03 思わぬ申し出
『トライ・アングル』のワンマンライブの翌日――九月の第四月曜日である。
その日は秋分の日の振替休日であったが、瓜子とユーリは朝から稽古を積むことができた。チーム・プレスマンの一行は、日曜も平日も関係なく道場を開いてくれたのだ。唯一の例外は、一般門下生が朝から集まる土曜日のみであった。
「土曜日はホテルのジムで軽く汗を流すていどに留めて、あとは対戦相手の研究などに時間を割いています」
卯月選手は、そのように語っていた。
「卯月選手は、またランカーが相手なんですよね。どうか頑張ってください」
「はい。あと二戦ほど良い形で勝利することができれば、ジョアンのタイトルに挑戦する目も出てくるかと思われます」
ミドル級に転向して以降、卯月選手はこれが三戦目となる。初戦は『アクセル・ロード』におけるジョアン選手とのコーチ対決で、二戦目はランキング九位の選手、今回は六位の選手との対戦であった。
「ランカーの選手の試合は数多く映像が出回っていますので、対策を練るのに不自由はありません。猪狩さんやメイさんは対戦相手の情報が少なくて、難渋しているようですね」
「押忍。とりあえずオールラウンダーだってことは判明してますんで、まんべんなく鍛えるしかないっすね」
瓜子の相手はシンガポール、メイの相手は韓国の選手であり、どちらも自国の興行でしか試合を行っていなかったため、日本ではいっさい試合映像が入手できなかったのだった。
しかし、『アクセル・ロード』に出場したユーリたちも、それは同じ条件であったのだ。それで八名中の六名は勝利をあげたのだから、瓜子も泣き言は言っていられなかった。
そうして稽古を進めていると、午前の十時になる前に意想外の人物がやってくる。それはこれまで午前中の出稽古に参加していなかった、鬼沢選手であった。
「あれ? おはようございます。鬼沢選手も、朝稽古に参加してくれるんすか?」
「おう。今日はバイトも休みだし、朝から暴れたか気分やったんで邪魔することにしたっちゃん」
男のように厳つい顔に豪快な笑みをたたえながら、鬼沢選手はそのように言い放った。本家チーム・プレスマンの面々に対しても、臆する様子はいっさいない。
「んで、今日は高橋も来ると?」
「高橋選手っすか? そうっすね。いちおう月曜日は朝から参加する予定になっています」
「そりゃあちょうどよかったばい。今度はうちが、フランス女と対戦することになったっちゃん」
「ええ? 鬼沢選手が、ジジ選手と対戦するんすか?」
瓜子が思わず驚きの声をあげると、鬼沢選手はいっそうふてぶてしく笑った。
「やっぱ意外っちゃんね。うちは高橋に負けたとに、高橋が勝てんかったフランス女にぶつけられたばい。つまりは、当て馬ってことやなあ」
「いや、当て馬ってのは言い過ぎかもしれませんけど……」
しかし、鬼沢選手が高橋選手に敗北したのは、つい二ヶ月前の話である。それで高橋選手に勝利したジジ選手にぶつけられるというのは――あまり普通の話ではないはずであった。
「へえ。鬼沢さんが、ジジと対戦することになったのかい」
と、少し前に参上していた立松も会話に加わってくる。
「まあ運営陣にしてみりゃあ、ジジを安く使える間に使い倒したいって思惑なんだろうな。で、王者の小笠原さんを出すには早いし、香田選手は桃園さんに負けたばかりだから、鬼沢さんに白羽の矢が立てられたってわけか」
「ふふん。フランス女ん手ん内ば引き出すために、うちば捨て駒にする気かって、コーチ連中は渋か顔ばしとったばい」
「一概に、そうとは言いきれんだろ。まあ、いずれ対戦する小笠原さんのために、できるだけ手の内を探りたいって思惑はあるのかもしれんが……試合の勝ち負けってのは、相性もでかいからな。高橋さんだってスプリットの惜敗だったし、鬼沢さんなら十分に期待できるだろうさ」
「そげな番付ばひっくり返すとも、勝負ん楽しみやけんね。うちはやる気まんまんよ」
「おう。俺も期待するだけじゃなく、めいっぱい協力させていただくよ」
そんな風に言ってから、立松は下顎を撫でさすった。
「しかしそうすると、桃園さんの対戦相手は誰になるんだろうな。俺はてっきり、鬼沢さんが指名されるとばかり思ってたんだが……」
「そうっすね。あまりおかしなマッチメイクじゃないといいんすけど」
瓜子がそのように答えたとき、立松が「ん?」とポケットをまさぐって携帯端末を引っ張り出した。
「なんだ、事務室の転送か。こんな朝っぱらから、どなたさんだよ」
立松は瓜子たちに背中を向けて、壁際のほうに寄っていく。
インターバルを終了させて、瓜子たちは稽古の再開だ。そちらでは、リューク氏が手ぐすねを引いて待ちかまえていた。
「では、ビビアナと四人で寝技のスパーを始めましょう。鬼沢さんは、その後からどうぞ」
「おう。すぐに身体ばあっためるばい」
リューク氏とビビアナは七月からずっとプレスマン道場に身を置いているので、鬼沢選手も見知った仲だ。そして鬼沢選手は、卯月選手やレム・プレスマンにもさして興味は抱いていない様子であった。
そうして開始された寝技のスパーであるが、瓜子にとっては過酷そのものである。ユーリにメイにビビアナと、誰もが瓜子よりも手練れであるのだ。しかしこの過酷さこそが、瓜子の糧になるはずであった。
《アクセル・ジャパン》の開催日まで、残り三週間。ラストの二週間は調整期間であるため、身体を追い込めるのはあと一週間限りだ。瓜子とメイにとっては、ここがひとつの正念場であった。
そうして瓜子が、過酷な稽古に没頭していると――電話をしていた立松が、泡をくって戻ってきた。
「おい、とんでもない話になっちまったぞ。会長は……ああ、あっちか」
と、足を止める間もなく、今度は篠江会長のほうに飛んでいってしまう。
メイとユーリを相手取った瓜子は、最後にビビアナを迎え撃つ。そのタイミングで、大勢の人々を引き連れた立松が戻ってきた。
篠江会長、早見選手、レム・プレスマン、卯月選手――そんな主要メンバーが顔をそろえている。そして、篠江会長と早見選手も小さからぬ動揺をその顔にたたえていた。
「おい。ちょっといったん、ストップしてくれ。大事な話が持ち上がったんだ」
リューク氏が通訳すると、瓜子と向かい合っていたビビアナもうろんげに立松を振り返った。メイと取っ組み合おうとしていたユーリは、「むにゅう」と不満そうに口をとがらせる。
「いったい何事でありましょう? ユーリがまた何かご迷惑をおかけしてしまったでしょうかぁ?」
「迷惑というか何というか、だな。桃園さんに、試合のオファーがあったんだよ」
そんな風に言ってから、立松はウォームアップ中の鬼沢選手をちらりと見た。
「鬼沢さん。こいつは、他言無用でお願いするよ」
「はいな。お好きにどうぞ」
鬼沢選手もこの四ヶ月ほどで、立松の信頼を勝ち得ているのだ。
立松はその場に集まった面々に輪を作らせて、小声で驚くべき真実を明かした。
「さっきの電話は、《アクセル・ファイト》のマネージャーからだった。桃園さんに、代役出場の要請だ。相手は、パット・アップルビー選手だとよ」
ユーリは「ほえ?」と小首を傾げた。
瓜子は驚きのあまり、うわずった声をあげてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください。パット選手は、《アクセル・ジャパン》で韓国の選手と対戦する予定でしたよね。その代役を……ユーリさんに?」
「ああ。試合まで三週間しかねえけど、どうか前向きにご検討あれ、だとよ」
二年前の《アクセル・ジャパン》においても、青田ナナは負傷欠場した選手の代役として抜擢されることになった。あのときは、もっと日程が詰まっていたはずだ。
だが――そうだとしても、瓜子は驚かずにはいられなかった。
「で、でも、ユーリさんは退院してから、まだ一戦しかしてないんすよ? それなのに……《アクセル・ジャパン》に、代役出場っすか?」
「ああ。きな臭いと言えば、きな臭い限りだな」
立松がそのように言い捨てると、卯月選手が「そうでしょうか?」と発言した。
「べつだん、きな臭くはないように思います。あちらの思惑は、はっきり示されているのではないでしょうか?」
「ほう。参考までに、それがどんな思惑であるのか聞かせてもらおうか」
「はい。まず第一に、ユーリさんは北米においても極めてネームバリューが高いです。もとよりユーリさんはその美貌とユニークなファイトスタイルで評判を呼んでいた上に、『アクセル・ロード』の決勝戦があんなセンセーショナルな形で終わったのですからね。そんなユーリさんが一年近くを経て復帰されたことは、例のミュージックビデオの公開とともに周知されて、話題性が再燃したことでしょう」
あくまで淡々と、卯月選手はそのように言いつのった。
「そして第二に、これほどセンセーショナルなユーリさんが復帰されたからには、さまざまなプロモーターが動き出すかと思われます。それに先を越されないように、《アクセル・ファイト》の運営陣も迅速に動いたということではないでしょうか?」
「さまざまなプロモーターって……こっちには、なんの連絡も入っちゃいねえぞ?」
「ユーリさんが選手として復活されたのはつい一週間前、音楽関係の告知映像が公開されたのはつい数日前のことですからね。《アクセル・ファイト》は、どのプロモーターよりも迅速だったということではないでしょうか?」
「そうですね」と、リューク氏が笑顔で相槌を打った。
「《スラッシュ》は経営不振で《アクセル・ファイト》に吸収されてしまいましたが、北米にはまだいくつかのプロモーションが存在します。そしてそれ以外にも、アジアやヨーロッパのプロモーターがユーリさんの獲得に興味を示すことでしょう。その前に、《アクセル・ファイト》がユーリさんの身柄を抑えようと考えたのでしょうね」
「しかし……言っちゃ何だが、あの『アクセル・ロード』の決勝戦ってのは北米でかなり悪評だったんだろう? 《アクセル・ファイト》はもう桃園さんに見向きもしないんじゃないかって考えてたんだが……」
ユーリの存在を気にしながら、立松はそのように疑念を呈した。
いっぽうユーリは、きょとんとしたままである。
そんな両者の姿を見比べてから、卯月選手は「いえ」と言った。
「そうであるからこそ、《アクセル・ファイト》もユーリさんの存在を黙殺できないのです。少なくとも、最初の一戦は《アクセル・ファイト》で受け持つべきであるという考えなのではないでしょうか?」
「最初の一戦? そいつはどういう意味だよ?」
「ユーリさんと宇留間さんの一戦は、《アクセル・ファイト》の伝統を覆すような内容でした。『アクセル・ロード』の決勝戦が無効試合で終わり、両選手とも甚大なダメージを負って、どちらも正式契約に至らなかったというのは、まぎれもなくプロモーションの大失敗という結果であるのです。二ヶ月もの時間をかけた『アクセル・ロード』が、なんの成果もあげることができずに終焉してしまったわけですからね。運営陣にしてみれば、煮え湯を飲まされたような心地であったかと思われます」
「ちょ、ちょっとは口をつつしめよ。それならなおさら、桃園さんを抜擢する理由がねえだろう」
「いえ。それでもユーリさんは、センセーショナルに過ぎたのです。そんなユーリさんに他のプロモーションで活躍されたならば、《アクセル・ファイト》は踏み台にされたも同然でしょう。多大な時間と労力を費やした『アクセル・ロード』が、他のプロモーションの宣伝にしかならなくなってしまうのですからね」
「それじゃあ……最初の一戦っていうのは、どういう意味っすか?」
不穏な気配を感じた瓜子が発言すると、卯月選手は平坦な口調のまま言いつのった。
「ユーリさんがパット選手に敗北すれば、それで用済みということです。ユーリさんは《アクセル・ファイト》に相応しい実力ではなかったと喧伝できれば、ブランドイメージは守られるわけですからね」
「それじゃあ、ユーリさんが勝ったら?」
「そのときは、正式契約を結んででも、ユーリさんを確保しようと考えるのではないでしょうか?」
それはいったい、なんと極端な話であろうか。
瓜子が収まりのつかない感情を抱えて口をつぐむと、卯月選手はさらに言葉を重ねた。
「以前にもお話ししたかと思いますが、アダム氏を筆頭とする《アクセル・ファイト》の運営陣は、きわめてビジネスライクであると同時にスポーツライクでもあります。ユーリさんに相応の実力があるのならば《アクセル・ファイト》で活躍の場を与え、そうでなかったら排斥する。いくぶん冷淡な印象は生じてしまうかもしれませんが、それは実力の世界で生きる俺たちにとって歓迎すべきスタンスなのではないでしょうか?」
「おや。珍しく、卯月さんは瓜子さんの気持ちを思いやっているようですね」
リューク氏が笑顔で口をはさむと、卯月選手は同じ表情のまま「ええ」と首肯した。
「猪狩さんを怒らせると、とても怖いのです。また、その恐怖心を抜きにしても、俺は猪狩さんと相互理解に努めたいと思っています」
卯月選手のそんな言葉に、篠江会長や早見選手や立松がぎょっとしたように目を剥いた。惑乱の極致にあった瓜子は、それでますます慌ててしまう。
「じ、自分のことはいいっすよ。それより……この申し出を、どうするんすか?」
「どうするって、そりゃあ桃園さんが決めることだろう」
と、立松はすぐさま真剣な表情を取り戻した。
「『アクセル・ロード』のオファーがあったときと、それほど状況は変わらねえよ。運営陣におかしな思惑でもあるってんなら、こっちもストップをかけざるを得ないが……卯月の言葉を信用するなら、その心配もいらなそうだしな」
「ああ。俺も卯月の主張に異論はねえよ。そうやって話を整理すると、いかにも《アクセル・ファイト》らしいやり口だしな」
篠江会長も気を取り直した様子で、そう言った。
「《アクセル・ファイト》の運営方針ってのは、身も蓋もないぐらいストレートでダイレクトなんだよ。強い選手は盛り立てるし、弱い選手は切り捨てる。桃園さんは盛り立てるのに相応しい実力を持ってるか、今度こそこの一戦で見極めようって算段なんだろうな」
「でも」と声をあげたのは、早見選手である。
「相手は、あのパット・アップルビーですよ? 王者のベリーニャと元王者のアメリアに続く、女子バンタム級の三番手じゃないですか。こいつに勝てなきゃお払い箱なんて、あまりにハードルが高くないですかね」
「《アクセル・ファイト》は《スラッシュ》を呑み込んで、女子選手の層も充実してきたからな。一回ケチのついた桃園さんに、そうそう甘い顔はしないってことだろうさ」
そう言って、篠江会長は鋭い視線をユーリに突きつけた。
「まあこれは、とんでもなくハイリスクハイリターンのオファーだろう。昨年もそうやって、青田の娘さんが玉砕することになったからな。ただ、あっちには『アクセル・ロード』っていうセカンドチャンスが準備されたが……おそらく桃園さんに、次のチャンスはない。《アクセル・ファイト》を目指すならこのオファーを受けるしかないし、これを断るなら他のプロモーションで活動の場を探すべきだろうな」
「ああ。だから、『アクセル・ロード』のときと一緒だよ。俺は、桃園さんの考えを尊重する。《アトミック・ガールズ》にこだわるならそれでもいいし、もしも《アクセル・ファイト》に挑むなら……全力でサポートするさ。俺たちのことを、まだ信用してくれるならな」
「……信用?」と、ユーリは小首を傾げた。
立松は真剣な面持ちのまま、「ああ」とうなずく。
「『アクセル・ロード』のときも俺たちは全力でサポートしたつもりだが、けっきょく決勝戦はああいう形に終わっちまった。あれは桃園さんの信用を失ってもしかたないぐらいの大失態だと思ってるよ」
「何を仰っているのですかぁ。みなさんのお力添えがなかったら、ユーリなんて一回戦で敗退しておりましたよぉ」
ユーリはふにゃふにゃと笑い、立松に苦笑をさせた。
「何にせよ、最後に決めるのは桃園さんだ。俺たちは、桃園さんの意思を尊重する。だから……どうしたい?」
「はい。できればユーリは、チャレンジさせていただきたいです」
と――ユーリの笑顔が、いきなり雪の精霊のごとき透明感を帯びた。
初めてその笑顔を目の当たりにした篠江会長や早見選手は、仰天した様子で息を呑む。そして瓜子は、熱い感情に心臓をわしづかみにされることになった。
「ユーリさんは……それでいいんすね?」
「うん。ユーリの目標は、ベル様だから……ベル様と同じ舞台に立つことは、あきらめたくないの」
ユーリの透き通った眼差しが、瓜子のほうに向けられてきた。
瞳の色は変わっていないはずであるのに、その眼差しまでもが純白に感じられる。それぐらい、ユーリの眼差しは無垢そのものであった。
「うり坊ちゃんは……反対しないでくれる?」
「当たり前じゃないっすか。もしユーリさんも《アクセル・ジャパン》に出場するんなら、一緒に頑張りましょう」
「ありがとう」と、ユーリは微笑んだ。
それはやっぱり、生身の人間であるということが信じられなくなるぐらい、透明で澄みわたった笑顔であった。




