつつ、右の拳を振り上げた。


 オーバースイングの、右フックである。

 このタイミングであれば、ぎりぎりヒットを狙えるはずであったが――両腕を前方にのばしていたグヴェンドリン選手は左肩を持ち上げることで、それをブロックした。身長差を活かした、上手いディフェンスである。


 しかし瓜子も、単発では終わらせない。その右フックには、左のレバーブローを連動させていた。

 グヴェンドリン選手の胴体は、後方に逃げていく。その動きがとてもゆっくりに感じられたが、それを追いかける瓜子の拳も亀の歩のように緩慢であった。


 すべての動きが、スローモーションのように感じられる。だからこそ、瓜子はこの瞬間的な攻防の中であれこれ思考できるのである。

 瓜子はレバーブローを繰り出しながら、次の動きに備えて筋肉をたわませた。

 瓜子の左拳は、グヴェンドリン選手の右脇腹を浅く叩く。その拳を引きながら、瓜子は再び右のオーバーフックを繰り出した。


 組み技をすかされたばかりのグヴェンドリン選手は、まだ両腕が上がりきっていない。これならば、頭部をディフェンスすることはできないはずだ。

 瓜子はそのように考えて、この攻撃を選んだのだが――グヴェンドリン選手の双眸の輝きが、さらなる思考を強いてきた。


 グヴェンドリン選手の瞳には、深い覚悟の光がたたえられている。

 そしてグヴェンドリン選手は、再び両腕をのばしてきた。瓜子の右フックは身体の頑丈さだけでこらえて、強引にでも組み技に持ち込もうというのだ。


(本当に……あなたは、凄い人です)


 瓜子は、右のオーバーフックをクリーンヒットさせた。

 そして、その衝撃を利用して、アウトサイドに飛び跳ねる。

 瓜子の鼻先を、グヴェンドリン選手の指先がかすめていった。


 瓜子がマットに着地したところで、グヴェンドリン選手がこちらに向きなおってくる。

 そして、なおも瓜子につかみかかってこようとしたが――右フックのダメージで、わずかながらに出足が鈍っている。


 そのタイミングに合わせて、瓜子は右方向に旋回した。

 その旋回の勢いを、肩から肘にまで連動させて――真っ直ぐにのばした右腕の先端を、グヴェンドリン選手の右こめかみに叩きつける。


 バックハンドブローが、クリーンヒットした。

 しかし、グヴェンドリン選手は倒れない。大きく上体を揺らしたが、その目はまだ死んでいなかった。


 右足でブレーキをかけた瓜子は、そのままマットを蹴って右足を振り上げる。

 瓜子の短い右足が、めいっぱいにのばされて――グヴェンドリン選手の下顎を真横から薙ぎ払った。


 グヴェンドリン選手の全身の筋肉が弛緩して、闘志に燃えていた目が白目に裏返り――そしてグヴェンドリン選手は、ゆっくりマットに倒れ込んだ。


 瓜子がその姿を見届けた瞬間、歓声が爆発する。

 いや、瓜子の耳が正常な聴覚を取り戻したのだ。さらに、恐ろしいほどの虚脱感が全身にのしかかってきて、瓜子はそのまま尻もちをつくことになった。


 英語のアナウンスで、何事かがコールされている。

 しかしやっぱり、瓜子の耳では内容を聞き取ることもできない。

 瓜子がぜいぜいと息をつきながら、周囲に視線を巡らせると――フェンスの向こう側で、立松や柳原が歓喜の表情で両腕を振り上げていた。


 どうやら瓜子は、勝利できたようである。

 瓜子は充足した思いで、マットに寝転んだ。

 そんな中、一万二千名に及ぼうかという観客たちは、いつまでも怒号のごとき歓声で瓜子の勝利を祝福してくれていた。

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