ACT.3 Accele Japan3 01 入場
十月の第三日曜日――《アクセル・ジャパン》の当日である。
その日、瓜子とユーリは太陽もあがっていない午前の五時十五分に目覚めることになった。
場所は、さいたま新都心にあるシティホテルとなる。
立松の提案通り、瓜子たちは前乗りで会場付近のホテルに宿泊することになったのだ。
さらに別室では、セコンド陣も宿泊している。協議の結果、チーム一丸で行動をともにすることになったのだ。僭越ながら、宿泊の代金は瓜子とユーリのファイトマネーから捻出させていただいた。
ただし、メイの陣営は別行動となる。メイのセコンドである篠江会長とリューク氏とビビアナはみんな卯月選手と同じく新宿のグランドホテルに宿泊していたため、メイのほうがそちらと合流したのだ。もとよりメイは瓜子たちよりも起床時間が早かったので、そちらに近いサイクルに身を置いている篠江会長たちと合流したほうが都合がよかったのだった。
ともあれ――朝である。
目覚ましアラームで起床した瓜子は、ベッドの上で「うーん」と身をのばした。
このひと月の調整の甲斐あって、実に快適な目覚めである。昨晩も午後の十時には就寝したので、たっぷり七時間以上も睡眠を取れているのだ。なおかつ、午前中にベストの動きができるように調整したので、目覚めたばかりの肉体がすでに運動を求めている気配があった。
(よし。準備は万端だな)
瓜子は充足した思いで、すぴすぴとすこやかな寝息をたてているユーリのやわらかい肩を揺さぶることにした。
「ユーリさん、朝っすよ。起きてください」
ユーリは「にゅー」と縮こまってしまう。
ユーリも順調に体内時計を調整できたはずだが、朝に弱いことに変わりはないのだ。その幼子めいた仕草に心を満たされながら、瓜子はさらに肩を揺さぶった。
「にゅーじゃなくて、朝ですってば。いよいよ決戦の日っすよ。それに備えて、腹ごしらえをしましょう」
「にゅー……ごはん……?」
ユーリのまぶたがゆっくりと持ち上がり、透明な輝きを宿した瞳が瓜子の姿をとらえた。
「わあ、うり坊ちゃんだぁ……うり坊ちゃん、ぎゅーってしてぇ……」
「他の人には、とうてい見せられない姿っすね」
瓜子は苦笑しながら、ねぐせのついた純白の髪を撫でてあげた。
ユーリは満足そうに目を細めながら、「くう……」と寝入ってしまう。
「いやいや、二度寝しないでくださいってば。人生の大一番に遅刻したら、どうするんすか?」
瓜子がユーリの真っ白なほっぺたをつつくと、今度はぱちりとまぶたが開かれた。
「あれぇ? ユーリはうり坊ちゃんに優しく起こされる夢を見ていたはずなのだけれども……これは夢とうつつのどちらなのかしらん?」
「とりあえず、今はまぎれもなく現実っすよ」
「そっかぁ。夢のように幸せな日々だから、日に日に区別がつかなくなっちゃうにゃあ」
そら恐ろしいことを陶然とした面持ちで述べながら、ユーリはようやく半身を起こした。
そして、瓜子に向かって両腕を広げてくる。
「それじゃあ、ぎゅーってしてぇ」
「夢もうつつも、やってることは変わらないじゃないっすか」
瓜子は観念して、ユーリの腕に身をゆだねることにした。
やわらかくて温かくて力強い腕が、瓜子の身を抱きすくめる。そして、ユーリの甘い香りが瓜子に息苦しいほどの悦楽を与えてくれた。
そうして二人は立松からのモーニングコールが届けられるまで、ひたすらおたがいの温もりにひたることに相成ったのだった。
◇
着替えを済ませた瓜子とユーリは、約束の五時半にホテルのロビーに出た。
セコンド陣の面々は、みんなあくびを噛み殺している。そちらも可能な範囲で早寝早起きに取り組んでいたものの、瓜子たちのように仕事の時間をずらせるわけではないので、やはり限度があるのだ。しかし、セコンドの役目を果たすのに不自由はないはずであった。
出場選手の瓜子とユーリに、立松とジョンと柳原、サキと愛音――早見選手が別行動であるために、総勢は八名だ。
瓜子たちは昨日の公開計量から、ずっとこのメンバーおよびチーム・プレスマンの面々と行動をともにしていた。計量を終えた後は新宿に舞い戻り、卯月選手たちが宿泊しているグランドホテルで減量解禁の豪華な食事をとり、備えつけのジムで軽く汗を流し、また夕刻に食事をとったのち、居残り組に別れを告げて、このシティホテルに移動したのだった。
「海外の選手がでかい試合に挑むときなんざは、一ヶ月や二ヶ月がかりのキャンプを張るもんなんだからな。それに比べりゃ、可愛いもんだろ」
立松は、そんな風に語っていた。
それに食いついたのは、珍しくもユーリである。
「それじゃあそういう方々は、チームメイトと一ヶ月や二ヶ月もご一緒に過ごすのですかぁ? それで稽古ざんまいだなんて、夢のようなお話でありますねぇ」
「ま、そんな真似ができるのは億を稼げるファイターだけだけどな。設備の確保や人件費だけで、数百万から一千万ぐらいは吹っ飛ぶんだろうからよ」
それはあまりに、現実味のない話であった。
が――卯月選手などは、まさしくそういう生活を送っているのだ。チーム・プレスマンの人件費は、すべて卯月選手のファイトマネーでまかなわれているはずであった。
「篠江会長や早見なんかはこっちの仕事の片手間だから、通常の半分のギャラで特別顧問やらスパーリングパートナーやらを務めてるらしい。ま、外部のトレーナーなんかはともかくとして、こっちはファミリーとしてのつきあいでもあるからな」
「なるほどなー。じゃ、赤鬼の二代目や南米女なんかは、どういう扱いなんだ? あいつらが黒タコのセコンドを受け持つのは、完全に業務の範囲外だろ」
「本当なら、こっちが雇い主の卯月にギャラを支払うべき立場だもんな。そこもファミリーのよしみで、人手を貸してもらえたんだよ。そもそもあの二人は卯月の善意やら厚意やらで、桃園さんが退院した後もずっと日本に居残ってたわけだしな」
聞けば聞くほど、瓜子には縁遠い話である。
しかしこのたびは、決して他人顔はしていられないはずであった。
「あの、それじゃあ今回は自分たちもセコンドのみなさんにずいぶんお世話をかけちゃったんで、何かギャラ的なものを支払うべきなのでは……?」
「俺たちは、道場の業務をこなしてるだけだよ。ま、サキや邑崎は門下生にすぎねえんだから、そっちで折り合いをつけてくれや。豪華な晩飯でも奢ってやりゃあ、それで十分だろ」
ホテルの駐車場でワゴン車に乗り込みながら、立松は愉快そうに笑い声をあげた。
「お前さんがたが海外で試合をできるぐらい出世したら、俺たちもきっちり出張手当をいただくよ。そんなことより、お前さんがたは試合に集中しな。そのために、俺たちは出張ってきてるんだからよ」
「押忍。必ず、結果を出してみせます」
そうして二台のワゴン車は、本日の会場たる『ティップボール・アリーナ』を目指すことになった。
こちらのホテルは徒歩圏内であるため、車ならものの数分だ。集合時間は午前の六時なので、余裕をもって到着することができた。
必要な荷物を車から下ろし、いざ会場に向かってみると、関係者用の出入り口の前にテレビカメラがスタンバイしている。そういえば、《アクセル・ファイト》においては会場入りのシーンなども撮影されるのだった。
昨年十一月のラスベガス大会では、ユーリもそれに備えてさんざんめかしこんでいたものである。
しかし本年のユーリは、やはりプレスマン道場のウェア姿だ。昨日の公開計量から引き続き、ユーリは自分のファッションセンスよりもチームとの一体感を重んじていたのだった。
テレビカメラになめ回されながら、プレスマン道場の一行は会場の通路に足を踏み入れる。
そこからは外国人のセキュリティスタッフが前後につき、控え室まで案内してくれた。
やはり本日も、三組合同の控え室である。そしてそこには、すでにメイの陣営と早見選手が待ち受けていた。
「よう、お疲れさん。コンディションに、不備はないようだな」
そのように語る篠江会長も、活力にあふれかえったたたずまいである。まあ、そちらはずっと北米の活動時間に合わせて生活していたので、それが当然なのであろう。そして今日の試合を終えたならば、数日後にはまた北米に戻ってしまうのだった。
(篠江会長や早見選手にとっては、もはや北米がホームなんだろうしな)
たとえ瓜子やユーリが《アクセル・ファイト》との正式契約を勝ち取ったとしても、北米に住まいを移すことはないだろう。時差の調整に小さからぬ労力がかかろうとも、日本で暮らしながら海外の試合に臨むことになるはずであった。
だけどやっぱり、瓜子はまだそういった未来を明確にイメージすることができていない。
そもそも瓜子は北米進出を目標にしていたわけではなく、《アクセル・ファイト》のほうから舞い込んできたオファーに承諾しただけの立場であったのだ。《アトミック・ガールズ》の力、日本人選手の力、プレスマン道場の力、そして自分個人の力を、世界に証明してやろうという意気込みは備えていたが――かといって、それが一番の目的というわけでもなかった。
けっきょく瓜子はMMAという競技が好きで、その試合にすべての力を注ぎ込みたいと願っているだけであるのだ。
どんなにステージが大きくなっても、基本の部分に変わりはない。《アクセル・ファイト》であろうと《アトミック・ガールズ》であろうと《フィスト》であろうと《NEXT》であろうと、瓜子は目の前の試合に全力で取り組むだけであった。
◇
控え室で軽く身体を動かしている間に午前の六時となったため、プレスマン道場の一行は試合場へと移動した。
昨日はライブステージ仕様であった客席が、試合の仕様に組み換えられている。広大なる客席の中央に黒いケージが設置され、その周囲にパイプ椅子が並べられていた。
会場の規模が十倍以上であることを除けば、瓜子たちにとっても見慣れた光景だ。また、瓜子は《JUFリターンズ》で同じ光景を見ていたし、ユーリも『アクセル・ロード』の決勝戦で同じ規模の会場を経験している。瓜子は心地好い熱情を胸に、歩を進めることができた。
「プレスマン道場のみなさん、お疲れ様です」
と――ケージの手前に、赤星道場の面々が待ちかまえていた。
出場選手のレオポン選手に、セコンド陣の赤星弥生子、大江山軍造、青田コーチ――いっさい妥協のない、完璧な布陣である。赤星弥生子は落ち着いた眼差しで、こちらの面々を見回してきた。
「篠江さんは、おひさしぶりです。お元気そうで、何よりです」
「おう、そっちもな。うちの猪狩との試合は、年甲斐もなく興奮させられたよ」
篠江会長が不敵な笑顔を返すと、赤星弥生子は何かを懐かしむように目を細めた。
「あれからもう、十ヶ月近く経つのですね。今日は同じ日本陣営として、手を携えさせていただければと思います」
「ああ。卯月ひとりを除けば、だろ?」
「はい。あいつとだけは、適切な距離を取らせていただきたく思います」
「そっちのほうも、相変わらずだな」
篠江会長は苦笑を浮かべつつ、メイのほうを指し示した。
「あと、こっちのメイさんは日本人ってわけじゃねえけど、よろしくな」
「もちろんです。メイさんはプレスマン道場の門下生なのですから、国籍など関係ありません」
そうして篠江会長との挨拶を終えてから、赤星弥生子はあらためて瓜子とユーリを見つめてきた。
「今日は二人の力が余すところなく世界に証明されることを祈っているよ」
「押忍。いつも通り、頑張ります」
「うん。いつもの力が発揮できれば、それで十分だ」
赤星弥生子もまた、瓜子とユーリの勝利を疑っていないようである。
瓜子は、満ち足りた思いで笑うことができた。
そうして午前の六時十五分から、ルールミーティングが開始され――ついに、《アクセル・ジャパン》という大きなイベントがゆっくり動き始めたのだった。




